表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/14

5 失った記憶と結ぶ約束

 ヴィクトルの記憶は本人が意識しないまま、緩やかに戻り始めているようだった。

 それを証左に、ふとした会話のあちこちに、今の彼では知り得ない事柄が多く交じるようになった。例えば王都で話題になったゴシップや、流行りの店の名前、劇場で上演されている戯曲の名前などを当然のように口にする。ただ個人については上手く記憶が繋がっていないようで、文書や記録で読んだ以上の話題が出ることはなかった。

 おかげでルーナも撤退を免れているのだが、過去に言及されるのは恐ろしく心臓に悪いことだった。あまりに咄嗟のことだから表情を取り繕うのも難しくて、そうすると、どうしたって振る舞いが不自然になるってしまう。

 目に敏いヴィクトルがそれに気づかないはずもなく、おずおずと問いかけられたのは、デートで遠乗りついでにピクニックへ出かけた先でのことだった。

 小川の流れる森のそば、小高い丘を覆い尽くすようにして緑の草原が広がっている。白や黄色の小花が咲く野原にブランケットを敷いて、そこに座ったルーナは目を瞬かせた。

「……挙動不審? わたくしが?」

 そう問われたままを返すと、ヴィクトルはこくりと頷いてみせた。

 彼は琥珀色の瞳に緊張を滲ませて、ルーナの反応の些細なところも見逃すまいとしている。下手な言い逃れや誤魔化しは、とても通用しそうにない。それでルーナはヴィクトルから視線を外して、小さく息を吐いた。

 小高い丘を吹き流れる風が、ルーナの巻き毛をふわふわと揺らしている。抜けるような青空に、柔らかに降り注ぐ陽射し。心地良い気候の、絶好のピクニック日和だ。

 それが台無しになるかもしれない話をするなんて、と苦い思いを味わいながらルーナは慎重に口を開いた。

「……挙動不審と言うなら、それはわたくしではなくヴィクトルの方じゃないかしら」

 ルーナの隣に腰を下ろしたヴィクトルが、意外なことを言われた、というような顔をしている。

 それに微苦笑を浮かべて、ルーナは後を続けた。

「よく考えてみて、ヴィクトル。あなたの言動に、おかしな反応をするのは、わたくし以外にもいるでしょう?」

「きみ以外に?」

「そう。例えばハンスとか、わたくしの父……は駄目ね。取り繕うのが無駄に上手くて、あまり参考にならなさそうだわ」

 ルーナが軽口を叩く横で、ヴィクトルは真剣な様子で考え込んでいる。彼はしばらく黙り込んでいたが、不意に面を上げた。

「それは……例えば、俺が仕事でなにかを言った時に、僅かに妙な沈黙が出来るあれのことだろうか」

「おそらくは。……そういう時に話しているのは、過去の出来ごとや思い出だったりしない?」

「過去? いや、そんなはずは……」

 覚えがあるのだろう。ヴィクトルは言葉を途切れさせたきり黙り込んでしまう。

 面には出していないが、混乱している様子が良く分かる。ルーナはヴィクトルの手にそっと触れてから、慎重に問いかけた。

「それなら教えて。ヴィクトルのお父さま、先代オルスト伯爵の葬儀の席で、司祭さまがミトラを落としたことは覚えている?」

「ああ、あれには驚いたな。笑ってはいけない状況だが、司祭が慌てる様子が可笑しかった。だが滅多に起こることではないから、不吉だ、と親戚連中が騒いで――」

 ヴィクトルの顔が不意に強張る。

 記憶を失っていて覚えていないはずが、当時のことを淀みなく話すことのできる違和感に、指摘されて初めて気づいたのだろう。

 ヴィクトルは低く唸ってから、縋るようにルーナの手を握りしめた。

「これは……どういうことだ。俺の記憶は目覚めてから失ったままで、まだ戻っていない。そう断言できる。だと言うのに、過去の出来ごとが当たり前のように頭の中にあるんだ。そのくせ現実感がまるでない。これはまるで、誰かの日記を読んだかのようだ」

