ep4 [The biggining of disaster]
”下層界”北部の要衝、”ノルスタロン”。
別名、”湖に浮かぶ街”とも呼ばれる、美しい街だ。
超巨大な死火山の跡に形成された湖、80平方kmに及ぶ広大さを誇る”ノルスカン湖”の中心、ノルスタロン島にある。
水面、雪による光の反射から建物を守るために白亜の建築物のみで構成され、代々の管理者による善政と徹底的な管理により、下層界とは思えない程にその街並みは美麗である。
故に観光地としての人気が高いのだが...。
要衝とされる理由は別である。
ノルスカン湖には大量の魚が住む、非常に良い漁場なのである。
我々の世界におけるマスに近い生態を持つ”シルペ”、ワカサギに近い”トート”等の淡水魚が主であるが、如何なる理由か流れ込む塩水により、所々で海水魚も採れる。それらが混じり合って形成された奇妙な生態系は人類にとっては非常に旨味のある...美味しいものだったのだ。文字通り。
しかし、それにはとある弊害も存在する。
豊富な海産物を欲しがったのは、なにも人間だけではなかったのである。
”冰雪隼”。氷雪の力を持ち、海中でも速度こそ鈍るが空の様に”飛べる”という空海にわたる広大な活動範囲を誇る渡り鳥型の魔物だ。
”隼”の名に反し、その気性は大人しい。非常に高速で飛ぶ習性こそあるモノの、自ら人間を襲った記録は決して多くない。
彼等の主食は魚である。
そして、深い雪に閉ざされる冬、年末に彼等は渡来する。美味しい魚を求めて。
氷の空。それはつまり、魚を求めての人と鳥の戦争である。
...............魚にとってはいい迷惑であろうが。
「....ひさしぶりだな、っと」
アッシュは乗っていた馬の背から降りる。
所謂サラブレット種の様な軽種馬ではなく、かといって遅い農耕馬でもない、遠距離への旅に向いた、どっちつかずの中量種。見た目上はハノーバーに近い特徴を持った”シーアール種”である。
それぞれ特化した種には及ばずとも、力強く、俊敏さも併せ持つ。特には持久力に優れ、悪路や寒さに強い。
冬の北部を旅するにはうってつけだ。
素材袋から人参を取り出して馬に食わせる。
もくもくと食べる彼はどことなく嬉しそうだ。
ギャーロックと名付けられた彼は、とある貸し馬を営む者自慢の馬だ。賢く、また非常に従順な名馬だ。
ただし、とんでもなく食いしん坊であるが。
一心不乱に次々取り出される人参を喰らう。
アッシュはその葦毛の背を苦笑しながら撫でた。
「食費だけは気を付けろ、ってのはマジだったな...」
結構詰めた筈の馬用の餌が底を尽きかけていた。
「相変わらず、いい景色だ」
今度は林檎に手を出したギャーロックから目を逸らし、前方へ向ける。
それは正に絶景。
銀。
混じりけの無い美麗な雪原。
蒼。
深い、広大なカルデラ湖が生み出す色。
白。
ノルスタロンの街が織りなす芸術的な町並み。
そして、此岸からノルスタロンへと延びる、石と鋼で造られた橋。長大な橋ながら趣向を凝らされ、この空間...自然と人工物を違和感なく、それこそ”橋渡し”している。
幾重にも折り重なる、人の手によるモノと自然の美。
”最も美しい言葉を使う”と謳われた詩人が、”ただただ美しい、それしか言えないことが口惜しい”と言い残したとされる、時たま別の階層からすら観光客が来るという絶景だ。
「語彙がなくても構わない、だっけ、まあ、これは誰も何も言えんよな」
ほう、と満足気に白く凍る息を吐き、傍らのギャーロックに向き直る。
「...お前はまあ、色気より食い気か」
まだ林檎を食べていた彼に苦笑する。
「それ、行くぞ」
置いてあった餌が無くなったタイミングで背に飛び乗る。
一瞬、「ええ...まだ食べたいなぁ」という顔をしたギャーロックであるが、彼もまたプロと言うことなのか、直ぐに表情を引き締めた。
「あと少しだ、頼むぞ」
ギャーロックを貸してくれた貸し馬屋は、その街とノルスタロンを結ぶ専用の馬屋である。馬屋の主人の息子がノルスタロンでも店を開いており、借りた馬はそちらに返すこともできる。借りた日数で金がとられるので、返しておけば滞在中に金がかからなくなるのである。
