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文学の衰退と未来 活字文化の終焉 はたして、文学は生き残れるのであろうか?(極・私的文学論)

作者: 舜風人

私がよく行く古書店がある。というか

ただしくは「かってはあった」

つまり今はもうない。


人口15万人という地方都市の中の古書店である。

しかしいつ行っても、客は私一人。


たまーに、もう一人客が入って来るくらいに寂れている。

いつつぶれるのではないかと、不安になりながら週1回来店している私であった。


その市にはもう一軒大規模なbook off

という中古書店がある。ここは駐車場50台収容の大型店である。いつ行っても駐車場はほぼ満杯状態。

にぎわっている。漫画本、DVD、 CD、 ゲームソフト、ゲーム機本体、何でも売っている。

しかし残念ながらここには私の求める古い小説本はない。


古びたいわゆる古本屋は町から消えつつある。

しかしそこにはふるいドイツロマン派の邦訳本やら

絶版岩波文庫やらが眠っているのだ。


誰にも相手にもされずにである。


まあ、確かにもう、こうした古書の時代は終わったのであろう。


思いかえせば


昭和40年代出版界は活況を呈していた。

古典文学全集や外国の文学全集が各出版社から相次いで出版されて

それが初版品切れになるほど売れていたのである。


今そもそも、こうした文学全集の企画すらありえないという時代である。

そんなもの企画したって売れるはずがない。

「世界文学全集」なんて、誰も買う人もいない。


また、その昔、百科事典がステータスシンボルだったことがあった。

大部な百科事典を応接室に置くことがはやった?のだ

今、百科辞典なんてそんなもの買う人などあり得ない時代である。


ネットで調べればライブな情報が一発で出てくるのである。

百科辞典なんてまどろっこしいものは無用の長物でしかない。

文学書もいまや漫画に押されてしまってみる影もない。


ゲーテのファウスト、フローベルのボバリー夫人、

ディケンズの二都物語。ドストエフスキーの罪と罰

バルザックの谷間の百合、モームの人間の絆

ブロンテのジェーンエア、メルヴィルの白鯨

ダンテの神曲、ボッカチオのデカメロン


などなどのお決まりの世界文学全集が

昭和40年代までは結構それなり売れていたのである、


しかしそれはどんどん下降線をたどり、いまやそんな文学全集なんて

全く売れもしない状態である。

活字文化の衰退、


確かにびっしり並んだ文字だけから想像を膨らませるしかない、という文学という表現形式は

もう時代に合わないのかもしれない。


今ここに、昭和40年代の発行された「世界文学全集」の「月報」がある。

月報とはその文学全集が逐次発行されていく過程で本に挟み込まれる

発行計画やら案内を載せたパンフレットである。

それから引用してみよう。


「第一巻は発売と同時に品切れという書店が多く重版を待つ間わたくしどものデスク付近にも

1冊の余裕もないしまつとなりました。

この全集にご支援を寄せてくださるお声の大きさに力を得て

鋭意、続巻の仕事に心を配っております」



今こんなことは全くありえない話である。

夢のような話である。文学全集が発売と同時に完売、しかも続巻を待つ人続出なんて。

時代は変わった、今出版社は構造不況業種ですらあるのが実態だ。


昭和40年代まで、書物、、

つまり読書は(文学、随筆、詩、歴史書、哲学書、)は、

娯楽や、エンターテインメントや、趣味や、研究や、などなどとして、

たしなむべきものの王道だったのだ。


出版は花盛りで、文学全集、思想書全集、個人全集、詩全集、などが目白押しに出版されてしかも大人気。

完売という様相だった。


あれから60年。

今、出版社は軒並み青息吐息。本は漫画本以外はまったく売れない。

世界文学全集、日本文学全集などが完売した60年前とは雲泥の差。月とすっぽん、ちょうちんと釣鐘。


今そんなモノ出す出版社すらいない。

何故なら文学全集への需要が皆無だからだ。

今、世界の名作文学なんて読む人はまったく居ないといっても良いくらいだろう。


ゲーテ、バルザック、ディケンズ、恐らく誰も読まないだろう?。


何故こんなことになってしまったのか?


