真昼の闇
七月の陽光は、もはや光というよりは、無数の熱い針となって、容赦なく肌を刺してくる。私は、この狂ったような暑さと、頭の中で鳴り響く蝉時雨から逃れるように、古びた神社の境内へと迷い込んだ。古い木々が作る木陰だけが、この世界で唯一、神の慈悲が残された場所のように思えた。
私は、手水舎の縁に腰を下ろし、汗を拭うことも忘れ、ただ茫然と、光と影が作り出すまだら模様の地面を眺めていた。何もかもが、陽炎の向こうで揺らめいて、現実感を失っている。私の心の中と同じように。
その時、一つの「黒」が、私の視界に入ってきた。
それは、拝殿の縁の下、最も深い影の闇の中から、まるで滲み出すようにして現れた。そして、強烈な日光が照りつける白砂利の上へと、音もなく歩み出た。
その姿は、異様だった。
あまりに黒く、深い黒だった。それは、夜の闇が、一片だけ、昼の世界に帰るのを忘れ、取り残されてしまったかのようであった。夏の強烈な光は、それに当たると、反射することなく、ただ、吸い込まれて消えてゆく。その輪郭だけが、陽炎の中で、黒い炎のように揺らめいていた。
それは、白砂利の真ん中で、ぴたり、と動きを止めた。そして、私の方へと顔を向けた。
その眼は、溶かした黄金でできていた。
漆黒の貌の中に浮かぶ、二つの小さな太陽。その瞳は、私という人間を、値踏みするでもなく、警戒するでもなく、ただ、一つの「風景」として、映しているだけだった。そこには、私が日々苛まれている、焦燥も、憂鬱も、自己憐憫も、何一つない。ただ、在る、という、絶対的な肯定だけがあった。
私は、その黄金の眼光に射竦められた。蝉の声が、遠のいてゆく。時間の感覚が、麻痺してゆく。この黒い獣は、私という存在の、内なる空虚さを、すべて見抜いているのではないか。お前の抱える闇など、私のこの黒さに比べれば、なんと浅はかで、取るに足らないものか、と。そう、無言のうちに、語りかけてくるようだった。
やがて、それは、ふい、と私から視線を外した。そして、何事もなかったかのように、再び歩き出した。向かう先は、私がいるのとは反対側にある、大きな木の根元が作り出す、もう一つの深い影。
その歩みは、まるで、影から影へと、闇が移動してゆくようだった。
そして、その黒い身体が、木の根元の影に差し掛かった、まさにその瞬間。
「黒」は、消えた。
溶けるように、蒸発するように。まるで、初めからそこには何もいなかったかのように。先程まで、あれほど確かな存在感を放っていた黒い塊は、影の中へと完全に吸い込まれ、跡形もなくなってしまったのだ。
私は、瞬きも忘れ、その光景を見つめていた。幻覚だったのだろうか。この猛烈な暑さが見せた、一瞬の幻だったのか。
私は、ゆっくりと立ち上がり、それが消えた影の縁まで、おぼつかない足取りで歩いていった。影の内側は、外の光が嘘のような、ひんやりとした闇が広がっているだけだった。もちろん、「黒」の姿はない。
私は、その影と、光が作り出す、くっきりとした境界線を、ただ、じっと見下ろした。
あれは、影そのものだったのかもしれない。影が、束の間、猫という形を借りて、私の前に現れただけなのだ。そして、飽きたから、また元の影へと帰っていった。
そう思うと、背筋に、夏の暑さとは質の違う、冷たいものが走った。
私は、一体、何を見たのだろう。
確かなことは、何一つない。しかし、私の網膜には、今もまだ、あの漆黒の獣と、その中に燃える二つの黄金の眼が、焼き付いて離れなかった。
私は、その影に背を向け、再び、陽光の降り注ぐ、眩暈のするような世界へと、一歩を踏み出した。