「……きっと、記憶が戻る前兆なのでしょうね。オルスト領のこと、操業を始めたばかりの織物工場のことを思えば、とても……喜ばしいわ。でも……」

 揺れる感情のまま酷いことを口走ってしまいそうで、ルーナは唇を引き結んだ。

 ひとつ、ふたつと深呼吸をしてから、ことさら穏やかに微笑んでみせる。

「実はヴィクトルに願いがあって」

「ルーナ……?」

「あなたがすべてを思い出して、またわたくしのことが嫌いになってしまう前に、オルストを出て王都に帰らせて欲しいの。既製服店のことは、もちろん顧問として最後まで責任を持つわ。でも記憶が戻ったあなたは、わたくしと関わることすら厭うかもしれない。だからいつそうなっても良いように、引き継ぎの準備は既に整えてある。その点だけは安心してね」

「なにを……ちょっと待ってくれ。なにを言っているんだ、ルーナ。きみを嫌うなんてありえないことだ。それに、引き継ぎだって? まさか、きみは……ずっとそんなことを考えていたのか?」

 不安そうな声音で問われて、ルーナは首を横に振った。

「ずっと、というわけではないのよ。その日が来る時のことをばかり考えていたら、疲れてしまうもの。でも備えは必要でしょう? あなたが任せてくれた仕事を、中途半端にするつもりはないし、そんな不誠実なことはしたくないわ」

 そう、きっぱりと言う。

 ヴィクトルがルーナに既製服店の顧問を任せたのは、コート・サウラの実績ばかりが理由でなかったことは分かっている。婚約者としての仲を深める、という点はもちろんあっただろうが、実際はオルスト領にルーナを引き止めるための方便だったはずだ。

 それでも引き受けた仕事を適当にこなすような真似は、商売人としてのプライドが許さなかったし、だからこそ全力でことに当たってきたつもりだ。

 そのルーナが引き継ぎを口にしたからこそ、本気で王都に戻る気でいることを悟ったのだろう。しょんぼりと肩を落としてしまったヴィクトルに、ルーナは優しく微笑みかけた。

「……ねえ、ヴィクトル。わたくしはあなたが大好きよ。色々あって捻くれてしまったわたくしに、あなたはまっすぐに愛情を伝えてくれたでしょう? だから、わたくしも誰かを愛するということを知ることができた。本当に、感謝しているの。でも、あなたを好きになってしまったからこそ、嫌われてしまうことがすごく怖い」

 ヴィクトルははっと息を飲み、そのまま凍りついたように固まってしまった。

 愛を告げられて喜べば良いのか、怯えを口にするルーナを宥めるべきか、咄嗟に判断することできなかったのだろう。短くない沈黙の後、彼が選んだのは後者だった。

 ヴィクトルは繋ぐ手に力を籠めると、ルーナの肩をおずおずと引き寄せた。

 頬がヴィクトルの胸元に触れる。背に回された腕の力の優しさと、触れ合う身体すべてで伝わる鼓動のリズムが愛おしい。抱きしめられることが心地良いからこそ、この温かさがいつか失われるものだと身に沁みてしまって泣きたくなった。

 ヴィクトルはルーナを一度きつく抱きしめてから、絞り出すような声で言った。

「俺は……俺も、きみを心から愛している。だからこそ、きみがどれだけ怯えているか分かるし、安心してくれ、だなんて安易な言葉でごまかすような真似はしたくない。だが……今この瞬間、きみを愛おしいと思う気持ちに嘘はない。それだけは信じて欲しいんだ」

