10 怪しい雲行きと浮気ふたたび
国を出る準備、とひと口に言っても決して容易ではない。
まず第一に、外に漏らさず進めることが非常に困難だった。貴族が国外脱出を企んでいるのだ。知られればただでは済まされない。旅支度ひとつするにも理由が必要で、それでルーナは、ヴィクトルとの共同事業のために、活動拠点をオルストに移す、という名目でひとまずの体裁を整えた。
宝飾品の類は貸し金庫に預け、絶対に手放せない母の遺品だけは手で運ぶことにする。そんなふうに必要最低限の荷造りをして、一方で事業の始末にも取り掛かっていた。
もっともコート・サウラは既に、経営の殆どを信用できる相手に任せてある。それでルーナは出資者として名を残すのみにして、売り上げの一部を得るよう手配した。
そもそもコート・サウラは、ルーナの結婚で手放すことを想定していたから、そう違和感ある振る舞いではないだろう。
問題はヴィクトルの共同事業である、既製服店をどうするかだった。
計画は始めたばかりで、人も物も既に動き出している。商売が経営者の都合で計画が頓挫することは珍しくないが、あまりに唐突で、さしたる理由も無ければ怪しまれるだけだろう。
手を引くには時期が悪く、かと言って継続させるのも難しい。
計画書を前に、ルーナが溜め息を吐いた時だった。試作品の上着を片手にやって来た執事のクラウスが、困惑した表情で言った。
「お忙しいところを申し訳ありません、ルーナお嬢さま。オルスト伯爵家のメイド、ヘレンを覚えておいでですか?」
「ええ、もちろん。つい先日もルフレールで会ったばかりよ。オルスト伯爵が気を遣って、わざわざヴィクトルの邸宅に寄越してくださったの」
「その話でしたら、私も存じております。そのヘレンなのですが、お嬢さまに報告したいことがあるから、と従僕のハンスに面会に訪れているのです。そして話を聞いたハンスが言うには、直接話をした方が良いだろう、と」
オルスト家の従僕だったハンスは、ヴィクトルが爵位を返上することを知って、迷うことなくその職を辞してしまった。曰く仕える主はヴィクトルだけで、自分は他の誰にも従うつもりはない、と言い放ったそうだ。
その忠義ぶりを気に入ったジョナサンが彼に声をかけて、今はメイヴィス家の執事として働いている。
ヴィクトルとルーナが婚姻した後に、改めてヴィクトル付きになる予定だ。
それもあって普段は出過ぎたことはせず、真面目に堅実に仕事をこなしている。その彼が敢えて口にした進言であれば、耳を傾けておくべきだろう。
「ハンスがわざわざ言うのなら、そうする必要があるのでしょう。ヘレンに会えるのは嬉しいし、わたくしは歓迎するわ。お茶会室の用意を頼める?」
「おまかせくださいませ」
手にしていた上着を丁寧に置いてから、クラウスが部屋を後にする。しばらくするとメイドが来て、茶会室の支度が調ったことを告げた。
メイドを伴って茶会室に行くと、ヘレンが落ち着かない様子で長椅子に腰掛けていた。ヘレンはルーナが姿を見せると、すぐさま立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おひさしぶりでございます、ルーナさま。お忙しいところ、ご面倒をおかけして大変申し訳ありません。ハンスに言付けを頼むつもりで参りましたが、当のハンスがルーナさまに直接お話しすべきだ、と強く言うものですから……」
「クラウスから聞いたわ。――さあ、頭を上げて、座ってちょうだい。ずいぶんと急いでいたようだけれど、いったいなにがあったの?」
ヘレンの正面に腰を下ろしながら、そう問いかける。ヘレンは言われたとおりに頭を上げると、長椅子に再び腰掛けた。
頬に垂れたほつれ毛を指で払い、それから慎重に口を開いた。
「ルーナさまは、旦那さま――グラートさまが今、どこにいるかご存知ですか?」
「ヴィクトル? ……少し事情があって、王都を離れているの。だから彼が今どこにいるのか、詳しい場所までは分からないわ」
ヘレンがこくりと頷く。
「ハンスからも、そのように伺っております。実は……オルストの領館には現在、伯爵のご婚約者さまがご滞在なさっておいでです。私はその方のお世話を申し使っておりまして、それで昨日、領都へ買い物にご一緒することになったのです」
それにヴィクトルがどう関係するのだろう、と思いながらルーナは眼差しで続きを促した。言葉を迷うふうのヘレンが口を開いた。
「その際に、領都でグラートさまをお見かけしたのです。お連れさまがいらしたのですが……。その……そのお連れさまというのが、ローレンスさまだったのです」
「ローレンス、って……まさか、ミリア・ローレンス?」
「はい。親しげにヴィクトルさまと腕を組んで、領都にあるホテルに入って行かれました。その後がどうなったのかは分かりません。ですが、どう見ても男女の逢瀬としか思えず……」
