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4 初めての喧嘩と仲直り

ミリアの一件は、ヘレンの口から粛々と報告が上げられ、オルスト領の主要人物に素早く共有されることとなった。

 主要人物とは、すなわちヴィクトルとルーナの父ジョナサン、オルスト伯爵家令のアランと従僕のハンスだ。

 当主の記憶喪失を表沙汰にできない現状、ミリアの接触は警戒しなければならないものごとのひとつだった。

 オルスト領主であるヴィクトルは、領内に出る機会が多い。先だってルーナがされたように、不意の突撃をされたらミリアを避けるのは難しいだろう。

 彼らは長々と話し合っていたが、詳細がルーナに下りてくることはなかった。ただ後日にお茶会という名の聞き取りをされて、なにがあったのかを打ち明けることになった。

 ルーナの話を訊くヴィクトルに変わった様子はなく、お茶会は穏やかに進んだ。

 その空気が一転したのは、既製服店に話題が及んでからだった。

 ルーナの安全のために、街へ下りるのを止めて欲しいと言ったのだ。だがそれは出来ない相談だった。

 仕事として顧問を引き受けた以上は、中途半端なことはしたくない。それにまったくの新しい事業形態だ。街へ下りず店の様子も見ずに、顧問としての仕事をまっとうできるとは思えない。

 ルーナはそう強く主張したが、ヴィクトルも一歩も引く気がなかった。

 お互い折り合いがつけられず、最後の方は軽く言い合いになって、気まずい雰囲気のままお茶会はお開きになった。その翌朝にはいつもどおりに花が届けられたが、カードが添えられていなかったのは初めてのことだった。

 どうやら思っていた以上に、ヴィクトルを怒らせていたらしい。

 咲き始めの野ばらに顔を伏せて、ルーナは小さく溜め息を落とした。

 花瓶を手にしたヘレンが、呆れの含んだ声で言った。

「旦那さまにしては迂闊ですね。とは言え喧嘩をした翌日に、のんきな口説き文句は書けないでしょうから、当然と言えば当然かもしれませんが」

「喧嘩……。やっぱり、あれって喧嘩だったわよね……。わたくし、言い過ぎてしまったかしら……?」

「それは私の口からは申し上げられませんが、ですが多少の喧嘩はした方が良いと言いますよ。気まずくなるのが嫌だからといって、衝突を避けてばかりでは、ずっと分かり合えないままですから」

「……それは実体験?」

「いいえ、残念ながら聞きかじりです。ですが身近にいる仲の良い夫婦は、かなり頻繁に喧嘩してますよ。大事なのは喧嘩をして、仲直りをすることなのだとか」

「仲直り……。でも、それって、わたくしの非を認めるということよね? ……今回の件に関して、それはしたくないわ」

「その気持ちは分かります。ただ旦那さまは私の主ですから、少しだけ肩を持たせていただくと、あれはルーナさまが心配でたまらないからなんですよ。例の方のことだけでなく、人形好きの大家に目をつけられたのも、良くなかったみたいですし。旦那さまはルーナさまが大事だからこそ、僅かでも嫌な思いをさせたくないんです」

 それはルーナも分かっている。

 街へ下りるのを禁じるのも、預けた事業を半端に取り上げようとするのも、全て彼がルーナを大切に思うがゆえの行動だ。

 そのこと自体は嬉しく思えるものだが、真綿に包むようなやり方は、ルーナの流儀にそぐうものではない。なにより信頼されていないような、ルーナの意思を無視しているように感じられるのだ。

 だからこの件に関しては、ルーナはまったく引く気がなかった。だがヴィクトルと仲違いしたまま、気まずい思いを味わい続けるのも嫌だった。

「……ヴィクトルさまの言うことは聞けないけど、謝るというのは駄目かしら。例えば言い方がきつかった、とか、わたくしの態度が良くなかった、とかそんなふうに……」

「それはなんとも言えません。旦那さまは意外に頑固ですし、そういうところは記憶を失っても変わっていませんから」

 ルーナは思わず目を瞬かせてしまった。

 頑固、とは彼らしくない言葉だ。

 記憶を失う以前のヴィクトルについて、ルーナが知っていることは僅かだ。だから判ずるとすれば今のヴィクトルの印象のみになるだが、それでも頑固という言葉は上手く結びつかない。