漫画、テレビ、そしてアニメ、ゲームがいまや室内での趣味や娯楽の王道になってしまったことが原因として挙げられるだろうか。


昔、18世紀~19世紀、

室内での趣味といったら、読書くらいしかありえなかった。

テレビもないし

映画もないし

ゲームもないし

たまに芝居の興行が来れば見るくらいでした

だから

文学書、小説を読むというのは当時、最大の室内娯楽だった。



しかし時代はめまぐるしく変わっていく。

そして昭和40年というのが読書の読書人の頂点だった。(とおもう)

そこを頂点にそれからは一気に読書は下降の一途をたどることになる。


10年前、古本屋には店頭に、昭和40年代に発行された文学全集が山のように詰まれて、

3冊100円で売られていたのを見た。

私の子供の頃、本はまさにお宝、財産だった。古本屋には、本が大事に並べられて、一冊ごとに、高価な値段が付けられて売られていたのだ。


このように、文学全集本が紙くず同然に叩き売られているなんて悪夢としか思えないのである。


昔昭和40年代、私は大学生で神田の古本屋街を歩いて古本を物色するのが趣味?だった。


その頃、岩波文庫の絶版本がなんと一冊1500円で売られていたのを良く覚えている。

戦前の古めかしい岩波文庫、

フィヒテの『全知識学の基礎』という岩波文庫など、

上下2冊で3,500円だった。


フッサールの「純粋現象学あるいは現象学的哲学考案」というのは、2冊で4000えんだった。


今から40年前のこの値段である。今でならさしずめ、15000円という感じだろうか?

こんな場か高い値段がついてしかも結構売れていたのである。

つまり読書人の層がまだ厚かったということだろうか?


今このような岩波絶版文庫は、5年ほど前に、、業者に聞いたら、

値段がつかない、したがって引き取れませんといわれてしまった。

資源ごみの日に結わってお出しくださいとまで言われてしまったのである。


ショックというか情けないというか。

読書、本、古本屋、これらは今もう、崩壊状態なのだということが良く分かった次第であった。


私の岩波絶版文庫コレクションは、資源ごみ(古紙)に過ぎないとまで言われたのだった。


ああ、なんと情けないことだろう。がっかりしてしまって数日は飯がまずかったことではあった。


本がお宝で財産であった時代はもう、過去のこと。


今、豪華な昭和40年代の文学全集も紙くずの値段しかつかないというのだ。


一体どうしてしまったのか?


もう、活字文化も、読書人という言葉すら死語だというのか?


そして私が集めた3000冊の古本たちも、値段がつかず、引き取れないという。


資源ごみの日に古紙としてお出しくださいというのだ、


これらの本を買いあつめるのには、39年くらいかかって、恐らくトータルで数百万円?は使っているだろう。


それが60年たってみれば、紙くずだというのだ。


60年前のあの、岩波絶版文庫の馬鹿高い値段はなんだったのか?


時代は変わる。それは分かっているつもりだ。

しかし本までが、こんな、暴落して、紙くず同然になってしまうとは。

もう世も末だ、

がっかりして言葉もない。


私の38年かけて集めた、この愛すべき本をゴミとして束ねて、古紙回収日に出せというのか?


それはあまりにも残酷な刑罰でしかあるまい。


おもえば、、、、世界文学全集、全巻100冊、というのが昭和時代には



どこの出版社からも盛んに刊行されていて


私たちはみんな?それに読みふけったものでしたね。



ゲーテとかシェークスピアとかディケンズとかモームとかDHロレンスとか


ドストエフスキーとかトルストイとかメルヴィルとか、ヘミングウエイとか


エミリーブロンテとか、バルザックとかおなじみの?


いわゆる文豪たちの名作が網羅された文学全集ですね。


これは読むほかにも?



