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1 最低最悪な婚約者

 香水と汗の入り混じった匂いに、ひそひそと交わされる囁き声。無遠慮に向けられる視線から逃れるように目を上げると、天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアが見えた。

 灯された蝋燭の火を受けて、連なるクリスタルがきらきらと輝いている。まばゆく乱反射するそれに微かに目を細めたルーナは、平然とした顔の下で溜め息を零した。

 父の名代として参加した社交の場であったが、主催者の質が悪ければ、招待客のそれも同様であるらしい。かくいう自分もそのひとりか、と思えば乾いた笑いが漏れそうになるが、ともかく空気も悪ければ雰囲気も居心地も悪い、最低最悪の舞踏会だった。

 主催者であるオーモント伯爵は典型的な血統主義で、貴族でなければ人に非ずと公言する恥知らずである。労働を下劣な振る舞いとする古びた考えを持ち、そのくせ他者を利用し甘い汁を吸うことしか頭にない。流れる血のばかりに固執して、足元が崩れかけていることに気づかない愚か者だ。

 出来ることなら避けて通りたい類の人物であるが、今後のために婚約者を伴い顔合わせしておくように、と父に命じられてしまえば、ルーナにそれを拒むことは出来なかった。

 不愉快を飲み込みながらオーモント伯爵に挨拶を済ませて、さて後はどうしようか、と傍らの婚約者に視線をやった時のことだった。

 いきなり背中をどんと押されて、ルーナは堪らずつんのめるように数歩前に出る。すぐに姿勢を正して振り返ったが、打って押し寄せてきた人波に邪魔されて、すぐ側にいたはずの婚約者の姿は、あっという間に見えなくなってしまった。

 パートナーと逸れるなんて失態にも程がある。とは言えここで慌てて人波をかき分けるなど、淑女としてあるまじき振る舞いだろう。であればルーナに出来るのは、婚約者が探しに来てくれるのを待つか、人をやって呼んできてもらうかだ。

 彼との関係性を考えると、後者が確実だろう。

 それでルーナはひとつ溜め息を吐くと、ホールの隅、控えている使用人がいる方へと足を向けた。

 囁き声が聞こえてきたのは丁度その時で、足を止めてしまったのは、そこに覚えのある名が含まれていたからだった。

「……ローレンスさんが?」

「ええ、いらしているそうよ。でもあの方、オーモント伯爵にお誘いいただけるご身分ではないでしょう? どれだけご容姿に恵まれていても、騎士爵のお嬢さんでは……ねえ? オルスト伯爵も本当はご自身でお連れしたかったのでしょうけど、だからと言ってご婚約者を無下には出来ませんものね。それで別の方にパートナーを頼んだのですって」

「まあ、わざわざ? そうまでして会いたいなんて、よほど寵愛が深くていらっしゃるのねえ」

「仕方がありませんわよ。だって、ご婚約者がご婚約者ですもの。……ほら、ご覧になって、あのドレス。コート・サウラの新作よ。ご自身がオーナーだからって、あんなふうに見せびらかすのは低俗ではないかしら」

「オーナー? そんな、まさか働いていらっしゃるの? 男爵家とはいえ貴族の子女が? ……嫌だわ、なんて汚らわしいのかしら」

 聞こえよがしに嫌味を投げられて、ルーナは思わず吐きそうになった溜め息をかろうじてのところで飲み込んだ。

 汚らわしい、というものの言い方はともかく、貴族の子女が労働に関わるのは確かに異例なことと言えるだろう。黴の生えたような考え方しかできない者には、信じがたいことに思えるだろう。しかし社交界に出ると同時に事業を任されるのは、建国より連綿と続くメイヴィス家の伝統である。そこに性別の差異が配慮されることはなく、重視されるのは仕事が出来るか否かだ。