 ルーナの知る彼は、穏和で優しい気遣い屋だ。そして、とても愛情深い。戸惑うルーナに気づいたのか、ヘレンがくすくすと微笑いを漏らした。

 ルーナの手から花束を受け取り、手早く花瓶に活けてから言う。

「旦那さまは、ルーナさまに好かれたくて必死ですからね。そういうところは、見せないようにしているのでしょう」

「つまり普段のようには取り繕えないくらい、ヴィクトルさまはわたくしに腹を立てていた、ということね。……どうしましょう。謝っても駄目な気がしてきたわ」

 すっかり顔色を失くし、頬に手を当てて言ったルーナを眺めて、ヘレンは感慨深げに口を開いた。

「……今のルーナさまを見たら、旦那さまはものすごく面白いことになりそうですけどね」

「それって、どういうこと?」

「つまり――」

 ヘレンの言葉を遮るように、控えめなノックの音が響いた。ヘレンの伺うような視線に、ルーナはこくりと頷く。

 応えを返したヘレンが扉を開けると、そこにいたのはヴィクトルだった。

 表情に緊張を滲ませた彼は、ルーナに視線を当てると、いつになく畏まった様子で口を開いた。

「ルーナ、おはよう。その、もし良ければ、なんだが……食堂まで、きみをエスコートさせて貰えないだろうか」

 ルーナは思わず目を瞠り、それからヴィクトルをまじまじと見返してしまった。

 朝食を食堂で摂るのはいつものことだが、こんなふうにヴィクトルが迎えに来るのは初めてだ。

 たぶん、昨日のことがあったからだろう。すっかり拗れてしまう前に、ヴィクトルが歩み寄ってくれているのが察せられて、ルーナはほっと安堵の息を吐いた。

 ヴィクトルが差し出した手を取り、にこりと微笑んだ。

「……ええ、ヴィクトルさま。よろこんで」

 隣でヘレンが含み笑いをしているのが分かったが、気づかなかったことにする。

 エスコートされて部屋を出ると、すぐにヴィクトルが口を開いた。

「昨日は、すまなかった。言葉がきつくなっていたし、すぐに謝罪できなかったことも悪いと思っている。きみのことを案じるあまり――というのは言い訳だな。今こうして隣にいてくれて、心から感謝しているんだ」

「いいえ、どうか謝らないでください。わたくしも、昨日は言い過ぎてしまったと思っていたんです。ヴィクトルさまが心配してくださっているのは分かるのに、どうしても頷けなかったわたくしが悪いのですから」

「そんなふうに、きみに謝られてしまうと立つ瀬がないな。俺は……ただ、きみを大事にしたいだけなんだ。それだけのことが、困ったことにとても難しい。覚えていない過去の後悔があるから、余計にどうすれば良いのか分からなくなる」

 真摯な口調で言って、ヴィクトルはルーナをエスコートする手に少しだけ力を籠めた。

「本音を言うなら、できればきみをここに閉じ込めて、きみを傷つけるものごとや、きみを害そうとするものから遠ざけておきたいと思っている。だがそれをしてしまうと、きみらしさを失うことになるだろう。それは……好ましいとは言えない」

「……それは、そうですね。そんなことされたら、わたくしも困ってしまいます」

 内心でぎょっとしたのを押し隠して、さらりと返す。

 ルーナを閉じ込めたい、とはなかなかに物騒な発言である。冗談として流してしまいたいが、そう思うにはヴィクトルの声も表情も真剣で、その気になれば実行できる力があるだけに、背筋にぞわりとするものがある。

 ルーナは引き攣りそうな表情を笑みに保ち、ヴィクトルを宥める口調で言った。

「そんなふうに尊重してくださるから、わたくしは安心していられるのでしょう。とは言え、ヴィクトルさまばかりが我慢するのは良くありません」

 ですから、と言ってルーナはヴィクトルに穏やかに微笑みかけた。

「折り合いをつけるところから始めませんか? ヴィクトルさまがわたくしに理解を示してくださったように、わたくしもヴィクトルさまの考えを尊重したいのです」

「――俺の考え、か。……それならひとつ、きみに頼みがある」

「頼みですか?」

「うん。……無理強いをするつもりはないんだが、その……俺のことをヴィクトル、と敬称をつけずに呼んで欲しいんだ。そうすれば今より、距離が近くなった感じがするだろう?」

