6 戻った記憶と反撃と
銀盆に載せられた手紙を取り上げて、ルーナは物憂げに息を吐いた。
今は社交シーズン真っ只中である。王都の屋敷に届く手紙と言えばお茶会や夜会の招待状で、だが悪女と名高いルーナのもとに舞い込んでくるのは、好んで付き合いたいと思えない相手からのものばかりだった。
ルーナの資産が目当ての者、社交界で評判の悪女をひと目見たい者、そういった意図が透けて見えるものを除いてしまえば、残った招待状は数通しかない。
どれもこれも仕事で付き合いのある相手である。それらを何度ひっくり返してみても、ルーナが心待ちにしているものは見当たらなかった。
「……必要ないと言われても、手紙を送るのではなかったの? ……ヴィクトルの嘘つき」
思わず呟くと、執事のクラウスがくすりと微笑いを零した。
「やれやれ、すっかり骨抜きにされてしまいましたね。家出して婚約を破棄してやる、と気炎を上げていらしたとは思えません。かように初々しいルーナさまを見られるとは、いやはや長生きはするものです」
そうしみじみ言うクラウスに、ルーナはつんと顎を上げた。
「単純だ、と言いたいのでしょう? ええ、ええ、分かっていますとも。クラウスに言われるまでもないことだわ。でも……仕方がないじゃない。不毛だと分かっているのに、今のヴィクトルを好きになってしまったのだもの」
「……恋は落ちるもの、とはよく言ったものです。そしてままならないことだからこそ、楽しくもあり苦しくもある。……今のルーナさまを見ていると、在りし日の奥方さまが思い起こされます。旦那さまの突き放す物言いに戸惑って、今のルーナさまのように、よく拗ねていらっしゃいました」
「お母さまが? 身勝手なお父さまを窘めていたのは、わたくしも記憶に残っているのだけれど……」
ルーナの記憶の中にある母は、凛と立つうつくしい人だった。
振る舞いは優雅で堂々としていて、それでいて時折少女のような遊び心を見せる。貴族の令夫人として、これほど相応しい人物はいない、と思わせる魅力を持っていた。
社交においては完璧に振る舞い、そして家庭では強く優しい母だった。夫であるジョナサンの一番の理解者であることが自慢で、言葉の足りないところのある父を、よく叱り飛ばしていたものだった。
そんな母が父と喧嘩をして拗ねる、というありさまはあまり想像ができない。思わず首を傾げてしまったルーナに、クラウスがしかつめらしく言った。
「奥方さまがメイヴィス家の令夫人となられるまで、それはもう色々と紆余曲折がございました。なにせ旦那さまは愛想が良いとは言い難い方ですからね。勘違いされるような物言いをなさいますし、良かれと思ってしたことで顰蹙をかうことも少なくない。ですから奥方さまがそれに慣れるまで、おふたりは頻繁に喧嘩なさっておいでしたよ」
「……まあ。穏和だったお母さまが怒るなんて、お父さまは一体なにをしでかしたのかしら」
「お教えしたいのはやまやまですが、それを口にしたら、私が旦那さまに叱られてしまいます」
その程度のことで叱る父ではないが、思い出を無理に暴くこともないだろう。
ルーナはくすりと微笑んで、手にしていた手紙にペーパーナイフを差し込んだ。
「わたくしも、言葉には気をつけないと。ヴィクトルに嫌な思いをさせたくは――」
言いかけて、ふと口をつぐむ。訝るような目をしたクラウスに、ルーナは恐る恐る問いかけた。
「もしかして、わたくしもなにかしてしまったのかしら。ヴィクトルから手紙が届かないのは、わたくしが不用意なことを口にして、それを怒っているから、という可能性もあるでしょう?」
「それは……ないとは申しませんが、その程度のことで機嫌を損ねるような方ではないのでは? 以前はともかく、事故後の様子をお伺いした限り、なにがあっても誠実な対応をなさりそうなものですが」
「でも、それなら、どうして……」
ぽつりと零した時だった。重々しいノックの音がして、それに応えを返す間もなく扉が開く。
現れたのはジョナサンで、しょぼくれたルーナの様子に気づいたのか、父は難しい顔で言った。
「ルーナ、おまえに客が来ている。支度をしたら、茶会室に来なさい」
