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1-1

 五歳下の妹の高校の卒業式に、休みを取れなかった父と二日前に熱を出してドクターストップがかかった母の代わりに保護者としてわたしが出席する事が決まったのは、つい昨日の事だった。結婚を機に家を出ている三つ上の兄や兄嫁に頼むのも気が引け、仕方なく引き受けたのだけれど。

 わたしが持っているスーツはどれもそれなりに着回している物ばかりだし、新しいものを買いに行く時間もなかった。途方に暮れかけたが、母が着る予定だった真新しいスーツのウェストが少し緩いだけで、上は問題なく着られた事が幸いした。

 とは言え保護者席に座っているのは、三年生の両親か祖父母、または兄弟姉妹と思われる小さな子供くらいだ。わたしのような中途半端な若輩者の姿は、後方に設えられている立ち見席にしか見受けられない。必然的に好奇の目を向けられる事になり、居心地が悪い事この上なかった。

 こんなに痛い視線を受け続けるくらいならば、いっそ立ち見席の方がましかもしれない。そう思ってパイプ椅子から立ち上がったのは、式が始まる五分前の事だった。

 真ん中辺りの席を確保していたのだが、それが裏目に出て、通路まで移動するのに予想外に手間取ってしまう。保護者の多くが足下に荷物を置き、さらにその半数近くが三脚を立ててデジタルビデオやデジタルカメラを設置していたためなのだが。

 障害物を避け何度もすみませんと言いながら、やっとの思いで通路に出た時には、大いに精神的疲労を感じていた。

「溝内(みぞうち)、か」

 大きく息を吐いたわたしを呼ぶ声が聞こえたのでそちらを窺うと、三十代くらいと思しき男性が一人こちらに歩いて来るのが見て取れた。

 わたしが卒業した高校よりも幾分偏差値が高いこの高校には、自慢ではないが知り合いなどいない。唯一顔を知っている妹の友人達も同じ三年生だから、今はまだこの場所に来ていないのだ。

「え、と。どちら様、でしょうか」

 一六二センチのわたしから見ても、背が高い。恐らく一八〇センチ近くあるのではないだろうか。濃紺地のスーツにはリボンが付けられ、どうやら教職員らしい事が分かった。しかしその顔に見覚えがない上に、この学校にわたしの知っている教師がいれば、妹が何かしら知らせてくれているはずだ。

「お前、もう忘れたのか。薄情な奴だな」

 苦笑いを浮かべている教師を前に必死に記憶を探ってみるけれど、どうしても思い出せない。もしかすると最初から記憶にない、つまり見知らぬ他人なのではないだろうかとさえ思う。

 それとも、妹と間違えているのだろうか。しかし今のわたしの服装はどこから見ても高校生のものではあり得ない。さらに言うならば、既に高校生と言うには無理のある年齢に達している。認めたくはないが。そして何より、わたしと妹はあまり似ていないのだ。同じ遺伝子を持って生まれた者同士、どことなく似ていると言われる事はあっても、妹と取り違えられた事など皆無だったのだから。

「常磐(ときわ)高の三年五組だった、溝内麻妃(あさひ)だろう」

 どうやら人違いではなく、わたしだと認識して声をかけて来ているらしい。

「そ、うです、が」

 戸惑いを隠しきれないわたしに、さらに相手が何かを言おうと口を開いた時、間もなく卒業生の入場が始まる旨を伝える放送が入った。

「え、うそ。やばいっ」

 慌てて踵を返し、後部席に向かう。あまりに慌てていたために、件の教師とすれ違った直後に足が絡まって転びかけた。床に転ぶ事を覚悟して目を瞑ったわたしの体に、誰かの腕が巻き付いて引き留められる。

「大丈夫か」

 すぐそばで聞こえた声に驚いて顔を上げると、先ほどの教師の顔がそこにあり、大いに焦った。咄嗟に助けてくれたらしい。けれど次の瞬間沸き上がった黄色い声と笑い声に、かなり注目を集めてしまっていた事に気付いた。体が接触している部分が恥ずかしさで熱を持ち、居たたまれなくなって慌てて腕を振り解く。落ち着いて考えてみれば、助けてくれた相手に対して失礼極まりない行為だが、すっかりテンパってしまっていたのだ。

「溝内」

 腕の中から逃げ出したわたしをもう一度呼ぶ声が聞こえ、顔だけで振り向くと、

「後でな」

そう言って、軽く手を振っていた。

 立ち見席に紛れ込む間にも周囲の視線を集めている気がして、穴があったら入りたい気分になる。できる事なら今すぐにでも逃げ出したい。けれど妹の事を思うとそうもいかず、わたしは俯いたまま体育館の一番後ろまで下がった。




 卒業式というものは、どこも大差がないらしい。校長から始まって議員やら教育委員会から来たという賓客達の、長くて退屈な挨拶が延々三十分以上続いた。全国規模で統一されているのではないだろうかと思うほどに独自性のない画一的な言葉の羅列は、学生達のみならず保護者たちの一部を眠気に誘惑するには十分の魔力を持っているようだ。船を漕いでいるのか、前後や左右に揺れるいくつかの頭が見受けられた。

 送辞に答辞に卒業証書の授与。生徒会の権限が強い私立校ならばもっと創意工夫が凝らされた面白味のある式になるのかもしれないけれど、ごくごく普通の公立高校にそれを求めるのは難しいようだ。

 卒業生たちが退場し、保護者達は先に帰る者や卒業生を待つ者など、それぞれに散って行く。この後の事を妹と相談していなかったわたしは、体育館を出た所でこれからどうしたものかと思案した。

