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僕が好きだったあの子は、いない

作者: たかし
掲載日:2026/02/25

小学校の卒業式の日、れんは、体育館の白い天井を見上げながら、ただ一人のことを考えていた。


じゅん。


壇上で名前を呼ばれ、まっすぐ前を向いて歩く彼女の姿は、春の光に透けて見えた。肩までの髪が揺れ、白いブラウスの襟がきちんと整っている。その姿を、れんはまばたきもせずに見つめていた。


声をかけることは、できなかった。


れんは、場面緘黙のように、人前で言葉が出なくなる癖があった。家では話せる。母とは、ぽつりぽつりと会話ができる。でも、学校では、喉が石のように固まる。空気が重くなり、舌が動かなくなる。


だから、小学校の六年間、じゅんに話しかけたことは一度もなかった。


それでも、れんの世界の中心には、いつも彼女がいた。



中学生になった春、校門の前で、れんは深呼吸をした。


制服は少し大きく、袖が余っている。新しい校舎。新しいクラス。新しい生活。


そして、じゅんも、そこにいた。


クラスは別だったが、廊下ですれ違うことはある。校庭の向こう側で、友達と笑っている姿も見える。


れんは、距離を保ちながら、彼女を目で追った。


彼の恋は、いつも遠距離だった。



じゅんは、きれいだった。


でもそれは、単純な「美しさ」ではなく、れんの中でつくられた理想の光に照らされた姿だった。


長いまつ毛。少し高い声。風に揺れる髪。ノートをとるときの真剣な横顔。


れんは、じゅんを見つめながら、自分の中で彼女を膨らませていった。


きっと優しいに違いない。

きっと静かな人だろう。

きっと、他人を傷つけない。


彼女は、れんの想像の中で、静かで透明な存在になっていった。



ある日、放課後の廊下で、れんは偶然、じゅんの声を近くで聞いた。


「あのさ、それちょっと違くない?」


少し強い口調だった。


れんは足を止めた。


じゅんは友達に向かって、はっきりと意見を言っていた。笑いながらも、主張は曲げない。その姿は、れんの思い描いていた「静かな彼女」とは少し違っていた。


胸の奥が、わずかにざわついた。


でも、それでもよかった。


むしろ、芯がある人なんだ、と、都合よく解釈した。


れんは、自分の理想を守るために、現実を少しずつ調整していった。



れんは、話しかけられない。


朝の「おはよう」も、昼休みの「それ貸して」も、喉で止まる。


言葉は、いつも心の中で完成する。


じゅんに伝えたい言葉は、山ほどあった。


今日の英語の発音、上手だったね。

体育のとき、転びそうになった子を支えてたね。

笑うとき、目が細くなるね。


でも、それはすべて、れんの中だけで終わる。


彼は、遠くから眺める専門家になっていった。



夏になった。


じゅんは、部活に入った。バレー部だった。


放課後の体育館から聞こえるボールの音。掛け声。笑い声。


れんは、用もないのに校舎の廊下をゆっくり歩き、体育館の窓越しに彼女の姿を探した。


汗をかき、声を出し、真剣な表情でボールを追うじゅん。


その姿は、れんの理想像から、また少し外れていた。


「静かで儚い彼女」は、そこにはいなかった。


代わりに、負けず嫌いで、仲間に強く指示を出す、現実の彼女がいた。


れんは、少しだけ戸惑った。


それでも、まだ好きだった。



秋。


文化祭の準備が始まった。


じゅんのクラスは、演劇をするらしい。主役ではなかったが、セリフは多い役だった。


れんは、客席の後ろから、彼女の声を聞いた。


はっきりとした発音。感情を込めた声。


れんは、胸が締めつけられた。


自分は、声を出せない。

彼女は、舞台の上で、堂々と声を出す。


その差は、あまりにも大きかった。


好き、という感情の中に、劣等感が混ざり始めた。



冬。


ある日、れんは、偶然、じゅんと同じバスに乗った。