 そういうものだろうか。

 ルーナは内心で首を傾げたが、しかし彼を名前呼びすること自体に異存はない。

「そうすることで失礼に当たらないのでしたら、わたくしは構いません。――ヴィクトル」

 呼ぶ声が少しだけ震えてしまったのは、らしくない緊張をしたからだ。自分の不甲斐なさに溜め息を吐いたルーナだったが、対してヴィクトルの反応は明快だった。

 ルーナに振り向けた顔が、喜色満面に染まる。澄んだ琥珀色の瞳を輝かせて、噛み殺せない喜びに口元がもぞもぞしている。興奮に、だろうか。頬がうっすらと上気している。

 もし彼に尻尾があったなら、ぶんぶんと大きく振っているだろう大変な喜びようだった。

 ヴィクトルはルーナの手をぎゅっと握ると、おずおずと口を開いた。

「それなら、ルーナ。もうひとつ頼みがあるんだが、できれば敬語も止めてくれると嬉しい」

「ええ、そちらも構いません。ただ……口調をいきなり変えるのは難しいですし、あまり砕けた喋り方はできないと思います。それでもよろしければ、ですが」

 貴族の娘として恥ずかしくないよう受けた教育は、すでに身に馴染んでしまっている。敬語を止めたとしても、ヴィクトルが望むような振る舞いはできそうにない。

 振る舞い言えば、とルーナは先日のカフェでの一件に思いを巡らせた。

 ヴィクトルの恋人であるミリア・ローレンスは、ルーナに対してずいぶんと気安い態度を取っていた。普段のミリアをルーナは知らないが、ヴィクトルに対してもあんなふうだったとするなら、つまりああいうのを望んでいるのだろう。

 記憶を失っていても、結局のところ好ましいと思うものごとは変わらないらしい。

 自分とはかけ離れたものを根底では求める彼に、複雑な思いを抱いていると、ヴィクトルがルーナの顔を窺うように言った。

「ルーナは、俺に対して思うことはないだろうか。して欲しいことや、して欲しくないことがあれば、なんでも言ってくれ」

「それは……その、少し難しいわ。閉じ込められるのは困るけれど、ヴィクトルはそういうことを言っているのではないでしょう?」

「それも願望として受け止めるが……そうだな。つまり俺が言いたいのは、きみのわがままを聞きたい、ということなんだ」

「……それなら、街に下りたい、と言っても許してくれる?」

 慣れない口調に苦心しながら視線を上げると、ヴィクトルが小さく息をのんだ。なにかを噛みしめるような間があって、それから彼はしっかりと頷いてみせた。

「――ああ、もちろん。ただし、街に下りるときは俺も同行させて欲しい。領主である俺が横にいれば、きみに良からぬ欲を向ける者も減るだろう」

「それはそうかもしれないけれど、でも、ヴィクトルだって忙しいのに……」

「そこはメイヴィス男爵が手を貸してくれているから問題ない。……あまり誇って言うことではないんだがな」

 後の方は苦笑交じりに言う。

 領地運営の一部と、織物業の大半を父ジョナサンが担っている状況だ。記憶を失っているから仕方がないこととは言え、共同経営者であるヴィクトルには内心忸怩たるものがあるのだろう。

 ルーナへ視線を向けたヴィクトルは、少し表情を改めて言った。

「そもそも既製服店も、経営の責任者は俺だ。門外漢であるから無用な口出しをするつもりはないが、さりとて顧問のきみに任せきりは良くない。それに共同でものごとに当たる、というのはとても婚約者らしいと思うからな」