部屋のインテリア?としての意味もあったようですね?


洋間のお飾り?として求められたという風潮もあったようです。


あるいは当時は平凡社の百科事典もそうでした。


この数十冊の大部な百科事典はまさに洋間のインテリアでしたね?


今こうした百科事典が刊行されることも、、、買うことも、、、読むことも、、、


ありませんよね?


世界文学全集も全く同様でしょう。



まあそれはさておき、、、



私も一角の文学少年で


ゲーテの「ファウスト」とか「ウイルヘルムマイスターの修行時代」とか


読んだものでした。



バルザックの「谷間の百合」は純愛物でした。


「武器よさらば」「たがために鐘は鳴る」など恋愛小説としても面白かったですよね。


「嵐が丘」は狂恋もので、胸が騒ぎましたし



「ジェーンエア」はまさにゴシック小説で


陰鬱な古城が圧倒的でした。


「カラマゾフの兄弟」は神と悪と人間の壮大なシンフォニーでしたし。



「戦争と平和」は歴史小説の白眉でした



何しろ昭和時代には


インターネットも


テレビゲームもありませんでしたし



ビデオだってなかったんです。


たしかビデオが普及したのは1980年代中盤ですよね。


といっても誰もがビデオが買えたわけでもなし、


何しろビデオデッキも高かったしビデオテープ版の映画もとても高かったのです、


たとえば今私の手元に「天井桟敷の人々」のセルビデオがあるのですが


値段は当時は、なんと24800円ですよ。


こんなに高価だったのです。


というわけで、、


昭和時代はまだまだ


安価な?娯楽の読書が主流だったんですね。


そういうわけで


出版各社は競って


需要のある、文学全集を刊行したのです、



そして結構売れたのですね。



今もしも世界文学全集を出したらどうなるか?


はっきり言って全く売れないです。


本全体が売れない時代ですから


まして全く需要の無い文学全集など売れるはずもないです。


たま~に売れるのは


村上春樹の新刊本だけという体たらくです。


今いくらでもほかに娯楽はありますからね。


DVD映画だって1枚100円でリサイクルショップで買えるし、


ネットゲーム


ネット動画


わざわざ活字の羅列の本など読む気にならないでしょう。



読書というのは読者の想像力を必須とします。


だってそこにあるのは記号としての活字だけです。


その記号(文字)に意味を見出し、想像して、小説世界を映像化しておのれの脳内に構築しなければ



始まらないという結構「体力」「気力」「想像力」?のいる作業だからです。


そこにあるのはただの記号(活字)ですからね

それが知らない外国語だったら

ちんぷんかんぷんですよ

読めてなんぼ

分かってなんぼ

だからですよ


ところが映像、動画とか、ネットゲームはすでに映像がすでにそこにあるのです。


自分で想像力を膨らませて脳内に映像世界を作ることも無用です。

ただ見てればいいのですからね


これでは小説は廃って。映像モノが攻勢するのは必然でしょう。



さてでも


読書くらいしか娯楽がなかった


あの頃、


徹夜でバルザックを読みふけったあの頃は


今思えばなんて至福の時代だったんだろう。



今、世界文学全集を読む人なんているのでしょうか?


ゼロではないにしても限りなくゼロでしょうね?



ディケンズを


ゲーテを


バルザックを読んだことがありますか?



文学というのは、基本的には「閉じた世界」です。

閉ざされた世界です。書物がそもそも閉じたものとしてそこにあるのです。

その閉じた書物を開いて、黒い活字を目で追い、その活字に対してたんなる記号ではなくて意味を付与して

読み解く作業、黒いインクの染みにすぎない記号(活字)からそれにあなたが意味を付与するという営為、

そして、意味を統合して、そこから小説世界をあなたの脳内に画像として、ビジョンとして、構築する。

つまりもっと、砕いた言い方ですと。本を読んで意味を理会してそこから妄想を膨らませる。

それが文学(小説)の読書という行為です。それが小説を読むということです。

こうした一連の精神の、脳内作業は、すごい体力(気力)のいる孤独な作業なのです。

共同でなんかできませんよね。あなたが孤独に、根暗にやるしかないのです、


それが読書(文学)というものなのです。


だがその孤独な作業から、あなたは妄想の世界を膨らませて、しばし異世界に遊ぶ。、

それが読書の楽しみなのです。

孤独な妄想世界への飛翔、、それが読書の楽しみ、

書物とあなたとの、一対一の妄想交換?