 そんなふうに問答無用で金儲けの方法を叩き込まれるからこそ、メイヴィス家は浮き沈みの激しい上流階級において、凋落の憂き目に遭わずに済んでいる。そしてルーナがオルスト伯爵、ヴィクトル・グラートと婚約することになったのも、父祖が堅実に築き上げた財があったからこそだった。

 つまるところ困窮するオルスト伯爵に付け入った訳だが、そのようにして結ばれた婚約が上手くいくはずもなく、案の定、婚約者との関係は笑えるくらいに冷え切っている。交流は必要最低限を交わすのみで、ヴィクトルはルーナの存在を認めたくないのか、堂々と恋人を囲っている始末だ。

 ヴィクトルの恋人は、名をミリア・ローレンスという。

 彼女は先代のオルスト伯爵に仕えていた騎士の娘で、それを縁に幼い頃からヴィクトルと親しくしていたそうだ。子供時代の友情はやがて恋情となって、噂によれば彼らは密やかに婚約の準備も進めていたらしい。ところが先代のオルスト伯爵が事業に失敗、それにより困窮した伯爵家は、多額の支援と引き換えにメイヴィス男爵の娘を娶る羽目になった、という訳だ。

 愛しい恋人がいたにも拘わらず、男爵ふぜいの娘を押し付けられたヴィクトルは気の毒だが、歓迎されていないと分かって嫁がされるルーナも不幸だろう。

 だと言うのに社交界ではルーナだけが、恋人たちを引き裂いた悪女、金で伯爵を買った毒婦、などと言われている。そこにメイヴィス家へのやっかみが含まれているのは明らかだったが、だとしても理不尽が過ぎる。

 ルーナは辟易した気分でホールを見渡して、目立つ人だかりに眉根を寄せた。

 人波に埋まることのない長身のヴィクトルに、思わず目を奪われてしまう。

 少し癖のある柔らかな栗毛、それがシャンデリアの明かりに照らされて金がかって見える。

 硬質な線で描かれた美しい輪郭、すっと通った鼻筋に、形の良い唇。他を寄せ付けない冴え冴えとした美貌と、少し垂れた眼差しに滲む色気が、見事なバランスで調和していた。

 濃紺に銀糸の刺繍が美しいジュストコールが、ただでさえ美しい彼を存分に引き立てている。そんなふうに誰もが見惚れる彼の隣にいるのは、野に咲く花のように可憐な女性だった。

 緩く結い上げた髪は秋の夕暮れを思わす赤色だ。色素の薄い肌は抜けるように白く、魅力的な薄青の瞳が、情熱たっぷりにヴィクトルを見つめている。仕立ての良い淡い緑のドレスが似合うあの女性こそが、ミリア・ローレンス。ヴィクトルの想い人だ。

 ヴィクトルとミリアのふたりは多くの人々に囲まれて、幸せそうに寄り添い微笑み合っている。婚約者の存在など、まるで無いもののように振る舞うその姿に、ルーナの心に深い失望が広がった。

