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2 まさかの記憶喪失

ヴィクトルが事故に遭って、五日が過ぎた。

 彼の意識は依然として戻らず、微かな反応を示したのはルーナが駆けつけたあの時だけだった。それでも刺激を与えた方が良いだろうから、とルーナは目を覚まさないヴィクトルに話しかけ続けている。

 とは言え、今までろくな交流も無かった相手である。

 語りかけようにも話題など無いに等しく、ほとんど独り言を口にしているも同然だった。それでもルーナはヴィクトルの手を取って、思いつくままをつらつらと語った。

「――それで、今朝は散歩がてら領都まで行ってみたんです。馬車で来た時は夜中でしたから、どんな様子か全然分かりませんでしたし。……以前にわたくしがオルスト領を訪れたのは、何年前だったかしら。その時の印象と比べると、ずいぶんと街が明るくなったような気がします」

 ヴィクトルのカレッジの夏季休暇に、一度だけ領地に誘われたことがある。

 その時のオルスト領内は、そこかしこに困窮の気配が見て取れた。

 放置されたままの牧草地や、整備されず荒れ放題の街道。街は食うや食わずやの人々で溢れ、教会の炊き出しには長い列が出来ていた。ところが今では街はすっかり様変わりしていて、以前の荒廃など見る影もなくなっていた。

 建物や道に改修の手が入り、青々とした牧草地には羊の群れが見えた。何より以前と大きく変わったのは、行き交う人々の表情だった。

 誰もが明るく、賑やかで活気に溢れていた。

「ヴィクトルさまは、とても良い統治をなさっておいでですね。感心いたしました。ただ、いくつか気になった点がございます」

 言ってルーナは窓の外に視線を向けた。

 良い天気だ。昼下がりの穏やかな日差しが、消毒液の匂いのする室内に柔らかく降り注いでいる。

「これは父の考えとは無関係の、わたくしの思いつきに過ぎないのですが……酒類の取り扱いに関する法を見直してみるのはいかがでしょうか。現状、課税と規制の厳しさのせいで新規参入が非常に難しくなっています。ですが事業を開始して人が増えれば、娯楽の需要は間違いなく増加するでしょう」

 世間に数ある娯楽の中でも、飲酒は手軽で安価なもののひとつだ。売り上げから税収も得られると言うのに、だがオルスト領内に酒場は数えるほどしか存在していない。

 なんでも先代伯爵が領民に娯楽を与えるのを嫌がって、それで片っ端から重税を課したのだと言う。飲酒は労働を阻む害悪だから、と民が口にするのを禁じておいて、一方領館の地下セラーには飲みきれないほどの酒が積んであったというのだから、呆れてものが言えない、とは正にこのことだろう。

 ちなみにセラーにあった酒は、ヴィクトルが片っ端から売り払ったそうだ。

「ヴィクトルさまもご承知のとおり、一度施行した法を撤廃するには手間と時間が必要です。ですから廃止するまでの間、税の優遇処置を取ることをおすすめいたします。国への申請が少し面倒ですが、還付するかたちを取ればよろしいでしょう。草案は練っておきましたから、後で確認なさってください」

 それから、と言ってルーナは生真面目な口調で続ける。

「メイヴィスとの共同事業である織物工場ですが、先日最後の織り機が工場に入ったそうです。試運転をしたところ、特に不具合もなくひと疋織りきったのだとか。ただ細かい調整がまだ必要なので、本操業は来週以降になる予定です。できれば、それまでに目を覚ましていただきたいのですが……」

 視線を落として、思わず溜め息が漏れる。

 ヴィクトルは眠ったまま、ぴくりともしない。呼吸は落ち着いていて表情も安らかだが、痩せ衰えているのは傍目にも明らかだった。

 水分は摂らせてはいるが、食べることができていないのだから当然だろう。

 彼の体力が尽きてしまう前に、目を覚ましてくれることを祈るしか無い。

 ヴィクトルに対して複雑な思いはあるが、だからと言ってこんな酷い目に逢うなんてあんまりだ。

 ルーナは無意識のうちに手を強く握り、ことさら明るい声で言った。

「そう言えば昔、湖にご一緒したことがございましたでしょう? いつか近いうちに、もう一度訪れてみようと思って。ヴィクトルさまは良い婚約者とは言い難いですけれど、あの場所に連れて行ってくださったことは感謝しておりますのよ」

 避暑に誘ってくれたのは義務感からでも、湖と周囲の眺めは素晴らしいものだった。

 湖水は底が見えるくらいに青く透き通っていて、周囲に茂る木々と葉から落ちた光が、きらきらと輝いてまるで宝石のような美しさだった。

 ルーナは自分に絵が描けたら良かったのに、と心の底から悔しかったのを今でも覚えている。

「実は婚約を解消した暁には、最後にお邪魔させていただくつもりでしたの。これまで散々な目に遭ってきたのだから、そのくらいの我が儘は許されますでしょう?」

 そういたずらめかして言って、ふふ、と笑った時だった。

 繋いだ手の指先に、ぐ、と力が籠もる。微かに呻き声を漏らしたヴィクトルが、はっきりと分かるほどに顔を歪ませた。

 眉間に深い皺が刻まれて、閉じた目蓋を縁取る長い睫毛が震える。椅子を倒して立ち上がったルーナの前で、ヴィクトルはゆっくりと目を開いた。

 焦点を結ばない眼差しが天井を彷徨い、ぼんやりとしたそれが落ちてルーナを射抜く。向けられた瞳のその美しさに、知れずどきりとしてしまう。だがヴィクトルの手を取ったままだったことに気がついて、ルーナは慌てて自分の手を引っ込めた。