かぽかぽと、歩み足で橋を渡る。橋としてはいまだこの国で、上層なども含め一番の長さを誇るという”ファルケンノイス橋”ーー二番目はノルスタロンの反対側にある”ファルケンアルス橋”だーーの欄干は、長大だというのに精緻な彫刻が施されている。魔物などなどに橋を破壊されないための魔法刻印を兼ねた彫刻である。あくまで”兼ねた”というだけあって、その彫刻には違和感がない。動植物の彫刻に鋳溶かすかのように、ひっそりと紛れ込ませてある。上層界などには一般的な建築技法ではあるが、中層界までしか見たことのないアッシュにとって、その生涯で見たことのあるうち最も美しい建築物であった。
長い橋を渡るうち、何人かとすれ違う。すれ違う数としては街の規模に対して異常なほど少ない。
なぜならば、皆が街へと向かっているから。見れば対向する方向はまばらだが、アッシュの前後は馬だらけ。”氷の空”の時ノルスタロンは、冒険者、商人、物見遊山の観光客が入り乱れるカオスな街へと変わるのだ。
数十分と馬の背に揺られ、ようやくノルスタロンの街門へとたどり着く。
湖の中心にある街というだけあって、街を囲む壁は高くはない。しかし、代わりというべきか、大量の対空兵装、大量の魔導式連弩が備え付けてあった。魔導式連弩とは、魔法刻印により高速で装填される弩である。しかも、これは一矢ごとに炸裂し、”対空泡”と呼ばれる威力空間を作り出すことができる特別仕様。”氷の空”など、飛行する敵を追い払うための武装である。
ご丁寧に弩をすら白く塗ってあるそこへ、白い息を吐きながらアッシュとギャーロックは歩みを進める。朝日に照らされ光り輝くような街並みに、眩しそうにそろって目を細めた。
「あ、お久しぶりです~」
ふわ、と綿あめのように軽い声で話しかけてきたのは衛兵の一人だった。入場に並ぶ者たちを事前に軽く見て置こうと出てきたところで彼を見つけたのだろう。
「あー、サイア、久しぶり」
サイア、と呼ばれた彼女は、まるで羊のような乙女だった。ふわふわと広がるプラチナブロンドの髪は、この寒空でなお暖かそうで、眠そうな黒い目は相手に柔和な印象を植え付ける。栗のような印象すら与えるコミカルな口がそれをさらに引き立てる。
...のだが、首から下は少々違う。
でかい。
いろいろ、というか筋肉である。
全身鎧に、いくらか通気口を開けたかのようなデザインの鎧に身を包んでいる。その通気口から除く体は、さらにボディスーツに包まれてはいるが、それでもなお筋肉が主張する。”筋肉羊”。彼女を見るものは皆そう評価する。彼女の振るうツーハンドハンマーは城の解体すら容易である、などとまことしやかに語られるほどだ。
彼女が詰めている間は犯罪率が露骨に下がるとか、街一番の犯罪者すら彼女が視界に入ったとたん腹を出して降伏しただとか、マフィアの拠点を素手で引きちぎったとか、その伝説は枚挙にいとまがない。これで22歳、衛兵になってからまだ5年だというから恐ろしい。
...本人は筋骨隆々のその見た目が恥ずかしいようで、普段から基本は厚着である。大体一年中寒いといわれるノルスタロンの街において、それでも大分蒸れる全身鎧なんてものを、通気口まで開けて着込んでいるのもそれが理由だ。...そんな理由で全身鎧を普通に着込める女性という時点で異常であるが。
「ギルドの要請でしょ、ちょっとズルだけど入っていいよ」
そういいつつギャーロックを撫でる。見るもの(犯罪者とか)が見ると捕食者が餌を見つけたかのようであるが、当のギャーロックはどこ吹く風。彼はちゃんとわかっている。動物には優しい羊さんなのだ。
ええ、と思いはしたが、アッシュは引きずられるように門へと向かう。というより眼下のギャーロックが嬉々としてサイアについて行ってしまうのでどうしようもない。
衛兵と知り合いだと街に早く入れる、それは下層界共通の格言である。意味的には「人付き合いは大事」程度のものだが、文字通りであることも確か。故にこの行為は実は横紙破りではあっても違反ではなかったりする。とはいえ妬まれるは妬まれるもので、しかも少なくとも見た目は美人に連れられるとあれば、じっとりとした視線を向けられるのは避けられない。