 恋人を作るだけなら、腹立たしいが許容は出来る。だが婚約者と参加した舞踏会で、当て付けのように恋人を連れて来るだなんて、馬鹿にするにも程があるだろう。

 彼はきらきらしい外見の裏側で、ルーナを嘲笑って溜飲を下げているに違いない。

 もういい、うんざりだ。

 ルーナはそう心の裡で吐き捨てるように呟くと、さっと踵を返してホールを後にした。

 廊下に控えていた使用人に帰宅することを告げると、ほどなくして馬車が用意される。行きはヴィクトルと同乗してきたその馬車に、ルーナは躊躇うことなく乗り込んだ。

 ルーナがひとりで馬車を使えば、ヴィクトルは帰りの足を無くすことになる。だが社交界の華である彼なら、どうにでも出来るだろう。

 ルーナは動き出した車窓からの眺めに視線をやって、不機嫌を隠さずに溜め息を落とした。

 思い返してみれば、ヴィクトルと婚約を結んでからと言うもの、楽しいと感じたことは一度も無かった。

 婚約者として彼と初めて顔を合わせたのは、ルーナが十二歳、ヴィクトルが十五歳の時のことだった。

 領地への支援と引き換えの婚約と解っていたからだろう。初対面のヴィクトルの態度はぎこちなく、カレッジの優等生、という評判が嘘のような愛想の無さだった。

 それでも婚約を結んでしばらくは、それ相応の交流もあったのだ。

 季節の折に手紙を交わしたり、誕生日には贈り物をし合ったり、夏期休暇で領地へ戻った際には、森や湖に連れて行って貰ったこともある。それは最低限の義理を果たすようなものだったが、今と比べればずっと婚約者らしかった。

 ところが先代の伯爵が病床に伏した頃から、その少ない交流もふっつりと途絶えてしまったのだ。伯爵にお見舞いをしたいと申し出ても断られ、どころか送った手紙に返事も無い。

 それからほどなくして先代の伯爵が亡くなったのだが、ヴィクトルは葬儀に出たルーナとは視線も合わせてくれなかった。

 ただただ困惑する内にヴィクトルは伯爵位を継ぎ、荒れていたオルスト領内が落ち着きを取り戻す頃には数年が過ぎていた。その間にルーナは社交デビューを果たし、任された事業をなんとか軌道に乗せて、今では一端の経営者だ。

 もっとも商売にのめり込んで婚約者の存在を忘れかけていたのだから、不誠実という点においてはルーナも同罪だろう。とは言え社交界に復帰する際に、婚約者ではなく恋人を伴ったヴィクトルの振る舞いは、ルーナに対する侮辱に他ならない。

 今夜のことだってそうだ。ルーナをわざとはぐれさせ、空いたところに呼んでおいた恋人を据えるなど、馬鹿にするにも程がある。もうこれ以上は我慢できそうになかった。

 婚約を解消するしかない。これまでにも父には何度も婚約解消を訴えてはいたのだが、しかしオルスト伯爵領で始めた織物業に投資した分を回収するまではまかりならない、とにべもなかったのだ。

 まだ始めたばかりの事業、しかも父はかなりの金額を注ぎ込んでいる。商売として成功するか分からず、投資分の回収に何年かかるか読めないのに、それを条件にするということは、つまり父に婚約解消の意思は無いのだろう。

 幼いころに亡くした母が健在であれば、父の横暴を叱りつけてくれただろうか。らしくなく弱気になったルーナは、深々と溜め息を吐いた。

「……これはもう、家出するしかないかしら」

 ルーナがぽつりと呟くのと、馬車が軋みを立てて停まったのはほとんど同時だった。

 御者が馬車の扉をノックする音に応えを返す。すぐに扉が開いて、ルーナは用意されていたステップを軽やかな足取りで降りた。

「クラウス、お父さまはお戻りかしら?」

 玄関を抜けてすぐ、出迎えに来た執事のクラウスに問い掛ける。彼はうやうやしく下げていた頭を上げると、深い皺が刻まれた柔和な顔に笑みを浮かべてみせた。

「商工会での話し合いが、普段以上に難航していらっしゃるようです。あちらのお歴々は手強いですからね。かなり議論が白熱しているそうですから、本日中にお戻りになれば御の字でしょう」

「街道の通行料の件かしら。あれは多方面から文句が出ていたから、確かに擦り合わせは大変でしょうね。……でも、それなら丁度良いわ。ねえ、クラウス。これからわたくし、家出をしようと思うの。だから、ちょっと手を貸してくれる?」

「おや、とうとう実行なさるのですか?」

「だって酷いのよ。婚約者と参加した舞踏会に、恋人を連れて来るのだもの。最低最悪でしょう? あんな不誠実な人と結婚したら、この先のわたくしの人生は真っ暗闇よ。そんなの、死んでもごめんだわ。でもお父さまは婚約解消を許してくれないし、それなら家出するしかないでしょう?」