 そうきりりと言ったところで、ちょうど食堂の扉が目の前にある。側で控えていたハンスが扉を開けてくれて、ルーナたちは食堂に足を踏み入れた。

 オルスト伯爵邸の食堂はいくつかあって、中には大人数を招いて晩餐会を開ける広さのものもあるのだが、普段の食事には不向きだし不便だ。それでヴィクトルたちが使っているのは執務室の真下、テーブルに椅子が六脚置かれているだけの小さな部屋だった。

 小さいと言ってもルーナとヴィクトルのふたりには十分な広さだし、部屋は明るく差し込む陽射しが清々しい。窓から見える菜園の眺めが可愛らしくて、王都の屋敷にあるメイヴィス邸のそれより居心地が良いくらいだった。

 ハンスが引いてくれた椅子に腰掛けると、給仕のメイドが手早く朝食の支度を調えてくれた。

 オルスト伯爵家の食卓は基本的にはシンプルだ。

 メニューは焼いたパンにポタージュスープ、オムレツと温野菜にハムのソテーがひとつの皿に載せられている。ハムは日によってソーセージになったり、ベーコンになったりするが、ともあれあまりメニューに変化はない。

 他の貴族は朝から皿をずらりと並べる食事を摂ったりするらしいが、ルーナはその手の贅沢は好まない。むしろ残さず食べられる量で、素晴らしく美味しいオルストの朝食を心から気に入っていた。

 焼き立てのパンにあんずのジャムをたっぷり載せて、淑女らしく上品に頬張っていると、ヴィクトルが思い出したふうに口を開いた。

「メイヴィス男爵は、いらっしゃらないのか? 昨夜に出かけるとは聞いていたが、さすがにもうお戻りだろう?」

 葡萄ジュースを注いでいたハンスが、ちらと苦笑を浮かべた。

「ええ、明け方近くに。……どうやら、かなりお酒をお過ごしだったようです。朝のご挨拶に伺ったのですが、二日酔いがひどいので、しばらく寝かせておいて欲しい、と仰せで」

「……それは珍しいな。酒豪で鳴らしたメイヴィス男爵が、翌日に響くほど酔うなんて初めて聞いた。以前に酒を酌み交わしたときは、笊どころか枠という勢いだったんだが」

 ルーナはオムレツを切り分けていた手を止めて、ヴィクトルに視線を向けた。

「父と、飲んだことがおあり――あるの?」

「ああ、何度か付き合わされた。我が家にあった先代のコレクションを金策のために売り払った時、いくつかを男爵が買い取ってくださったんだ。それで、どうせなら飲んでやろう、と酒盛りになったことがある。その場にいた使用人たちも巻き込んで、あのときはひどい目にあった」

 当たり前のようにそう口にするヴィクトルに、ルーナはひやりとするものを味わっていた。

 手が震えそうになるのを意思の力で押さえつけて、ちらとハンスを見る。ハンスも表情を驚愕に染めていたが、声だけは平板な調子で応じてみせた。

「おかげで酒量の限界を知れたのですから、悪いことではなかったと思いますよ。酒で失敗する方は、決して少なくありませんし」

「それはもっともだ」

 軽く笑って頷いたヴィクトルは、ルーナを見て不思議そうに首を傾けた。

「……ルーナ? 食が進んでいないようだが、口に合わなかっただろうか」

「い、いえ。いつもどおり、とても美味しいです。ただ……その、父が二日酔いだなんて久しぶりに聞いたから、少し驚いてしまって」

「娘のきみでもそう思うのか。……メイヴィス男爵が昨夜一緒に飲んだ相手は誰だったか、ハンスは聞いているか?」

「昔馴染みとは伺っておりますが、具体的なお名前までは存じません。……なにか、気になることでもおありですか?」

「少しな。とは言え、無理に聞き出すほどのことではない。それに、その必要があれば男爵も情報を共有してくれるだろう」

 そうですね、と同意を示してハンスが頷く。その彼に視線を当てて、ルーナはさり気なさを装って言った。

「……ハンスにお願いがあるのだけれど、お父さまに酔い醒ましを持って行って欲しいの。我が家特製のレシピを教えるから、後で淹れてもらっても良いかしら」

「メイヴィス家特製ですか。それは効果がありそうですね」

「亡くなったお母さまが淹れていたもので、わたくしにレシピを残してくださったのよ。だから悪いけどお茶の葉と、少し香辛料を分けてもらえる?」

「お安い御用です。他にも必要なものがあったら、遠慮せず申し付けてくださいね」

 にこやかに言うハンスに、ルーナはこくりと頷いた。

 朝食が終わってすぐはキッチンが混み合うそうで、それで酔い醒ましは茶会室で淹れることになった。ヴィクトルは興味深げにしていたが、これから街で人と合う予定があるらしい。後ろ髪引かれる様子で食堂を退出するのを見送って、ルーナはハンスと給仕役のメイドと共に茶会室へ向かった。