「……わたくしに?」
急な来客はともかく、先触れもなしに、というのは滅多にないことだ。それを追い返さずに、客として招き入れることも珍しい。
なにせメイヴィスは資産家である。ジョナサンには富のおこぼれに与ろうと、面会を希望する者が常に列をなしていた。
その娘であり服飾店の経営者であるルーナも同様で、だからこそ会う相手はよくよく吟味しなければならなかった。いきなり訪れる不作法をするような相手は、会っても時間の無駄になることがほとんどだからだ。
それを知らない父ではないだろうに、現れた客人を茶会室に通すなど、よほど気を使う必要のある相手であるらしい。
ルーナは内心で溜め息を吐いてから、身支度を調えるべく席を立った。
クラウスに呼び出されたメイドが、すぐさまデイドレスを手に部屋にやってくる。真新しいそれはいつかのデートの時に着ていたものに似ていて、ルーナは少し落ち着かない気分になった。
もしかすると、客人は彼だったりしないだろうか。そう思うと髪を結い上げる時間さえ惜しくて、ルーナは身支度が調うとすぐさま飛び出すように自室を後にした。
メイドが茶会室の扉を開けてくれる。
庭を望む茶会室は陽がよく差し込んで、白々とした光が目に眩しい。ルーナは明るい室内に視線を巡らせて、窓際に立つ後ろ姿に目を輝かせた。癖のある柔らかそうな栗毛に、すらりとした体躯。まっすぐに伸びた背に、濃色のジュストコールが素晴らしく似合っている。
ルーナは胸に湧いたよろこびのまま、淑女の振る舞いも忘れて彼に駆け寄った。
「ヴィクトル……!」
弾む声で名を呼ぶと、彼は重たげな動作で振り返った。
温度のない琥珀色の瞳が、貫くようにルーナを見る。その眼差しには以前まであった温かなもの、愛情や慈しみといったものが見当たらなくて、ルーナはヴィクトルまであと数歩のところで、足が止まって動けなくなってしまった。
ずっと恐れていたことが、起こって欲しくないと願っていたことが、会いたいと願っていた人の姿で目の前に現れてしまったらしい。
どうして、とルーナは心の中で呟いたが、それがなんの意味も持たないことは分かりきっていた。
以前と同じ、冷たい目をしたヴィクトルが、感情の籠もらない平板な声音で言った。
「急な訪問にも関わらず、俺と会う時間をくれて感謝する。……久しいな、ルーナ」
以前の彼とはまるで違う声の響きで名を呼ばれ、ルーナの胸は締めつけられたように痛んだ。
ほんの少しでも気を緩めてしまえば、恥も外聞もなく泣いてしまいそうだった。
ルーナは表情を取り繕い、喉が震えるのを数度の深呼吸で宥めてから言った。
「……ええ、ヴィクトルさま。ご無沙汰しております。お待たせしてしまい、大変申し訳ありませんでした。どうぞ、おかけになってください。すぐにお茶をお淹れしますから」
言うとヴィクトルが小さく頷く。
ルーナは淑女然と微笑んでから、ヴィクトルに背を向けた。メイドが引いてくれた椅子に腰を下ろし、ヴィクトルが正面の席に着くのを待って口を開いた。
「無作法であることは承知しておりますが、ひとつだけお聞かせくださいませ。……記憶が、お戻りになったのですね?」
社交の作法をまるきり無視して問いかける。
ヴィクトルは不快そうに眉を上げたが、それでも肯定を示して頷いてみせた。
「……どうやら、そのようだ。俺が間抜けにも記憶を失くしている間、きみに面倒と手間をかけさせたことを、まずは謝罪させてほしい。それと……今日きみに会いに来たのは、しておかなければならない話があったからだ」
「まあ、お話ですか? どのようなことでしょう」
にこやかに訪ねたルーナに、ヴィクトルは小さく溜め息を吐く。彼は物言いたげな視線をルーナの背後、茶の支度を調えているメイドに向けた。
なるほど、人払いが必要であるらしい。
メイドは心得ておりますというふうに頷くと、芳しい香りのする茶をヴィクトルとルーナに供して、それからワゴンを押して部屋を後にした。
茶会室にふたりきりになって、ヴィクトルは茶に手を付ける間もなく告げた。