それが読書の奥義?秘儀?なのです。



そもそも、ヨーロッパでは

読書というものが成立して近代小説が勃興したのが、17世紀後半ころからです。

特にイギリスとフランスが中心でした。ドイツがやや遅れてこれに続きます。

そうして、18世紀がその黄金時代を迎えます、

というのも近代小説の勃興は、「読者層」、があっての前提ですからその点ドイツはやや遅れていたわけです。豊かさを備えた近代市民階級の勃興で識字率も上がり、いわゆる良家の子女に、読書の需要が生まれたのです。この需要に対して供給として作家という職業というものも、出てくるわけです。

それまでは作家専業なんてありえませんでした。

物語作者は、牧師だったり、ほかに仕事があって片手間に小説物語を書いていただけです。

それがこのころから需要に応じて、出版社もでき、作家専業も出現したのです。

私はこの時代を勝手に「文学(小説)の黄金時代」と呼んでいます。

そのころ映画もゲームもDVDもアニメも何にもない時代ですから

小説しかなかったのです。だから小説の一人勝ちですね。

大げさに言うとこの時代は空前の小説ブームが巻き起こったのです。

小説の主人公に読者が自己同化して、泣き、悲しみ、はては同情自殺さえあったのです。

今でいえばアイドルが若くして死ぬとあと追い自殺があるようなものでしょうね。

そのころ小説は絶大な力を持っていたのです、その影響力もすごいものでした。

今、現在の小説にそんな力はありませんものね。。。

今は小説のほかにいくらでも心くすぐり感動し魅了するモノがいくらでもあるからです。

今、小説は、ほかのメディアや映像媒体にお株を奪われて衰退してしまったというわけです。

今  「小説」  というか「文学」全体がすっかリ衰退してしまいました。

それは18世紀のあの頃、言葉しか表現手段がなかったころのようには、

今現代ではもう、無理なのでしょうね。

いまや、言葉への絶対な信頼、同化、投影という物は消滅して、コトバのパワーの衰退一途であったわけです。

昔、言葉は神であった。言葉はすごい世界を変えるような力を持っていた、

今言葉は軽くなり、適当に発せられ、深い意味も喪失し

言葉の霊力。魔力は完全に失われたのだ。

大昔、、たった一言の言葉(呪文・言霊)で世界をひっくり返すこととすらできた、

今は、、もう無理です。これから、、、言葉の軽量化?うすっぺらさ?はますます進むのでしょうね。


17世紀ヨーロッパとは、、どんなだったのか?想像してみてください、

テレビもない、ゲーム機もない、映画もない、ユーチュブもない。漫画本もない。電話もない、

何もないんですよ、

文芸的なお楽しみなんて皆無ですよ。たまに演劇を見るとか、地方回りの見世物を見るくらいが関の山ですよ。

当時の、日常生活では、いわゆる異世界疑似体験としては

小説本を読むくらいしかほかにお楽しみななんてなかったんですよ、


小説本が最大の最高の娯楽だったんですよ、本を読むことが最高のお楽しみだったんですよ。

それ以外になかったんですよ。日常生活を抜け出して別人になり疑似体験をするっていうのはね、

そういう意味では本(読書)は言葉の魔力をいまだ持ち得ていたといっていいでしょうね。

今、コトバはその信頼性も、影響力も、浸透性も、すっかり褪せてしまいましたものね。

そのころはまだコトバの霊力?があったころです。

言葉に自己同化して自己投影できたころです。

言葉の信頼性というか言葉の破壊力があったころです。

言葉は力であり、パワーがあり、言葉は世界そのものだったんですよ。

つまり、

もっとゲスな言い方でいうと、言葉にまだ

