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《空気に似たもの》

作者: 岸清彬

一 はじめの輪郭


川沿いの並木道を歩いていたとき、私はふと思った。

いま、自分が感じているこの感覚は、名前を持たないのではないかと。


風が静かで、葉は揺れていなかった。

空は低く、光が均質に広がっていた。時間だけが、ほとんど音を立てずに進んでいる。

私は何かを思い出しかけていた。


それが何だったのかを言おうとすると、すぐに遠ざかった。


「こういうときは、黙っていた方がいい」


かつて誰かにそう言われた気がした。



二 声のまえ


私には、年上の従姉がいた。美代子さんという。

彼女はよく、言葉にしないものを見つけるのがうまかった。


「言葉にならないのって、面白いよね」と彼女はよく言った。


私は幼くて、何のことかわからなかった。


けれど、美代子さんがふと立ち止まり、海に向かって黙っているとき、

その背中から、何か大切なことがにじみ出ている気がした。


ある日、彼女が言った。


「ねえ、“せつない”って言葉、ほんとはもっと別の名前があったんだと思う」


「どんな名前?」


「ううん、それが言えたら、もう違うものになっちゃうから」



三 失われる名前たち


大学で言語学を学びはじめたとき、私はむしろ“言えること”に興味があった。

定義できるもの、記述できるもの、構造化できるもの。


けれど、ページを重ねるごとに、その向こうにある“言えないもの”が気になっていった。


たとえば、「雨が降る前の空気」とか、「名前を呼ばれる前の一瞬」とか。

それらには、どの言語も名前をつけていない気がした。


もしかすると、人が生まれる前から、言語の枠の外にある感覚だったのかもしれない。



四 手紙の行間


あるとき、美代子さんから一通の手紙が届いた。

封筒の中には、たった一枚の白紙。


裏も表も、何も書かれていなかった。


けれど、私はそれを読み終えた気がした。

正確には、「読んだ」のではなく、「感じ取った」。


彼女は何かを伝えようとしたのではなく、

ただ、手紙という形式だけを差し出したのかもしれなかった。


そこにあったのは、伝えられなさそのものだった。



五 夢における言葉


夢の中で、私はしばしば話す。

けれど、目覚めると、言葉のかたちは思い出せない。

語順も、文法も、記号も違っていた気がする。


あれは、世界の一部が“言葉のようにふるまっていた”だけだったのだろうか。


あるとき、夢の中でこう言われた。


「君の使っている言葉は、翻訳されたものだよ。

 本当の意味は、もっと静かなところにある」



六 言語の影


私は、古い言語の研究をしている教授を訪ねたことがある。


その人は、十年以上前から人前ではほとんど話さなくなっていた。

だが、手紙の筆跡は細く、美しかった。


彼は小さなノートを一冊見せてくれた。そこには文字がひとつも書かれていなかった。


「これは、書かれなかった辞書です」と彼は言った。


「ある種の感情には、言葉を与えてはいけない。

 名前を与えた瞬間に、それは他の何かになってしまう。

 これは、そういう言葉たちの棲みかです」



七 声なき図書館


ある旅先で、不思議な図書館に入った。

中には、本が並んでいたが、どれも白紙だった。


それでも、人は静かに本を開き、頁をめくっていた。


私は司書に尋ねた。


「何を読んでいるのですか?」


司書はこう言った。


「ここでは、読まれることで意味が生まれます。

 そして、その意味は、声に出した瞬間、消えてしまうのです」



八 夜の水面


美代子さんが亡くなったという連絡は、ある春の終わりに届いた。

彼女の部屋を整理していたら、ノートが一冊見つかった。


そこには、短い詩がいくつか書かれていた。

けれど、それらは途中で途切れていた。

意図的にそうされたように見えた。


たとえば、こういう詩があった。


風の音が ——

覚えていた ——

あのとき、あなたは


そして、その下には何も書かれていなかった。



九 触れられないもの


言葉にすることで、手の中に入ったように思えるものがある。

けれど、それは「それ」ではない。


“やさしさ”も、“痛み”も、“懐かしさ”も、

言葉にした瞬間、手のひらからすり抜けて、別のものになる。


だから私は、語るのをやめるときがある。


そのかわりに、黙って見ている。

音のない映画を観るように。



十 空気に似たもの


この世界には、名づけられていないけれど、確かにある感覚がいくつもある。


誰かの背中を見送る瞬間。

自転車のブレーキがきしむ音。

朝焼けの中で見つけた小さな水たまり。


それらは、言語に触れられると、もう少し粗いものになってしまう。


でも、もし誰かが、それを言おうとせず、ただ差し出すなら。

私たちは、それを「知っている」と思えるのかもしれない。


まるで、目の前を通った風のように。


言葉にしないことは、無視ではない。

それは、ひとつの深い配慮なのだと思う。




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