5-2
「ご両親に話した、あれなんだが」
車に乗り込んですぐに、ヤギさんが口を開いた。
「どれですか」
わたしの両親に対しては妹も含め三人がかりである事無い事片っ端から並べ立てたのだから、そのどれについての話なのか見当が付かない。
「籍だけ入れて、式は二人だけで。披露宴はなし、というあれだが」
そう言えば、家を出る直前にそんな事を言っていた気がする。だがあれは両親を黙らせるためにヤギさんが即興で言ったことであって、事前の打ち合わせにはなかった内容だ。
「ああ、その話ですか。それがどうかしましたか」
さすがに結婚の時期については一切触れていなかったように思うのだが、もしかしてわたしがいない間に両親が何か言って来たのだろうか。
「あれな。実は、うちの親が本気で、言っているんだ」
ほんの僅かに言い辛そうな口調で言って、ヤギさんがちらりとわたしの顔を見る。
「は? わたしの親じゃなくて、ヤギさんのご両親がって。本気って、何がですか」
「式は後で良いから、とりあえず籍だけでも入れてしまえと言われた」
籍というのは、もちろん戸籍のことだろう。親兄弟でもない赤の他人の男女がそれを入れると言う事は、養子縁組ではない限り、婚姻しか思いつかない。言うまでもなく、わたしとヤギさんの二人の、である。
「え。なんでそんな話になるんですか」
慌てて尋ねると、あから様に視線を逸らされた。しかしそんな事で有耶無耶に出来る問題ではない。
「お前がうちに来る事になった経緯を、この間改めて親に話したんだ」
この間というのはどうやら、わたしがここに来る以前の事らしい。つまり咄嗟の嘘だと思っていたあれは、実はヤギさんとご両親の間で実際に交わした言葉の内容だったと言うのだ。そんな事はもちろん初耳で、何か言おうと口を開いたが言葉が思い浮かばない。
「妹の結婚が決まって、今度は俺だと親が息巻いていたところだったんだ」
押せ押せムードで、一気に気分が盛り上がったとでも言うのか。
ヤギさんは、三十代。結婚を急かすご両親の気持ちは理解できるが、それはわたしとヤギさんが両思いの場合にのみ成り立つのではないだろうか。ヤギさんがわたしの事をというのも、ほんの数日前に聞かされたばかりで、わたしがヤギさんをどう思っているのかさえ良く分かってはいない。考えなければならない事が多すぎて、頭が飽和状態だったのだ。
「逃げられないうちに、籍だけでもと、な」
逃げると言うのはもちろん、わたしがヤギさんから、という事なのだろう。両親と兄のいるあの家からようやく逃げ出す事が出来たばかりのわたしが、寄せられる好意に何も返さずにここを出るなど、考えてもいなかったのだが。見知らぬ他人だとでも言うのならばともかく、他でもないヤギさんが相手なのだから。
「逃げたりは、しませんけれど」
向けられた誠意には、誠意を以て応える。それが当然だ。もちろん、恋愛感情抜きが大前提で、籍を入れる云々については問題外だけれど。
「その言葉、忘れるなよ」
にやりと人の悪い笑顔を浮かべ、ヤギさんが念を押すように言った。
口角を上げてどこか楽しげなヤギさんの様子に、すっかり油断してしまっていた。と言っては、あまりにも責任転嫁が過ぎるだろうか。
「それで、わたしたちは今どこに向かっているんでしょうか」
漠然と嫌な予感を覚えたが、気のせいだと思う事にした。
「着けば分かる」
そう言って前を向いたきり口を閉ざしてしまったヤギさんを、横目でちらりと窺う。
わたしの担任だった頃と著しく外見が変わったと思っていたが、横顔には当時の面影があった。考えてみれば分かる事だが、別に整形をしたわけでもないのだから、基本的な顔の造作は変わっていないはずなのだ。余計な肉が削げ落ちた分、目鼻立ちがはっきりした。眼鏡で隠されていた目がこんなに優しかったなんて、ずっと気が付かずにいたほどだ。
教え子の女子高生達からモテモテのヤギさん。妹から聞いたところによると、女性教師や教育実習生からのウケも良いらしい。わたしの担任だった頃にも今のような外見だったとしたら、やはり女子生徒や女性教師からの支持を得ていたのだろうか。憧れから恋に発展して、告白を受けたりしたのだろうか。
「うーん。想像がつかない」
「何の話だ」
思わず漏らした呟きに、律儀にもヤギさんの声がかかる。こういうきめ細やかなところも、やはりあの頃と変わらない。
「いえ、なんでもないです」
当時も今も、生徒からもててももてなくても、ヤギさんが彼女たちを本気で相手する事はないのだろう。何の根拠もないが、そんな事を考えた。だが。卒業してしまった生徒に対しては、どうなのだろう。例えばわたしのように、生徒ではなく元教え子という身分になった相手に対しては。
とりとめもない考えが頭の中をぐるぐると回り始める。これはあまり良くない兆候だ。右肩下がりに思考が傾き、ともすれば最悪のループに陥りかねない。
「麻妃」
「あ、はいっ。なんでしょう」
名を呼ばれて、慌ててヤギさんの顔に視線を向けた。一人きりの時ならばいざ知らず、二人でいる時に考え事に沈み込んでしまうのは失礼すぎる。
「着いたぞ」
言われてヤギさんの視線を追うと、ショッピングセンターの駐車場のゲートが見えていた。やはり考え事に耽ってしまっていたらしい。しかしその事をせめられるでもなく、ヤギさんは至って普通の様子だ。
地下の駐車場に車を止め、エスカレーターに乗る。地上に出るとそこは、ヤギさんの家からほど近い位置にある、大型のショッピングセンターだった。私の家からでも車で四十分ほどの距離にあり、何度か来た事がある。
「常磐にいた頃には、こんなもん、影も形もなかったんだがなあ」
私の一歩先を歩きながら、ヤギさんが感慨深げに呟いた。確かにここは、三年前に出来たばかりだ。
「以前お邪魔させていただいた時には、駅前のショッピングセンターでケーキを買ったんですよ」
当時でも既に少し古びていたショッピングセンターは、今では改築され、別の商業施設に変わっている。ここにはそのショッピングセンターに入っていた店子の多くが入っているのだと、ヤギさんが説明してくれた。
「じゃあ、あのケーキ屋さんも入っているんでしょうか」
有名なチェーン店ではなく、個人で経営しているオリジナルのケーキショップだったはずだ。
「どうだろうな。後で探してみるか」
ヤギさんの言葉に頷きながら、今回の目的はケーキ屋ではないらしいと気付いたのだが、それならばどこに行くつもりなのだろうかと思わず首を傾げた。
三階まで上がると、ヤギさんがきょろきょろと辺りを見回し、すぐに移動する。どこに行くのかと思ったら、館内の案内図の前で足を止めた。畳一畳半ほどもあるそこには、この三階の見取り図が、半立体的に描かれている。
「ああ、あった。こっちだ」
着いて行くように促され、同時に左手首を捕られた。え、っと思わず声を上げそうになったが、ヤギさんは私の様子など気にも留めずに、さっさと歩き出してしまう。先程までの少し気遣ってくれるようなゆっくりとした足取りではない。身長差が大きい分、当然歩幅にも差がある。わたしは着いて行くのに必死で、手を引かれている事や周囲の目などを気にする余裕もなかった。
 