催淫力があったころですね。今、現在では言葉でなんかだれも、催淫されませんものね。

言葉がすごい影響力を持っていたころの、

そういう時代の小説たちなのです、だから18世紀は小説の黄金時代だと私が言うのです。


昔エロ小説がが発禁になったのもまだ言葉が影響力がパワーがあったからなのです。

今エロ小説なんて、発禁ですらありませんね。

今やエロ小説なんてそんなもの読んでも誰も催淫されないし、影響力があまりないからなのです。

大げさに言えばコトバのパワーの失墜現象ですよ。


それがひいては文学の衰退でもあり黄昏でもあるのでしょう。

今は言葉よりも映像文化全盛ですから。

言葉というシンボル・記号だけでは誰も催淫されなくなった?ということなのでしょう。

コトバの喚起力の低下、あるいはコトバの妄想力の劣化、

言葉ではもう誰も妄想を膨らませられない、という現代人の状況です。

それが文学の劣化?にも通じているのでしょう。

今は言葉よりも映像文化全盛ですから。

言葉というシンボル・記号だけでは誰も催淫されなくなった?ということなのでしょう。

コトバの喚起力の低下、あるいはコトバの妄想力の劣化、

昔の読者は言葉だけでものすごい妄想を膨らませて、わくわくして疑似体験できたということです、

それが、、今では、言葉なんかではもう誰も妄想を膨らませられない、というのが現代人の状況なのです。


そういう現代人の妄想力の貧弱化が

それが文学の劣化?にも通じているのでしょう。

だって文学なんて言葉という記号の羅列ですよ、

その記号が了知できなければただの無意味な記号にすぎないんですよ。

マヤ文字が無意味な記号としか見えないのと同様ですね。

文学とは小説とは、文字が読めてなんぼ、意味が分かってなんぼ、

そして最も重要なのが、、そこから妄想を膨らませられてなんぼ、、なのです。


こういう妄想力がないと、小説なんて無味乾燥な記号の羅列でしかないという事実なのです。

つまりどんなにエロイことが書いてあったとしても、その言語が読めなければ記号の羅列でしかないのです。催淫なんかされません。その言語が読めて意味が分かって妄想しての上でのことだからです。


例えば私はフランス語が全く読めませんのでフランス語のエロ小説は意味不明ですから全くただのアルファベットの羅列でしかありません。私にとっては無意味そのものです。


ここが映像文化と違うところです。映像は万国共通だからです、読解力も言語力も不要です。見れば即わかりますね。文盲でも映像文化は見ればそれでわかるのです。

それに対して、文学は言語力と読解力の前提です。


しかも、たとえ読めても、

その肝心な妄想力が劣化しているのが現代人なのです。その一つの原因が映像文化の蔓延でしょうね。

映像文化は妄想力不要です。直に映像が現前するからです。

アニメ、映画、漫画、テレビゲーム。などなど

こういうのに慣れてしまうと、

もう言葉だけの羅列でしかない小説を読んで、そこから妄想を膨らませて小説世界を

自己の脳内に現出させるという作業が不可能になるんですよ。

小説はただ文字面を読んでもダメです。そこからさらに自己の脳内にその小説世界を再構築して

自己の脳内に小説世界をありありと現出させるという精神作用が必要です。

そこで初めて小説が面白いということになるのです。

そういう面倒くさい精神作用の行程が、現代人には無理なのですね。

とまあ、そういうわけで小説・文学はこれからももっと衰退し続けるでしょうね。



翻って、、わが日本でも、小説、あるいは文学全体の衰退が言われて久しい。

かって昭和40年代、

文学全集全盛時代がありましたね?

