08:溺れ落ちる
くらり、と景色がゆがみ、重力が気ままに翻弄したかのような感覚。なんとか壁に手をついて、倒れないように身体を預ける。
「……っと」
揺れた視界にアルゼンタムは慌てて意識を戻した。最近、よく眠れない日が続いている。そのため、昼間もぼうっとしてしまうことが多い。きちんと夜寝ようとも思うのだが、胸騒ぎがしてなかなか寝付けないのだ。
「いけないな、ちゃんとしないと……」
軽く頬をはたき、アルゼンタムはため息をついた。憂鬱なことは重なるものだ。少し前からグローリーが部屋にこもってしまうことが多く、少し寂しい。何をしているのかは知らないが、何か、アルゼンタムには知られたくないことがあるようだ。
「……寂しがってる、場合じゃないだろ」
自分を叱咤し、壁に手をついて姿勢を正す。そろそろ『心眼』も来る頃合なので、体調不良はそのときにでも言ってみれば良いだろう。
この世界の医者にかかるよりも『組織』の医療系に診てもらうことが多い。この世界の人間ではないから、というのももちろんあるが、身体の弱いアルゼンタムは昔からの付き合いなのだ。異能力を持つと魔力が不足し、身体が弱くなってしまうらしい。
幸い、今は普通に生活していけるだけの健康な身体である。こうしてときおり体調が悪くなると不安になるが、『組織』のことを一応は信用している。相談をしてみてから考えれば良いだろう。
「……さて、作るぞ。グローリーさん、喜んでくれるといいんだけど」
改めて気合を入れなおし、アルゼンタムは再び昼食の支度に取り掛かった。グローリーも何か悩みがあるようなので、せめて美味しいものを食べて気晴らしにでもなれば良いのだが。
課せられた役目も全うできなくては、いる意味が無い。
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昼食後、台所の片付けが一通り終わったのでダイニングに戻ると、グローリーが席に座っていた。普段は食べ終われば部屋に戻って読書したりと趣味の時間を過ごしていたのだが。内心で首をかしげるアルゼンタムに、グローリーは不安を顔に浮かべて言った。
「……アル、大丈夫?」
「え?」
「顔色、悪いよ。病気? どこか痛いの?」
ついにグローリーを心配させてしまったようだ。内心で舌打ちしながらも、それを表情には出さずに苦笑を浮かべる。
「少し、寝つきが悪くて……心配させてすみません。ちゃんと、しますから」
用意していた言葉でごまかす。が、グローリーはそれでも不安げに顔を曇らせていた。大丈夫ですよ、と笑って付け加え、優しく頭をなでる。
と、グローリーの表情が変わった。不安げな表情から一変し、少し楽しそうなものに変わる。片手で椅子を指し示し、アルゼンタムを手招きした。
「アル、こっち来て。ここ、座って」
「は、はい」
促されるままに椅子に座り、立ち上がったグローリーを見る。グローリーは背が低いので、これでちょうど視線が合うくらいか、少し高いくらいか。
何がはじまるのかは分からないが、グローリーがこんなにも積極的に動くことはなかなかない。緊張する一方、その成長ぶりに少し和んでしまう。
と、アルゼンタムの頭が引き寄せられた。前のめりになり、グローリーの胸元に抱き寄せられる。幸いというかなんと言うか、ドレスの下からやや主張を見せるふくらみに顔をうずめることはなかったが。グローリーの背もあり、首下あたりだろうか。
行動の意図が掴めず、アルゼンタムは混乱していた。そこまできつくはないが、楽な体勢でもない。
「ぐ、グローリーさ……?」
すぅ、さらり、と。
癖の強い黒髪に指を通し、触れるか触れないかの微妙な力加減で手が動く。アルゼンタムは何が起きたのかと瞠目し、されるがままに撫でられた。
「いい子、いい子。アルは、大丈夫だよ」
鈴を転がすような、囁くような優しい声。耳を掠めるように、聞いたことも無いような感情を込めて。
誰かを、思い出す。
存在しないその人のぬくもりを、錯覚する。
ずっとずっと追い求めて、それでも手に入らなかったもの。満たされなかったもの、欲しかったもの、くれると思った人。思考が、ぼやけていく。
「……グ、ローリー、さん?」
やっとのことで声を絞り出すが、みっともなく震えていた。胸がいっぱいで、息が詰まって、身体の隅々まで満たされるような感覚に翻弄される。
「アルは、わたしが辛いときにこうして頭を撫でてくれるでしょう? すごく暖かくて、嬉しくなる。だから、アルも元気になるかなって思って」
模倣、ではない。あやすように、手慰みのように撫でていたそれとは全く違う。アルゼンタムが無意識のようにしていたそれに、彼女はこんなに満たされていたのだろうか。
何度も何度も手が往復し、どのくらい経っただろうか。永遠にも思えるが一瞬とも感じる時間は不意に終わった。グローリーは少し腕を解いて余裕を持たせ、アルゼンタムの顔を見つめた。
「アル、嬉しい?」
花開くような笑顔。いつも見ていたはずなのに、何故か直視できない。それでもいつまでも見ていたくて、アルゼンタムは視線を逸らせずにいた。
耳の奥で、鼓動が鳴り響く。彼女以外に何も見えない。ひどく暑苦しく、身体が熱を持っていた。アルゼンタムの肩に触れている小さな手の存在感が、酷く大きく感じられてぴくりとも動けない。
失いたくなくて、アルゼンタムはグローリーの身体に手を回して抱きしめた。顔を見えないようにうずめ、微かに震える手で背を掴み。まるで、すがりつくように。
「アル……? どうしたの、嬉しくない?」
「ちが、違うんです。すごく、嬉しい。嬉しいんです」
不安そうなグローリーの声に何とか言葉を返し、アルゼンタムは黙りこんだ。これ以上はとてもしゃべれない。何を言っても震えてしまうだろう。それで不安がらせたくないし、もう少しこのままでいたい。
針が振り切れるような感情の激変に戸惑いながら。
アルゼンタムは、恋をした。