「いいのかよ、”絶対正義”のサイアだろ?」
サイアは誇張抜きの英雄である。街の衛兵ながら、たった3年で名を轟かせ、今では街の防衛計画にすら口を出せる。領主すらも無視ができない存在。それが彼女なのである。
彼女の伝説には骨董無形なものも多い。鉄をちぎりとっただとか、家を持ち上げたとか、見上げるほどの岩塊で水切りをしただとか。しかし恐ろしいことに、それらはほとんどが事実である。
超能力、”体現するは極限の力”。
ごく少数の人間が持って生まれる超常の力。そのうちの一つ。
彼女は生まれつき、一切の魔力を持たない。ほとんどの人間が(長ったらしい詠唱は要るが)発動できる生活魔法どころか、あらゆる魔道具を起動すらできない。が、代わりに人ではありえない...いや、通常生物では達しえない力を発揮する。魔道具を生活の基礎とする下層界にしてその縛りは厳しいものだが、その恩恵は計り知れない。単なる貧民の出身ながら魔道具など生活の助けをしてくれる小間使いを与えられるほどである。
その能力は、粗野な人物であれば、単なる脅威である。彼女は知る由もないことだが、ともすれば、危険分子として”処理”されていた可能性すらあった。しかし、彼女は高潔であった。貧民の、それも片親の家に生まれながら、その心は正義であった。
”絶対正義”。彼女は街の犯罪を見逃さない。文字通り一跳びで現場に駆け付け、有り余るパワーで解決する、そんなおとぎ話のようなヒーロー。それが彼女だ。
「ま、ちょおっとくらいは、ね。おてんとさまも、このくらいは見逃してくれるよ」
ふわふわと、どこからか取り出した甘味を頬張りながら彼女は笑う。差し出されるそれ、キャラメルを、アッシュも一緒になって頬張った。
「むぐ...はんかへはいはほれ」
「私サイズだからねぇ」
補足すると、サイアの身長は210cmだ。口も大きい。
「むぐむぐ」
口の中に貼り付くキャラメルと闘いながら橋を進む。長蛇の列を横目に、二人と一頭は衛兵の詰め所を通りがかる。
「あー、やー、みんな~」
間延びしたサイアの声に、衛兵たちが振り返る。
アッシュの顔を見て誰だ、という顔をしたものもいたが、何人かは察しの付いた顔をした。
「孤高の鋼さんか、その節はどうも」
「もぐもぐごっくん...ああっと、気にするな...ええーと、名前はぶっちゃけ覚えてない」
「いや、顔を合わせたわけじゃないから当然当然。あんたに助けられた奴らはそこそこいるからね」
そう言う衛兵の一人に、アッシュは照れ臭そうに笑い返した。
「観光に来たついでに鮫擬きを狩っただけさ。空飛ぶ鮫とかいう土産話もできたしな」
こともなげに言う彼に、ピンと来ていなかった様子のほかの衛兵も驚いた顔をする。
「な、暴風鮫を一人で殺ったっていう討伐者か!?」
「いや、ありゃ単なる噂で...」
「でも隊長があんなにべったり...」
ざわつく詰め所。収集がつかなくなってしまい、アッシュが困惑していると、サイアが前に出た。
「ってわけで、私はアッシュとデートしてくるからあとよろしく」
ざわつきは喧噪に変わった。
収めてくれると思っていたアッシュの困惑は深くなる。
何かしら言い募る衛兵たちに、「いーからいーから」などと実にいい笑顔で応じるサイアを、理解を放棄したぬぼけっとした顔で見つめていると、何を思ったかぐっ、っと親指を立てた。
「...というわけでいこっか~」
「いやいやどういうわけでだよ」
ずりずりっと引きずられるように詰め所の奥に連行されつつ、アッシュは疑問の声を上げる。
「いいじゃん、”前”のお礼もまだしてないんだし」
”前”とは、体重だけは力で何とかできず、暴風により空を舞っていた彼女をアッシュが助け出した時のことである。
「いやいや、それは別にいいって」
「いいじゃん、せっかくだしさ~」
力技の交渉。有無を言わせぬというやつだ。”前”の時はそうそうに街から逃がしてしまったサイアである。到底逃がすつもりなどなかった。
「...ギャーロックを返...」
「あ、あのお馬さんは部下に返しに行かせたよ、お金は私が出すからだいじょーぶ」
「さいですか...あ、お金は払います...」
ヒーローからは逃げられない!