各出版社がこぞって「世界文学全集」なんてのを

全80巻とかそんな膨大な全集本を発行していたのです。


それで町の書店が各家庭に予約を取り、、毎月とか隔月とかに


一冊づつ予約者に月報とともに届ける、、配本する。

そんな時代もあったのです。

そういえば、、月間漫画雑誌「おもしろブック」とか「少年」とか、予約すると毎月、町の書店屋さんがバイクで配達してくれたものでしたよ。懐かしいなあ。豪華10大付録も楽しみでしたよね。

いま?そんなのありえないでしょ?


出版業界は構造不況業種?とさえ言われる時代ですよ。

そんな全集出したって売れるわけがありませんよ。

いま、かろうじて?売れているのは

漫画雑誌と、文庫本くらいでしょ?

堅い本、、古典文学なんて売れるはずもないです。

まあこうした文学の衰退も時の流れ?

今、、映像文化全盛時代に、活字を眼で追って

意味を咀嚼して、、理解し

脳内にその文字から得られた情報を構成して

小説世界を再現する、、という

これが文学ですよね?確かに面倒ですよ。

文字の意味が分からなければ辞書引かなければならないし、、

こんなことするくらいなら

アニメ映画でも見たほうがそのものずばり、

座って眺めてりゃあいいだけですからね。

白い紙にびっしり並んだ活字を目で追い、、

意味を理解しそこから自分の脳内に、小説の世界を再現するという面倒さはないですからね。

まあこうした映像娯楽、、映画、テレビ、ネットゲーム、などなど、

今更、、文学など面倒なだけ、、という結論でしょう。

ただし、こうした時代背景以外にも、

文学自体の自己崩壊も?あると、私は思うのですよ。

文学の本質はその(物語性)だと私は思うのですね。

文学は高等文芸だと威張ってみても、

所詮は「お話」であり『物語』が本質なのですよ、

それをいわゆる、「現代文学」は、、否定しようとして、、

物語性の否定という暴挙?に出たと私は思うのです。

その結果、、文学は、、根底から崩壊してしまった?

(と、私は思うわけです)

古代中世までは文学なるものはまさに物語その物であり、「何とか物語」であり、

「何とか奇譚」であったわけですね。

それがそんな物じゃあダメだといって

現代文学はもっと難解に?

もっと高尚に?した挙句、、自己崩壊してしまった

(と、私は思うのです)

私は個人的には、ドイツロマン派を持って、文学・小説なるものはある意味の絶頂期をむかえて、

その後写実主義が巻き起こって一気に衰退し、

さらには、自己満足だけの、、難解さのための難解さを追求した?現代文学に

よって完全に終焉したと思っているので、はっきりいってどうでもいいことではあるが、

しかし、

改めてここで、なぜそうなのか?をより詳しく?再述しておきたいと思う。

そもそも、文学、あるいは物語といってもいいだろう。

それが発生したのは、歴史的記述としては、なじまない、ジャンル

つまり、伝説、噂話、空想、ほら話、願望、伝説、夢、異国譚などを、

記述するために始まったといってよい。

であるからして、そもそも、それは人の興味を引くような、珍しい話であるべきものだったのだ、

西暦0000年、どことどこが戦ってどこが勝った、では歴史であって文学ではない。

人はその例えば噂話に、自分の願望やら理想やらも付け加えたりもした。


そして、面白くするためさらに奇譚として脚色もした。

かくして滔滔たる物語文学の流れができて、読者は胸躍らせて読みふけり、ひと時の世の憂さを忘れて、

物語世界に浸り、あるいは、自己に引き比べて、胸なでおろしたり、主人公の薄倖に涙したりもできたのだった。

そうして物語はやがて、小説としてより体裁を整えていったが、しかし、その原型は物語性であり続けた。物語性、が小説の本質なのだ。


フランス語のロマンというと洗練された純愛物?っていうイメージ?だが、

ドイツ語のエアツエールンクというのはもっと泥臭い本当は怖い?民話系の

語り物っていう意味だろう。

それを如実にあらわしているのがまさにグリム童話集初版である。

そうした民話系の泥臭い、残酷な?モノを昇華して?