「……ごめんなさい、ヴィクトル。記憶を失ったあなたの方が、わたくしよりずっと大変な思いをしているのに……」

「どうか謝らないでくれ、ルーナ。俺は性根が単純にできているから、きみが想いを伝えてくれたことが嬉しくて、大声で叫びたいくらい浮かれているんだ」

 そういたずらっぽく言って、ヴィクトルは小さく溜め息を吐いた。耳のそばに落ちたそれが擽ったい。

「……記憶を失う前の俺が、きみにした愚かな振る舞いは消すことができないし、記憶を取り戻した俺がどうなるのか、考えれば頭の痛いことばかりだ。きみの不安も痛いほど分かる。だというのに、それでも俺はきみを手放したくない。きみが俺を愛してくれているならなおさらだ」

 だが、と言ってヴィクトルは抱きしめる腕を解いた。ルーナの頬に手を添えて、真面目な顔で言った。

「俺のわがままを押し付けて、きみを悲しませては本末転倒だろう。我を通したことで、きみに嫌われるのも恐ろしい。……だから、とても気は進まないが……きみが王都に戻りたいと言うなら、俺はきみの選択を尊重しよう」

「ヴィクトル……」

「ただし、俺にも少しは取り分が欲しい。だからきみが必要ないと言っても手紙は送るし、最低でも週に一度は会いに行くつもりだ。幸い織物工場は順調に稼働しているし、目下のところ領内で大きな問題も起きていない。もうじき社交シーズンも始まるし、いっそのことメイヴィス男爵のタウンハウスに滞在するのも良いかもしれないな」

 それではオルスト領を離れる意味がないではないか。ルーナは感動に潤んでいた瞳を瞬かせてから、むっとした眼差しでヴィクトルを睨めつけた。

「わたくしは、ヴィクトルと距離が取りたいと言っているのよ。あなたがタウンハウスに滞在するのでは、今となにも変わっていないじゃない」

「やはり駄目か。……きみの望みも俺の望みも叶えられる、良い考えだと思ったんだが」

 そう真面目な顔で言うのが可笑しい。ルーナは思わず吹き出してしまって、するとそれに釣られたようにヴィクトルも笑い声を上げた。

 ふたりでひとしきり笑って、それからヴィクトルは真摯な声音で言った。

「……ルーナ。たとえ離れたところにいても、俺はいつでもきみを愛している」

「わたくしも、愛している。――大好きよ、ヴィクトル」

 はにかんで想いを告げると、ヴィクトルが顔をくしゃくしゃにして微笑う。

 せっかくの美形が見る影もなかったが、今まで見た中で一番好ましい表情だと、そうルーナは心から思った。



 社交シーズンが始まって間もなく、初夏の風が吹く頃にルーナはオルスト領から去って行った。

 出立間際に抱きしめた身体の細さ、頬に触れる髪の柔らかさと彼女の甘い香りを思い出して、ヴィクトルは複雑な感情を溜め息に混ぜて吐き出した。

 ヴィクトルとの別れを惜しみ、宝石のような青の瞳を潤ませていたルーナは、ぞくりとするほどに美しかった。できることなら、あのままルーナを攫って閉じ込めてしまいたかったが、それをしなかったのは、偏に彼女を困らせたくなかったからだ。

 ヴィクトルが過去にしたことを考えれば、ルーナの愛を勝ち取れたことが、奇跡のように思えてならない。彼女の小さく愛らしい唇が愛の言葉を紡いだ瞬間を、ヴィクトルは一生忘れることはないだろう。

 あの時に思い余った行動を取らなかった自分を、ヴィクトルは良くやったと褒めてやりたいと思う。もし衝動のままに手を出していたら、彼女からの全幅の信頼は得られなかったはずだ。

 そう考えれば耐えるのも悪くない。半ば言い聞かせるように思いを巡らせてから、ヴィクトルは手元の書類に視線を落とした。

 癖のある右肩上がりの文字で書き付けられたそれは、ルーナの父ジョナサンが残していってくれたものだ。記憶が戻らない状態で、シーズンに社交することになったヴィクトルのために、必要になるだろう情報が整理されている。

