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4-2

 先週も同じこの車で走った道。運転席にヤギさんがいるのももちろん同じで、違う事と言えば、後ろに妹がいない事だろう。だが実はそれは存外に大事だったのだと、この時はまだ気付かずにいたのだ。

「ところで。お前に、言っておかなければならない事があるんだが」

 ハンドルを握ったままのヤギさんが、横目でちらりとわたしの顔を窺ってきた。

「はい、何でしょう」

 また口裏を合わせるための情報か何かなのだろうか。勝手にそう思い込んで、ヤギさんの言葉を待つ。

「嘘の中に混ぜ込んだ、真実についてなんだが」

 妹が咄嗟についた嘘に真実味を持たせるために、さらに上塗りした嘘の数々。その中に真実を混ぜ込んでおけば、嘘だと気付かれにくくなる。そんな事を言っていたのは、妹だったかそれともヤギさんだったか。

「常磐にいた時は、お前の事を特別に意識した事なんか、なかったんだが」

 それはそうだろう。高校時代のわたしは、家庭内の問題など他の誰にも隠していた。傍から見れば、平々凡々な一般生徒にすぎなかったはずだ。もっとも、何年も経った今でもそれは変わっていないと思っている。

「はあ。わたしも、ヤギさんの事はいい先生だと思っていましたが、それだけですね」

 外見は限りなく野暮ったかったが、生徒思いの良い教師だった。

「ああ、まあ、そうだろうな」

 つまりお互い高校時代には全く意識などしてなかった。それを今再確認してるようなものだ。

「今の学校に転任してすぐに、溝内がお前の妹だと知った」

 それも以前訊いていたから、今さら驚く事ではない。妹は時々わたしに無断で、携帯で撮った写真をヤギさんに見せていたと言っていた。妹の口からしょっちゅうわたしの近況を聞かされては、気にするなという方が無理だった事だろう。

「それでも卒業式の日、すぐにお前だと気が付かなかった」

 確かにあの日わたしは、改まった服装をしていた。妹がどんな写真を見せていたのかは不明だが、恐らく家にいる時の普段着姿だろう。下手をすると、すっぴんの写真があった可能性も高い。

「正直、いい女だと、思った。一瞬見惚れてから、溝内麻妃なんだと気が付いた」

 ヤギさんが言わんとしている事が、良く分からない。いい女だとか見惚れただとか、理解できない言葉が吐き出されるのを、半ば麻痺しかけた頭でぼんやりと聞いていた。

「だから、二目惚れというのは、間違っていない」

「は? ふ、た目、惚れ、って」

 一目惚れなら、分かる。一目会ったその日から、恋の花咲く事もある。というあれだ。わたしには未だかつて一目惚れなどという経験がないため、そういう事もあるのだろうという程度の認識しかないのだが。

  そもそも、ヤギさんがわたしの数学を担当していたのは高校二年生から三年生にかけての二年間の事で、前半の一年間はクラス担任でもあった。毎日顔を合わせていたにもかかわらず、異性として意識した事はない。それはつい先ほど、お互いに認め合ったばかりの事実だ。

 それだけの時間を共にしたにもかかわらず、数年ぶりに顔を合わせた場合、これは二目惚れと呼べるものなのだろうか。

 とそこまで考えて、ようやく気が付いた。

「あ、えーと。わたしの自惚れかもしれないんですが、もしかして、ヤギさん、わたしのこと、好き、とか言いませんよね」

「だから、ヤギさんはやめろと言っているだろう。自惚れじゃないから、安心しろ」

 自惚れではない、というのは、どちらに捉えるべきなのだろうか。わたしの事をかつての教え子としてしか見ていないのだから、自惚れにもならないと言うのか。それとも、実はわたしの事を好きだから、自惚れではないと言う事なのか。

 眉間に皺を寄せて真剣に考え込んでいたら、隣からぷっと小さく吹き出す音が聞こえた。

「難しく考えすぎだ」

 そう言いいながら伸びてきた大きな手に、頭をぽんぽんと撫でられる。

「うひゃっ」

 変に意識してしまったからなのだろう、手のひらの熱を感じた途端、妙な声が喉から飛び出した。

「失礼な奴だな」

 ばくばくと心臓が大きく鼓動を刻んでいる。どうした事だろう。ついこの間同じ事をされても、何とも無かったと言うのに。

「どうした」

 シートベルトにかなり動きを制限されながらも、できるだけドアの方に体を寄せていると、ヤギさんが訝しそうにこちらを窺っていた。どうしたもこうしたもない、と言おうとしたが、声を出す事ができない。

「麻妃?」

 名前を呼ばれて、膝の上に置いていた右手を握られた。先ほどまで頭に感じていた熱に包み込まれた手に、意識が一気に集中する。心臓を鷲掴みにされでもしたかのように胸が苦しくなるのを感じたが、振り払う事も出来ずに体を強張らせた。

 おかしい。こんなのは、変だ。

「お前、鈍すぎだ」

 確かに鈍いとは、良く言われる。家の中で神経をすり減らして生きてきたからか、外に出ると他人の感情の機微に疎くなる傾向にあった。友人に言わせれば、どうやらかなりぼんやりしているように見えるらしく、隙だらけでどうにも危なっかしいのだとか。

「高校時代よりも鈍さが増しているんじゃないか」

「そんな事は」

「ない、なんて言わないだろうな。出来るだけ噛み砕いて言っているのに、まだ分かっていないんだから」

 何を、とは訊けなかった。さすがのわたしでも、そこまでは鈍くない。けれど、分かる事とそれを理解する事は別物なのか、それとも無意識下で理解したくないと思ってでもいるのだろうか。耳から脳に伝わったヤギさんからの言葉は、こんなにもわたしの心を震わせているというのに。

「多分、分かっては、います」

 その答えはヤギさんが予想していたものとは違っていたらしく、疑うような胡散臭さを滲ませた目を向けられた。

 時間はあまりないはずだった。悩む時間も考える時間も、猶予がそれほどない事も知っている。ただ、もう少しだけ待って欲しいのだ。劣悪とまでは言わないまでも決して良いとも言えない環境だった生家を出て、高校時代の担任とは言えさほど親しくもなかった人の家にお世話になる。開放感と共に生じる寂しさと緊張に、今は他の事を考えられる余裕がない。

 そんなわたしの心情を理解してくれたのだろうか。ヤギさんの手が、わたしのそれから離れて行った。緊張を伴った痛みさえ感じていたはずのその熱を思わず追いそうになり、慌てて左手で右手を握り締める。

 それから暫くは、お互いに言葉を発する事もなく、わたしは無言で窓の外の景色を眺めていた。時折隣の席からの視線を感じながらも、それ以上は何も言わないヤギさんの心をはかりかねている。

「着いたぞ」

 ヤギさんの言葉に顔を上げると、矢木沢家はもう目の前だった。

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