「お気持ちは分かりますが、そう決めてかかるものではありませんよ。未来になにが起きるのかなど、見通すことなど不可能ですからね。とは言え私はメイヴィス家の忠実な下僕です。ルーナお嬢さまがお命じになるなら、その通りにいたしましょう」

 そうクラウスは朗らかに言う。一見すると優しげな好々爺という印象のクラウスだが、ひと度メイヴィス家の害になると判断すれば、ばっさりと切り捨ててしまう冷淡さを持ち合わせている。

 その彼がルーナの家出に反対しないということは、つまりこれはメイヴィス家にとって取るに足らないことなのだろう。

 なるべく敵に回したくない相手から言質を取れて、ほっとする。これで好き放題に動くことができる。ルーナは自室に足を向けながら、少し高い位置にあるクラウスを見上げて微笑んだ。

「ありがとう、クラウス。でも命じるまでもなく、準備自体はほとんど済んでるのよ。とっくに荷造りはしてあるし、滞在先にはいつ来ても良いって許可もいただいてるもの。だから馬車の支度と、荷物を運んでくれたら十分だわ」

「相変わらずの素晴らしい手際の良さ、さすがルーナお嬢さまですね。感服いたします。……ところで、コート・サウラはどうなさるおつもりですか?」

 コート・サウラは、ルーナの抱える事業の主軸だ。それにメイヴィスの名を掲げているから、下手を打って隙を見せるような真似は出来なかった。

 それは聞かれると分かっていたことだったので、ルーナは余裕たっぷりに頷いてみせた。

「それは心配いらないわ。わたくしが数日留守にしても、なんの問題ないようにしてあるから。店長には諸々きちんと伝えてあるし、新しく入った従業員も有能なのよ」

「数日、ですか? ……家出なさるのですよね?」

「するわよ、もちろん。でも王都から出る訳じゃないもの。実を言うとね、滞在先はアンナ叔母さまのところなの。だから、もしなにかあったら連絡よろしくね」

「さすがは、ルーナお嬢さまです。アンナお嬢さまを引き込むとは、なるほど考えましたね。これでは旦那さまも口出しができない」

「叔母さまはお父さまの、唯一の泣きどころだものね。お忙しい方だから、できれば迷惑をかけたくなかったのだけれど、さすがにそうも言ってられなくなったから」

 ルーナは手を振って話を切り上げると、ホールから階段を上がって自室に戻った。

 メイドに命じてドレスから旅装のそれへと着替えて、荷造りしておいたトランクたちを馬車へと積み込ませる。それを待つ間にブーツを履いてストールを巻いて、準備万端、意気揚々と部屋を出た時だった。

 階下がざわざわと騒がしい。思わずメイドと顔を見合わせ、ルーナは手すりから身を乗り出すようにしてホールを覗き込んだ。

 滅多に慌てることのないクラウスが、足早に階段を上がって来る。彼は階下を覗き込んでいたルーナたちに気づくと、お嬢さま、と焦りの滲んだ声で言った。

「旦那さまがお呼びです。急いでホールへいらしてください」

「お父さまが? まさかわたくしの家出に気づいて帰ってきた……という感じではないわね。それに、クラウスがそんな慌てた顔をするなんて、いったい何ごと? 説明を――いえ、いいわ。行けば分かるでしょう」

 言ってルーナは、メイドとクラウスを引き連れてホールに向かった。

 玄関ホールは煌々と明かりが灯されていて、父ジョナサンが外套を脱ぎもせず、険しい顔で従僕と話している。父はルーナに気づいて視線を上げると、眉間に刻まれていた皺を深くした。

「なぜこの時間に外出着姿なのか、じっくり話を聞く必要がありそうだが……今はなにも言うまい。着替えの手間と時間が省けた、ということにしておいてやろう。――さあ、ルーナ。来なさい。これからオルスト伯爵領へ向かう」

