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5-3

「あーちゃん、いらっしゃいっ」

 目的のお店で出迎えてくれたのは、昨日お知り合いになったばかりの人。わたしのことをあーちゃんと呼ぶのは、今のところこの人だけだ。

「え。ここって」

 思わずぐるりと周囲を見回した。

「そ。わたしの勤め先。ちゃんと連れてきてくれたのね、惣」

 どうやらヤギさんがわたしをここに連れて来たのは、妹の桃花さんからの頼み事だったらしい。そうならそうと言ってくれれば良かったのに。そう思いながらヤギさんの顔を見上げると、なぜか視線を逸らされてしまった。

「じゃあ早速だけど、こっちに来て」

 桃花さんに腕を捕られ、ぐいぐいと強引に店の奥に引っ張って行かれる。矢木沢家の家系なのか、桃花さんは私よりもずっと背が高い。高校大学とテニス部に所属していたため、腕の筋肉も私よりずっと逞しかった。その腕で引っ張られては、私などひとたまりもない。

「はい、あーちゃんはそこに座ってね。惣はその隣」

 促されて腰を下ろしたのはいいが、目の前のショーケースを見て目が点になった。

「あーちゃんは手が小さくて指も細いから、こういうデザインが似合うと思うんだけど」

 桃花さんがいくつかの商品を取り出し、ショーケースの上に並べていく。

「好みもあるでしょ。昔ながらのスタンダードな立爪なら、このあたりだし」

 などと説明をしながら、次から次へと出してくれるのは良いのだけれど。

「これは桜を象ったデザインなんだけど、可愛いらしさが好評なの」

 そう言われれば桜の形をしているだろうか。思わず桃花さんの指先につままれたものをじっくりと眺めた。他にも花の形のものが次々に並べられていく。のだが。

「あの、これって全部ダイヤモンド、ですよね」

 宝石に関する知識なんてほとんどないわたしだが、さすがに一目でそうと分かる透明な輝きを放つ石。もしかすると人造石だろうかと思いもしたが、実は結構名の通った宝石店であるこの店のこのコーナーで、まさかそんなものを勧めたりはしないだろう。

「もちろんよ」

 やはりそうらしい。

「桃花さんの売り上げに協力したいのは山々ですけど、こんなに高価なものはさすがに」

 ついている値札を見て、血の気が引きそうになった。わたしの給料の二ヶ月分以上だ。手で触れる事さえ気が引けてしまう。

「だーいじょうぶよ。この歳まで一人だったし遊びもほとんどしなかったから、しっかり貯めてるもの。ねえ」

 確かにわたしは、海外旅行どころか国内旅行にも行かないし、大きな買い物をした事もない。同じ年頃のOLに比べれば預金が出来ているとは思うけれど、まだ働き出して数年の若輩者だ。少なくとも数十万円もするような指輪を買えるほどの余裕はない。

「あーちゃん、何か勘違いしていない? て言うか惣、ちゃんとあーちゃんに説明したんでしょうね」

 じろりと睨み付けるような目で、桃花さんがヤギさんを見た。

「生憎、まだだ。ついでだからお前に頼もうと思っていた」

 やや気まずそうに目を逸らしながら、ヤギさんが答える。

「はあっ? 何考えてるの、馬鹿兄貴。そんな大事な事、自分の口から言わないでどうするのよ」

 盛大な溜息を吐く桃花さんが、本気で呆れているのが分かる。

 どうやらこれも、兄妹の間では既に了承済みの事項らしい。しかしわたしには全く話が見えず、二人の顔を交互に見る事しかできなかった。

「ああ、もう。可哀想に、あーちゃん」

 事態を飲み込めていないわたしを気の毒に思ったらしく、桃花さんがショーケースのこちら側に回って来て、ぎゅっとわたしの手を握る。テニスで鍛えられた立派な握力で握られ、痛いほどだ。

「このコーナーが何なのか、あーちゃん、分かるわよね」

 ショーケースの中にも上にも、ダイヤモンドと思しき素晴らしい輝きを放つ指輪が並んでいる。ケースの飾りには薔薇の花とピンクのリボン。極めつけに、Engageの文字が躍っていた。

「エンゲージリング、ですか」

 言葉に出してみてはっとした。ここはエンゲージリング、つまり婚約指輪のコーナーだった。すぐ側には、Marriageの文字が飛んでいるケースもある。よく見るとペアなのだろう、二つの指輪が一つのケースに入れられたものが、何種類も並んでいた。