 ヴィクトルの交友関係に始まり、過去に仕事で関わった人物とその事業内容、おまけに揉めた相手の名前まであって、喧嘩の詳細まで書かれているから驚きである。

 それ以外にも社交界での力関係や、抱えている事業や財政状況、誰と誰が火遊びに嵌まっているのかも記されていた。

 まったくジョナサンの持つ情報の広さと深さには恐れ入るしかない。

 ともあれこれがあれば、社交界で困ったことにはならないは間違いないだろう。

 懸念すべきことがあるとすれば、ジョナサンの情報網の及ばないカレッジ時代の人間関係だが、残されていた手紙やハンスから話を聞いた限り、あまり深い付き合いはしていなかったようだ。

 夜会で顔を合わせれば話をする程度らしいので、ヴィクトルが無駄口さえ叩かなければ、さほど苦慮せずにしのげるはずだ。

 残るはミリア・ローレンスだが、そもそも彼女は貴族ではない。誰かの付き添いでなければ、社交界に足を踏み入れることができない身分だ。それに彼女がヴィクトルの恋人だったことは広く知られていたから、他の誰かが彼女を誘うこともないだろう。

 そしてヴィクトルのパートナーは今後一切、ルーナ以外に有り得ない。

 夜会服で着飾ったルーナは、さぞや見栄えがすることだろう。

 ドレスの手配が間に合わなかったことは悔やまれるが、ともあれ彼女を伴って社交に出るのが楽しみだ。気分が浮き立つのを感じながら、ジョナサンがくれた情報を頭に叩き込んでいると、不意にノックの音が響いた。

 応えを返すとやって来たのはハンスで、彼は面倒な前置きはせず封書を二通、執務机に置いて言った。

「旦那さま、工場長より報告書が届いております。それと……こちらはローレンスさまからです」

 できれば聞きたくなかった名前に、思わず溜め息が漏れる。

「……またか。これ以上は手紙を送られても迷惑だ、と何度も伝えてあるのに話が通じないのは困るな。彼女とのことは、すべて俺に非があるのは分かっているのだが……正直言ってうんざりする」

 二通の封書のうち、どちらが重要なのかは開けずとも明らかだった。

 とは言え無視することはできず、ならば気の進まない方を先に処理すべく、ヴィクトルはミリアからの手紙にナイフを差し入れた。

 さっと封筒に刃を滑らせると、甘い匂いがふわと薫る。便箋に香水を振りかけるのは貴族女性に流行りの振る舞いだが、ヴィクトルは内心、そんなものは一刻も早く廃れてしまえば良いとさえ思っていた。

 香りもマナーだから香水自体に文句はないが、手紙にまで纏わせるのは、やり過ぎという気がする。便箋に纏わされた香りが、好みのそれでないからなおさらだ。

 ヴィクトルはうんざりする気分のまま、頬杖を突いて手紙に視線を滑らせた。

「……手紙には、なんと?」

 ハンスに問われて、思わず溜め息が漏れる。

「いつもどおりだ。直接会って話がしたい、俺はルーナに騙されている、悪辣な毒婦に囚われた俺を解放してあげたい、だそうだ。……過去の俺は、いったい彼女のどこに惹かれたんだ?」

「返答に困ることをおっしゃらないでください。……それよりも、返事はどうなさいますか? 特に伝えることがなければ、いつもどおりの内容をお返ししておきますが」

「ああ、頼む。彼女とのことは、いずれ直接会って片をつけなければならないが……考えるだけで気が重くなるな」

「では気晴らしに、御酒でもお持ちいたしましょう」

 ヴィクトルがあまりにうんざりした顔をしていたからだろう。普段の生真面目さが嘘のような冗談を口にして、ハンスがお茶を差し出してそう言った。

 ヴィクトルは恨みがましげな視線をハンスに向けた。

「そうしたいところだが、あいにくと仕事が山積みなんだ。王都から日帰り出来る距離とは言え、呼び戻されることのないよう、できるだけ準備は万全にしておきたい。それに酒税の優遇措置を取ったは良いものの、理解できず右往左往している者は少なくないからな。彼らへの対応も残っているし、工場も完全に目を離してしまうには不安がある」