「……きみとの、婚約を解消しようと思う。織物工場が順調に稼働し、借金もあらかた返済し終えた今、俺たちが婚約する利点はどこにも存在しない。きみも、俺には辟易しているだろうからな。ああ、もちろん、婚約の解消については、メイヴィス男爵の許可を得ている。きみが良いと言えば、解消の書類に署名してくださるそうだ」
「なるほど。お父さまが同席されないのは何故かしら、と思っておりましたが、すでに話がついていたのですね。……お父さまのことですから、後は本人たちに任せる、とでも仰ったのではありませんか?」
「……そのとおりだ。きみには悪いと思っているが……俺は、ミリアと別れるつもりはない。たとえきみと婚姻を結ぶことになっても、彼女を手放すことはないだろう」
とうに分かっていたことではあるが、改めて告げられると胸の中が苦いものでいっぱいになった。
こみ上げる憤りを感情のままぶつけられたら、どれだけ胸がすくだろうか。
記憶が戻ったとたん、ルーナの事などどうでも良いとばかりに振る舞い、悪びれることなくミリアへの愛を語るヴィクトルが、憎くて憎くてたまらなかった。
怒りと悲しみとで千々に乱れる胸の裡とはうらはらに、ルーナは湯気の立つカップを優雅に持ち上げた。
熱い茶に口をつけてから、にこりと微笑む。
「……ヴィクトルさまがそのように仰るのなら、言われるとおりにいたしましょう。わたくしは貴族の娘ですから、引き際はわきまえていてございます。なにより――愛情を分かち合えない相手との結婚なんて、わたくし死んでもごめんですもの」
「……そうか、そうだな。……だが、心配は要らない。きみの新しい婚約者については、メイヴィス男爵はすでに選定を始めている。きみならすぐに、素晴らしい相手と巡り会えるだろう」
そう他人事のように言われて、ルーナは目の前が真っ赤に染まるほどの怒りを覚えた。
婚約の解消を告げられたときよりも、ミリアへの愛を聞かされたときよりも、ずっと強く激しい怒りだった。
手にしたカップを投げつけなかったのは、ヴィクトルを気遣ったのではなく、怒りのあまり手が震えていたからだった。
眼差しに貫く力があれば良いのに、と思いながらルーナはヴィクトルをきつく睨みつけた。
「そのようなことを、よくもぬけぬけと……! あなたは、わたくしのことを一体なんだと――」
そう声を荒らげた瞬間、こみ上げたものが堰を切ったのが分かった。
無様を晒したくない一心で堪えていた涙が、どっと溢れて頬を濡らしていく。今すぐに泣き止まなければと思うのに、そう思えば思うほど涙は止まらなくなった。
ルーナが子供のようにしゃくり上げると、なぜかヴィクトルが泡を食ったふぜいで席を立った。テーブルを回り込むことすらもどかしい様子で、彼が駆け寄ってくる。ヴィクトルはルーナの肩に手を置くと、今にも泣き出しそうな顔で言った。
「ルーナ、すまない……! 頼むから泣かないでくれ。お願いだ。きみに泣かれると、どうして良いのか分からなくなる」
温かな手が頬に触れて、流れる涙を拭ってくれる。
予想もしていなかったことに驚いて、ルーナは思わず目を瞬かせてしまった。その拍子にぽろりと零れた雫も丁寧に指で掬い取って、そこでようやくヴィクトルは思い出したように胸元からハンカチを取り出した。
そっと握らせてくれたそれで涙を拭い、ルーナは気まずげな様子のヴィクトルに、不審たっぷりの眼差しを向けた。
「……あの、ヴィクトル? あなた、記憶を取り戻して、それで……わたくしが嫌いだったことも、思い出したのではなかったの?」
涙に濡れた声で問いかけると、彼はさっと視線を背かせた。
「……記憶は取り戻したが、だからと言ってきみを嫌いになるわけがない。そもそも、きみを嫌いだったことは一度もないんだ」
「でも……」
それならば何故、ミリア・ローレンスとの仲を見せつけたり、ルーナをないがしろにしたり、冷たい態度を取ったりしたのだろうか。
ルーナが疑問の眼差しを投げかけると、ヴィクトルが深く溜め息を吐いた。
「できれば打ち明けたくなかったが……これを言わずに去るのは、きみのためにならないのだろうな……」
ヴィクトルは重々しく言うと、椅子を引きずってきてルーナの隣に腰を下ろした。
