3 カフェとタルトと直接対決
乗馬の誘いは曖昧に回避したルーナだったが、既製服店の顧問については、あいにくと断ることができなかった。
畏れ多いことですから、という言い訳はコート・サウラを引き合いに出され、オルスト伯爵邸に滞在している現状では、忙しいので、という一般的な断り文句も使えなかったからだ。なにより既製服店を面白そうだ、と内心で思っていたことをヴィクトルにはすっかり見抜かれていたようだった。
あれよあれよと言う間に経営に携さわされて、領都にある空き店舗をいくつか下見した帰りのことだった。
乗り込んだ馬車の中で、店舗の平面図と資料とを見比べていると、付き添いのメイドが遠慮がちに口を開いた。
「ルーナさま。もしよろしければ、伯爵邸に戻る前に少し休んでいかれませんか? 実はこの近くに、ハンスの親族が経営しているカフェがあるんです。頼めば個室を使用できますし、なによりタルトが美味しいと評判のお店なんです。このまま帰っても、ルーナさまはお仕事をなさるのでしょうし、それなら気分転換にいかがでしょう?」
ヴィクトルが付けてくれたメイドは、名前をヘレンという。
赤みがかった栗毛はかなりの癖毛で、結い上げたうなじに落ちる後れ毛が、くるくると渦を巻いている。溌剌とした笑顔が印象的な女性で、ルーナの悪評を知っていただろうに、それを面に出さない聡明さも持っている。
細かなことに良く気づいて、だが心配りが過分でない彼女をルーナは気に入っていた。
そのヘレンが休めと言うのだから、相当に疲れて見えるのかもしれない。このまま領館に戻ればヴィクトルはルーナを構うだろうし、それなら確かに一息入れておいた方が良さそうだ。
手元の書類から顔を上げたルーナは、正面に座るヘレンに笑みを向けた。
「それは良い提案ね、ヘレン。丁度、甘いものが食べたいと思っていたところなの。――ああ、そうだわ。個室があるなら、あなたも同席してくれる? せっかくの美味しいタルトも、ひとりで食べたのでは味気ないもの」
「おまかせください。ルーナさまのご用命とあれば、このヘレン、喜んでお供いたします」
きりりとした表情で頷いたヘレンだが、よくよく見れば口元が嬉しげに緩んでいる。誘われると分かっていての申し出だったらしい。
ルーナは軽やかに笑って、馬車をカフェへと向けた。
ヘレンが評判だと言ったのも頷ける、店構えの洒落たカフェだった。
正面に窓を広く大きく取った作りで、深い臙脂に塗られた格子には、透き通った硝子が入れられている。窓にはカーテンがかけられていなかったので、店内の賑やかな様子が見て取れた。
驚いたことに席は店内だけでなく歩道にも作られていて、臙脂色のオーニングが差し掛けられていた。見上げると張り出した二階のテラス席にも、同色のパラソルが並んでいる。
「テラス席から眺める夕陽が綺麗で、だからデートにはもってこいなんですよ」
そうヘレンが言ったとおり、テラス席にいるのは若い恋人たちばかりだった。
おそらくは、あれも一種の宣伝なのだろう。幸せそうな恋人たちを外から見える位置に案内することで、衆目の興味と関心を上手く集めている。経営を担っているのはハンスの従兄弟で、なるほど抜け目のなさは血筋であるらしい。
ルーナは給仕の女性に案内されて店内を進み、廊下の奥まった場所にある個室に通された。
室内はティーサロンのような内装で、貴族の邸宅のそれと遜色がない。聞けばオルスト伯爵邸を参考にしたそうで、ルーナは思わず微苦笑を漏らしてしまった。
ヴィクトルのこの手の鷹揚さは、領都のあちこちで見ることができる。平民を人とも思わなかった先代とは正反対のそれを、領民はたいそう歓迎しているそうだ。
既製服店の下見が予想以上にスムーズに運んだのも、彼への信頼があったからこそだろう。
ルーナは給仕が引いてくれた椅子に腰を下ろし、改めて室内に視線を巡らせた。
「とても素敵なお店ね。内装を見た感じ、貴族の来店を想定しているようだけれど、これはオーナーの考えかしら」
部屋の入り口側の席に着いたヘレンが、苦笑して首を横に振る。
「だとしたら慧眼ですけど、残念ながらメイヴィス男爵の助言があったからだそうですよ。領都の今後の発展を考えて、貴族を受け入れられる店を作っておくべきだ、と」