 やるべきことをひとつずつ並べ始めたらきりがない。

 一刻も早くルーナに会いに行きたいのに、どれだけ急いでも王都へ向かうのはシーズンの中頃になりそうだった。そして社交のために王都へ行くのだから当然、社交をこなさなければならない。

 記憶喪失が露呈しないよう、最低限で済むよう調整しているが、それでも会う必要のある相手の名前を挙げれば、かなりの人数になる。

 面倒極まりないが、それもこれもオルスト伯爵としてあるためには必要不可欠なことだった。

 貴族としての立場と財がなければ、ルーナを娶ることは叶わない。それは記憶の無いヴィクトルが決意を示すため、改めてメイヴィス家に婚姻を申し込んだ際に、ジョナサンがやんわりヴィクトルに釘を刺したことでもある。

「――これは以前にも伝えたことだが、おまえが貴族としての義務を果たしている以上、私にこの政略婚を破棄する意思はない。……もっとも、ルーナがそれを受け入れるかどうか、は別の話だがな」

 突き放すようでいてその実、ずいぶんと温情の籠もった言葉だったと思う。

 ジョナサンには共同事業だけでなく、領地運営でもずいぶんと迷惑と世話をかけてしまった。

 ルーナとは別の意味で、一生頭が上がらない気がする。

 ヴィクトルは胸中で苦笑して、工場長からの手紙に目を通した。

 余計な前置きのないそれには、ここ数日の様子が平易な文章で記されている。ミリア・ローレンスのそれとは違って、読んで意味を理解できることをありがたく思いながら、だがそこに気になる一文を見つけて、ヴィクトルは眉根を寄せた。

 ハンスが気遣わしげな声で言う。

「……旦那さま、どうかなさいましたか? なにか問題でも?」

「――ん? ああ。大した額ではないんだが、収支に誤差が生じているらしい。調べてもどうにもならないから、俺に確認と修正を頼みたいそうだ。……やれやれ、計算か。こういう時は、経理のできる従業員が欲しくなる」

「ルーナさまは、いちから育てたそうですよ。コート・サウラの経理担当は、元々は針子だったと伺っております。計算の速さにルーナさまが目をつけて、それで抜擢なさったのだとか」

「なるほど、さすがは慧眼だ。ぜひとも見習いたいところだが、今から始めたのでは間に合わないだろうな……」

 溜め息混じりに言うと、ハンスが苦笑する。

「人を育てるのは、一朝一夕でできることではありませんからね。……経理ができるものがいないか、色々と伝手を当たってはいるのですが、計算のできる平民を探すのは難しい。かと言って、貴族の傍流を雇うのは予算的に不可能ですからね」

「確かにな。それなら……孤児院か、修道院はどうだ? ああいう場所なら、基礎教育はされているだろう。還俗と引き換えにすれば、興味を持つものもいるのではないか?」

 そう思いつき口にしながら、これは良い考えかもしれない、と内心で自賛していたヴィクトルだったが、ハンスが難しい顔をしているのに気づいて首を傾けた。

「どうした、ハンス。俺はルーナだけでなく、まさか教会に対してもやらかしていたのか?」

 冗談交じりに問うと、ハンスが弾かれたように面を上げた。なにかを躊躇うような間があって、ハンスは口を何度か開け閉めしてから、ゆらりと首を振った。

「いえ、そういうわけでは。ただ……ローレンスさまは以前、修道院においででした。今は還俗なさって縁を断っておられるようですが、念の為に近づかない方がよろしいかと思います」

「つまり、そちらでもやらかしていたということだな。……やれやれ、過去の俺にはきつい仕置きが必要そうだ」

「では、今度ルーナさまにお願いしておきましょう。そのためにも、今は仕事をこなさなくてはなりません。私もローレンスさまへ手紙を書いてまいります。また押しかけられても困りますし、返事は早い方がよろしいでしょう」