なにかを躊躇するような間があって、それからヴィクトルはおずおずと手を伸ばした。ハンカチを握るルーナの手に自身のを重ね、吐き出すように言った。
「真実がどうであるかは別として、社交界でのきみの評判は現状、散々だと言って良いだろう」
「……ええ、そうね。とても腹立たしいことに」
「ああ、まったくだ。しかも馬鹿馬鹿しいことに、悪女であるきみは俺に相応しくない、などと言われているだろう? だが……実際のところは逆なんだ。本当は俺の方が、きみに相応しくない」
苦い声で吐き出して、ヴィクトルはルーナの手をきつく握りしめた。
「俺は……俺にはグラート家の血が一滴も流れていない。先代伯爵夫人である母が姦淫の罪を犯し、そうして授かったのが俺だ。つまり……俺にオルスト伯爵を継ぐ資格はない」
ヴィクトルの告白は思いもよらないものだった。驚きのあまり言葉を失くしたルーナに、ヴィクトルは微苦笑を浮かべて言った。
「どこの種とも知らぬ俺が、オルスト伯爵を名乗り、当主の座にしがみついているんだ。まったく、お笑いだろう? ……だが先代の伯爵が亡くなった当時、オルスト領はあまりに酷い有様だった。誰かが当主の座について、領地や民を導かなければならなかったんだ」
「……グラートの親族は頼りになるどころか、むしろいるだけで邪魔になる、とは父から聞いているわ。だからオルストのことを考えれば、ヴィクトルの選択は間違っていないと思う」
「ああ、さすがは親子だな。メイヴィス男爵も似たようなことをおっしゃっていた。それどころか男爵は、俺が爵位を継承する際に後押しまでしてくれたんだ」
「ちょっと待って。爵位継承の後押しをした、って……お父さまはヴィクトルの事情をいつからご存知なの?」
耳が早く口の堅い父ジョナサンのことだから、ヴィクトルの抱える問題を知っていても不思議ではない。だがそれを知った上で継承の後押しをしたなら、話は違ってくる。
継承法に反する真似をして、もしこれが詳らかにされれば、重い罰がくだされることになる。爵位の剥奪すらあり得るだろう。それを知らない父ではないのに、一体なにを考えていたのだろうか。
信じられない、と胸中で苦々しく零したルーナに、ヴィクトルは微苦笑を浮かべて言った。
「……メイヴィス男爵に打ち明けたのは、先代のオルスト伯爵が亡くなる少し前。俺が十七になった年のことだ」
「つまり三年も前から、お父さまはそれを把握してらしたのね。それなのに、わたくしにすらだんまりを決め込んでいたなんて……。馬鹿にするにもほどがあるわ」
ヴィクトルの事情を知ったルーナが、誰かに漏らしてしまうことを懸念して黙っていたのなら、これ以上の侮辱はないだろう。そして守るつもりで知らせなかったとしても、これはルーナを信頼していない、と言っているも同然だ。
覚えず柳眉を吊り上げたルーナに、ヴィクトルが宥める声音で言った。
「男爵を怒らないでやってくれ。おそらくメイヴィス男爵は、きみを巻き込みたくなかったのだろう」
「だとしても、腹立たしいことに変わりありません。後で、きちんと文句を言わなければ」
そう冷え冷えとした声で言うと、ヴィクトルがたじろいで少し身を引いたのが分かった。それをちらりと睨みつける。
「ヴィクトルもヴィクトルだわ。わたくしに打ち明けたくなかった、と言ったわね? そんなに……そんなに、わたくしが信用できなかったの?」
「まさか、違う。きみを愛しているから、だから、なにも言わずに離れるのが一番だと思ったんだ。……そもそも婚約の解消は、女性にとって不名誉なことだ。だが貴族でない男と婚約し続けることとは、それと比べるべくもないだろう」
「社交界における、わたくしの評判は散々だ、と先ほど言ったのはどこの誰かしら? ヴィクトルに心配されなくても、わたくしにこれ以上傷つくものはなにもないわ」
そうきっぱり告げると、ヴィクトルは見るからにしょんぼりと肩を下げた。
その様子はルーナに痛いところを突かれたから、と言うよりも、どこか途方に暮れているように見えた。
まるで投げたおもちゃを持ってきたのに、褒めることを忘れられてしまった子犬のようだ。なんとも哀れで、だからこそ愛おしい。そんな益体もないことを考えていたルーナは、ふと気づいてヴィクトルを見た。