「……まあ、お父さまは相変わらず暗躍なさっているのね」
「暗躍だなんて、とんでもない。旦那さまも仰ってますが、オルスト領の発展はメイヴィス男爵のお力によるものが大きいですから」
もちろん、と言ってヘレンは小さく胸を張った。
「旦那さまや領民の努力があってこそ、ですけれど。辛いことは沢山ありましたけど、それでも土地を離れなかったのはオルストを愛していたからですし。ですからルーナさまが、旦那さまに手を貸してくださっていることは、領民たちに好意的に受け入れられているんですよ」
「……最後に下見をした店舗、相場よりも家賃が低かったのは、もしかしてそのせいだったりする?」
「あー……あれは、どちらかと言えば、ルーナさまをお気に召したんだと思います。ああ見えてあそこの大家は、綺麗で可愛いものが大好きなんですよ。なにしろ人形のパーツを焼くための窯を、趣味で所有しているくらいで。金の巻き毛に青い瞳のルーナさまは、人形めいた容貌をなさっていますからね。理想的だったんじゃないでしょうか」
大家の趣味はともかく、人形のように愛でる対象として見られていたならぞっとしない話だ。
ルーナは最後に見た店舗を除外することにして、テーブルに置かれていたメニューに視線を落とした。
今は昼をいくらか過ぎた刻限で、それでメニューにはデザート類や軽食が並んでいる。その中からルーナはベリーのタルトとお茶を、ヘレンはクリームのタルトとコーヒーを注文した。
コーヒーはここ数年で王都から広まった飲み物で、オルスト領内でもじわじわと流行り始めているようだ。香りはともかく苦い味のどこが良いのか解らないのだが、ヘレンが言うにはその苦味が良いらしい。
ほどなくして運ばれてきたタルトは、カットされたひと切れではなく、手のひらに載る大きさの円形のものだった。黄金色に焼き上げられた生地の上には、たっぷりのクリームとベリーが零れんばかりに載せられている。
ヘレンが頼んだのも同様で、クリームはカスタードとメレンゲの二層だ。メレンゲには綺麗な焼き色が付けられていて、白とのコントラストが美しい。どちらも抜群に美味しそうだ。
「これは……評判になるのも分かるわ。同じタルトでも、これだけ印象が異なるのだもの。すべてのメニューを制覇するために、通い詰める人もいるのではないかしら」
「実際、常連さんは増えているみたいですよ。だから飽きさせないために季節限定のタルトを作って、それがまた評判を呼ぶのだとか。テラス席はチャージ料が要りませんから、それもあって若い人たちに人気なんです。もちろんドレスコードはありますけど、デートならお洒落して当然ですし」
「なんて商売上手なのかしら。オーナーには一度お会いして、話を伺ってみたいものだわ」
しみじみ言うと、ヘレンが困ったように眉を下げた。
「もし面会をご希望でしたら手配しますが、個人的にはおすすめしかねます」
「まあ、どうして?」
「変わり者なんです。お店のことがなにより大事で一番だから、それ以外はどうでも良いって考え方で。口を開けば嫌味ばかりですし、誰に対しても無駄に偉そうなので、見ていてハラハラします」
なるほど、それは確かに変わり者だ。そしてルーナの父、ジョナサンが気に入りそうな人物像でもある。
だから助言をしたのだろうか、と思いながらルーナはカトラリーを手に取った。
木苺に黒スグリとマルベリーと、酸味のあるベリーたちに濃厚なクリームが良く合っている。タルト生地はさくりと軽くて、おかげでいくらでも食べられそうだ。
ルーナは優雅な所作で食べ進め、皿を空にしてしまう前にお茶に手を伸ばした。
ほう、と息を吐く。
「お茶も美味しいわ。良い茶葉を使っているのはもちろんだけれど、淹れる技術が優れているのでしょうね。これは是非、機会を作って昼食に訪れなくてはならないわ」
「それは素晴らしい考えです」
相伴する気しかないヘレンに、ルーナはくすくすと微笑う。と、不意に廊下の方から近づく足音と抑えたような話し声が聞こえてくる。店の雰囲気には似つかわしくないそれに、ルーナは思わずヘレンと顔を見合わせてしまった。
なにかあったのだろうか、と思った矢先、ノックも無しに勢いよく扉が開いた。現れたのは見覚えのある赤毛の女性で、彼女はルーナを見てにこりと微笑んだ。