どうにかギャーロックの貸料を渡し、逃げられなかった彼はとある一室に引きずり込まれた。
「...なんで更衣室に」
「だって~」
逃がさない、という意思表示である。
なんと彼女はそのままがっちゃがっちゃと鎧を脱ぎ捨てていく。
ずしんがしんと金属の塊が床に落着するたびに、黒い薄布に包まれた、筋肉が盛り上がりながらも女性らしい柔らかさを失っていない身体が露わとなる。
むわ、と冬場の極寒の中でさえ、数歩離れたアッシュにすら届く熱気...蒸れた雌の匂いが立ち込める。
「おいおい...」
鈍感で女性の扱いが苦手、さらには恋愛だのに興味が薄い彼であっても男であることは間違いがない。少しばかり頬を染め、黒い布地から透ける肌色から目をそらす。
共用の更衣室だとすれば衛兵どもはよく平気だな、と考える。その答えはといえば、出勤時には彼女より先に着替えを済ませ、退勤時には彼女より遅く着替えているというだけなのだが。
本人は「みんな勤勉だなあ」などと呑気に考えている。自分の体に性的な魅力がないと思い込んでいる彼女はむしろ薄着の時のほうが無頓着なのだった。
申し訳程度に厚くなっている胸のあたり、透けたような気がする桃色を意識から削除していると、ぽんと肩を叩かれた。
「いきましょー」
近づかれたことにより、アッシュの鼻腔に彼女の汗...林檎の様に酸っぱいようで砂糖菓子の様に甘ったるい...総括すれば林檎飴のような匂いが、先陣を切って突入する。後から続くのは花の様な香水の香り、女性そのものの蜜の匂い。
さすがの彼も赤面する。が、当の本人は気にも留めない。”こちら”でいうロシアの民族衣装に近い、もこもことした白と青の毛皮のコートを身に纏い、むんぎゅりとアッシュの腕を掻き抱く。開いた前の隙間から、そこだけは筋肉ではない感触がする。
ええい、この女は自覚がないのか、とややブーメランなことを考えているアッシュをよそに、サイアはその怪力でアッシュをエスコート(強制)していく。
そのまま残した同僚を忘れたかのように、詰め所の裏口から街へと繰り出した。
「...わお、久々にもほどがあるとは言え...やっぱすごいな、この街は」
「でしょ、私の誇りの街だよ」
むんむんとした薫香に、直火で突っ込まれる体温、じっとりとした水気。まとわりつくそれらを冷たい風が洗い流していく。ちょっと邪ではあったがアッシュは街に感謝した。
「いや、ほんとに。美しすぎてほめる言葉も思いつかない」
なのでちょっとオーバーに、例の詩人を引用して褒めて置いた。
「あはは、有名はフレーズだね~。”前”はそんなに滞在してなかったみたいだし、地元民がこの街を案内してしんぜよー」
えへへ、と見た目以上に幼い顔で笑い、彼女はぐいぐいと腕を引っ張った。怪力乙女である彼女のぐいぐいは熊程度なら簡単にすっころぶ馬力がある...が、力のある相手は慣れているアッシュにとって受け流すのは簡単だ。
「...ま、じゃあお願いしようかね」
結論から言って、彼女はガイドとしても完璧だった。
流石、普段から街を駆け回っているというだけはあるというか、街の隅々まで彼女は把握していた。
有名な観光地はもちろんだが。街の時計塔と湖を一望できる、単なる住宅街の一角。実はとても美味いのだが看板すら出していないし店主が仮面の謎のスノルチェラ(ボルシチのような料理)専門店、ポーションが安く手に入る店に街はずれの忘れ去られた噴水などなど、穴場も網羅していた。
一日で絶対に回りきる!という気概を感じるその手腕に、つらつらと宣伝文句がでてくる弁舌に、アッシュももはや舌を巻くしかない。
そして日が沈んだすぐあと。最後、と言われ、彼らは時計塔を訪れていた。
「ここ、登れることは実はあんまり知られてないんだ」
時計塔。それは各街には必ずある設備ながら、少なくとも下層界の人間はあまり近づかない施設である。
時計は、下層界では絶対に作られないもの。最低でも中層以上でしか制作されない。故に、壊すことを恐れる彼らは基本的に近づかない。街によっては禁じられてもいる。しかしこのノルスタロンの時計塔は、機構部に入ることは禁じられているものの、展望デッキのような部分が設えられ、登ることが可能であった。
かんかんと、下層では珍しい金属製の螺旋階段を上る。急角度故に下からサイアの尻を見上げる格好だが、防寒使用のズボンがそのシルエットを覆い隠してくれていた。
「ちょっと嫌なことがあったときは絶対にここにくるの」
はふはふ、と屋台で買った肉まんとピロシキのあいの子のようなもの、ポルコンを食べながら、つらつらと塔についての解説が入る。なんでもこの時計塔は灯台を兼ねており、ゆえに湖岸に近くも島の中心部にある小山に負けない程度には高いのだと。