 申し訳ありません、と口にしようとして固まる。

 ルーナを見つめるヴィクトルが、彼とは思えない穏やかさで微笑んでいた。

 ヴィクトルは緩慢な動作で身を起こすと、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせて、興奮に少し上擦った声で言った。

「――美しい方、どうか名前をお聞かせいただきたい」

 その声音もさることながら、告げられた内容にルーナは思わず目を瞬かせてしまった。

 ――美しい方? まさか、彼が口にする言葉とは思えない。

 それよりも何よりも今、聞き捨てならないことを言わなかっただろうか。

「……名前? わたくしの?」

「不躾で恥ずべき行いであることは承知している。だが美しい人を前にして、行動を起こさないのは愚かだ。だから――どうか、名を。それとできれば、あなたを口説く権利をいただきたい。ああ、その前にひとつ聞かせて欲しい。その髪型を見るに既婚者ではないとは思うが、恋人は? 婚約者はいるだろうか?」

 婚約者なら、いる。それもルーナの目の前に。

 だが、どう見ても様子のおかしい彼に、そのことを告げて良いとは思えなかった。

 ルーナは途方に暮れて、思わず天井を仰いでしまう。ばたばたと足音が聞こえてきたのはその時だった。忙しなくノックに、ルーナが応えを返す間もなく扉が開かれる。

 泡を食ったふうにやって来たのは従僕のハンスで、彼は寝台に身を起こしている彼の主を見て目を見開いた。

「ヴィクトルさま……!」

 ハンスは駆け寄ろうとする動きをみせたが、すぐに踵を返して部屋を出て行ってしまった。

 医者を呼ぶのだろう。

 ほどなくしてメイドがやって来て、てきぱきとヴィクトルの身の回りを整えていく。ヴィクトルは驚いたふうにそれを眺めていたが、ルーナの手は放さず掴んだままだった。

 やがて慌ただしく医者が来て、彼は目覚めたヴィクトルを見て安堵したふうに目元を和ませた。

 医者はメイドやハンスに指示を出してから、丁寧な口調でルーナに退室を促した。

 ルーナは大人しく頷いて、だがそこでちょっと躊躇って狼狽えてしまった。ヴィクトルの様子を伝えるべきかどうか、伝えるとしたらどのタイミングにすれば良いのか、そもそもどう説明すれば良いのか分からなかったのだ。

 そんな彼女の様子をなんと思ったのか、ヴィクトルはルーナを庇うように軽く手を引き、鋭い声音で言った。

「なぜ彼女を追い出すような真似をする。失礼だろう。それに――そもそも、きみたちは誰だ?」

 室内の雰囲気が、一瞬で凍りついたのが分かった。ただその場でヴィクトルだけが状況を理解できず、固まった空気に戸惑った顔をしている。

 ちらと助けを求めるような視線を向けられたが、ルーナはなんと言って良いか分からず、ただ深く溜め息を吐いた。



 毛先が奔放に跳ねる栗色の髪に、琥珀色の瞳。見覚えも馴染みもない面差しをした男が、鏡の中で間抜けっぽく首を傾けている。

 ヴィクトルはそれをまじまじと見つめながら、髭をあたったばかりの顎をざらりと撫でた。

「……これが俺の顔か。参ったな、まるで知らない誰かを見ているみたいだ」

「記憶がございませんからね。ですが、そのうちに慣れるのではありませんか? それよりも、かなりお痩せになりましたから、しっかり食べて、体力を取り戻していただかなければなりません」

「そうは言うが、パン粥とスープだけでは太りようがないぞ。焼いた肉が欲しいとは言わないが、せめてもう少し噛みごたえのあるものが食べたいのだが……」

「それは先生の許可が下りてからです。ですが食欲があるのは悪いことではないでしょう。体力のつくものを食べていただきたいのは私どもも同じですし、後ほど先生に確認してまいります」

「ああ、よろしく頼む」

 にこやかに微笑んだハンスが、洗面道具一式を片付けて部屋を後にする。

 彼のきびきびと働くさまは洗練されていて、動作にはまったく隙がなかった。

 有能な人物なのだろう。彼になにを聞いても、答えに窮するということがない。記憶を失くしたヴィクトルに思うこともあるだろうに、そういった感情を面に出すこともなく、程よい距離を保ちつつ身の回りを調えてくれる。

 髭まで剃ってくれたのには驚いたが、ハンスが言うには貴族というのはそういうものであるらしい。そこに違和感を覚えてしまったのは、おそらくは事故で記憶を失ってしまったからなのだろう。

