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3-2

「麻妃」

 それまで黙って眺めていたヤギさんが、重い口を開いた。

「来週までに荷物を纏めて、準備しておいてくれ。これ以上お前をこんな所に置いておけない」

 見上げるわたしの目を真っ直ぐに見下ろして、はっきりとヤギさんが言い切った。

「こんな所とは、どういう意味ですか」

 心外とばかりに、父がヤギさんに尋ねる。

「悠妃さんから聞いていましたが、正直ここまでひどいとは思いませんでした」

 ヤギさんの口調からは、怒りも焦りも感じられない。ただ淡々と、言葉を紡いでいた。

「来週とは言わずに、今すぐにでも連れて行っちゃっていいよ、先生」

 妹のその言葉に、両親と兄がぎょっとしたように目を瞠る。驚いているのは妹の口調なのかそれともその内容なのか、どちらにしても妹は溜飲を下げたようだ。

「準備って言っても、服と本くらいしか持ってないよね、お姉ちゃんは」

 確かに、当面必要な物は着替えと化粧品くらいだろう。

「そうか。じゃあ、待っているから」

 ぽんと肩をたたかれ、立つように促される。

「ちょ、ちょっと待ちなさい、麻妃」

 遅れて立ち上がった母が、わたしの腕を掴んだ。痛いくらいのその力に顔を顰めながら、蒼白な母の顔を見る。

 体の奥から沸き上がってくる言葉をそのまま口にすれば、両親だけではなく兄も妹もわたし自身さえも傷付けてしまう。それほど醜く容赦のない言葉になるのは、目に見えていた。言葉と共に感情をも飲み込んで、大きな息を一つ吐く事で気持ちを落ち着かせる。

「さっさとお嫁に出したかったんでしょう。お父さんもお母さんも兄さんも、わたしに出て行って欲しいんでしょう。ご希望通り出て行くんだから、部屋の改装でも何でも、好きにしてくれればいいじゃない」

 何の感情もこもらない冷たい言葉が、するりと口から零れ出した。

「麻妃っ」

 母のヒステリックな金切り声が、耳に痛い。非難するかのように険しい表情を向けて来るが、わたしの言葉を否定する事はない。図星を突かれた焦りを隠そうと必死なのだろう。

 腕に食い込む母の手を、ヤギさんがゆっくりと引き剥がしてくれた。きっと指の跡が鬱血して残るだろうなと思いながら、まだ痛むその箇所をさする。

「先日麻妃さんと両親と相談して、結納は端折って籍だけ入れようと言う事になりました。式は二人だけで挙げますし、披露宴の予定はありません」

 父と母を交互に見て、予め打ち合わせていた内容を告げながら、ヤギさんがさりげなくわたしを体の後ろに庇ってくれた。親戚への対面がどうとか式には親が出るのが当然だとか、あまりにも予想通りの御託を並べ立てる両親に何の感慨も沸かないのは、感覚が麻痺してしまっているからだろうか。

「ご両親とは俺が話をするから、麻妃は必要な物を纏めて来てくれ」

 体の向きを変えられ、背中を押された。魚のように口をぱくぱくと開閉している両親は、何か言いたいのだろうが言葉が出ないらしい。それをいい事に、わたしは手伝ってくれると言う妹を伴って、二階の自室に向かった。

「本当に必要な物だけでいいからね。残った荷物は、引っ越し屋にでも頼めばいいし」

 一人暮らしよりも少ない量だから、引っ越し屋の系列の宅配業者が来るかもね、などと言いながら、妹が小さく笑う。

「悠妃。ごめんね。ありがとう」

 昔は手のひらに収まるくらい小さかったのに、今はもうわたしと変わらない大きさの、妹の手を取った。

「謝るのも、お礼を言うのも、わたしの方だよ。お父さん達の横暴に、ずっと何も出来なくてごめんね。それでも大事にしてくれて、ありがとう」

 あの両親と兄を前にして、五つも年下の妹がわたしのために出来る事など、無かったに等しい。その事を負い目に感じる必要などどこにもないのに、妹が口惜しげに唇を噛んだ。

 大きめのボストンバッグに数日分の着替えと化粧ポーチを詰め、通勤用のバッグを肩にかける。荷物などたったそれだけでいいのだ。

 妹とひとしきり抱き合ったわたしは、意を決して私室を後にする。これからどこに行く事になろうと、誰と結婚しようと、ここにはもう戻らないと心に決めたのだ。

 ただ、妹の事だけが心残りだった。この家に一人残して行く事が、妹にとって良くないというのは分かっている。だからと言って、わたしに何が出来るだろう。

 いい思い出なんてないに等しいこの家に今さら未練はないけれど、妹の事だけは、このまま放っておく訳にはいかないと思った。




 リビングに戻ると、両親がぐったりとソファに体を預けていた。その目は焦点を結ばずに、宙を彷徨っている。一体ここでどんなやり取りがあったのか、わたしが知る術はない。だがこの両親の様子を見れば、それが尋常ではなかった事を悟らずにはいられなかった。

「準備、できたのか」

 足音で気付いたのか、ヤギさんが腰を上げた。

「はい」

 ボストンバッグを持ち上げて示すと、少しだけ笑ったヤギさんに引き取られてしまう。自分で持つと訴えても、素知らぬ顔をされた。これは持ってくれると言う事なのだろうと解釈し、甘えさせて貰う事にする。

「じゃあ、お父さん、お母さん。お世話になりました」

 本当にお嫁に行くわけではないから、畏まった挨拶はしない。それでも何か思うところがあるらしく、体を起こした父が口を開きかけてやめた。

 兄は憮然としてそっぽを向いたままだが、兄嫁が無言で会釈している。この人もこれから大変だろうとその苦労を思い、溜息を飲み込んで頭を下げた。

 妹とは家の中で別れ、玄関を出てからはヤギさんと二人になる。黒のワンボックスカーの助手席に乗り込みながらミラー越しに見た家が、なぜか滲んでいた。

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