「...ずっと階段か」
「あ、ううん、もうちょっとで...あったあった」
階段はそこで踊り場となっており、そのまま上にも続いていたが...そこには昇降機がついていた。
「なんでも、管理しやすいようにって機械室は根本にあるんだって。でも上まで上がるにはエレベーターは必須だから...」
「中腹の変なところから出してる、と」
うん、と頷くサイアに、よくそんなことまで知ってるな、と思いつつ、手招きの通りエレベーターに乗り込む。
があ、と少し古ぼけた音とともにエレベーターが動き出す。アッシュも凄腕の討伐者、それなりに筋肉は持っている、が...狭い密室内、サイアと並べると...圧迫されるような錯覚すら覚えた。
「...」
「...あー、ごめん、狭いかな」
いや、全然と返すも、まあ狭いのは確かだった。分厚い毛皮を二人分隔ててさえ、筋肉のむちぃ、むちぃ、とした波動が反響しそうなくらいには。
かこーん、と少々間の抜けた鐘とともにエレベーターが止まり、戸が開く。思わずぷはあ、と言いたくなるのをアッシュは何とか耐えきった。
冷たい風を頬に受けながら、サイアの案内どおり、アッシュは展望台の端へと歩みを進める。
「うわぁ...」
思わず、小さい子供のようなため息を漏らす。
それは、あたり一面の宝石だった。
空は星空。夜は案外晴れやすいというノルスタロンの、冷たく澄んだ空に満天の星が瞬いている。
眼下も星。街明かりが、蝋燭やランタンで照らされた街が、ちょうど夜空に浮かぶ星の鏡写しが如く。
奥へと視線を進めれば、湖が。暗く、黒い穴の様ではあるが、影のような、空気と水の境界が波打ち、そこが湖だと主張する。さらに奥の山々は、雪が月明りを反射して、ほんのかすかに輪郭を紫色に浮かび上がらせる。
王国には美しいものを女性に例える文化があった。
宝石を貴婦人のような、とか、音楽をまるで快活な町娘の様、とか。
その時、アッシュの脳裏によぎった言葉は、「傾国」だった。誰もがそばに置きたいと思うような、万人の男が一斉に振り向いてしまうような。触れればどこまでも、どこまでも魅入られるような。そんな”美”。
何時間でも見ていられる。本当にそう思ったのだ。
「どう?」
「最高」
一言、端的。だが感情が滲んでいる。アッシュのそんな感想に、サイアは満足気に頷いた。
そして...
「もしアッシュとまた会えたら、ぜったいここには連れてくるって決めてたんだ」
ふと、彼女の雰囲気が変わる。
優し気な、綿あめのような雰囲気から、蠱惑的な...トロリとした蜂蜜のような。
「また、来るとは限らなかったってのに、よく覚えてたもんだ」
「だって...そりゃそうだよ」
まったく気づきもしないアッシュに、ぷくりと頬を膨らませる。
たまたま選定していたお気に入りのコート。精一杯の女のらしいあれこれ。こっそりとデート中にそろえたどれそれ。すべてが彼女を後押ししていた。
「...あれ」
しかし、その勢いは、乙女の勢いは、アッシュによって遮られる。
「...?」
なに、と少し恨みがましい視線をアッシュに向ける。
が、続いた発言にはっとした。
「”氷の空”が近づいているにしては湖が静かじゃないか?」
「そう、いえば...」
”氷の空”の予測は王国の上層部から降りてくる。そしてその予測はほぼ正確だ。だが、開始日より前に、少しくらいは鳥たちはやってくる。少しとは言っても数千から万の一部。湖はそれなりに騒がしくなるはず。なのに。
湖は音を立てない。せいぜいがさざ波の音。
その話を聞き知っている、それだけだったアッシュにもわかる違和感。
異常だった。
その時。
かあん、かあん、と音がする。
それは鐘の音。この街の全てを熟知する彼女はすぐさま察知する。
各地に設置された鐘は場所ごとに音色が、そして報告する内容ごとに鳴らし方が決まっている。この音、この内容は...。
北門、緊急事態!
「え、おい待て!」
ためらいなくサイアは展望台から飛び降りた。
「おいっ!...くそ、『風よ集え・受け止めろ』ーー<空気緩衝>!」
風の魔法。適正はないが、扱えるギリギリも魔法にて、アッシュは自分も飛び降りつつ、二人の勢いを殺す。
素で飛び降りてもスーパーな肉体を持つサイアにとっては階段を一段とばすのとそうは変わらなかったが、それはそれとして気遣いを喜ぶ。
とはいえ今はそんな場合ではない。柔らかく着地すると同時に、北門へと駆け出した。
「うお、はっや...」
デート相手を置き去りにして。