 ヴィクトルは洗ってさっぱりした顔を再び撫でて、寝台の上から改めて室内を見回した。

 貴族の邸宅にしては、不自然に思えるくらいに物の少ない部屋だった。必要最低限、という感じだ。

 清貧でも謳っているのかと思いきや、観察するにどうやらそういう訳ではなさそうだった。窓から見える庭は荒れてはいないものの、目立つところだけ辛うじて調えている、といった印象である。昨夜に灯されていた明かりは限りなく減らされていて。使用人の数も既に顔が把握できてしまうくらいに少なかった。

 おそらく困窮しているとは言わないまでも、贅沢とは程遠い暮らしぶりなのだろう。

 暇に飽かせて考えてみたことを戻ってきたハンスに問うと、彼はなんのこだわりもなく頷いてみせた。

「お察しのとおり、オルスト伯爵家は没落寸前です。寸前でした、と言えるようにはなりましたが、返さなければならない負債は山のようにございます。メイヴィス男爵に支援をいただいたおかげで、貴族としての体面を辛うじて保っている状態ですね」

「メイヴィス男爵……俺の婚約者の、お父上か」

「ええ、今も多大な助力をしていただいております。とても有能な方ですよ。ヴィクトルさまも、身内や親族よりも頼りになさっているご様子でした」

「……少し話をしただけだが、頭の良い人物なのだろう、という印象を受けたな。手広く商売をしているだけあって、考え方が面白いくらいに柔軟だ。……長い歴史ある男爵家だそうだが、陞爵されていないのはなぜか知っているか?」

「面倒だから、だそうですよ。土地を持たないのも、商売の邪魔になるからだとか。ですが領地を運営することに迷いや躊躇がありません。土地を任せてみては、という声も少なくないのですが、当人がいらないと言うものを押しつけるわけにはいきませんからね」

 なるほど、と頷く。

 男爵がそれらを断っているのは、おそらくは周囲からのやっかみを避けるためでもあるのだろう。聞けば今の御時世、没落する貴族は珍しくないらしく、融資を求めて圧力をかけてくることも頻繁であるのだとか。

 いくら古く歴史のある家柄でも、男爵位では避けられないものごとも多いに違いない。それを上手く捌いているのだから、やはり、有能な人物なのだろう。

 そう考えて、ヴィクトルは胸中で首を傾けた。

「それにしても、そのような御仁がよくも息女を俺に預けようと思ったものだな。あれだけの美人で、家柄も良く、本人も金持ちなら引く手数多だっただろうに。……もしかして婚約は、彼女の希望だったりするのか?」

 内心期待して訊くと、なぜかハンスが棒を飲み込んだような表情になった。

 ヴィクトルの質問に初めて言葉を詰まらせた彼は、そっと視線を逸らしてから言った。

「……黙っていると後で問題になりそうなので申し上げますが、旦那さまとルーナさまの婚約は完全な政略です。しかも旦那さまは婚約を厭うておいででした。それで、その……ルーナさまを遠ざける一方、別の女性を愛人として側に置いていらっしゃいました」

「……は?」

 意味が分からない。

 ヴィクトルはハンスをまじまじと見て、それから思いきり顔を顰めて言った。

「俺は……ものすごく馬鹿だったのか? あんな美人の婚約者がいるのに、愛人? しかも彼女の父親はオルスト伯爵家にとって大恩人だろう。それなのに愛人? いったい、俺はなにを考えていたんだ?」

「それは……旦那さまには、旦那さまのお考えがおありだったのでしょう。そして私どもは旦那さまの行動に苦言を呈しても、反対することはございません」

「つまり記憶を失う前の俺は、聞く耳も持たない救いようのない大馬鹿ものだった、ということだな。……心から反省して謝罪すれば、彼女との関係の再構築は可能だろうか」

「それはルーナさま次第でしょう。現状は救いがないくらいに嫌われておりますし、聞くところによるとすでに婚約解消に向けて動かれていたとか。……それでも旦那さまが事故に遭われて、駆けつけてくださる程度には、情が残っているようですね」

「あれだけの美人だというのに、情が深くて優しいのか。最高だな」

 しみじみ言うと、ハンスが小さく息を吐いた。

「でしたら、なるべく急いで行動なさるとよろしいでしょう。旦那さまがお目覚めになり、記憶の喪失以外に問題が無いと知って、ルーナさまは王都に戻られる準備を始めておいでです」

「それはまずいな。急いで会いに行って、弁明と謝罪をしなくては。――ハンス、すまないが着替えの支度を頼む」

「それはなりません。寝台から出ることは、お医者さまより止められております。ですから今日のところは、手紙を書かれると良いでしょう。それとメイヴィス男爵に協力を仰いでみてはいかがですか? まだ身動きが取れないだろうから、と執務の代行にしばらく滞在してくださるそうですよ」

「それは助かる。しかし……メイヴィス男爵には、迷惑のかけどおしだな……」

「受けた御恩は、これからお返しすれば良いのですよ。男爵も、そう仰っておいでです」

 もちろんそのつもりではあるのだが、記憶を失っている現状、ヴィクトルは足を引っ張ること以外にできることがない。

 一刻も早く仕事をこなせるようにならなければ。

 だがそう思う一方で、あの美しい婚約者のことが気になって気になって仕方がなかった。それでそわそわと落ち着かないでいると、微苦笑を浮かべたハンスが手紙一式を調えてくれた。

