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7 楽しい婚約期間

お互いの胸の裡を語り合い、思いを通じ合わせたふたりが真っ先に行ったのは、関係者への報告と根回しだった。

 関係者とはすなわち、父ジョナサンとメイヴィスとオルストの家令と執事たちである。

 ヴィクトルの去就で振り回されることになる彼らは、だがルーナたちの話を聞いても動じることはなく、どころか生温い目をしてそれを受け入れた。

 ジョナサンの反応は予想どおりだったが、執事のクラウスが訳知り顔をしていたのはどうにも解せなかった。それで思わず理由を尋ねたルーナに、クラウスは目尻の皺を深くして微笑んだ。

「……メイヴィス家の方々は、愛情深くございますからね。旦那さまはもちろんのこと、アンナお嬢さま――ルーナさまの叔母ぎみもそうでいらっしゃいました。ひと度この方と定めると、他の方が目に入らなくなるのです」

 オルストの家令であるアランが、それを受けて重々しく頷いた。

「旦那さまも似たようなところがおありです。ルーナさまをひとひと目見て恋に落ちて、それを長く引きずり、ずいぶんと拗らせておりました。傍で見ていて、やきもきしたものです。おふたかたが上手くいって、本当にようございました。収まるところに収まる、とおっしゃったメイヴィス男爵の予想どおりでしたな」

 父の手のひらの上で踊らされていたのか、と思うと少し面白くない。だが謀略に長けた父だからこそ、ヴィクトルを得ることができたのだとも言える。

 月並みな考えをする貴族であれば、ルーナは早々に婿を取らされていただろうし、その相手にヴィクトルを据えはしなかっただろう。

 もっともジョナサンが後始末に東奔西走しているのは、ヴィクトルの才覚に価値を見出し、後継に相応しいと目しているからだ。ルーナが恋をしたというだけでは、こうも上手くものごとは運ばなかったに違いない。

 その優秀な婚約者であるヴィクトルだが、彼もまた忙しく飛び回っていた。

 伯爵位を返上する手続きは既に済み、オルスト伯爵はヴィクトルの遠縁に引き継がれている。今の彼は平民ではないが貴族でもない、ただのヴィクトル・グラートだ。伯爵位を失った彼は身軽になったことを喜んでいるが、その一方で社交界は蜂の巣つついたような騒ぎになっていた。

 叶わぬ恋に身をやつす、見目麗しい若き伯爵が社交界に与えた影響は、どうやらルーナが思っていたよりも大きかったらしい。

 爵位を失った彼が今後どうなるのか、ルーナとの婚約は破棄されるのか、恋人のミリア・ローレンスはどうするのか。彼にまつわる疑問の数々が、山のような手紙となってルーナに殺到している。銀盆から雪崩れかけた手紙の束を前にして、ルーナはうんざりと息を吐いた。

「……社交界の鼻つまみ者が、ずいぶんと人気になったものね。晩餐会のお誘いに、お茶会、絵画の鑑賞会に、宮廷楽団の公演なんてものもあるわ。わたくしがヴィクトルを連れて行くことを期待しているのでしょうけれど、冗談ではないわ。わたくしだって、ヴィクトルと少しも会えていないのよ。それなのに、どうして他人の同席を許さなければならないの」

 ルーナにとって今、一番の問題がこれだった。

 ようやく思いを通じ合わせたと言うのに、忙しさのあまりお茶をするすらない。辛うじて手紙のやり取りはしているが、できれば会って話をして、彼の存在を側に確かめたかった。

 行儀悪く足をじたばたさせるルーナに、開封済みの手紙を選り分けていた執事のクラウスが小さく苦笑を漏らした。

「ルーナお嬢さま。淑女とあろう方が、そのような振る舞いは褒められたものではございませんよ。それに心配なさらずとも、グラートさまはすぐにお出でになるでしょう。先ほど、ハンスが来て客室を整えておりましたから」

 それを聞いて、ルーナは弾かれたように立ち上がった。

「ハンスが来ているの? クラウスったら、どうして先にそれを教えてくれないの。大変だわ。本当にすぐじゃない。ヴィクトルが着く前に、急いで身支度を調えないと――」

 そう言ってメイドを呼ぼうとした時だった。開けておいた扉をノックする音がして、顔を覗かせたのは待ち人であるヴィクトルだった。

 メイヴィス家を訪れて、まっすぐルーナに会いに来てくれたらしい。癖のある明るい栗色の髪が、ほんの少しだけ乱れてしまっている。だがそれに構うふうもなく、ヴィクトルはルーナを見て輝くような笑みを浮かべてみせた。

