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3-1

 高校では家庭訪問など無く、保護者が学校に行くのは入学式と進路相談のための三者面談と、卒業式くらいなものだ。そのため担任教師と言っても二年生の後期までは顔を合わせる事もなく、一年生の担任に至っては、一度も会わずに終わっていた。

 恐らくわたしの二年生の時の三者面談の事など覚えてもいないだろうが、三年生で妹の担任をしたヤギさんは、比較的最近、両親と顔を合わせている事になる。

「こんにちは、矢木沢です」

 ご無沙汰していますというヤギさんの言葉に、玄関まで迎えに出ていた両親が

「悠妃がお世話になりました」

と挨拶をした。わたしの事を端折られているのは、予想の範疇だ。

 穏やかに進められる会話の主な話題は、専ら妹の高校時代の事だった。あとは、兄の経歴と国家公務員という職業の説明を、熱心かつ丁寧に繰り返す。親ばかの息子自慢ほど聞いていて下らないものはないだろうに、ヤギさんは嫌な顔一つ見せずに付き合っていた。

「公立高校の先生も、公務員でしたよね」

 昔から必要以上に公務員という職業に固執している父が、ヤギさんに尋ねた。散々兄の自慢をした後のこの訊き方がどれほど失礼なのか、父はきっと気付いていない。

「地方公務員ですが、一応は」

「いや、国家でも地方でも、公務員には違いありませんからね」

 わたしの恋人見たさに夫婦で押しかけて来ている兄は当然、国家公務員である事を誇りに思っている。悪く言えば鼻にかけているがゆえに、格下と見なしたヤギさんを見下した物言いをしている。そこには年上を敬うという気概は、全く感じられない。そしてそれもまた無意識だから、始末に負えないのだ。

 世間で言うキャリアと呼ばれる人達は国家公務員I種試験に合格した本当のエリートだが、兄はII種。事務方と呼ばれる職種らしいが、兄の仕事になど興味を持った事などないため、良く分からない。かつて兄本人に尋ねようとした時には、高校受験の話から始まり大学を経て公務員試験に合格したあたりまで、微に入り細に入り聞かされそうになったのだ。以来、二度とこの話題を兄に持ちかけた事がなかったのは、言うまでもない。

 大企業と公務員にこだわり続ける彼らだが、実はここ数日の間に少しだけ変化があった。上場企業でも金融関係でも倒産してしまうこのご時世、最も安定している職業は公務員なのだそうだ。日本の国はもちろん破綻などとは縁がないと思いたいが、地方自治体では僅かながらにも破綻が見られると言うのに、である。

 とは言え様子を見ている限りではとりあえず、両親も兄も、地方公務員で高校教師というヤギさんの職業に不足はないらしい。どこまでも一般企業に勤める会社員に対して失礼な人達だ。我が身内ながら、情けなくも恥ずかしい。妹も同じ事を感じているらしく、冷ややかな視線を向けている。

 昨日ヤギさんと打ち合わせた、妹が考えたという筋書き。ドラマティックな展開を期待している母に対して、わたしもヤギさんも努めて、ごくごく端的に必要な情報だけを口にした。いわゆる一問一答形式だ。打ち合わせをしていない事まで無駄に突っ込んで訊かれ、返答できなくなっても困るからなのだが。

 しかし最初の内こそ作り話とは知らずにあらまあと反応を見せていた母だが、次第に飽きてきたのだろう、時折声を上げるか時折頷く程度になって来た。父はもとより大した関心を示してはおらず、兄も興味があるふりこそしていたが、自分に関係のない話題になると途端に無口になってしまう。