 記憶をすっかり失ったヴィクトルだが、幸いなことに文字を書くのに苦労はしなかった。

 どうやら頭ではなく身体がそれを憶えているようで、書けば自分でも驚くような流麗な文字が紙に並ぶ。ハンスが言うには過去のヴィクトルは相当な悪筆で、それでかなりの努力をしたらしい。愚かな過去の自分の産物と思うと複雑だが、ともあれ整った文字で書いた手紙に、悪い印象を持たれることはないだろう。

 ヴィクトルはルーナに対する謝罪と、溢れるほどの賛辞を書き連ね、それからオルストに滞在して欲しいと言葉を尽くした。

 ほどなくしてルーナから了承の返事が言付けられて、ヴィクトルはほっと安堵の息を吐いたのだった。



 今朝一番にルーナのもとへ届けられたのは、目の覚めるような青が鮮やかな小菊の花束だった。

 金地のリボンがかけられたそれにはカードが添えられていて、見事な筆致で挨拶と機嫌を伺う言葉が添えられている。この贈り物はヴィクトルが目覚めてから日を置かず続けられていて、今やルーナが滞在する客室は、色とりどりの花で溢れていた。

 花はヴィクトルが庭で手折っているらしく、だからなのか花束には野の花がしばしば混じっている。ハンス曰く今朝届けられた小菊も、本来はお茶にする分だったそうだ。

 それを知らずに手折ってしまったなんて、周囲や本人の様子を想像すると、なんだかとても微笑ましい。

 ふふ、と小さく笑いを漏らしたルーナは、カードをきちんとしまってからメイドに花を活けるようにお願いした。

 事故に遭って記憶を失ってからというもの、ヴィクトルはこれまでの彼からは考えられない、素晴らしい婚約者ぶりを見せている。というより、ほとんど別人だと言って良いだろう。

 顔を合わせても穏和でにこやかな態度を崩さず、どころか好意を前面に出して接してくれる。着ているドレスや髪型の細かいところに気づくし、それを手放しに褒めてもくれる。

 照れながらの賛辞は社交辞令という感じがしなくて、だからルーナの心もうっかり浮き立ってしまうのかもしれない。

 つい昨日には、顔を赤くしたヴィクトルがデートを申し込んできて、断るつもりだったはずのルーナは、だが気づいた時には「お受けします」と口走っていた。

 これまでの彼の態度は忘れていないし、婚約解消に向けて動いていたことも忘れていない。だがヴィクトルは大袈裟なくらいに喜んでくれたし、その明るい表情を見ていると、仕方がないか、とも思ってしまうのだ。容易く絆される自分に呆れてしまうが、記憶を失ったヴィクトルが、素晴らしい婚約者であることは否定できなかった。

 デートの申し出を受けて、その後日には外出用のデイドレスが部屋に届けられた。

 濃い青色は今朝に届けられた小菊のようで、つまり花束は今日のデートを意識した贈り物だった、という訳だ。

 メイドに着替えさせて貰ってから、そのことに気づいたルーナは、ひとり顔を赤くした。

 普段は不器用に振る舞う一方で、こういう心にくい演出をさらりとするヴィクトルは、とてもずるいと思う。ヴィクトルのエスコートで馬車に乗り込んだルーナは、少しむくれて言った。

「……これは文句ではなく忠告なのですけれど、あまりわたくしに構わない方がよろしいかと。記憶が戻ったときに、ヴィクトルさまはきっと後悔なさいますよ」

「後悔? それは有り得ないな」

 きっぱり言って、ヴィクトルは微苦笑を浮かべてみせる。

「これはハンスから聞いたことだが、記憶を失っても、俺の趣味や思考は以前となにひとつ変わっていないらしい。つまりきみをひと目見て恋に落ちたのも、そういう拗ねた横顔が愛らしいと思うのも、記憶とは無関係のいわば本能的な嗜好ということなのだろう」

 だったらなぜ、という言葉をルーナは辛うじてのところで飲み込んだ。趣味や嗜好が変わらないと言うなら、初めて会ったときにも、そういった反応を見せたはずだ。だがヴィクトルの態度は好意的とは言えず、近頃では話をしても目を合わせてすらくれなかった。

 ルーナは小さく息を吐いてから、ヴィクトルに視線を向けた。

「……ところで体調は、お変わりありませんか? お医者さまの許可が出ているのは存じておりますが、あまり無理はなさらないでくださいね」

「それは問題ない。記憶が戻っていない以外は健康そのものだ。それよりも今は運動不足の解消が急務だな。一度遠駆けに出たのだが、医者に叱られてしまった。馬を歩かせる程度なら構わないそうだが、それでは運動にはならない」