「ようやく会えた、ルーナ。ずっと、きみに会いたかったんだ」

「ヴィクトル……!」

 名を呼んで駆け出すと、ヴィクトルが腕を広げてくれる。それでルーナは安心して、思い切り彼の胸に飛び込んだ。

 ぎゅうと抱きしめてくれる腕の力強さに、好きが胸にこみ上げて泣きそうになる。それを堪えるために深く息をすると、ヴィクトルが愛用しているトワレに混じって乾いた砂の匂いがした。

 本当に身を繕う間すら惜しんで来てくれたのが分かって、堪えていたものがぽろりと零れてしまう。ヴィクトルはそれを見逃すことなく指で拭ってから、感じ入った声音で言った。

「きみに会えない間、目蓋の裏にきみを思い描いていたが……やはり、実物には叶わないな。こんなにも、きみが愛おしい。俺がどれだけきみを愛しているか、改めて知らされた思いだ」

「わたくしも……ずっとヴィクトルに会いたかった。たった数日のことなのに、寂しくて寂しくて……。手紙は嬉しかったけれど、読むと余計に切なくなるのだもの」

 ルーナが会えなかった寂しさを拗ねてなじると、ヴィクトルが嬉しげに笑った。

「すまなかった。だが面倒ごとは粗方片づいたから、しばらくはきみの側でのんびりできるだろう。社交シーズンは半分も過ぎてしまったが、王族主催のものはまだ残っている。きみが嫌でないなら、参加して俺たちの仲を見せつけてやっても良い」

「……ヴィクトルは、社交界に流れている噂を聞いている?」

「ある程度は。大半はくだらないものばかりだが、中には聞き捨てならないものもある。俺の立場に成り代わろうとする者には、身の程というものを教えてやらなければならないようだ」

 ひやりとする声音で言ったヴィクトルに、ルーナは思わず目を瞬かせた。

 睫毛に散った雫もそのまま問いかけた。

「あなたに成り代わるの? ……わたくしが聞いた噂とはずいぶん違うわ。社交界きっての悪女がとうとう捨てられた、とか、わたくしのせいでヴィクトルが爵位を奪われた、とか、わたくしを貶めるものばかりだったのだけれど……」

「そうやってきみを孤立させて、弱ったところを取り込むつもりなのだろう。たちの悪い男が使う、良くある手法だ。――クラウス、すまないがメイヴィス男爵に報告を頼む。それと改めてルーナ宛ての手紙の精査をしてくれ。その中に不心得者の繋がりが紛れ込んでいるはずだ」

 気配を消して控えていたクラウスだったが、ヴィクトルに命じられてなにごともなかったかのように頷いてみせた。

「お任せください。目を皿にようにして精査いたしましょう」

 思わず深い溜め息が漏れた。

 貴族のひとり娘が、貴族の次男やそれ以降に狙われるものであることはルーナも理解している。ましてやメイヴィスは資産家だ。屍肉を貪る獣よろしく近づく者は少なくなかったし、口に出すのもおぞましい計画があったことも聞き及んでいた。

 とは言えその大半は父ジョナサンが潰していたし、ルーナ自身も幾度かその芽を摘んでいる。そしてヴィクトルの存在がなによりも大きな盾となっていたのだが、彼が伯爵位を失ったことで、それが弱まってしまったらしい。

 彼が忙しく走り回っていた理由のうちには、それを補うものごとも含まれていたのだろう。

 少し痩せた顎の線に彼の疲労を見て取って、ルーナは思わず眉根を寄せた。埃の匂いのするジュストコールを、つんと引っ張った。

「しばらくは、のんびりするのではなかったの? わたくしは最低限の社交は済ませてあるし、あなたに無理をさせてまで別のどこかに出る必要はないわ。共同事業にした既製服店も、まだ慌ただしくなるような段階ではないし。それに……あなたと出かけるなら、どこかゆっくりできる場所に行きたい。人の多い王都も面倒な社交も、無責任な噂話もうんざりだもの」

 少し拗ねた口調で言って、ヴィクトルの胸元に頬を擦り寄せる。するとヴィクトルは息を詰めたような呻きを漏らし、それからルーナの肩にそっと手を置いた。

 かかる髪のひと房を指に絡めながら、糖蜜をまぶしたような甘い声で言った。

「ルーナがそう言うなら……オルスト南岸の街、ルフレールにきみを招待しよう。実は少し前に家を買ったんだ。商談に使うためだから広くはないが、客人を迎えて問題ないようには調えてある。景観用の浜辺もあるから、人の目を気にせずのんびり過ごせるだろう」