車内は混んでいて、距離は近かった。


じゅんは友達と笑いながら、こんなことを言っていた。


「無口な人って、何考えてるかわかんないよね」


れんの耳が、熱くなった。


じゅんは、特定の誰かを指していたわけではない。ただの会話。軽い冗談。


でも、れんには、それが自分に向けられた言葉のように刺さった。


彼の理想の彼女は、「無口な人も優しく理解してくれる人」だった。


現実のじゅんは、そうではなかった。


その瞬間、れんの中で、何かがひび割れた。



それから、れんは、じゅんを見る回数が減った。


見ないようにしようとした。


でも、目は勝手に探してしまう。


廊下の向こう。

校庭の端。

教室の窓。


じゅんは、変わらずそこにいる。


でも、れんの中のじゅんは、少しずつ色を失っていった。



れんは気づき始めていた。


自分が好きだったのは、じゅんそのものではなく、


「じゅんという名前をつけた理想像」だったのではないか、と。


彼は、彼女を知らない。


好きな食べ物も、嫌いなことも、家族のことも、将来の夢も。


知っているのは、遠くから見た姿だけ。


そこに、自分の願いを貼り付けていただけだった。



三学期。


廊下で、じゅんが泣いているのを見た。


部活の試合に負けたらしい。


悔しさで、声を荒げ、友達に当たっていた。


れんは、柱の影からその様子を見ていた。


理想の彼女は、静かに涙を流すはずだった。


でも、現実の彼女は、怒りも、悔しさも、むき出しだった。


それは、決して悪いことではない。


むしろ、人間らしい。


でも、れんの中の「完璧な彼女像」とは、どんどん離れていった。



そして、ある日。


れんは、ふと、じゅんを見ても、何も感じない瞬間があることに気づいた。


胸が高鳴らない。

目が追わない。

息が詰まらない。


ただ、同じ学校にいる一人の女子生徒として、そこにいる。


それだけ。


好きだったはずの感情は、いつのまにか、薄く、透明になっていた。



れんは、帰り道、夕焼けの空を見上げた。


赤い雲が、ゆっくり流れている。


自分は、何を愛していたのだろう。


じゅんの顔?

じゅんの声?

それとも、自分が作り上げた理想?


遠くから見て、触れずに、勝手に美化して。


現実を知り始めたら、感情が消えていく。


それは、裏切りでも、冷めたわけでもない。


ただ、「幻想」が剥がれただけだった。



春が近づくころ。


れんは、廊下でじゅんとすれ違った。


ほんの一瞬、目が合った。


れんは、やっぱり声を出せなかった。


でも、不思議と苦しくはなかった。


じゅんは、ただの一人の人間だった。


強くて、弱くて、時に無神経で、でも一生懸命で。


そして、れんもまた、不完全な一人の人間だった。


彼は、初めて、自分の恋を客観的に見つめた。


好きだった時間は、嘘ではない。


でも、それは「彼女そのもの」ではなく、


「自分の理想を映す鏡」だったのだ。



放課後の教室。


誰もいない窓際で、れんは小さくつぶやいた。


声はかすれていたけれど、確かに外に出た。


「……ありがとう」


誰に向けたのか、自分でもわからない。


じゅんかもしれない。

過去の自分かもしれない。


初めて、言葉が、教室の空気を震わせた。



家に帰る途中、れんは、もうじゅんを探していなかった。


恋が終わった、というより、


ひとつの幻想が、静かに役目を終えた。


彼は、まだ人と話すのが苦手だ。


でも、いつか、誰かを好きになるときは、


遠くから眺めるだけじゃなく、


不完全なまま、近づいてみたい。


理想じゃなく、

現実の誰かを。


そして、自分自身も、理想の自分ではなく、


声の震える、今の自分で。



僕が愛していたあなたは、誰だったの?


夕暮れの中で、その問いだけが、静かに残った。

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