 そうしみじみと言う。聞けばヴィクトルはカレッジ時代から乗馬を趣味にしていて、在学中には大会にも出るほどの熱の入れようだったらしい。

「今度、きみを乗馬に誘っても構わないだろうか? ――ああ、乗馬用の衣服のことなら心配はいらない。織ったばかりの布地ひと疋あるから、それで仕立てれば良い。メイヴィス家との共同事業で、初めて仕上がった布地だ。きみが身につけるのに、これ以上相応しいものもないだろう」

「それは……とても光栄ですけれど、いちから仕立てると時間がかかりますよ。乗馬服なら王都の屋敷から手持ちのものを取り寄せれば済みますから、どうぞお気遣いなく」

「――ふむ。つまり乗馬の誘いは受けてくれる、ということか。それはありがたいな」

 にこやかに言われて、ルーナは思わず顔を顰めてしまった。

 自身の他愛のなさを反省したばかりで、これである。

 もっともこんなふうに手のひらで転がされてしまうのは、ルーナが迂闊というよりも、単にヴィクトルが一枚も二枚も上手だからだろう。

 嫌われ婚約者だった頃には知らなかったが、父ジョナサンが以前から目をかけていただけあって、ヴィクトルは素晴らしく頭の回転が速かった。話をして言葉に詰まることはなく、振る舞いは堂々として受け答えが実に如才ない。彼の知らぬことなどないような態度を見ていると、記憶を失っていることを忘れてしまいそうになる。今も当然のような顔をしてルーナの手を取ると、ヴィクトルは車窓から見える景色を指して言った。

「ルーナ、見てご覧。向こうに木立があるだろう? あそこを越えた先に湖があるんだ。湖の側には小さな村があって、のんびりするのに相応しい場所だ。遠い過去には宮廷画家が訪れて、風景を描いたこともある。以前、きみを連れて行った場所に比べると周囲になにもない田舎だが、景観の素晴らしさでは負けていない」

「……まるで、憶えているようにおっしゃるのですね」

「記憶を失う以前のことは、ハンスや他の者に聞かされているからな。耳の痛いことばかりだが、得るものは少なくない」

 苦笑含みにそう言って、ヴィクトルはルーナと繋ぐ手を組み合わせるかたちにする。

 ただそれだけのことなのに、ぐっと親密さが増したように感じてしまうから不思議だ。

 表情を取り繕えずに狼狽えるルーナに、だがヴィクトルは構うふうもなく、どころかとろけそうな笑みを浮かべて言った。

「きみの信頼を得るには、相当の努力が必要になるだろう。今まで俺がしてきた行い、態度を鑑みれば一朝一夕に叶うことではないとは解っている。だがきみの心を得られるための努力なら、どれだけの犠牲を払っても惜しくはないな」

「……そういう言い方は好みませんし、胡散臭くてとても信用できる気がいたしません。もし他所で披露すれば間違いなく顰蹙を買うでしょうから、避けておくことをお勧めします」

「その点なら心配は要らない。俺が口説くのも愛を捧げるのも、今後はすべてきみだけだ」

 さらりと返されて唖然としてしまう。

 過去の行いを知ってそれを言うのか、と思うと腹立たしいし、やりきれない思いがする。社交界で悪評を立てられて、恥をかかされたのは他ならぬルーナだ。

 恋人を堂々と連れ歩くヴィクトルが心底忌々しくて、婚約者だというのにないがしろにされたことに、顔に出さずとも傷ついていた。記憶を失ったからと言って、その事実を無かったことにはできない。

 過去を覚えていないヴィクトルを責めてもしかたがない、と解っているからこそ苛立ちがつのった。

 ルーナの不機嫌に気づいたのだろう。ヴィクトルは甘い雰囲気を消し去ると、ごく自然な素振りでルーナの手を放した。ひりついた空気を物ともせず、にこりと微笑んで言う。

「もう間もなくで目的地だ。食事を用意してもらっているから、散策の前にまずは空腹を満たすとしよう」

 ほどなくしてたどり着いた湖畔の村は、絵本のような愛らしさだった。

 湖は青空を落としたように澄んでいて、係留された小舟が凪いだ湖面にゆったり揺れている。

 湖を沿うように歩道が敷かれ、その道沿いに石造りの家々が行儀よく立ち並んでいる。三角の屋根は石葺きで、ところどころに蔓草が絡みついていた。

 前庭は小ぢんまりとしているが、どの家にも真っ白な小菊が植えられている。目に素晴らしい眺めだが、あれは実のところ虫除け対策であるらしい。

 水辺に暮らすと意外なところに苦労がある。そう苦笑交じりに言ったヴィクトルは、ルーナの手を引いて一軒の家に足を踏み入れた。

 その家は観光客に開放されているそうで、今日は領主権限で貸し切りにしたらしく、他に客は見当たらなかった。室内は心地よく調えられていて、小花模様が散りばめられたレース織りのカーテンや、見事な彫刻が施された家具などは、女性受けを意識した品々だった。