「……オルスト伯爵領? わたくしも、ですか? なんのために?」

「詳しい説明は馬車に乗ってからだ。話している時間が勿体ない」

 そう言うなりジョナサンは踵を返して、開け放ったままの玄関扉から出て行ってしまう。ルーナの意思などまるきり無視したそれに、思わず溜め息が漏れてしまう。それでも逆らうだけの理由が見つからず、ルーナはジョナサンのあとを追いかけた。

 従僕の手を借りて馬車に乗り込むと、すぐに扉が閉ざされる。動き出した馬車の中で嵩張るスカートを整えていると、ジョナサンが険しい顔のまま言った。

「――おまえの婚約者、ヴィクトル・グラートが事故にあったそうだ。馬車で領地に戻る途中、狼に襲われたらしい。パニックを起こした馬を御者が抑えられず、それで馬車ごと転倒。乗っていたヴィクトルは頭を打ち、意識を失ったらしい。今も意識は戻らないままだ」

「そんな……」

「打ち所が悪ければ、このまま目覚めない可能性もある。だがおまえも知ってのとおり、オルスト伯爵には後継者がいない。どころか継承権を持つ親類縁者は、どこも見回しても無能な金の亡者ばかりだ。そいつらの余計な騒ぎや口出しを回避するため、ヴィクトルの件は箝口令を敷いている。よって私たちがオルスト領に向かうのは、婚姻を目前にして家族ぐるみの交流を行うため、だ」

「……嫌われ婚約者のわたくしと? それは、却って不信感を抱かせるだけではありませんか? ……実際、今夜も社交界で笑いものになったばかりです」

「だとしても、オルスト伯爵の婚約者はおまえだ。契約によって有する権利や立場に、折り合いの悪さなど問題にもならん」

 ばっさりと切り捨てるような物言いに、これが父の性分だと分かっていてもうんざりしてしまう。ルーナは思い切り溜め息を吐いてから、ふと気づいて面を上げた。

「……お父さま、事故に遭ったのはヴィクトルさまだけですか? 馬車に同乗者はいらっしゃらなかったのかしら」

「そういった話は聞いていないが、なぜだ?」

「今夜の舞踏会に、ヴィクトルさまが例のご令嬢をお連れになっていたものですから……。あの後で領地に向かったのなら、ご一緒していたのではと思ったのです」

「……ミリア・ローレンスか。あれは騎士爵の娘とはいえ、若い未婚女性だ。さしものヴィクトルも、馬車に同乗させて領地に連れ帰るような愚は犯すまい。他に怪我人がいた、という話も聞いていないしな」

「……そうですか」

 ジョナサンの言葉に頷いて、だが内心で首を傾ける。

 ルーナがオーモント伯爵邸を辞したのは、まだ陽の落ちきっていない夜のはじめ頃だ。そこから王都のタウンハウスに戻り、家出の準備を終えたのが夜半過ぎ。ヴィクトルがどのタイミングでオーモント伯爵邸を辞去したのかは知らないが、事故から父ジョナサンに連絡が行くまでの時間を考えると、ルーナのそれとさほど変わりなかったはずだ。

 恋人との逢瀬のために手間をかけて他人を巻き込んでおいて、さっさと帰ってしまったのでは平仄が合わない。

「ヴィクトルさまが帰領なさったのは、なぜです? このような時間に戻らなければならないような、なにか急を要することでもあったのでしょうか」

「帰領は元からの予定だろう。あれが王都に滞在するのは、最低限の社交をこなす時だけだ」

 婚約者としては最低最悪のヴィクトルだが、その一方で領地の運営には真摯で熱心だ。

 社交シーズンでも時間さえあれば領地に戻り、時には汚れ仕事も厭わずこなす彼は領民からの信頼も厚い。そんな素晴らしい領主さまである彼に蛇蝎のごとく嫌われているルーナの評判は、おかげさまで下がるばかりである。