「……もしかして、ずっと冷たい態度を取っていたのはそのせい? わたくしから婚約解消をするよう、わざと嫌われようとしていた、なんてことは――」
ヴィクトルが、ぴくりと肩を跳ねさせた。しまった、と言わんばかりのその態度に、ルーナは呆れきった目を向けた。
「信じられない。なんて非効率で遠回りなやりかたなの。あなたが取るとは思えない悪手だわ」
「……仕方がないだろう。あの当時は追い詰められていて、他に良い手も思い浮かばなかったんだ。メイヴィス男爵に婚約の解消を申し出ても、ルーナを説得するのが先だ、の一点張りで……。かと言って、きみに俺の血筋のことを打ち明けるわけにはいかなかった。それならば、いっそ……きみに嫌われれば良いと考えたんだ。俺の知る嫌われ者は浮気を繰り返す男だったから、それを真似するのが一番良いだろう、と……」
「……そう考えて、ローレンスさんを愛人にしたのね。では彼女とは?」
「利害が一致しただけの、所謂ビジネスパートナーのようなものだ。俺は愛人役を負ってくれる人物が必要で、彼女は還俗する手段を欲していた。そう見せる必要があるから親しくしていたが、彼女を愛していたことは一度もない。彼女と幼馴染だった、という話も、そう思わせるための作り話だ」
きっぱりと言う。
だがヴィクトルはそうだったとしても、果たしてミリア・ローレンスの方はどうだったのだろうか。
カフェで噛みついてきた様子を見る限り、あれが演技とは思えなかった。
彼女が愛人役を演じることで、もしかしたら、を狙っていた可能性は大いにある。
とは言え、それをヴィクトルに伝えてあげる義理はない。ヴィクトルの事情に巻き込まれたのは少し気の毒だが、それは彼女が選んだ結果であるのだし、結果として還俗が叶ったのだから、取り分としてはそれで十分だろう。
なによりカフェでの失礼な態度を、ルーナはまだ許す気にはなれなかった。
舞踏会でヴィクトルの隣にいたことも、今になって思い返すと正直、妬ましいし羨ましい。自分だって一度で良いからヴィクトルと踊ってみたかった。そう考えて知れず眉根を寄せてしまったルーナに、ヴィクトルはなにを思ったのか焦った様子で付け加えた。
「きみを傷つけることは後ろめたくはあったが、だがそれですべて上手くいくと思ったんだ。実際、きみは俺のことをすぐに見限ったし、婚約解消に向けて動き始めていた。下手を打ったと気づいたのは……社交界できみの悪評が流れてからだった」
後悔たっぷりの声音に、ルーナは小さく笑いを落とした。
「社交界とはそういうものですからね。……時代の流れに乗り遅れて没落する貴族が少なくない中、メイヴィスは沈むことなく栄華を極め続けている。その娘であり、女だてらに事業を担うわたくしは、金策に喘ぐものたちにとって目障りだったに違いないわ。わたくしを貶めて溜飲を下げられるなら、その内容はどうでも良かったのでしょう」
「……ようするに、俺の見通しが甘かった、ということだな。その上、なにをどうやっても、きみの悪評を拭えなかった間抜けぶりだ。だから、せめて俺のことが公になる前に、きみのことを手放させてほしい」
「……わたくしのことを、愛していると言ったのに?」
「きみを愛しているからこそ、だ。……しばらくは周囲が騒がしくなるかもしれないが、心配は要らない。きみが元婚約者のことなど知ったことか、という顔をしていれば、すぐに飽きて誰の口にも登らなくなる。メイヴィス男爵が後始末に動けば、きみが新しい婚約者を得るころには、みな俺のことなど忘れ去っていることだろう」
ずいぶんと甘い見通しだと思ったが、ルーナはそれを言葉にはしなかった。なぜならヴィクトルが次になにを言うのか、容易に想像がついたからだ。
「……だから、ルーナ。きみも俺のことなど忘れて、どうか幸せになってくれ」
あまりにそれが予想どおりで、もはや怒りも湧いてこなかった。
むしろ頭の芯の部分がすっと冷えていくような気さえする。だがそうして冷静になったおかげで、ルーナは自分がなにしたいのか、心の中にあるものを明確に捉えることができた。