 望めば宿泊も可能で、絵に残された風景を求めた観光客が数多く訪れているらしい。

 とは言え村は観光を主産業とするのではなく、昔ながらの漁業と牧畜で暮らしを立てているそうだ。

 昼食が用意されたテーブルに着いたルーナは、よく冷えた食前酒で喉を潤してから口を開いた。

「これほど景観の素晴らしい場所ですのに、観光業に舵を取らないのはなぜです?」

 問うとヴィクトルは意外そうに目を瞬かせ、それから少し考え込むような間の後で言った。

「もし村民が望むなら、設備や環境に投資するのもやぶさかではない。だがこの村に住まう者たちは、昔ながらの素朴な暮らしを愛しているんだ。それを取り上げて、今後は観光客をもてなせと言う気にはなれないな。なにより交通の問題がある」

「確かに街道から外れた場所ですものね。ですが街道の整備が終われば、ゆくゆくは新たに道を通すのでしょう? 今でさえ観光に訪れる方もおりますのに、交通の便が良くなれば間違いなく人の往来は増えますよ」

 父ジョナサンが商工会のお歴々とやりあっているのは、街道を敷くための下準備だ。

 安全面や利便性を最優先にしたいジョナサンと、自分たちの利益を優先したい商工会側とで対立して、話し合いは毎度のごとく紛糾している。

 新たに始める織物業には彼らの協力が不可欠で、それでヴィクトルも大鉈を振るえず苦心しているらしい。焼き立てのガレットにナイフを入れながら、彼は微苦笑を浮かべてみせた。

「やはり、きみは有能だな。抱えている仕事もあるだろうに、父親の事業内容まできっちり把握している。それができる貴族の令嬢など、社交界のどこを探しても見つからないだろう」

「それは……褒め言葉ですの? 女が商売に口を挟むなど、賢しらでけしからん、などと世間では言われておりますけれど」

「もちろん、褒めているとも。そう言えば俺が眠り込んでいる間、現行の酒税に対する優遇処置の、草案を練ってくれていただろう? あれも実に素晴らしかった。少し数字は変更したが、ほぼあのままで提出させてもらったんだ。その礼も、今度させてほしい」

「あれは暇つぶしにしたことですから、どうぞお気遣いなく。先日も外出着をいただいてしまいましたし、お礼でしたらそれで十分です」

「……あれを礼と思われるのは困るな。ドレスを贈るのは、婚約者なら当然のことだろう。――ああ、そうだ。今度街歩きをする時に、買い物にも行こう。きみが訪れたときと比べると、領都もずいぶんと賑やかになったと思う。ぜひとも案内させてほしい」

 ものすごく前のめりに誘ってくる。

 先日散歩がてらに行ってきたので結構です、とは言い出せない雰囲気だ。ルーナは豆のポタージュをゆっくり味わってから、にっこりと微笑んでみせた。

「そうですね、機会があれば」

 分かりやすい社交辞令で返せば、ヴィクトルは琥珀色の瞳を面白そうに輝かせた。敢えてそうしているのだという、意地悪な口調で言う。

「それは良くないな、ルーナ。俺のような意地の悪い男には、そういう断り文句は通じない。そうと理解していても、分からない振りができるんだ。どころか言質が取れた、と余計に調子に乗るかもしれない」

「……淑女のたしなみに付け入るような真似は、あまり褒められたことではありませんよ。正直に申し上げるなら、わたくし良い気分はいたしません」

「だが、こうでもしなければ、きみは俺とデートしてくれないだろう?」

「それで余計に嫌われては、意味がないのではございません?」

「そこは俺が、きみに好かれる努力をし続けるしかないな。そのためにも、挽回の機会は貪欲に得ておかなければならない」

 なるほど、筋は通っている。うっかり頷きかけてしまったルーナは、慌てて頭を振った。

 デートを断る会話の運びが、いつのまにやら好感を持つ持たないの話にすり替えられている。

 まったく油断も隙もあったものではない。ヴィクトルに手のひらの上で転がされるのは、今回のお出かけだけで十分である。

 淑女の振る舞いとしてはよろしくないが、今後はきっちりお断りさせてもらわなくてはならない。そう心の中で拳を握ったところで、折よくメインディッシュが運ばれてくる。

 ふわりと湯気が立ち昇るひと皿に、ルーナは目を輝かやかせた。

 村の特産品である鱒をソテーしたものに、色鮮やかなグリーンソースがかけられている。その上に野菜の幼葉とザクロが散らされていて、これまた女性が好みそうな彩りだ。

 付け合わせはマッシュされた芋ときのこの酢漬けで、こちらはオルスト領内で良く食べられているものらしい。

 ルーナは美味しさにうっとりしながら綺麗に平らげ、デザートのタルトと香りの良いお茶に口をつけて、ふうと満足げに息を吐いた。

「とても素晴らしい料理でした。できることなら料理人を引き抜いて、王都に店を出してみたくはありますが……ここを愛する方たちに恨まれてしまうでしょうね……」

「恨まれる以前に、料理人本人が嫌がるだろうな。彼は王都の騒がしさに厭いて、それでここに移住したくちだ。元はエメ・アレノという店で料理長をしていたと聞いている」

「まあ、王族も利用する有名店ではありませんか。半年後の予約を取るのも難しいのに、ものすごく気軽にいただいてしまいました」

「客に肩肘を張ってほしくない、というのも移住した目的のひとつだからな。きみが気軽に食事を楽しんでくれたなら彼も本望だろう」

 それにしても、とヴィクトルは難しい顔になる。

「きみが詳しいのは、服飾と法律の分野だけではないのか。……まいったな。きみの知識に追いつくには、学んでも学び足りる気がしない」

「法律は商売に必要な分野を学んだだけですけれど、流行りの店を把握するのは淑女の嗜みですよ。女性の社交には必要不可欠な知識ですし、なによりわたくしのお店にいらっしゃる方は、その手のことに敏感ですから。知らないで接客はできません」