「はじめまして、ルーナさま。私、ミリア・ローレンスと申します。こちらにルーナさまがいらしていると聞いて、これは是非挨拶をしなければ、と無礼を承知で駆けつけさせていただきました」
がたん、と音を立てて席を立ったヘレンが、ルーナを庇う位置に立つ。警戒心も露わなそれに苦笑していると、開いたままの扉の横で給仕の女性が泡を食った様子で頭を下げた。
「た、大変申し訳ありません……! メイヴィスさまに失礼なことはできないとお止めしたのですが、大丈夫だから構うな、と仰って……」
「良いのよ、気にしないで。あなたの立場では、この方を止めるのも難しかったでしょう。わたくしは大丈夫だから、頭を上げてちょうだい。――それと、こちらの方にもお茶を用意していただける?」
「はい、今すぐに」
「ヘレンも落ち着いて。そこまで警戒する必要はないわ。あの方も無作法の自覚はおありのようだし、その上で暴れるような真似はなさらないでしょう」
「ルーナさま、ですが――」
ヘレンは反駁しかけて、だが諦めたふうに言葉を飲み込んだ。怒らせていた肩から力を抜いて、折り目正しい所作でルーナの後ろに控えてくれる。やがて給仕係がやってきて、食べかけのタルトがテーブルから下げて、代わりにお茶の一式を手際よく並べていった。
ヘレンには気の毒なことになってしまったから、埋め合わせを考えておかなければ。ルーナは頭の片隅にメモを残すと、手で正面の席を示して言った。
「どうぞ、おかけになって。このような真似をなさるくらいですもの。ただ挨拶をしに来ただけではないのでしょう?」
「ええ、そうですね。では、お言葉に甘えさせていただきます」
ミリアはこくりと頷いてから、給仕が椅子を引くのを待たずに腰を下ろした。かたちの良い唇に薄く笑みを浮かべて、薄青の瞳をルーナへ向ける。
楚々とした印象の面差しに似合わず、気の強さを感じさせる眼差しだ。とは言えそれは彼女の美しさを損なうものではなく、どころかいっそう愛らしく見せている。容易く手折れそうにないからこそ、手中に収めたくなる、そんな不思議な魅力の持ち主だ。
もしかするとヴィクトルは、彼女のそういうところに惹かれたのかもしれない。
ルーナは笑顔の裏でそんなことを考えながら、温くなった茶に口をつけた。ミリアが肩にかかる赤毛を払って、ふふ、と小さく微笑った。
「私、ルーナさまとは一度、じっくりお話ししてみたいと思っていたんです。だって私たち、同じ男性を好きになった、いわゆる同士みたいなものですから。戦友、って言ってもおかしくないですよね?」
「……まあ、ずいぶんと過激なことをおっしゃるのね」
「過激ですか? でも敵対関係って言うよりは、ずっと平和的だと思いますよ。貴族の立場と面目を保つためのルーナさまと、愛し愛される関係の私たち。そんなふうに上手く棲み分けもできていますし」
「それは笑えない冗談だわ。あなたは他人の領分を侵している、という自覚がおありではないのかしら」
「それを言うなら、領分を侵しているのはルーナさまの方ではありませんか? 婚約者という立場を笠に着て、ヴィクトルさまの迷惑も顧みずにオルストに居座ってるじゃないですか。みんなに迷惑かけている、って理解してます?」
不愉快さを隠しきれない声の調子で言う。
ルーナは思わず目を瞬かせてから、にっこりと微笑んでみせた。
「迷惑、だなんておかしなことをおっしゃるのね。わたくしがオルストに滞在しているのは、ヴィクトルさまに請われてのこと。それに怪我をした婚約者を見舞うことを、笠に着ると言われるのは心外だわ。……ヴィクトルさまが事故に遭われたのは、さすがにご存知でしょう?」
「ええ、もちろんです。ヴィクトルさまから、ちゃんと心の籠もった手紙をいただきましたから。事情があってしばらく会えないけど、心配は要らないって」
自慢げに言うミリアに、ルーナは内心で首を傾げてしまった。
馬車の事故によって生じた様々な事情、つまりヴィクトルの記憶喪失は、一切の口外が禁じられている。それはヴィクトルの恋人である、ミリアも例外ではない。
そして彼女に事情を打ち明けるべきか否かは、父ジョナサンとヴィクトルとの間で、かなり長く議論されたものごとだった。