「ヴィクトルの言い分は理解したわ。だから……今度はわたくしの番。まさか、自分の意見だけを押しつけるつもりではないでしょう?」
「もちろんだ。思えばきみには、侘びて済まないほどの迷惑をかけてしまった。だから俺にできることで、きみが望むことはなんでも叶えよう」
あっさり言質が取れてしまい、ルーナはにっこりする。
沙汰を待つ顔になって姿勢を正したヴィクトルに、ルーナは獲物を前にした猫のような目を向けた。
「でしたら、ひとつだけお願いがございます。わたくし正直言ってとても腹を立てておりますの。だって婚約を結んだことも、それを解消することでさえ、部外者のような扱いをされているでしょう?」
「……そう言われると、返す言葉もないな」
「まあ。どうか、お気になさらないで。謝罪は必要ありません。ただ黙って、わたくしに頬を差し出てくだされば、それで十分です」
殴らせてほしい、を婉曲的かつ端的に伝えると、ヴィクトルは虚を突かれたように目を瞬かせた。
ルーナの言葉は、よほど予想外だったらしい。彼の意表を突くことができて、ほんの少しだけ胸がすく思いがする。
ルーナがくすりと微笑うと、ヴィクトルは姿勢を正してからはっきり頷いてみせた。
「……男に二言はない。煮るなり焼くなり、きみの好きにしてくれ」
それは良かった、と朗らかに言って、ルーナはヴィクトルの手を解いて席を立った。
彼の正面に立ち、うつくしい形に締められたタイをひと掴みにする。ぐ、と引っ張ると、ヴィクトルが覚悟を決めたふうに目を閉じた。
ルーナはひとつ、ふたつ深呼吸をしてから、思い切り手を振り上げる、のではなく身を屈ませた。きつく引き結ばれた口元めがけて、勢いをつけて自身の唇を押しつけた。
正しいやり方も、上手い方法も分からないせいで、残念ながら夢見るようなそれにはならなかった。歯がぶつかる固い音がして、ルーナは痛みに顔を顰めながら面を上げた。
初めての口づけがこれとは切ない気もするが、ともあれ目的は達したし首尾は上々である。
呆然としているヴィクトルの唇に、きちんと口紅が移っていることを確かめて、ルーナはほくそ笑んだ。
「……ルーナ、いきなり、なにを……」
ヴィクトルが最後まで言うのを待たずに、彼のタイを解放する。返す手をデイドレスの胸元にやって、ルーナは力いっぱいにそれを引っ張った。
ストマッカーを留めていたピンが、ぷつぷつと音を立てて外れて床に落ちて行く。するとガウンがはだけ、コルセットが露わになった。
淑女としてはあるまじきあられもない姿を晒したルーナは、だが悠然と微笑んで言った。
「ねえ、ヴィクトル。わたくしが今、ここで悲鳴を上げたら、どうなってしまうかしら? メイヴィスの使用人は信頼しているけれど、人の口に戸は立てられないものね。醜聞はすぐに広まるわ。きっと、わたくしはふしだらな娘と謗られて、二度と社交界に出られなくなるでしょうね。それどころかコート・サウラを取り上げられて、修道院に追いやられてしまうかもしれない」
呆然としていたヴィクトルの顔色が、さっと変わるのが分かった。
彼は素早く立ち上がると、ジュストコールを脱いでルーナの肩に着せかけた。
「なんてことをするんだ、きみは。俺がきみしてきたことを思えば、積もる恨みを晴らしたいという気持ちはわかる。しかし、だからと言って、こんなきみの評判を傷つけるような真似をしなくても良いだろう」
「まあ。恨みを晴らす、だなんてとんでもないわ。ヴィクトル、あなたが言ったのよ。わたくしの望むものはなんでも叶えてくれる、って」
「……これが、この状況がきみの望みだと?」
「ええ。だって、あなたはわたくしの名誉を守りたかったのでしょう? でも、わたくしが一声上げれば、それは叶わなくなってしまう。それを防ぐ方法は、ただひとつ。あなたが責任を取るしかない」
「…………待ってくれ、ルーナ。きみは、話を聞いていなかったのか? 俺はオルストの血筋ではないんだ。これから爵位を失い平民になる男が、きみを娶れようはずがない」
そんなもの、と言ってルーナな鼻で笑った。