「そうだな。面倒をかけるがよろしく頼む」

 神妙な顔で頷いて、ハンスが執務室を後にする。

 残されたヴィクトルは立ち上がると、経理の資料をまとめた紙の束を書棚から取り出した。

 紐で綴られただけのそれは、紙のあちこちが折れていて、何枚かは千切れかけている。それで慎重に取り出したつもりだったが、別の書類束に引っかかって、外れかけていた数枚がはらりと落ちていった。

「……やれやれ、しまったな」

 小さくぼやいてしゃがみ込む。床に散らばったそれらを拾い上げ、ヴィクトルは小さく溜め息を吐いた。

 落ちた紙はどういう動きをしたものか、一枚だけ書棚の下に入り込んでしまっている。

 書棚はめったに動かすことのない家具だから、覗き込んだ隙間は見事に埃だらけだ。うんざりしながら指を突っ込んで、ヴィクトルは、おや、と首を傾けた。

 小さな金属の輪が、棚板からぶら下がっている。

 位置的に考えて螺子や金具の類が外れて、ということではないだろう。好奇心に動かされて引っ張ってみると、かたん、と頭上でなにかが嵌まるような音が響いた。

「これは……隠し細工か?」

 古い貴族の邸宅には、秘密を隠しておく部屋のひとつやふたつ備わっているという。

 あいにくオルスト邸にあるのは小さな物置で、中身はあらかた売り払って今はガラクタが残るのみだ。ハンスに聞く限り私的な書類はなかったらしく、であればもしかしたら書斎に隠されていたのかもしれない。

 少しわくわくした気分で立ち上がり、先ほど音がした辺りを覗き込む。見ると最上段の棚板が浮いていて、指一本分ほどの隙間が開いていた。

 そこを開けてみれば、中にあったのは上製本が一冊と、数枚の紙のみだった。もしや借用書ではなかろうか、と思わず身構えてしまったが、目を通すと紙は土地の調査報告書だった。

 オルストの地形や街道、海へと流れ込む水の有様や、地に生える草花や木々の種類まで書き付けられている。そして文末には、売却するにあたっての評価額が記されていた。

 手跡は見紛うことなくヴィクトルのもので、どうやら過去の自分は、オルストを手放すことを真剣に考えていたらしい。メイヴィス男爵の援助がなければ、過たずそうなっていたはずで、ヴィクトルは軽く溜め息を吐いてから、上製本に視線を転じた。

 臙脂色の革張りのそれはずいぶんと古びていて、角のところが褪せてしまっている。表紙を開くと扉部分にヴィクトルの署名と、十年ほど前の日付が記されていた。

「これは……俺の日記か」

 大層な隠し方をされていたのに、中にあったのが土地の調査報告書と日記とは拍子抜けである。

 ともあれ日記は意外に拾い物かもしれない。

 ヴィクトルは経費資料を執務机に置くと、日焼けした紙をぱらぱらと適当に捲った。

 日記にある最初の日付は、ヴィクトルの十歳の誕生日だった。

 この日記は母からの贈り物であるらしく、当時の自分はそれをたいそう喜んでいるようだった。

 記憶を失っているせいで覚えていないのだが、母レイチェルとヴィクトルの関係は良好とは言い難いようだ。

 ヴィクトルが伯爵を継ぐと同時に母はオルストを去り、今は実家に身を寄せている。実子のヴィクトルが当主であるのに、その母が実家に戻るとはあまりない事態だ。ハンスや家令のアランにその理由を訊いてみたが、折り合いが悪い、という曖昧な言葉しか返ってこなかった。