これを機に関係を絶つべきだと主張するヴィクトルと、事情を打ち明け協力者として引き入れるべきだ、と主張するジョナサンとで意見が割れたのだ。最終的には当主であるヴィクトルに譲るかたちで、ミリアは輪の外に置かれることになった。
とは言え恋人になにも伝えないのは、それはそれで却って不自然だろう。それでミリアに手紙を送った、とはルーナも話に聞いている。
書かれた内容もヴィクトルから丁寧に説明されているから、ミリアの言う心の籠もった、は疑うまでもなくはったりだろう。
であれば、彼女がここに来た理由も自ずと判明するというものだ。
「つまり……あなたがヴィクトルさまと会えない事情――いえ、原因と言うべきかしら。あなたは、それを排除なさりにいらしたのね」
「なんだ、分かってるじゃないですか。それなら、オルストで遊び歩くのは止めて、さっさと王都に帰ってください。ええと、ほら、コート・サウラ……でしたっけ。そのお仕事もお忙しいんでしょう?」
ルーナの背後から、ぎし、と布の軋む音がする。お茶に口をつける視界の端で、ヘレンがスカートをきつく握りしめているのが分かった。
どうやらミリアのルーナに対する無礼な振る舞いに、相当に苛立っているらしい。
自分ごとのように思ってくれる、ヘレンの心遣いに思わず和んでしまう。おかげで頭の中が冷えて、ルーナは余裕たっぷりに口を開いた。
「さすがに、差し出口が過ぎるのではないかしら。それに……オルストの滞在が長引いているのは、遊んでいるのではなくて仕事なの。外見を磨いて、愛されていれば良いだけの誰かさんと違って、わたくしはメイヴィスの娘として、果たさなければならない義務があるものですから」
そう分かりやすく当て擦ると、ミリアが顔をかっと赤くした。薄青の瞳に怒りを滲ませて、ルーナを睨めつけて言う。
「私のこと、馬鹿にしてるんですか。人を娼婦扱いするなんて、そんな侮辱ったらないわ。私は騎士爵の娘だし、ヴィクトルさまの隣に立つ権利があります。お金で身を売る人たちと一緒にしないで」
「一緒にしたつもりはなかったのだけれど、そう感じさせてしまったのならごめんなさい。でも……おかしいわね。あなたはご自分を騎士爵の娘と言うけれど、ご尊父はずいぶんと前に亡くなられているのでしょう? 騎士は一代貴族だから、あなたは既に騎士爵の娘ではなくなっているのではないかしら」
「そ、それは……」
「わたくし、身分を笠に着るのは好きではないのだけれど、最初にそれを持ち出したのはあなただから、これだけは言わせて貰うわね」
及び腰になったミリアに、ルーナはにっこりと告げた。
「わたくしはメイヴィス男爵の娘。ここが社交場であれば、あなたはわたくしに話しかけることもできないでしょう。あなたとわたくしとの間には、それだけの差があるのよ。あなたの無礼が問題にならないのは、わたくしが大ごとにしていないだけ、という点は理解していて?」
ヴィクトルに伴い社交界に顔を出すようになって、真実の恋だのと持て囃されたミリアは、どうやらなにか勘違いしてしまったのだろう。
労働をする下品な令嬢、真実の愛を邪魔する毒婦、といった悪評塗れのルーナなら、自分も馬鹿にして構わないと思ったに違いない。だがたとえヴィクトルの後ろ盾があっても、それは決して許されない振る舞いだ。
そのことにようやく思い至ったのか、ミリアはすっかり顔色を失くしてしまっている。さすがにこれ以上責めるのは気の毒で、ルーナは場をとりなすように小さく息を吐いた。
「理解して貰えたようで、なによりだわ。それで――用件はそれだけかしら。もしヴィクトルさまに伝言があるなら、預かってさしあげても構わないけれど」
「……いいえ、平気です。ヴィクトルさまに用があるときは、ちゃんと自分で伝えますから」
ミリアは気丈に言ってから、席を立った。
状況を理解はしているが、納得はしていないという顔で暇を告げる。そしてやって来たのと同様の唐突さで、ミリアはこの場を後にした。
足音が遠ざかってから、ヘレンが呆れきった声で言った。
「あの方にお目にかかったのは初めてですが……あまりに無邪気で驚きました。ここに乗り込んで来るなんて信じられませんでしたし、ルーナさまへの態度は正直目に余ります。……もっと言ってやっても良かったのでは?」