「――海? まあ、大変。シーズンまっ最中だと言うのに、日焼けしてしまうわ」

 ヴィクトルの素晴らしい提案に、ルーナは目をきらきらと輝かせる。見上げると、ヴィクトルが蕩けそうな笑みを浮かべてみせた。

「噂好きの連中から逃れるには、なかなかに悪くない言い訳だと思わないか?」

「最高だわ。それにルフレールには以前から、ぜひ行ってみたいと思っていたの。ボタン用の貝が採れるので有名だもの。もし良ければ、作るところを見せてもらえないかしら」

「きみが望むなら、どこへだって連れて行こう」

 愛おしむように頬をなぞった指先が、ふと頤にかかる。優しく促されるまま顔を上向かせ、すぐに目を閉じると吐息が唇にかかるのが分かった。

 だが待ち望んだものが触れる前に、部屋の入り口で低い咳払いが響いた。

「……娘の父親として、ここは槍を持てと言うべきか?」

 呆れの含んだジョナサンの声に、ルーナは慌てふためいてヴィクトルから距離を取った。

 未婚の男女にあるまじき振る舞いをしていた自覚はあったし、それを父に見られたと思うと凄まじく気まずい。

 ルーナが顔を赤くして狼狽える一方、ヴィクトルは平然と気にしたふうもなく、背後で控えていたクラウスも淡々とした態度で言った。

「仲睦まじい婚約者の交流ですから、この程度は常識の範囲内でございましょう。それに旦那さまのお若い頃に比べれば、ずいぶんと可愛らしいものかと」

 ジョナサンが渋い顔になる。

「今その話をする必要はなかろう。――それよりも、ルーナ。ルフレールに行くのは構わんが、シーズンの終わりまでには必ず戻りなさい。王族主催の舞踏会を欠席することは、まかりならん」

「それは、もちろん承知しております。……ですが、お父さま。本当によろしいのですか? わたくしたち、まだ婚姻前ですけれど」

「オルストの領主館に長々と滞在したことを思えば、たった数週間出かけても今更だろう。それに放っておいても、来年の今頃は婚姻が結ばれている。なんの問題もない」

 ただし、と言ってジョナサンはヴィクトルに視線を向けた。

「信頼して娘を預けるのだから、傷ひとつ付けるな。それと日焼けもさせるなよ。ドレスが着られなくなったら目も当てられん」

「お任せください、男爵。無事に王都へお返しすることをお約束いたします」



 すぐにでも出立しよう、とはりきるヴィクトルをなんとか宥めて、ルーナたちが王都を後にしたのはそれから三日後のことだった。

 ヴィクトルには休息が必要であったし、ルーナにも片づけなけらばならないものごとがあったからだ。

 今は経営のほとんどを人に任せているコート・サウラだが、だからと言ってオーナーがいきなり消えては店に迷惑がかかる。それでルーナはコート・サウラに出向いて諸々を片づけ、ついでに疎かにできない顧客を巡って挨拶も済ませてきた。そうして準備万端に整えて、意気揚々とオルスト領ルフレールへ向かったのである。

 王都からオルスト領へは、馬を飛ばせば半日もかからない。だがヴィクトルはルーナを気遣って、道中のオルスト領内で宿を取ってくれていた。おかげで体力を使い果たすこともなく、ルーナはたどり着いた港町のうつくしい景観に目を輝かせた。

 ルフレールは湾に向かって緩く傾斜する土地で、建物は作られた段の上に並んでいる。漆喰の塗られた壁は明るい白で、太陽の光を受けて眩しいくらいだった。

 貿易と交易の拠点であるから道は広く、人や馬車がひっきりなしに行き来している。大通りには市も立っていて、見るからに賑やかで活気がある。数年前まではうら寂れた様子だった、というのがとても信じられなかった。