「だとしても、きみが努力したことに変わりはない。それに知識だけでなく発想もユニークだ。きみを知るのに色々と調べさせてもらったが、コート・サウラの事業形態は面白いと思う。仕立屋が客のもとへ行くのではなく、客が店を訪れるというのは初めて耳にした」

「他所の国では、さほど珍しいことではないそうですよ。中には服を吊しで売っている店もあるのだとか」

「……吊し?」

「採寸をして一から仕立てるのではなく、先に汎用性のあるサイズで作ってしまうんです。それを店内に吊して、来店した客がその中から欲しい物を選ぶ、という販売方法をそう言うそうですよ」

「なるほど、それは効率的だ。だがそういう売り方をしてしまうと、中には粗略に扱われた、と機嫌を損ねるものもいるだろう」

「そのように考える方や、衣服にこだわりのある方には不向きでしょうね。ですが今後、織り機の自動化が進むことによって、布地の大量生産が成されれば、価格が下落するのは間違いありません。その上で採寸の手間を省いてしまえば、更に販売値段を下げられるはず。つまり今までとは異なる顧客層を開拓できる、ということです」

 ヴィクトルは小さく唸った。

「中流階級か。確かに金回りの良い商人や、貴族と接する機会の多く、身なりに気を配らなければならない士業連中は食いつきそうだ」

 法律家の卵が最初に躓くのは、法廷での弁護はなく被服費であるというのは有名な話だ。

 そも彼らが法廷に立つには、貴族と同等の衣装を身に着けなくてはならない。

 これは法律に携われるのが貴族のみだった時代の名残だが、ともあれ貴族出身ではない苦学生には迷惑なだけだろう。彼らを顧客とするのは悪くない話だ。

 ルーナがこくりと頷くと、ヴィクトルは慎重な口振りで言った。

「もし……オルスト領内で新規に吊しの服飾店を開くとして、その店の顧問にきみを雇うことは可能だろうか?」

「……わたくしを?」

「新規に事業を始めるには、柔軟な思考のできる人材が必要不可欠だ。その点、きみなら申し分ない。もちろん、顧問料はきちんと支払わせてもらう」

 既製服の取り扱いはいずれ、コート・サウラを手放す頃合いに始めようと検討していたことだった。とは言え詳細はまだなにも決めておらず、現時点ではいくつかあるアイデアのひとつでしかない。

 誰もが思いつくようなことだから、秘密にしておくほどでもないし、だからこそ雑談ついでに話したわけだが、まさかヴィクトルがここまで食いつくとは思ってもみなかった。ましてやルーナを顧問に、という提案は想定外である。

 だが、悪くない。実に面白そうだ。

 ルーナはタルトを切り分けていたカトラリーを置いてから、淑女らしい微笑みを浮かべてみせた。

「とても興味深いお話ですけれど、この場での返答は差し控えさせていただきます。話のきっかけを作ったのはわたくしですが、デートには不釣り合いな話題ですもの」

 そうルーナがいたずらっぽく言うと、ヴィクトルが苦虫を噛み潰したような顔になった。

「それは――すまなかった。俺としたことが、とんだ失態だ。きみをもてなし、少しでも好かれなければならないと言うのに、俺ばかりが得をしては本末転倒だな」

「見え透いたお世辞や、毒にも薬にもならない会話よりもよほど有意義でしたけれどね」

 くすくすと微笑ったルーナに、ヴィクトルが小さく息を呑むのが分かった。

 どうかしただろうか、と不思議に思っていると、ヴィクトルがテーブルに身を乗り出すようにして言った。

「笑った……!」

「……はい?」

「ようやくだ。ようやく、きみの笑顔を見ることができた。思っていたとおり、いや、思っていた以上に愛らしい。花がほころぶような、とはまさにこのことを言うのだろうな。それになにより、笑い声が良い」

 感じ入ったふうに言葉を連ねてから、ヴィクトルは、ふと表情を改めた。

「――一応言っておくが、これは見え透いたお世辞ではないからな。心からの本音だ」

「そのような言い方をされると、却って説得力がなくなりますよ。ですが、せっかくの賛辞ですものね。ありがたく頂戴しておきます」



 食事を終えて向かったのは、湖畔の遊歩道だった。小石が敷かれた長い道に、街路樹の影が柔らかに落ちている。

 これなら肌が日に焼ける心配もないだろう。

 ルーナはメイドが差し出してくれた日傘を断って、レティキュールだけを手に歩き始めた。湖面を渡る風はひんやりと清々しく、散歩を楽しむのにこれ以上ない良い気候だ。

 木々に止まる小鳥のさえずりと、靴裏が小石を擦る音も心地が良い。遊歩道から湖際まではなだらかな斜面になっていて、そこに張り付くように緑の野草が広がっている。ところどころに、白や黄色の小花が咲いているのが素朴で愛らしかった。

