バニラを嗅いだ後
祭りの約束の時間に一度、電話が鳴った。そして数十分おきに何通かのメッセージが届いて…しばらくして役目を終えたかのように静かになる携帯。
外から花火の上がる音が聞こえる。私の部屋からは簡素な住宅街に阻まれて、花火も景色も何も見えないが。
しかし、全てがどうでもいい。だって、私には親友がいる。昔からずっと一緒に過ごしていた大切な友人が。
里帆に彼氏ができた時、胸がざわめいた。親友が取られる、と思った。取られるなんて、まるで子供にとってのおもちゃのようだ。なんて幼稚な表現。
親友がいなくなるのが嫌だった。けれどその心配も不安も取り越し苦労だったようだ。
だって里帆は、いま私のそばにいる。
私の部屋で過ごすのは久しぶりだったと思う。いつもは里帆の本に囲まれた部屋で過ごしていたから。私の部屋は物があまりなく、綺麗で片付いてはいるものの、つまらない部屋だ。本棚だって最低限の参考書と子供の頃好きだった漫画くらいしかない。里帆は本棚の端から分厚い冊子を取り出す。
「小学校の頃のアルバム?」
「うん、懐かしいね」
そう笑う里帆の頬は涙で濡れた跡があるが、先ほどよりも幾分か表情が明るい。良かった、と胸を撫で下ろす。胸の奥底でちくちくとした痛みが多少あったが、気にしないふりをした。
パラパラとめくられるアルバム写真。里帆はあるページに目をとめた。
「あんまり変わってないね、私たち」
覗き込むと小学生の頃の私と里帆が写る運動会の写真が貼られていた。確かに身長こそ違うが、顔立ちは変わってない。私はまるで男子のようにボーイッシュで、里帆はおさげ姿だ。
「この時、香はリレーのアンカーだったでしょ?他の組の男子を抜かした時、みんな歓声をあげてたんだよ」
何故か里帆が自慢げに話す。親友の言う通り、当時リレーのアンカーとして走った記憶はあるが。
「まあ、私足速かったから」
「ふふ、その日から何人かの女子の見る目が変わってさ。みーんな香と話してる時顔真っ赤になってたよ」
知らなかった。小学生は足が速いとモテる、と誰かから聞いたことはあったが、どうやら私もその類の子供だったらしい。
「昔から香は女子にモテるタイプだったよねえ」
今日の里帆はやけに私の名前を呼ぶ。しかも若干の甘さが含まれているのは気のせいだろうか。
里帆も、私も可笑しくなってるのかもしれない。バニラの甘さが漂う、この小さく閉鎖的な空間で。
少し上目遣いでこちらを見る里帆。思わず私は視線を逸らした。
「女子にモテても…」
「ふふ、そうだよねえ。香はあんまり興味ないもんね」
何故だか分からないが機嫌が良さそうだ。昔話をして、少し気が紛れたのかもしれない。
「香は髪は伸ばさないの?ずっと変わらないよね」
次は髪に興味が向いたらしい。里帆は私の短い襟足にそっと触れた。白く透き通る細い指が私の短い髪をパラパラと流す。
「これが楽なの。里帆こそ、ずっとおさげじゃん」
「私も慣れたら1番楽なんだよね、おさげ。でも短い方が髪を乾かすのは楽で羨ましいかも。私も香みたいに切ってみようかな?」
こちらを覗き込むように首を傾げる少女。本気で髪をきりたいなんて思ってもないくせに。
「ふーん、じゃあ私がきってあげようか?」
ニヤリと笑い、少し大袈裟にハサミを持つようなポーズをした。里帆は笑う。
「えー、でも香なら任せられるかも。だって…」
絶妙に嫌なタイミングで里帆は会話を切り上げた。何を言いかけたのだろうか、聞きたかったが、それも叶わなかった。里帆がこちらに向き直って微笑んだからだ。優しくて甘い笑みに思わず息を呑んでしまう。
「ねえ、香。香は、恋人、なんて作らないでね」
「…言われなくても彼氏なんて別に欲しくないよ」
私の答えに里帆はまたニコリと笑う。反対に、私はもう笑うことはできなくなった。悲しいことに里帆の言いたいことが分かってしまったからだ。何年親友をやっていると思ってるのだ。
「約束してね」
しかし、私の考えが当たってるとするならば。彼女はどれだけ残酷なことを言ってるのか自覚しているのだろうか。何故、笑顔でそんなことが言えるのだろう。私には理解できなかった。
遠くで花火があがる音がした。里帆の言葉は消えてしまいそうな囁き声だったが、私の耳に今でもはっきりと残る。
花火の音が消えた後も、里帆の言葉は私の中でぐるぐると駆け回った。
彼女はとっくに気づいているのだ。私の気持ちを。知った上で、制止しているのだ。なんて残酷で、ひどい人だ。
それでも私は、このバニラの匂いから離れることなんてできない。情けなくて、みっともない、愚かな人間だ。