 とうとう母が

「そうそう。卒業式と言えば、悠妃の式に出られなくて残念でしたわ」

と言い始めた。

「風邪をひかれていたんでしたね。代わりに麻妃さんが」

「そうなんですよ。ずっと前から楽しみにしていて、スーツまで新調したのに、肝心な日に熱を出してしまって。悠妃の晴れの日を見送る事が出来なくて、本当に残念で」

 ヤギさんの言葉を途中で遮って、自分の都合を話し始める始末。これも事前に母の傾向とパターンを説明してあったので、ヤギさんが戸惑う事はなかったのだが。

「夫も休めないし、息子も大事な仕事を休ませるわけにもいかなくて」

 だからこそわたしにお鉢が回って来たのだ。決算前で多忙な時期だと言っておいたのにもかかわらず、勝手に勤務先に電話をかけて上司に直談判してまでわたしを休ませた。兄の仕事は大事で、わたしの仕事はどうでもいいのか。一瞬憤りを感じたが、それもまたいつもの事と割り切るしかなかった。後日、一体どういうお母さんなんだと上司からの呆れたお小言をいただく羽目になったのは、ひとえに母の親ばかが原因だ。

 どうやら母にとって、妹の卒業式に参加できなかった事が大きな心残りになっているらしく、そこから後はひたすら妹の話ばかりをしていた。

 ヤギさんが何か言いたげな視線をこちらに寄越して来るのに、肩を竦めて応える。

「さっきから、先生とお姉ちゃんに関係のない話ばかりして、失礼でしょう。わたしの話をするために、わざわざ先生に来て貰ったわけじゃないのに」

 妹の言葉に、母はきょとんとして妹を見つめ、父は口をへの字に曲げた。

「麻妃の事はもちろんだけれど、高校の時の悠妃の様子を聞かせていただくのを楽しみにしていたのよ」

 嘘だ。わたし云々は、完全におまけだろう。

「違うでしょう。先生は、お姉ちゃんとお付き合いしているから、お父さんとお母さんに挨拶に来たんでしょう」

 妹の言葉は、世間一般的に見れば当たり前の事だ。しかしうちの両親にとって、わたしと妹に関しては、その常識が当てはまらない。そんな事は最初から分かりきっているのに、妹がわざわざヤギさんというお客の前で指摘したのは、人前でくらいは常識を持って欲しいという気持ちの表れだったに違いない。けれど両親は、妹がそんな事を言い出すとは思いもしなかったようだ。

「だって、矢木沢先生は、悠妃の先生じゃないの」

 そんな当たり前の事を、言わなければ分からないのか。さも心外そうに、母が言う。

「わたしの先生だったのは、三月まででしょう。第一、六年前にはお姉ちゃんの担任だったし、今はお姉ちゃんの彼氏じゃない」

「あら。麻妃もお世話になったんだったかしら」

 本気で目眩がしそうだ。悠妃と共に何度も説明した事を、覚えていないとでも言うのか。これを意識してではなく、素で言っているのだからとんでもないのだ、母は。

「先生、せっかく姉のために来ていただいているのに、常識知らずな両親でごめんなさい。娘としてお恥ずかしいです」

 そう言ってヤギさんに頭を下げたものだから、両親が目を瞠った。まさか自分達の行いのために可愛い娘に頭を下げさせるなんて、思いもしなかったのだろう。

「悠妃に頭を下げさせるなんて、麻妃、お前は何をしているんだ」

 そして本来ならば反省に向かうはずの焦りが、いつものようにわたしに向けられる。

「ごめんなさい」

 そしてやはりいつものようにわたしが、感情のこもらない声で答えた。これはもはや条件反射に近い。

「どうしてお姉ちゃんが謝るの。謝らなくちゃいけないのは、お父さんとお母さんの方なのに」

 妹の言葉は、実に正論だ。それでも、頭に血が上った両親の怒りに油を注ぐには十分な破壊力を持っていた。

 みっとないほどに声を荒げて喚き立てる母は、とても見苦しい生き物だ。それを宥める事も賺す事もしないどころか、母に賛同して静かに怒りを漲らせている父も、やはり人としてどこかおかしい。その事に気付いていないのは、恐らく本人達だけだろう。

 渋面を作って傍観している兄の隣で一部始終を見ている兄嫁が、気の毒なくらいに顔色を無くしていた。安定期に入ったお腹は、かなり目立つようになっている。しかしこんなものを見せてしまっては、胎児に悪影響が出そうだ。そうでなくとも、もうすぐこの家に兄と共に移り住もうかというのに、こんな両親を目の当たりにしてしまうなんて。これで同居の話が消える可能性もなきにしもあらずだなと、周囲の喧噪など気に留めずにぼんやりと考えていた。

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