 潮風が髪を乱すのも構わず海辺の街に見入っていたルーナは、ヴィクトルに手を取られて彼を振り返った。

「なんて素晴らしい眺めなの。建物の白と海の青のコントラストが、溜め息が出るくらいに綺麗だわ」

「白い壁はオルストが貧しい頃の名残だが、きみが気に入ってくれたならなによりだ」

 潮風の吹く海辺の街は、とかく建物が傷みやすい。それの補修に安価で手に入る漆喰を使い、そして貧しさ故に塗料を使えなかったからこその白であると言う。

 そう聞けばなるほどと思うのだが、陽射しを受けて輝く海と、真っ白な建物が並ぶさまは見事のひと言だった。

 人が多いばかりの王都を離れ、こんなにも素晴らしい街に滞在できるなんて夢のようだ。来て早々だというのに帰りたくないと思ったが、そう考えたのはルーナだけではなかったらしい。

 ルーナの手を引いて歩き出したヴィクトルが、しみじみとした口調で言った。

「その立場から離れて初めて知ったが、貴族というものは実に不便なものだな。休暇を取るべきすばらしい季節に、窮屈な王都で楽しくもない社交に励まなければならないなんて、これほど非効率でくだらないものもないだろう」

「それにはわたくしも同意するけれど、分かっているのかしら。来年の今頃は、ヴィクトルも非効率的なその場所に戻ることになるのよ」

 そうからかう声音で言うと、ヴィクトルがしまったという顔になった。

 彼は慌てたふぜいで、自分がどれだけルーナとの結婚を楽しみにしているのか、そのためならどんな労も惜しまない、とずいぶんな熱の入りようで語った。

 からかったのを後悔したくなるほどの賛辞を浴びているうちに、たどり着いたのは規模は小さいが瀟洒な屋敷だった。

 他と同様に壁は漆喰で、屋根は平らで胸壁がぐるりと縁取っている。屋上は室内から出られるようになっていて、日焼けを気にする必要のない者たちは、そこに長椅子を置いて昼寝に勤しむのだそうだ。

 屋敷は街の中心から少し離れているから、喧騒は遠く海鳥の鳴き声がするばかりだ。そんな中で心地良い潮風に吹かれながらの昼寝だなんて、これほど贅沢なものはないだろう。多少の日焼けなど、どうでも良いと思えるくらいの価値がある。

 父ジョナサンが聞けば眉を顰めそうなことを思いながら、ルーナはヴィクトルに手を引かれて屋敷に足を踏み入れた。

 石造りの屋敷は、一歩入れば外の気温が嘘のように空気がひんやりとしている。思わずほっと息を吐いたルーナは、出迎えに並ぶ使用人の中に、見知った顔を見つけて目を瞬かせた。

「……ヘレン?」

 名を呼ぶと、赤みがかった栗毛の印象的な女性が、ぱっと表情を輝かせた。

 彼女はお手本のような所作で膝を折り、それからにこやかに微笑んで言った。

「お久しぶりでございます、ルーナさま。またお目にかかることができて、心から嬉しく思います」

「わたくしも、あなたに会えて嬉しいわ。でも……なぜここに? あなたはオルスト伯爵家のメイドでしょう?」

 まさか伯爵家を辞してしまったのだろうか。そう思ったことが表情に出ていたらしい。

 ヘレンはくすりと微笑むと、ヴィクトルの目を気にしてか、以前よりも丁寧な口調で言った。

「グラートさまがルフレールお出でになることを聞いて、旦那さま――今のオルスト伯爵が私を手伝いに出してくださったんです。女性の手があって困ることはありませんし、それにルーナさまも見知った顔がひとりはいた方がくつろげるだろう、と」

「まあ、なんて素晴らしい心配りなのかしら。まだオルスト伯爵にお会いしたことはないのだけれど、このことだけで優れた方ということが分かるわ」

 ヴィクトルとジョナサンが人選に人選を重ねただけあって、新しいオルスト伯爵はひと角の人物であるらしい。

 非嫡出子であるヴィクトルとは血の繋がりはないが、それを知っても先代の伯爵を尊重してくれていることが、ヘレンの言葉の端々から滲んでいる。

 ルーナが好感を抱いたのは当然のことだったが、それを聞いてなぜかヴィクトルが不服顔になった。

「きみが誰かを褒めるのを聞くのは、あまり良い気がしないな……。ましてやその相手は、独身の若い男だ」

「……まあ、ヴィクトルったら。まだ、一度もお会いしたことのない方よ。それに、これだけ良くしてくださっているのだから、人として好意を持って当然だわ」

「分かっているが、それでも気に食わない。新しいオルスト伯爵がどれだけ優れた人物かは、俺が誰よりも知っているからな。彼は見目も悪くないし、地位も金もある。……きみを気に入る可能性は大いにあるのだから、警戒はして過ぎることはない」