 その眺めにルーナが目を細めていると、ヴィクトルがレティキュールを持っていない方の手をするりと取った。そうするのが当然のように手を繋いで、ヴィクトルは穏やかに微笑んでみせた。

「もし疲れたり、足が痛くなったりしたら、遠慮しないで教えて欲しい。それから歩くのが速いときも言ってくれ。見てのとおり浮かれているから、油断するとマナーを失念しそうになるんだ」

「……歩く速度よりも他に、気にすることがあるのではございません?」

 繋いだ手に視線を落として言う。だがヴィクトルはそれをさらりと無視して、どころか手を放す気はないとばかりに繋ぐ指先に力を籠めた。

 ルーナは思わず溜め息を吐いたが、繋いだ手を無理に振りほどきはしなかった。

 淑女らしく振る舞うには、こういった不便も飲み込まなくてはならないのが辛いところだ。ルーナはそう真面目ぶって考えてから、おや、と内心で首を傾けた。

「マナーで思い出しましたけれど、ヴィクトルさまはその類のことにお困りではないのですね。先ほどの食事の席でも、テーブルマナーは完璧でしたし、記憶を失っても身体で憶えている、ということなのでしょうか」

 ルーナがそう指摘すると、ヴィクトルが意外なことを聞いたとばかりに目を瞬かせた。

「言われてみれば、意識を取り戻してからと言うもの、貴族らしく振る舞うことで困った覚えは一度もないな。それだけでなく読み書きにも不便がないのだが、ハンスが言うには書く文字も以前と変わりないらしい。おかげで署名にまごつかずに済んでいるが……改めて考えると奇妙な話だ」

「……マナーだけでなく、乗馬もそうだったのではありませんか? 遠駆けをなさったのでしょう?」

 馬に乗るだけならともかく、駆けるとなると体力だけでなく技量も必要になる。

 というより、そもそも記憶喪失になった人間が、真っ先にする運動に乗馬を選ぶものだろうか。もっと手頃で簡単な、例えばランニングやダンスだって良かったはずだ。

 医者に叱られたと言うのだから、使用人が勧めたということもないだろう。つまりヴィクトルの記憶は完全に失われたのではなく、無意識下のどこかに残っているのかもしれない。だとすればヴィクトルの記憶が戻るのは、そう遠くない先の話になるのだろう。

 ヴィクトルやオルスト領の者たちにとっての朗報を、だがルーナは少しも喜ばしいと思えなかった。それが薄情で婚約者失格の考え方だとしても、ヴィクトルに以前のような態度を取られることが恐ろしかったのだ。

 もはや引き返せないくらいヴィクトルに絆されていた自分に気づいて、ルーナは愕然としてしまう。深いぬかるみに嵌まり込んだような気分だった。

 これ以上進んで抜け出せなくなる前に、さっさと逃げ出すべきだ。

 それが最も賢明な振る舞いだと分かっていたが、同時にそれが不可能であることも、嫌というほどにルーナは理解していた。

 一度動いてしまった心と感情の動きを、無かったことには出来ない。もしこれで元の嫌われ婚約者に戻ることになれば、以前よりも心に堪えてしまうだろう。そう内心で頭を抱えるルーナには気づかず、ヴィクトルが朗らかな口調で言った。

「知識として蓄えたものよりも、身体で覚えた記憶は忘れにくいのかもしれないな。俺は医者ではないから断言できないが、そう考えると色々と納得いくものがある。とは言え、記憶を取り戻す役には立たなそうだ」

「……なぜ、そう思うのですか?」

「これを言葉で説明するのは難しいのだが……例えば仕事をしていると、以前の記憶に直面することがあるんだ。書類の下書きや、残されたメモを見ていると、頭の中を引っかかれるような違和感――とは少し違うな。焦燥感が近いかもしれない。そういうものを感じるんだ。そしてそれに意識を向けていると一瞬、思い浮かぶものがある」

「それは……思い出したと言うのではありませんか?」

「いや、残念ながらぜんぜん違う。なんと言えば良いのか……そうだな。他人の日記を読んでいるような感覚に近い。自分ごととしては認識できないんだ。医者が言うには良い兆候らしいが、記憶が戻るきっかけになるかどうかは微妙なところだな」

 まるで他人事のような口調で言って、ヴィクトルは声に苦笑を滲ませた。

「話が少しずれてしまったが、乗馬をしてそういう感覚を味わったことは一度もないんだ。おそらく、身に付きすぎているのだろうな」

 つまり、と言ってヴィクトルはルーナに笑みを振り向けた。

「乗馬の腕はまったく衰えていないから、安心して誘いに乗ってくれ」

 結局そこに話題が行き着くのか、と思うと呆れてしまう。ルーナはひっそりと溜め息を吐いて、今度も明言を避けたのだった。

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