 使用する予定の無かった茶会室は、しんと静まり返っている。普段であれば美しく活けられて言う花もなく、テーブルクロスも白地のものがかけられているだけだ。

 華やかさが無いせいで、まるで別の部屋に入り込んでしまったような気さえする。ちょっとだけ驚いたルーナだったが、すぐに気を取り直すとハンスの腕を引く勢いで問いかけた。

「ねえ、ハンス。先代伯爵のコレクションの話、あれはヴィクトルが爵位を継いですぐのことでしょう? それって、つまり……記憶が、戻っているということではないの?」

 ハンスが首を横に振る。

「分かりません。ですが事故にあって意識を取り戻して以降、旦那さまがあのようなことをおっしゃったのは初めてです。今までは過去の出来事や記録に触れても、不思議そうにするばかりでしたから。ただ……」

「ただ?」

「記憶が戻り始めているにしては、振る舞いに違和感が多々ございます。伯爵位を継ぐ以前ならともかく、あのように朗らかな会話をなさる方ではありませんから。ですのでもしかしたら、旦那さまは戻った記憶を、ご自身の記憶として認識していないのかもしれません。……私には医学的な知識がありませんので、単なる想像に過ぎませんが」

 それとなく言葉を濁したハンスに、ルーナは小さく苦笑を漏らした。

「確かに以前のヴィクトルさまなら、わたくしに微笑みかけはしないでしょうね。でも……これから先、どうなるかは誰にも分からないわ。今この瞬間に、ヴィクトルさまが記憶を取り戻す可能性もある」

 ルーナは気を抜くと震えそうになる手を、ぎゅっと握りしめた。

 その時のことを考えると、恐ろしくて居ても立ってもいられなくなる。

 目の奥が熱い。不安とともにこみ上げてくるものが睫毛を濡らしたが、ルーナはそれを瞬きで散らしてから、淑女らしく微笑んでみせた。

「……帰り支度を調えるわ。忙しいところ悪いのだけれど、手配をお願いできる?」

「ルーナさま、ですが……」

「大丈夫よ。ずっと覚悟していたことだもの。今の幸せは仮初めのものだ、って。……それに、今すぐ王都に帰ろうというわけではないのよ。いつ出て行け、とヴィクトルさまに言われても良いように、準備と心構えをしておきたいだけだから」

 ヴィクトルの記憶が戻り、以前のような態度を取られるようになったとして、いくらなんでも叩き出される、ということはないだろう。だが心を傾けた相手に疎まれて、そうと分かっていて側にいるのは苦痛なだけだ。

 誰に臆病者と謗られても構わないから、できることなら今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

 ヴィクトルの側近くにいるハンスには、ルーナの怯えが伝わったのだろう。彼は物言いたげにしていたが、それ以上の反駁はせずに頷いてみせた。

「ルーナさまのおっしゃるとおりに致しましょう。ですがその前に、酔い醒ましの作り方をお教え願えますか? 手ぶらで茶会室を出ては、さすがに怪しまれてしまいますから」

「……そうね。それじゃあ、お茶の葉と生姜、はちみつとシナモンに甘藷の澱粉を用意してくれる? ああ、それと。お湯は薬缶ではなくて鍋で沸かして、カップは飲むのとは余計にひとつお願い」

 頷いたハンスの視線を受けて、会話には加わらず控えていたメイドが茶会室の隣に消えていく。ややあって戻ってきたメイドとハンスに酔い醒ましの作り方を伝授して、ルーナたちは素知らぬ顔で茶会室を後にした。

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