 悪評はオルスト領内でも広がっていて、中にはヴィクトルに婚約破棄と、ミリアとの婚姻を進言する者までいるらしい。

 怪我をして意識のないヴィクトルのことは心配だが、そんな状況に嫌われ者のルーナが行っても邪魔になるだけではないだろうか。

「その最低限のために領地を離れて、戻る足で事故になったのですから、わたくし本当に毒婦だったのかもしれませんね。……オルスト領の方々に合わせる顔がありませんわ」

「なにを馬鹿なことを。おまえが毒婦であるなら、今こうして大人しく馬車に乗ってはいないだろう。……オルスト領都までは、まだしばらくかかる。落ち着かないだろうが、休めるときに少しでも休んでおきなさい。忙しくなるのはこの後だ」

「……ええ、そうですね。そうさせていただきます」

 ルーナは溜め息混じりに返してから、馬車の硬い椅子に寄りかかって目を閉じた。

 馬車に揺られながら少しだけうとうとして、ルーナたちがオルスト伯爵の領館に着いたのは、じきに日が昇ろうという刻限だった。

 眠気と疲れで重い身体を引きずるようにして馬車を降りる。すぐにヴィクトルの従僕であるハンスが駆け寄ってきて、彼は安堵したような目をジョナサンに向けた。

「お出でくださり感謝します、メイヴィス男爵。さあ、どうぞ中へ。事故の詳細や旦那さまの現状、それと今後については、家令のアランが説明いたします」

 言って今度はルーナに視線を向ける。

「ルーナさま、お久しぶりでございます。お疲れのところ大変申し訳ないのですが、どうかヴィクトルさまの顔を見て差し上げてください。ルーナさまが声をかけてくだされば、旦那さまも励みに思うでしょう」

「……わたくしが?」

 戸惑って返してしまう。

 主人の世話を一手に引き受けるハンスは、ヴィクトルにとって親しい使用人のひとりだ。そんな彼ならばヴィクトルのルーナへの態度は熟知しているはずなのに、なぜ励みになるなどと言うのだろう。

 ルーナは内心で首を捻ったが、断る理由もなく、ハンスが案内するまま婚約者の自室へと足を踏み入れた。

 初めて訪れたヴィクトルの部屋は、伯爵のそれとは思えないほど質素だった。

 淡い青灰色の壁紙の繊細な模様と、濃紺のカーテンの織りは素晴らしいのに、置かれている調度品は最低限の物しかない。

 領地が困窮した時に売れるものはすべて処分したと聞いていたが、財政が安定した今も買い戻しはしていないらしい。室内にあるのは小さな文机に丸椅子、キャビネットは重そうなものがひとつきりだ。

 庭に面した窓の側には天蓋のない寝台があって、その上に動かない人影がある。

 ハンスが室内の質素さに恐縮しながら、寝台のそばに丸椅子を置いてくれる。それに腰を下ろしたルーナは、寝台に横たわるヴィクトルに視線を向けた。

 事故に遭ってから意識が戻らないと言うが、目を閉じた表情は穏やかで、傍目にはただ眠っているだけのように見える。頬の上に擦り傷がある以外は怪我らしい怪我も無く、穏やかな呼吸に胸がゆっくりと上下していた。

 声を掛ければ今にも目を覚ましそうで、なにか言うのも躊躇ってしまう。だが黙っていても仕方がない。それでルーナは小さく息を吐いてから、ヴィクトルの手を取り囁いた。

「……ヴィクトルさま、ルーナです。馬車で事故に遭われたと聞いて、それで王都から急いでまいりました。早く目を覚ましてくださいませ。みなさま心配なさっています。……もちろん、わたくしもヴィクトルさまを案じております」

 ルーナに酷な振る舞いをする婚約者だったが、こんなふうに臥せっている姿を見てしまえば、心は痛むし不安で落ち着かない気分になる。知れず知れずのうちに握る手に力が入って、するとヴィクトルが微かに呻きを漏らした。