 地位を継いだばかりのオルスト伯爵が、社交界で驚きとともに迎え入れられたことは、ルーナも話に聞き知っている。流れてくる噂は概ね好意的で、特に年頃の女性たちから熱い眼差しを注がれているようだった。

 まだ婚約者のいない独身の金持ちが、夫候補に足り得るか見定められ、狙いをつけられるのはごく自然の流れである。それが優良株であれば、婚約者に名乗りを上げるご令嬢は列をなすだろう。選びたい放題である。であればわざわざ先代伯爵の婚約者を横取りする利点はないはずだが、なぜかヴィクトルはそうは思わないようだった。

 嫉妬と言うにはあまりに真剣な様子だったので、ルーナは考えるより先に口にしていた。

「そんなに心配なら、結婚の時期を早める? わたくしは、それでも全然構わないのだけれど」

「それは――駄目だ。きみと一刻も早く結婚したいと心から思っているが、だからと言って余計な勘ぐりをされるような、慌ただしいものにはしたくない。なによりウェディングドレスが仕上がっていない」

 悋気から焦りを見せたくせに、こだわるのはそこなのか、と思うと少し呆れてしまう。

 だがすべてルーナを考えてのことなのだから、それを嬉しく思わないはずがなかった。

 ルーナはくすくすと微笑って、繋いだヴィクトルの手を軽く引っ張った。

「それなら予定どおり、婚約期間を楽しまないと。まずは、この素敵な屋敷を案内してくださる?」

 わざと取り澄ました口調で言うと、ヴィクトルが口元に苦笑を滲ませた。

 まだ荷解きすらしていたないことに、ようやく思い至ったらしい。ヴィクトルは繋いだままの手を持ち上げると、まるで社交場にいるような恭しい口ぶりで言った。

「もちろん、喜んで。きみに気に入ってもらえると嬉しいのだが」

 広くはないと言っていたルフレールの屋敷は、だが休暇を楽しむには十分過ぎるほどのつくりだった。

 客を迎え入れる玄関は広々としていて、商談用の応接室だけでなく、社交も行える規模のホールもある。

 大食堂があって広い中庭があって、上階には客室が並んでいた。さらに上の階はフロアすべて私的な空間になっていて、広々とした主寝室に、きちんと整理された書斎、居心地の良さそうな居間がある。そして家族のための居室が二部屋あって、そのうちの主寝室に近い一室が、ルーナのために用意された部屋だった。

 中庭に面した窓を大きく取っているから、室内は明るく入り込む風が清々しい。調度は間に合わせではなく、細々としたところまでルーナの好みに調えてあった。

 織り模様のうつくしい布地が貼られたソファに、同布で作られたクッション。室内を見回せば、寝台の天蓋にも一部同じ布が使われているようだった。板敷きの床には絨毯が敷かれておらず、ソファやベッド脇にだけ織り模様のうつくしいラグが設えられている。

 ただこれは今の時期だけのもので、冬になれば分厚い絨毯が敷かれるらしい。

 海辺の街は比較的温暖だが、それでも冬には霜が降りる程度には冷えるのだそうだ。

 今は塞がれている暖炉をなるほどと眺め、ルーナは一旦ヴィクトルと別れてから、ヘレンの手を借りて着替えを済ませた。

 宿を発ったのは朝早くのことだったが、もうすでに昼をいくらか過ぎている。実を言えばかなり空腹だった。

 昼食を屋上のテラスで摂ると聞いて、ルーナは嬉しげに目を輝かせた。

 ヴィクトルが迎えに来てくれて、屋上に出る。タイル敷きのテラスは広々していて、日除けの大きな布の下にテーブルがセッティングされている。

 用意されていたのはチーズにフルーツ、焼き立てのキッシュにハムと野菜の酢漬け、というシンプルな軽食だった。すべてルーナの好みのもので、それに加えて素晴らしい景観と、よく冷えた白葡萄酒があるのだから、これ以上の贅沢はないだろう。