「そう、そうなの。つまりね、あーちゃん」

 腰を屈めて目線の高さを合わせて、桃花さんが真っ直ぐにわたしの目を見つめてくる。大きな目を縁取る長い睫毛に、ぷるんと美味しそうなつややかな唇。女のわたしでも、こんな風に見つめられると思わず照れてしまう、そんな女性の色香が桃花さんにはあった。

「今日は、惣からあーちゃんに贈る婚約指輪を選びに来てもらったのよ」

 その言葉に、頭が思考を停止した。

 ついでに結婚指輪もね、と、桃花さんが付け加えたが、わたしの耳に入って来ない。その前に与えられた情報さえも処理できず、意味もなく瞬きを繰り返す。

「どうせ買うのなら売り上げに協力してよって、わたしが惣に頼んだの。迷惑だった?」

 小首を傾げて可愛らしく尋ねられては、首を横に振るしかない。ないのだけれど。

「良かったあ」

 にっこりと笑顔を向けられ、つられてわたしもぎこちなく笑いを返す。

「予算は惣から聞いているから、好きなのを選んでね」

 語尾にハートがつきそうな勢いの桃花さんが、スキップをしながら元の位置つまりショーケースの向こう側に戻って行った。

「そ、惣壱、さん?」

 確かめるのも恐ろしいが、確かめないわけにはいかない。そろそろとヤギさんを見ると、ぺろりと舌を出している。だがしかし三十路の男性がそんな仕草をしても、桃花さんのような可憐さも可愛さもないのだが。

 桃花さんの勤め先であるこの店に来る事も、兄であるヤギさんがその売り上げに協力するのも、何の問題もない。と思う。だがその肝心の品物がダイヤの指輪しかもヤギさんからわたしへの結婚の約束の徴だなんて、寝耳に水、足下から鳥、青天の霹靂。とにかくそんな話を聞かされてもいなかった事に加え、とんでもない代物を買ってもらうなんて。

「はい、あーちゃん。この中から選んで。手に取って見ても良いわよ」

 もし良いのがなかったら、カタログから選んでもいいから。なんて事を言われ、並んだ指輪を凝視した。好きな物と言われても、そもそもヤギさんとわたしは婚約などしていない。こんなものを買って貰うような関係ではないのだから、選ぶわけにはいかないのだ。いかないのだが。

「それがいいんじゃないか」

 ヤギさんが、一つの指輪を指さした。花を象った一粒ダイヤの指輪。立爪のように物々しくなく、確かに可愛い。可愛いとは思うけれど。

「うん、これならあーちゃんに似合うわよね。でもそうかあ。惣の、あーちゃんに対するイメージはこれなのねえ」

 にやにやと楽しげな笑みを浮かべながら、桃花さんがその指輪をケースの台から外した。そしてわたしの手を取って、するりと指に通してしまう。もちろん左手の薬指だ。驚いて声を上げそうになったが、周囲の店員や客の存在を思い出し、寸でのところで耐えた。

「少し大きいかしら」

 そう言って、何やら専用の道具を取り出してわたしの指の大きさを測る。ついでにヤギさんの指にも同じ事をして、桃花さんは手元の用紙に流麗な文字を書き込んでいった。

「じゃあ、次はこっちね」

 ぱくぱくと口を開閉しながらも声が出て来ない。そうして何も言えない間にも、隣のショーケースの前にぐいぐいと引っ張って行かれる。やはり次から次へと並べられていく指輪を呆然と見ている間に、桃花さんのお薦めとヤギさんのお好みで選ばれたそれらが、気が付けば小さなトレイの上に載せられていた。

「ヤ、じゃなくて、惣壱さん」

 クレジットカードで支払いを済ませようとしていたヤギさんの腕を掴み、力一杯揺する。こんなものを買って貰うわけにはいかない。お店の中にいる今なら、キャンセルできるかもしれない。小声でそう訴えたのだが、ヤギさんはまるで耳に届いていないとでも言うかのように、素知らぬ顔で明細書にサインをしてしまった。

 さあっと血の気が引いて行くのが、自分でも分かった。

「ちょっとお値段は張るけれど、品物は確かだから」

 上機嫌な桃花さんに、とてもキャンセルを言い出せない。

「あ、店長からのサービスで、この中からお好きなのを一つプレゼントしますって」

 桃花さんが指さしたのは、店頭のお手頃価格コーナー。指輪もあればネックレスもブレスレットもある。

「麻妃は七月生まれだったな」

「じゃあ、誕生石はルビーね」

 止める間もなく兄妹であれもこれもと取り出しては比較検討している様を、おろおろと見ている事しか出来なかった。

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