 手を握り返そうとするかのように、指先がぴくりと跳ねる。

「――ヴィクトルさま?」

 はっとして声をかけるが、ヴィクトルの目は閉ざされたままだ。困惑したまま背後のハンスを振り返ると、彼は信じられないものを見たように目を見開いていた。

「我々がどれだけ呼びかけても、なんの反応もなかったのに……」

 愕然とした声で呟いて、だがすぐに居ずまいを正した。

「お医者さまを呼んでまいります。大変申し訳ありませんが、ルーナさまは旦那さまを見ていてください」

 そう言うなり飛び出すように部屋を出て行ってしまう。ほどなくして医者がやってきて、それと入れ替わるようにルーナはヴィクトルの部屋を後にした。

 ヴィクトルの様子は気になるが、なにも出来ないルーナが側にいても邪魔になるだけだろう。

 ルーナはメイドの案内で客室に通してもらい、そこでようやく大きく息を吐いた。

 浴室に湯を沸かしてくれる、という申し出を断って、代わりに洗面と着替えの手を借りる。旅装から室内着に着替えると、それだけですっきりした気分になった。

 淹れてもらったお茶で一息ついていると、話し合いを終えた父ジョナサンが顔を見せた。

 我が物顔で茶を用意させ、ルーナの正面に座ったジョナサンは苦り切った表情で言った。

「……先代と違って、やはり今代のオルスト伯爵は有能だな。あの若さだというのに、すでに万一のことを考えていたらしい。身動きが取れなくなった場合、消息不明になった場合、身罷った場合に備えて対策を用意してあった」

「では、今回のことも?」

「ああ。病気や事故で意思決定が不可能な場合は、全権をメイヴィス男爵にお預けする、だそうだ。融資の返済が滞らないように、と書面に残されていたが……あれは親族に好き勝手されるのを避けるためだろうな」

「それは分かりますけれど……却って揉めるのではありませんか? 多額の出資者で婚約者の父親とは言え、お父さまとヴィクトルさまは法的にはなんの繋がりもない他人ですよ」

「だからヴィクトルは有能だ、と言っただろう。……あれが伯爵位を継いだのは、カレッジ卒業前の未成年の時だ。それで私が後見人に指名された訳だが、成人した解除後も権利のいくつかを敢えて残していたらしい」

「……それって法的に問題ありませんの?」

「後見人だった私が行えば違法だが、被後見人だったヴィクトルが指定する分には問題ないようだな。よもや今回の件を見越した訳ではないだろうが、うまい抜け穴を見つけたものだ」

 ジョナサンは面白がる口調だが、ルーナは思わず眉を顰めてしまう。

 もしもを考えて手配を済ませていたヴィクトルは、確かに有能なのだろう。だが彼のそれは用心深さと言うよりも、まるで自分がいなくなることを想定しているかのようだ。ヴィクトルのこの手の執着のなさは、彼と対峙している時にしばしば見られるもので、だからこそ背中にひやりとしたものを感じてしまう。

 なんだかとても嫌な感じだ。

 むっつり黙り込んだルーナを他所に、ジョナサンは悠然と後を続けた。

「領地を預かったからには、中途半端にはできんからな。私はしばらくここに滞在させてもらう。おまえも家出は諦めて付き合いなさい。ハンスも家令のアランも、ぜひにもと言っているしな。……ヴィクトルはおまえの声に、反応したのだろう?」

「それは――ただの偶然だと思います。もしくは、わたくしの存在が心底不愉快だったのでしょう」

「だとしても、オルスト伯爵家のものたちにとっては希望の光だ。目を覚ます可能性があるなら、それこそ藁にも縋りたい気分だろうからな」

 ルーナは小さく溜め息を吐いた。

「ヴィクトルさまの現状を伏せなければならない以上、婚約者のわたくしがひとりで王都に戻るわけにはまいりませんものね。……分かりました。効果があるとは思えませんが、滞在中に声を掛けるくらいはいたしましょう」

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