 ルーナは意気揚々とカトラリーを手に取ると、空腹を満たしていった。

 空腹だったルーナはもちろんのこと、健啖家のヴィクトルもよく食べて、あっという間にテーブルの上はきれいに片づいてしまった。

 食後に出されたのは花の香りのするお茶で、お茶請けがドライフルーツなのも相まって、なんだか南国の観光地にいるみたいだ。

 メイヴィスの取引先には、南洋の諸島国もある。いつかヴィクトルと訪れてみるのも良いかもしれない。

 そう思いを巡らせながら海へと視線を向けて、ふと気づいたものにルーナは首を傾けた。

「ねえ、ヴィクトル。あれはなに? 灯台の少し手前……木立で見えにくいけれど、ずいぶんと立派な建物があるでしょう? あの尖塔のかたちは教会かしら?」

 教会はふつう、街の中心に造られるものだ。建国以前からの歴史がある街ではその限りではないが、大半は中央の一等地に鎮座している。

 王都言わずもがなルフレールも同様で、ルーナは馬車から教会の聖堂を目にしていた。

 他の建物と同様に漆喰が塗られていたが、赤褐色の顔料で花模様が描かれているのが印象的だった。あれだけ立派な聖堂があると言うのに、わざわざ不便そうな場所に建てる必要があったのだろうか。

 そう疑問を口にしたルーナに、ヴィクトルが少し渋い顔になって言った。

「……あれは修道院だ。街中には置けない立場の者を受け入れるために、あえて辺鄙な場所に造ったと聞いている。……例えば貴族の婚外子、爵位の継承で貴族でなくなった子女や、奪爵により立場を失った者もいる」

「では、ローレンスさんもあちらに?」

「還俗するまでは、そうだな。とは言え彼女は騎士爵の娘だから、お上品なお嬢さまがたとは水が合わず、それで街中の教会で奉仕活動に出てばかりいたらしい。それで伯爵の葬儀が領都であることを聞いて、手伝いを買って出たそうだ」

「なるほど。修道女だった彼女と、どう縁を繋いだのか不思議に思っていたのだけれど……そういうことだったのね。ところで、すっかり訊くのを忘れていたわ。彼女はあれから、どこでどうしているの?」

 別に過去を責める意図はなかったのだが、ヴィクトルはますます渋い顔になった。

 少し肩を落として言う。

「……今は王都だ。彼女とはすでに話し合いを済ませて、約束していた通りの報酬の他に、口止め料の分を割り増して渡してある。彼女はそれを元手にして、社交界で得た縁も使って商売を始めるそうだ」

「商売?」

「カフェだそうだ。きみと鉢合わせたルカスの店が気に入って、それで自分でもやってみたいと思ったらしい」

「経営はそこまで甘いものではないのだけれど……。不思議ね。あの彼女なら、なんとかしてしまいそうな気がするわ」

 ミリア・ローレンスはルーナにとって天敵とも言える人物だが、しかしある種の魅力があることは否定できなかった。

 野に咲く花のような可憐な容姿もさることながら、溌剌とした振る舞いは貴族の令嬢には持ち得ないものだ。ルーナを相手に一歩も引かない気の強さと、目的に向かって怖いもの知らずに進む勢いは、見る人によっては魅力的に映るに違いない。

 彼女の伝手がどのような手合いか目に見えるようだが、ともあれヴィクトルとの契約が済んだのだから、今後は関わることもないだろう。

 そう清々した気分で思ったが、ヴィクトルには複雑なものがあるらしかった。

 彼は修道院をじっと見つめてから、溜め息に混ぜて言った。

「……きみが彼女のことをどうでもいいと思っていることが分かると、おもしろくない気がするのはなぜだろうな。彼女のことで、きみを煩わせたくはないと思う気持ちに偽りはないのだが」

 そう物憂げに言ったヴィクトルの横顔に、ルーナは思わず呆れた目を向けた。

「つまりヴィクトルは、わたくしに嫉妬して欲しいのね。心配しなくても、すぐにそうなるわ。だって爵位を失ったからと言って、あなたの魅力は少しも損なわれていないのだもの。社交界に戻れば、また大勢の女性から熱い眼差しを向けられるでしょうね」

「まさか、それはありえないだろう。爵位のない男など、ご令嬢たちにとっては路傍の石より価値がない存在だ」

「婚姻相手を探す未婚のご令嬢なら、ね。でも社交界にいる女性は、彼女たちばかりではないのよ。遊び相手を探すご婦人から見たら、あなたは格好の標的だわ」

「……なるほど、既婚者か。それは、ちょっと思いつかなかったな」

 今まで関わり合いを持つ必要がなかっただけに、その存在が頭から抜けていたらしい。

 ルーナよりよほど人受けがするというのに、こういうところで無防備なのが困る。

 様々なことを乗り越え、ようやく思いを通じ合わせて名実ともに婚約者となったのに、これ以上の横槍など遠慮願いたい。だが社交界に戻ればひと波乱ありそうで、ルーナはひっそりと溜め息を零した。

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