「なんの問題にもならないわ。そもそもメイヴィスは土地を持たない男爵家。ただ少しばかり歴史があるというだけで、生業として行っていることは商人と変わりがないもの。それに本来であれば、メイヴィス男爵は、わたくしの伴侶が継ぐはずだった。ヴィクトルがその地位につくことに、いったいなんの問題があるのかしら?」
早くに妻を亡くした父ジョナサンだが、誰になにを言われても、後添えを迎えることは頑として拒み続けている。後継を儲けるべきだと分かっているくせに、母以外を妻とする気になれないらしい。
だからオルスト伯爵家との婚約さえ持ち上がらなければ、今頃ルーナは遠い親族の誰かと結婚していたはずだった。その夫候補の誰かさんを、ジョナサンは後継として目しているようだが、とは言えまだはっきりと決まったことではない。それならば空いている席に、ヴィクトルを押し込んでも問題ないだろう。
これはヴィクトルも理解している事のはずなのに、一体なにを迷う必要があるのだろうか。煮え切らない態度を取り続けるヴィクトルに、ルーナは呆れた目を向けた。
「ヴィクトルは血筋と言うけれど、あなたのご母堂は伯爵家の出だわ。遡れば過去に王族の姫が降嫁したこともある。ただの男爵家の娘であるわたくしより、ヴィクトルのよほど尊い血の持ち主よ」
「だが母は、姦淫の罪を犯している」
「つまり、そこが問題なのね。気持ちは分からなくはない。でも残念だけれど、ことこの件に関してヴィクトルに拒否権はないの。だって償いになんでもひとつ叶えてくれる、と言ったのはあなたじゃない」
「だが――」
「わたくしは、あなたと結婚したい。ずっと側にいたいの。それがわたくしの、ただひとつの願いだわ。……あなたを心から愛しているのよ、ヴィクトル」
愛だけですべてが解決するとは思ってはいない。だが愛する相手と共に生きていくためなら、どんな困難だって立ち向かうことができる。そう言い募るルーナの必死さに、ヴィクトルは逃れられないことをようやく理解したのだろう。
おずおずと伸ばした手でルーナの頬に触れて、それから堪えきれないふぜいでルーナを掻き抱いた。
苦しいくらいの加減で抱きしめられたが、だがルーナはそれを微塵も嫌だとは思わなかった。どころかジレ越しに伝わるヴィクトルの温かさ、抱き合う身体すべてに響く鼓動の心地よさに、ずっとこのままでいたいとすら思った。
はしたないと思われないだろうか。そう頭の隅で考えながら、ルーナは恐る恐るヴィクトルの背に腕を回した。ジレの絹地に刺された模様をそっと指で辿ってみる。何故か小さく息を呑んだヴィクトルが、ルーナの耳元で囁くように言った。
「――ルーナ、頼むから、そんなふうに俺を誘惑しないでくれ。この手を放せなくなってしまう」
「望むところだわ。それに、もしあなたがわたくしを嫌いになったとしても、絶対に逃してあげないから。覚悟しておくことね」
父ジョナサンがそうであるように、その娘であるルーナもどうやら愛情の傾け方が頑なであるらしい。
ある種、不器用とも言えるかもしれない。だからヴィクトル以外は欲しいと思わないし、もし彼を失ったとしても、他の誰かを愛せるとは微塵も思えなかった。
ルーナは初めて自覚したそれに戸惑いながらも、今ヴィクトルの腕の中にいることを喜び、彼の胸元に頬を擦り寄せる。するとヴィクトルが、呆れと喜びの入り混じった複雑な声音で言った。
「……きみには、俺のせいで余計な苦労をかけることになるだろう。それが分かってると言うのに、それでもきみを諦められない俺を、どうか許してほしい」
「あら、許すも許さないもないわ。だって、苦労という点ではわたくしよりも、メイヴィスを継ぐヴィクトルの方がずっと大変だもの」
冗談半分、本気半分にそう言うと、ヴィクトルが小さく微笑いを漏らした。
「きみには一生敵わない、そんな気がするな……」
自嘲するような物言いだったが、彼の紛れもない本心だと思うと嬉しくて堪らなかった。胸の中がくすぐったくて、そわそわするままルーナは顔を上げた。
目が合うと、ヴィクトルが優しく微笑みを返してくれる。頬を撫でる指先に促されるまま顎を上げたルーナは、目を閉じると、夢見るようなそれを受け止めた。
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