 ともあれ誕生日に贈り物をされ、それを喜んでいるのだから、幼少のころは家族らしい交流もあったのだろう。

 活発なたちの子が並べてそうであるように、幼少のヴィクトルは日記をさほど熱心には記していなかった。

 物珍しいものごとや、記念日や祝日の催し物があった時にのみ、思ったことや不満の類が残されている。だが年を追うごとに、記される頻度は増えていったようだ。

 おそらく次期当主としての教育が、本格的に始まった頃なのだろう。教育の成果が見える貴族らしい言い回しで、教師に対する文句が整った文字で書き連ねられている。

 ヴィクトルは苦笑しならがら読み進めていたが、ふと気づいてページを捲る手を止めた。

 日付はカレッジに入学して間もなくの頃だ。

 休暇でもないのに呼び戻されたことに対して、不満と戸惑いが綴られている。そして幾日か過ぎて、帰領した後のヴィクトルの筆致は千々に乱れていた。

 当時の伯爵であるヴィクトルの父は、誰に訊いても印象の変わることのないろくでなしだ。

 商才がないのはもちろんのこと、領地を運営する能力が欠片もなかったという。そのくせプライドばかり高く、短慮で視野が狭く騙されやすい。上手い話があると聞けばすぐに食いついて、借金ばかりを積み上げていた。

 ヴィクトルが領地に戻されたのは、その後始末をさせるためであったようだ。多額の借金に首が回らなくなった父は、領地を手放す寸前まで追いつめられていたらしい。そこでまず目をつけたのがメイヴィス男爵だった。

 土地を持たない男爵家でありながら、メイヴィスは資産家として知られている。そこに息子と年回りの丁度良い娘がいるとなれば、浅はかな人物が考えることとはひとつしかないだろう。

 父は男爵ふぜいの娘を伯爵家の嫁に貰ってやるから、借金を肩代わりしろ、と迫ったのだ。

 その申し出を呑んだメイヴィス男爵の器の大きさには驚かされるばかりだが、しかし当時のヴィクトルにはそれが理解できなかったようだ。日記には身売り同然の婚約に憤り、相手が男爵の娘であることに不満を零していた。

 ほどなくして婚約者であるルーナと顔合わせが行われたわけだが、図らずも自分の態度が最悪だったことが判明して、ヴィクトルは机に頭を打ち付けたくなった。

 今のルーナを見れば分かるとおり、当時十二歳のルーナはかなりの美少女だったらしい。日記には彼女の愛らしさが、自分で読んでもうんざりするくらいの熱量で語られている。ところが顔合わせでのヴィクトルときたら、父に婚約を押し付けられたことに対する不満と、婚約者に気に入られなくてはならない重圧感とで、うまく振る舞うことができなかったのだ。

 情けないにもほどがある。

 かくして顔合わせは失敗に終わったが、ともあれ日記の内容から鑑みるに、ルーナに対する印象は決して悪いものではなかったはずだ。それなのになぜ、過去の自分はミリア・ローレンスという恋人を持つことになったのだろうか。

 疑問に思いつつ日記に目を通していたヴィクトルは、再びページを捲る手を止めた。

 日付は婚約から凡そ二年後だ。

 父が病に倒れ先がないことを早馬で知らされて、慌てて領地に戻ったことが記されている。

 この頃はすでに父に対する感情は冷え切っていて、ヴィクトルが気にかけていたのは領地や、父が新たに借金を重ねていないかどうかだけだった。

 その後は忙しさのあまり、日記を書く余裕もなかったのだろう。ひと月ほどの空白があって、久しぶりに書かれたそれは短く簡素だった。

 だが目を通して息を呑み、その次の瞬間、頭に軋むような痛みが走った。ずきずきと脈打つように痛み、その激しさに吐き気がこみ上げてくる。ただ立っているのも難しくなって、ヴィクトルはその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。

 ヴィクトルは痛みに呻きながら、頬に触れる布地が不快で低く唸った。

 なぜこんなものがあるのだろうと思えば、どうやら自分はしゃがむこともできずに、床に倒れ込んでいるらしい。視界はまるで役に立たず、もう目を開いているかどうかも分からなかった。

 絨毯に爪を立てて、助けを求めるように、ヴィクトルは愛しい彼女の名を口にした。

「ルーナ……っ」

 眼裏に彼女のはにかむ微笑みが浮かんだが、その面影はふつりと消えて見えなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コメントを送る匿名でコメントが送れます。

お返事はこちらで書いてます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