「……そうね。きっとそうするべきだったのでしょうけれど、あいにくとわたくし言い争いは苦手なの。それに彼女については、わたくしではなくヴィクトルさまが対処すべきではないかしら。下手なことを言って、後で揉めたら困るもの」
ミリアが現状、輪の外に置かれているのは、ヴィクトルが記憶を失っているからだ。だがヴィクトルが記憶を取り戻してしまえば、今度はルーナが輪の外に追いやられることになる。そうなったときのことを考えると、ミリアを徹底的にやり込めることが正しいとは思えなかった。
要するに保身に走った訳だが、ヘレンは納得できない様子で息を吐いた。
「ルーナさまは大人ですね。私ならここに乱入された時点で、あの取り澄ました顔にタルトを投げつけてます。そうされても文句を言えないことを、あの方はしでかしているんですから。なにより、こんなに美味しいお茶に手を付けなかったことが許しがたいです」
「……怒るところはそこ? ……でも、そうね。確かに、せっかくのお茶とタルトが台無しになってしまったわ。騒がせて店にも迷惑をかけたし、お詫び代わりに焼き菓子を買って帰りましょうか。メイドたちのお茶菓子にすれば、ヘレンも休憩時間に食べられるでしょう?」
「ルーナさま……! 私、ルーナさまに一生着いていきます!」
「大げさねえ。でも、そこまで言ってくれるなら、お菓子の手配を頼める?」
「お任せください」
きりりとした顔で言って、ヘレンは足早に部屋を後にした。
焼き菓子を山程抱えて領館に戻ると、すっかり陽が落ちて辺りは夕暮れに沈んでいた。玄関の大扉を開けると、ヴィクトルが慌てたふぜいで駆け寄ってくる。
予定していたよりも遅い戻りに、どうやら相当にやきもきしていたらしい。ヴィクトルはルーナの手を取ると、ほっとした顔で言った。
「聞いていたよりも帰ってくるのが遅いから、心配していたんだ。きみが無事で良かった。……なにか、困ったことはなかっただろうか。街で嫌な思いをするようなことがあれば、遠慮せず俺に言ってくれ」
ヴィクトルが発したそれは、なにか意図した訳ではないのだろう。
普段であればさらりと流す月並みな問いかけが、だがミリアが乗り込んできた一件のせいで、ルーナはほんの少しだけ言葉を詰まらせてしまった。
目ざといヴィクトルがそれに気づかないはずもなく、彼は不審そうに眉根を寄せた。ルーナを通り過ぎた視線がヘレンに向く。
「ヘレン、なにがあった」
「……後ほど、ご報告いたします。まずはルーナさまのお召し替えをさせてください」
ルーナを玄関先で立たせたままにするな、というヘレンの言外の主張に、ヴィクトルは小さく息を吐いた。
「もっともだな。では、ルーナ。また後で」
不審げだった雰囲気をがらりと穏やかにして、ヴィクトルが去っていく。それを見送ってから、ルーナたちは自室としている客室へと足を向けた。
階段を上りながら、ルーナはぽつりと言う。
「今日のこと、黙っているという訳にはいかないわよね……」
「当然ですとも。今日なにがあったのか、きっちりみっちり事細かに説明させていただきます」
「それならヘレンではなくて、わたくしから説明した方が良くないかしら?」
「それは……一理ありますが、第三者の視点も必要だと思いますよ。ルーナさまが見えていなくて、私には見えていたこともあるでしょうから」
そう言われてしまうと返す言葉がない。
そもそもミリアの件を伏せておきたいのは、ヴィクトルの心を揺らしたくないからだった。今はミリアに無関心を貫いているヴィクトルだが、元は互いを思い合う恋人同士だ。たとえ記憶がなくても、会って話をすれば通じ合うものがあるに違いない。
どころか彼女への想いに引きずられるかたちで、記憶を取り戻す可能性だってあるのだ。
もしそうなれば、ルーナは嫌われ婚約者に逆戻りすることになるだろう。
以前なら当然のことと受け入れられたそれも、ヴィクトルの思いやりや優しさを知って、彼へ想いを傾けつつある今のルーナでは耐えられそうになかった。もしヴィクトルに冷たい目で見られたら、そう思うだけで身が竦みそうになる。
誰かを好きになるということが、こんなにも苦しくままならないものだとは思ってもみなかった。自室に足を踏み入れたルーナは、憂鬱さに深々と溜め息を吐いた。




