僕が好きだったあの子は、いない
小学校の卒業式の日、れんは、体育館の白い天井を見上げながら、ただ一人のことを考えていた。
じゅん。
壇上で名前を呼ばれ、まっすぐ前を向いて歩く彼女の姿は、春の光に透けて見えた。肩までの髪が揺れ、白いブラウスの襟がきちんと整っている。その姿を、れんはまばたきもせずに見つめていた。
声をかけることは、できなかった。
れんは、場面緘黙のように、人前で言葉が出なくなる癖があった。家では話せる。母とは、ぽつりぽつりと会話ができる。でも、学校では、喉が石のように固まる。空気が重くなり、舌が動かなくなる。
だから、小学校の六年間、じゅんに話しかけたことは一度もなかった。
それでも、れんの世界の中心には、いつも彼女がいた。
◇
中学生になった春、校門の前で、れんは深呼吸をした。
制服は少し大きく、袖が余っている。新しい校舎。新しいクラス。新しい生活。
そして、じゅんも、そこにいた。
クラスは別だったが、廊下ですれ違うことはある。校庭の向こう側で、友達と笑っている姿も見える。
れんは、距離を保ちながら、彼女を目で追った。
彼の恋は、いつも遠距離だった。
◇
じゅんは、きれいだった。
でもそれは、単純な「美しさ」ではなく、れんの中でつくられた理想の光に照らされた姿だった。
長いまつ毛。少し高い声。風に揺れる髪。ノートをとるときの真剣な横顔。
れんは、じゅんを見つめながら、自分の中で彼女を膨らませていった。
きっと優しいに違いない。
きっと静かな人だろう。
きっと、他人を傷つけない。
彼女は、れんの想像の中で、静かで透明な存在になっていった。
◇
ある日、放課後の廊下で、れんは偶然、じゅんの声を近くで聞いた。
「あのさ、それちょっと違くない?」
少し強い口調だった。
れんは足を止めた。
じゅんは友達に向かって、はっきりと意見を言っていた。笑いながらも、主張は曲げない。その姿は、れんの思い描いていた「静かな彼女」とは少し違っていた。
胸の奥が、わずかにざわついた。
でも、それでもよかった。
むしろ、芯がある人なんだ、と、都合よく解釈した。
れんは、自分の理想を守るために、現実を少しずつ調整していった。
◇
れんは、話しかけられない。
朝の「おはよう」も、昼休みの「それ貸して」も、喉で止まる。
言葉は、いつも心の中で完成する。
じゅんに伝えたい言葉は、山ほどあった。
今日の英語の発音、上手だったね。
体育のとき、転びそうになった子を支えてたね。
笑うとき、目が細くなるね。
でも、それはすべて、れんの中だけで終わる。
彼は、遠くから眺める専門家になっていった。
◇
夏になった。
じゅんは、部活に入った。バレー部だった。
放課後の体育館から聞こえるボールの音。掛け声。笑い声。
れんは、用もないのに校舎の廊下をゆっくり歩き、体育館の窓越しに彼女の姿を探した。
汗をかき、声を出し、真剣な表情でボールを追うじゅん。
その姿は、れんの理想像から、また少し外れていた。
「静かで儚い彼女」は、そこにはいなかった。
代わりに、負けず嫌いで、仲間に強く指示を出す、現実の彼女がいた。
れんは、少しだけ戸惑った。
それでも、まだ好きだった。
◇
秋。
文化祭の準備が始まった。
じゅんのクラスは、演劇をするらしい。主役ではなかったが、セリフは多い役だった。
れんは、客席の後ろから、彼女の声を聞いた。
はっきりとした発音。感情を込めた声。
れんは、胸が締めつけられた。
自分は、声を出せない。
彼女は、舞台の上で、堂々と声を出す。
その差は、あまりにも大きかった。
好き、という感情の中に、劣等感が混ざり始めた。
◇
冬。
ある日、れんは、偶然、じゅんと同じバスに乗った。
