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「麻妃。おーい、麻妃」
ヤギさんに呼ばれても、すぐには返事をしない。
「どうした麻妃。腹でも痛いのか」
お腹など、痛くはない。
「もしかして、怒っているのか」
「怒っては、いません」
「お。やっとこっちを向いたな」
ヤギさんの家に戻って、わたしが住まわせて貰っている部屋に入って。小さなテーブルを挟んで向かい合い、そっぽを向いていたわたしが前を向く事で、ようやくお互いの視線がかち合った。
「怒ってはいませんけど、困っています」
あんなに高価なものを買ってしまって、一体どうする気なのか。いくら桃花さんから頼まれたとは言え、必要もない婚約指輪と結婚指輪だ。ヤギさんがこれから先出会う女性に贈るつもりなのだとしても、表向きとは言え他の女のために見立てたものなど、受け取りたい人はいないだろう。何よりも、相手の人に対して失礼だ。
そう告げると、ヤギさんはにやりと笑いながら面白そうにわたしの顔を見た。
「お前が受け取れば、何の問題もないだろう」
さらりと言うヤギさんに、思わず溜息が零れる。
「問題ないはず、ないじゃないですか」
わたしの両親と兄の手前、婚約者だという事にしてはいるけれど、実際は恋人ですらないと言うのに。
「俺は最初からそのつもりだが」
「は?」
そのつもりとは、どのつもりなのか。
「だから、悠妃から話を持ちかけられた時から、いや、違うか。あの、悠妃の卒業式の日だな。あの時に二目惚れしたと言っただろう」
確かに聞いた。もっとも、聞いたのはつい先日の事だが。
「この歳だからな。惚れた女がいれば、将来を考えても不思議はない」
三十三というヤギさんの年齢を考えると、確かにそうかもしれない。だが婚約となると、それ以前に男女が交際をしている事が前提ではなかろうか。つまり本当にヤギさんがその気だったとして、そもそもわたしにその意思がなければ成り立たないのだ。
「そんな、お見合い結婚でもあるまいし」
思わずそう言ってから、思い出した。そう言えば、わたしを家から追い出すために、母が見合いの話まで考えていたらしい事を。あのまま家にいれば強引に見合いをさせられ、一緒に暮らしているうちに愛情が沸いてくるわよとかわけの分からない理屈を押しつけられて、意に沿わぬ相手と結婚させられていただろう。その事を思えば、相手の素性も人柄もさらには家族の様子も知っているのだから、随分恵まれた条件だと言えない事もない。かもしれない。
だがしかし。
「でもやっぱり、おかしいですよ」
「どこが」
「どこがって、だって、おかしいでしょう」
おかしいのだ。高校時代の担任だったヤギさんが、私の事を、なんて。
「元担任だ。お前は社会人で、今はもう俺の生徒じゃない」
「元生徒です。先生は、卒業しても先生じゃないですか」
卒業してもお前達は俺の生徒だ。というのは、ドラマで良く見かけるお決まりの台詞だ。
「元担任だった男と、元生徒だった女だ。今はもう学校という共通の括りから外れている。何の問題がある」
「あります。だって、ヤギさんだし」
「俺じゃ悪いのか」
むっとしたように、ヤギさんが言う。いい歳をした大人それも教師が、十も年下の元生徒の言葉で拗ねるなんて。
「いいとか悪いとか、そう言う問題じゃないです」
「じゃあ、誰ならいいんだ」
「誰ならって、そういう問題でもありません」
「なら、どういう問題なんだ」
「だから、先生と元生徒だから。って、また最初に戻ってしまうじゃないですか」
ああ言えばこう言う。まさにそんな言葉の応酬。なぜこんな堂々巡りの不毛な事をしているのだろうかと、少しだけ悲しくなった。どうして分かってくれないのだろう。どうして思いが伝わらないのだろう。それがもどかしくて、悲しくて。
けれどそれはヤギさんも同じなのだろう。どうして分からない、どうして伝わらない。焦りではない、じれったさ。言葉の端々にそれが感じられて、わたしに向けられる思いが胸に突き刺さり、じくりと痛みを訴えている。
「麻妃は」
大きな息を一つ吐いて、ヤギさんがわたしを見た。
「どうすれば、俺を一人の男として見る事が出来るんだ」
それは、担任ならずとも教師ならば絶対に口にしない言葉だった。
真っ直ぐに射られるような視線を受け、どくんと心臓が大きく脈打つ。
高校時代に数学を受け持ってもらった事は、今もちゃんと記憶に残っている。苦手な教科だったから、尚更だ。私自身の担任であり、妹の担任でもあった。わたしが見ていたのは、いつも学校の中にいる、教師という立場のヤギさんだ。
ならば今目の前にいるこの人は、一体誰なのだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎった。高校時代とは外見が大きく変わり、同一人物だと、言われるまで気付けなかった。けれどどれだけ外見が変わっても、ヤギさんはヤギさんだ。若干鬱陶しく感じるくらいに生徒思いで、その生徒達から慕われる教師なのだ。
わたしの担任だった頃と決定的に違っているのは、ヤギさんがわたしを、生徒としてではなく一人の女性として見ているという事だ。そして向けられる視線があの頃と違う事にも、気が付かないはずがない。その視線こそが、もうわたしの担任だったヤギさんではないのだと、思い知らせようとしているのだ。
そしてようやく気付く。いつからなのかは自分でも分からないが、ヤギさんを教師としてではなく一人の男性として意識している事に。認めたくなくて、ヤギさんに知られたくなくて、その事実から目を逸らしていただけだという事に。
その証拠に、大きくなった鼓動は治まる事を知らない。向けられる真摯な視線に射貫かれた体は、僅かとも動こうとはしないのだから。
「麻妃」
ヤギさんの視線が、痛いほどにわたしに突き刺さる。けれどヤギさんはその事に気付いているのかいないのか、注意深くわたしの反応を窺っていた。
「俺の気持ちが迷惑なら、そう言え」
そうならばもうこれ以上何もしないし言わないからと、ヤギさんが少しだけ寂しそうに笑う。
「迷惑では、ないです」
確かに困っているけれど、迷惑なわけではない。ないのだけれど。
たった今気付いたばかりの自分の胸の内を、けれど告げるほどの勇気など持てなかった。第一、男性として意識している事に気付いたのはいいが、それだけならば勤務先の男性社員に対する認識と同じだ。そこに恋愛感情が絡むのかと考えてみても、今の段階では良く分からないとしか言えなかった。
だから無意識に、この話題を終わらせるための逃げ道を探そうとしている。そんなとても弱くて卑怯な自分に、自分で嫌気が差して来る。
これ以上ヤギさんの目を直視していられなくなり、俯いた。緊張からなのだろうか。両手の指先から血の気が引いて、真っ白になっている。
「そうか」
ヤギさんがほっと小さく息を吐いたのが伝わって来た。
「だったら、俺は諦めない」
可能性がゼロではないのならばとヤギさんが付け足しをするのを聞いて思わず顔を上げ、すぐに後悔する羽目になった。向けられる視線の真摯さは先程と変わらない。だがそこに微かに見え隠れしている何かに、気付いてしまったのだ。そしてその何かの正体を、多分わたしは知っている。
「麻妃がその気になるまで口説くから、覚悟していろよ」
ちろりと燃える情熱の炎。その炎に気付かないふりをして、わたしは慌てて視線を逸らす事しか出来なかった。