創作メルヘンとして、芸術化?したモノがドイツロマン派のメルヒェンだろう。

語り物としての

その最高形態がドイツロマン派であると思う。物語性、伝奇性、天馬空を行くその夢想力、どれをとっても、ハイレベルに高められていた。

しかし、

その後、リアリズム、自然主義が台頭し、文学はあらぬ方向へとゆがめられ、文学の衰退をまねいてしまったのだ。

そもそも、事実をそのまま述べることが文学でありえない。事実を、例えば、哀れなフランス下層階級の

女の一生を述べたいなら、ドキュメントとして述べれば良いことであって文学形式を借りる必要はないのだ。延々と続く、悲惨な、女の一生の記述に、読者はどうしたらいいのだろう。

気は滅入り、これでもかこれでもかという、悲惨に、じゃあどうしろってんだとでも叫びだすしかあるまい。、プロテストがあるなら、小説ではなく、ドキュメントとしてやればいいことだ。

あるいは市井の、こまごました日常を述べたいのなら、日記でいいではないか。

しかし、さらに、現代文学は、実験文学と称して、やたらこむずかしい、理屈を捏ね回すだけの小説なるものまで登場して、よりいっそう、小説の衰退を招いてしまったのである。

ジェームスジョイスの難解?小説、[ユリシーズ」今そんな物を誰が読むだろうか?というより、そんなもの、てにとりもすまい。実際読んでも、メタメタで、チンプンカンプン、ばかばかしくなって破り捨てたい衝動を抑えるのが精一杯だ。

そんなものを誰も求めていないのに作家の自己満足や一人よがりで、

やたら小難しく何を言っているのかも分からないような小説が1部の評論家によって持ち上げられていったのだった。

しかし読者は誰もそんな物求めていない。

読者は、聞いたこともない、珍しい話を聞きたい。

見たこともない国の珍奇な話を読みたい。

あるいは、心優しい、少女の感動譚を読みたい。

因果応報の、話で、自己を正したい。

しかし、作家は、わけも分からぬ、文学実験に身をやつしているばかり。

その乖離が、現代小説の衰退の原因だ。

そして、結果、小難しいだけの現代文学なんて誰も読まなくなった。

なぜって、単純につまらないからだ。

涙さそう感動もないし、心躍る冒険もないし、あるのは言葉の羅列化、無意味な言語実験ばかり。


しかし、今その反動からか、自然主義リアリズム全盛期には、捨て置かれた、

ファンタジー文学が近頃は脚光を浴びている。

すなわち、

トールキンの指輪物語であり、

CSルイスのナルニア国物語であり、

ハリーポッターであるのだ。

そこには感動があり、冒険があり、夢があり、涙があり、天馬空を行く、ロマンがあるのだ。

何のことはない、これはまさにドイツロマン派のテーマの再来ではないか。

結局はドイツロマン派こそ文学の最高点でありそれを超えることはできないのだ。

これが私の偽らざる結論である。

今のファンタジー文学全盛とは?

また、、ただ難解だけの言語実験みたいな現代文学へのノンを突き付けているということだろう

(と私は思う)


確かに文学の現状は衰退としか言いようもないが、

それでもこうしたファンタジー文学という、、一種の先祖がえり?で

いささかは、息をついているという現状だろうか?

しかし、

これからもっともっと映像文化は興隆してくるし、

その中で活字文化が活況を呈するなんてことは

まずこれからはあり得ないだろうことは

断言できるのではないだろうか?


文学のたそがれ、、


文学の衰退、、。



文学の終焉。



この流れを止めるすべはあるのだろうか?



ハリーポッターなどのファンタジー文学に一縷の



かすかな


一条の希望のともしび?はあるかもしれない、



しかし


全体的な流れ、、潮流は


文学、


活字文化の


衰退、あるいは最悪、消滅という


奔流をとどめるすべはない。


(と、私は思うのである)



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