車内は混んでいて、距離は近かった。
じゅんは友達と笑いながら、こんなことを言っていた。
「無口な人って、何考えてるかわかんないよね」
れんの耳が、熱くなった。
じゅんは、特定の誰かを指していたわけではない。ただの会話。軽い冗談。
でも、れんには、それが自分に向けられた言葉のように刺さった。
彼の理想の彼女は、「無口な人も優しく理解してくれる人」だった。
現実のじゅんは、そうではなかった。
その瞬間、れんの中で、何かがひび割れた。
◇
それから、れんは、じゅんを見る回数が減った。
見ないようにしようとした。
でも、目は勝手に探してしまう。
廊下の向こう。
校庭の端。
教室の窓。
じゅんは、変わらずそこにいる。
でも、れんの中のじゅんは、少しずつ色を失っていった。
◇
れんは気づき始めていた。
自分が好きだったのは、じゅんそのものではなく、
「じゅんという名前をつけた理想像」だったのではないか、と。
彼は、彼女を知らない。
好きな食べ物も、嫌いなことも、家族のことも、将来の夢も。
知っているのは、遠くから見た姿だけ。
そこに、自分の願いを貼り付けていただけだった。
◇
三学期。
廊下で、じゅんが泣いているのを見た。
部活の試合に負けたらしい。
悔しさで、声を荒げ、友達に当たっていた。
れんは、柱の影からその様子を見ていた。
理想の彼女は、静かに涙を流すはずだった。
でも、現実の彼女は、怒りも、悔しさも、むき出しだった。
それは、決して悪いことではない。
むしろ、人間らしい。
でも、れんの中の「完璧な彼女像」とは、どんどん離れていった。
◇
そして、ある日。
れんは、ふと、じゅんを見ても、何も感じない瞬間があることに気づいた。
胸が高鳴らない。
目が追わない。
息が詰まらない。
ただ、同じ学校にいる一人の女子生徒として、そこにいる。
それだけ。
好きだったはずの感情は、いつのまにか、薄く、透明になっていた。
◇
れんは、帰り道、夕焼けの空を見上げた。
赤い雲が、ゆっくり流れている。
自分は、何を愛していたのだろう。
じゅんの顔?
じゅんの声?
それとも、自分が作り上げた理想?
遠くから見て、触れずに、勝手に美化して。
現実を知り始めたら、感情が消えていく。
それは、裏切りでも、冷めたわけでもない。
ただ、「幻想」が剥がれただけだった。
◇
春が近づくころ。
れんは、廊下でじゅんとすれ違った。
ほんの一瞬、目が合った。
れんは、やっぱり声を出せなかった。
でも、不思議と苦しくはなかった。
じゅんは、ただの一人の人間だった。
強くて、弱くて、時に無神経で、でも一生懸命で。
そして、れんもまた、不完全な一人の人間だった。
彼は、初めて、自分の恋を客観的に見つめた。
好きだった時間は、嘘ではない。
でも、それは「彼女そのもの」ではなく、
「自分の理想を映す鏡」だったのだ。
◇
放課後の教室。
誰もいない窓際で、れんは小さくつぶやいた。
声はかすれていたけれど、確かに外に出た。
「……ありがとう」
誰に向けたのか、自分でもわからない。
じゅんかもしれない。
過去の自分かもしれない。
初めて、言葉が、教室の空気を震わせた。
◇
家に帰る途中、れんは、もうじゅんを探していなかった。
恋が終わった、というより、
ひとつの幻想が、静かに役目を終えた。
彼は、まだ人と話すのが苦手だ。
でも、いつか、誰かを好きになるときは、
遠くから眺めるだけじゃなく、
不完全なまま、近づいてみたい。
理想じゃなく、
現実の誰かを。
そして、自分自身も、理想の自分ではなく、
声の震える、今の自分で。
◇
僕が愛していたあなたは、誰だったの?
夕暮れの中で、その問いだけが、静かに残った。