「溝内」

 四度呼ばれた声に、さすがに今度は確認するまでもなく先ほどの教師だろうと思い振り向くと、予想通りの長身がそこにいる。

「今日は保護者代理なのか」

 式の間にどうやら妹のクラスの担任らしい事が分かったのだが、進行役の教師のマイクを通した声が必要以上に体育館に響きすぎたため、名前を聞き取る事が出来なかった。

「時間がないな」

 そう言って、おもむろにわたしの右手首を掴んで歩き出す。慌てて後を追うが、行き先は恐らく妹がいる教室だろう。

「お前、まだ思い出さないのか」

 腕を捕まれたまま、半ば引きずられるような格好になった。わたしの歩幅を考慮してくれていないらしく、早足で歩く教師に遅れないように自然と小走りになる。

「はあ。全然、分からないんですが」

 ほんの少しだけ速度が落ち小走りが早足になったが、これ見よがしに聞こえてくる溜息に、思わず肩を竦めた。

「お前の記憶力がちゃらんぽらんなのは知っているが、高二の時の担任くらい覚えておけ」

 高校二年生の時の担任は、数学教師だった。三年生のクラス替えで他のクラスの担任になったけれど、数学は変わらずその教師が担当していた。小学算数と中学の数学が得意だったわたしだが、三角関数が出てきた辺りで完全に躓いてしまった。サインにコサインにタンジェントなんて社会生活の何の役に立つんだと、逆ギレした事もあった。

 件の数学教師は、長身で肩幅ががっしりしていて、メタボと言うよりも恰幅がいいという体型。セルフレームの眼鏡は乱視がきついのか、分厚いレンズに渦が巻いていた。

「ま、さか、ヤギさん」

 本当は矢木沢(やぎさわ)という名前なのだが、わたしたちは親しみを込めてヤギさんと呼んでいた。

「その呼び方はやめろと言っただろう。やっと思い出したか」

 にやりと口角を上げるその顔は、けれどやはりわたしの記憶の中のヤギさんとは似ても似つかない。大きかった肩は、無駄な肉が削げ落ちでもしたのか、当時よりも薄くなっている。恰幅が良かった体も、長身な分大きい事は大きいが、縦横のバランスはごく標準くらいになっていた。極めつけは、眼鏡がない事だ。コンタクトにでもしたのだろうが、これがあのヤギさんと同一人物だと一目で気付く事が出来なくても、仕方がないというものだろう。

 せめて妹から聞かされていればと思ったが、五年前のヤギさんとこれだけ共通点がないとなると、残念ながら気付けなかった確率が高い。

 そこでなぜ妹はわたしにヤギさんの事を教えてくれなかったのだろうかと考えて、きっと単に面白そうだとかそんな単純な理由だろうと想像した。まさかこんな形で再会するなんて、妹にも想像できなかった事だろう。

「なんでヤギさんが、妹の学校にいるんですか」

「二年前に転任してきたんだよ」

 高校と言えども公立校の教員の宿命から逃れる事が出来ないらしく、小中学校と同じく、校区内で定期的に転任があるのだそうだ。

「俺も、まさか転任先にお前の妹がいるとは思わなかった」

 それはやはり、わたしと妹を比べての事だろうか。それとも別の意味があるのだろうか。自分よりも出来がいい妹を持つ姉の心中は、色々複雑だ。

「この辺で待っていろ」

 階段を上り切った所で手を離され、最後のホームルームのためにヤギさんが教室の中に消えて行くのを見送る。

「あ。お姉ちゃーん」

 わたしに気付いた妹が、こちらに向かって教室の中から手を振った。口元に笑みを浮かべて手を振り返すと、近くにいた友達と何やらこそこそと話し始める。恐らく両親が来られなかった事情と、代わりにわたしが来た事を教えているのだろう。

 全員に向かってヤギさんが何かを言った後、一人ずつ前に出て言葉を交わし、握手をしている様子が見えた。中には感極まって泣き出している子もいるけれど、妹はあっけらかんとした笑顔を見せている。

 わたしの時はどうだっただろうか。同じような光景を脳裏に思い浮かべて、やはり泣いてはいなかった事を思い出した。そう言えば小学校の時も中学校の時も、卒業式で泣いた記憶がない。テレビのドキュメント番組を見たくらいで泣くわたしだが、自分自身の卒業式ではなぜか、いつもどこか他人事のような冷めた気持ちを抱いていた。他にも泣いていない子が結構いたため当時は気にもしていなかったのだが、わたしは薄情者なのかもしれない。

「お姉ちゃん」

 教室の中がざわめき始めてすぐにがらりと引き戸が開けられ、妹が飛び出して来た。

「卒業おめでとう、悠妃」

「ありがと。ね、こっちに来て」

 祝いの言葉もそこそこに手を引かれて向かった先は、生徒達に囲まれたヤギさんの教卓だった。その主であるヤギさんは、四方からかけられる言葉に答えながらも、机の上の物を片付けている。

 知らない学校の知らない教室で知らない制服を着た生徒達といる、かつての担任。けれどその外見はわたしの記憶の中の姿とは程遠く、ほとんど見知らぬ人も同然だ。

 あと数歩で教卓に辿り着くという位置で、無意識にわたしの足が止まった。妹が訝しげに振り向いて繋いだままの手を引くが、どうしてもそこから動く事が出来ない。

 程なくして顔を上げたヤギさんが、わたし達に気付いた。目を瞠ったのは一瞬の事で、次の瞬間には笑顔を向けられる。眼鏡に隠されてよく見えなかったが、あの頃もこんな笑顔で生徒を見ていたのだろうか。

 優しく細められるヤギさんの目を見て、わたしの全身に緊張が走った。

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