09:甘く苦い痛み
最近、アルゼンタムが変だ。
グローリーは刺繍の手を一度止めてため息をついた。以前までなら気付けなかったかもしれないが、今はなんとなく分かる。アルゼンタムが自分に向ける感情が、どこかぎこちない。話していても視線を逸らすし、一緒にいる時間も少なくなった。
体が成長してきて、よそよそしくなったときと似ている。あのときから一緒にお風呂に入ってくれなくなったし、着替えも自分でするようになった。グローリー自身も変化する身体に戸惑っていたため、アルゼンタムの態度の変化に悲しくなり困らせてしまった。
流石に、今ではその理由も推察できる程度にはなった。思えば、アレによって初めてアルゼンタムと自分は異性なのだと理解したのだ。距離感が出来てしまうのは仕方がないし、健全な証拠なのだろう。
「でも、ちょっと違う……ような?」
『ぎゃぴ?』
ころころとベッドで転がる魔獣を撫でて、グローリーは手を止めた。異性という認識により距離感が出来たときよりも、距離感は近い気がする。何かが違うのだ。
困惑、戸惑いは確かにある。だが見え隠れする感情はもっと複雑なものだ。それが何なのかはよく分からないが、アルゼンタムとの間に距離が出来てしまったことがただ悲しい。
数日前、アルゼンタムを元気付けようとして頭を撫でた。アルゼンタムの態度が変わったのはそれからだ。グローリーはふにゃりと表情を歪めて唇に力を入れた。
「子供っぽかったかな。怒ったのかな。……どうしよう」
嫌われたら。
ぽつ、と零した言葉に、グローリーはずきりと痛む胸を押さえた。身体の不調というわけでもないようなのに、思い出したように胸の辺りが痛む。痛みとともにグローリーの中の不安が増し、泣き出しそうになる。
「うぅ……だめだめ。ちゃんとしなきゃ」
アルゼンタムのように、いつもしっかりとした人間でありたい。こんなことで泣いていては、また子ども扱いされてしまう。
ふるふると首を振って意識を切り替え、また刺繍に戻る。アルゼンタムに贈るためだけに、初めて自分から行動を起こしたのだ。これで、ようやく子ども扱いからも卒業できるだろう。
「そしたら……ちゃんと、しよう」
彼にとって子供でなくなるために。きちんと自分の気持ちを伝えよう。
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「……やばい、子供みたいだ」
アルゼンタムは紅くなった顔を抑えてしゃがみこんだ。こんなところをグローリーに見られたら情けないが、基本的にグローリーは台所に入ってこない。食器を何とか洗い終えて、我慢していた反動のように座り込んだ。
グローリーが笑った。手料理を食べておいしいと喜んでくれた。ただ、それだけ。今まで当たり前だったのに、急に気恥ずかしくなってしまった。水仕事で冷えた手で頬を包むが、赤みはなかなか引いてくれそうにない。
「う、わー……情けない」
まるで思春期の少年のような反応。アルゼンタムは16歳、正直こんなことでこんなに動揺するとは思っていなかった。が、冷静に思い返してみれば、アルゼンタムはまともな恋というものをしたことがない。女性が寄ってくるのをやんわりと追い払ってばかりで、自ら他人を追いかけたことなどほとんどなかった。
「初恋、なのかな……」
口に出すと、いっそう頬の熱が増した。いつも余裕を持って大人の対応をしていたいのに、こんなことで子供になってしまうなんて。至らない子供でなんていたくないのに。
どうすれば良いのだろう。どうするべきなのだろう。
身分も世界も違う少女への恋。スカイ家の縛りもあるから、到底一般的な恋とはいかない。
第一、アルゼンタムは異世界の住人だ。今は『組織』の仕事としてここにいるだけであり、いつ別の世界に移るかも分からない。以前『力』を使った際に釘を刺されている。もう一度使ってしまえばさすがに連れ出されてしまうだろう。
離れたくない。
このぬるま湯のような場所が、心地良い。
「……どうにも、したくない」
グローリーに想いを伝えることも考えたが、すぐに一蹴した。アルゼンタムは今の関係が心地良いのだ。それが良かれ悪しかれ変化するのは恐ろしい。
この閉じられた小さな世界で、二人きりで静かに過ごす。好きも嫌いもなく、凪いだ平穏な時間の積み重ね。今が一番幸せなのだ。その幸せをわざわざ壊そうだなんて思わない。
壊すだなんて恐ろしい。
もしも、この今の関係を壊してそれ以上を望んでも、それでどうなると言うのだろう。グローリーがアルゼンタムに懐いていることは自覚している。好意の種類は分からないが、無碍にされることもないだろう。もしかしたら両想いとなり、恋人になれるかもしれない。でも。
恋が発展したその先には。
「……っ」
ずき、ん。
座り込んだ身体を丸め、痛みに耐える。頭の奥が軋むように痛んだ。膝を抱えこんで目を閉じ、ざわついた心が凪ぐことをただ祈る。嵐に放り込まれた子供が身を守るように、何も考えずに過ぎ去るのを待つ。
これからどうすべきか。それを考えていると、ひどく頭が痛んだ。いつもいつも、考えの先にあるものにたどり着く前に痛みが邪魔をする。
否、考えられなくはないのだ。ただ考えたくない。そこにたどり着くことを、アルゼンタム自身が拒絶している。この痛みはその表れ。
「だめ、だ。考えるな。考えたら」
壊れる。
何が、なのかは分からない。ただ終着点には崩壊があることだけを知っている。この幸せ、凪いだ時間と停滞した場所、変わらない日々の繰り返し。追いかける、理想の自分と憧憬の背中。それでいい、それで満足していれば良い。
決して手を伸ばしてはいけない。追いついてはいけない。ただ追いかけ続けていることが幸せなのだから。
追いかけている間は、夢を見ることができる。