ルーナが唖然として言葉を失っていると、ヘレンが気遣う口調で続けた。
「私は自分が見たものが信じられませんでした。ですが……伯爵家のご婚約者さまが、あれは間違いなくグラートさまとローレンスさまだ、社交界でおふたりを見たことがあるから確かだ、とおっしゃって……。それで、動揺する私に、このことはルーナさまに知らせて差し上げるべきだ、と使いに出してくださったのです」
思わず溜め息が漏れる。
これはいったいどういうつもりだ、とヴィクトルに詰りたい気持ちでいっぱいだったが、それを堪えてルーナは静かに問いかけた。
「……オルスト伯爵の婚約者は、どなただったかしら」
「え? は、はい。マルトール家のご令嬢で、お名前はソフィアさまです。先々代のオルスト伯爵の縁戚筋で、周囲から強く勧められ、それでご婚約が結ばれたと伺っております」
「マルトール、ね。確か、お父上は騎士爵のはず。今は現役から退いているけれど、過去には近衛隊にも所属していたと聞いているわ」
「――ご存知なのですか?」
驚いて言うヘレンに、ルーナはにこりと微笑んでみせる。それから、ふと視線を上げて、クラウスに呼びかけた。
すぐに茶会室に現れた老執事に、ルーナは鋭い声で言った。
「クラウス、今の話は聞いていて?」
「はい、もちろんにございます」
「オルスト伯爵には気の毒だけれど、マルトールは黒よ。このタイミングでヘレンを寄越すなんて、どう考えてもできすぎているもの。――ねえ、ヘレン。ソフィアさんとの買い物は、急に決まったことではなかったしら?」
「え、ええ。おっしゃるとおりです。それに、もともとは別の者がお供するはずだったのが、なぜか私がご一緒することになっていたんです」
どう考えても偶然ではありえない。間違いなく意図的なものだろう。
ヘレンがルーナ付きであったことは、オルスト伯爵家の関係者ならば誰でも知っている。領都を歩くにも連れ回していたから、ルーナがヘレンに信を置いていたことは一目瞭然だったはずだ。
その彼女が進言すれば、ルーナを動かせるだろうと踏んだに違いない。そして現状、ルーナを誘き出す必要があるのは王弟リクハルドのみだ。
つまりソフィア・マルトール、もしくは騎士爵の父に、王族の息が掛かったと見て間違いないだろう。
「あなたが来てくれて本当に助かったわ、ヘレン。おかげで分かったことがたくさんあるもの。――ところで、この後はなにか予定していて?」
「いえ、特には……。もしルーナさまがオルストにおいでになるなら、同行するようソフィアさまから申しつかっておりますが」
「まあ、王都に来たばかりなのに? ずいぶんと慌ただしいのね。せっかくの王都なのだから、のんびりとは言わないけれど、少しは観光していけば良いのに」
言って、ルーナは手を軽く打ち合わせた。
「そうだわ、わたくしが宿を手配してあげる。ついでにハンスを付けるから、王都観光を楽しんでいってちょうだい。そしてできたら、わたくしの代わりに、オルスト家の使用人たちへのお土産を選んでくれると助かるわ」
「ルーナさま、お気持ちは嬉しいのですが……さすがにそういうわけにはまいりません。ルーナさまがオルストへ向かうなら、なおさらお供させてください」
「――だからなのよ、ヘレン。詳しくは話せないけれど、わたくしとヴィクトルは厄介ごとの最中にいるの。あなたが王都に寄越されたのもそのせい。無関係のあなたを、わたくしたちの事情に巻き込んでしまったことは、すまないと思っているわ。そして……だからこそ、これ以上危険なことにならないように、あなたには安全な場所にいてほしいの」
ヘレンは戸惑う表情でルーナを見返した。問題の根の部分は伏せられたまま、起こる事実のみを突きつけられたのだから、困惑するの気持ちは良く分かる。
ルーナは微苦笑を浮かべ、背後に控えていたクラウスに視線を向けた。
「ヘレンのことはハンスに任せるわ。それとクラウスは出掛ける支度をお願い。すぐに出立しましょう」
おまかせください、とクラウスが言う一方で、ヘレンが慌てた声を上げた。
「お待ちください、ルーナさま。私を安全な場所に、と言うならルーナさまこそ危険なのではありませんか? それなのに出かけるだなんて、そんな危ないことはなさらないでください。私などよりも、ルーナさまこそ安全な場所にいるべきです」
「ありがとう、ヘレン。そう言ってくれるのは嬉しいのだけれど、今は危険を承知で動かなければならない状況なの。それに対策は採ってあるから大丈夫よ。ただ、その為には時間に余裕がなくて……」
言いながらルーナは席を立つ。
心配でたまらない、という顔をしたヘレンに、にこりと微笑みかけた。
「今日のお礼も兼ねて、今度改めてお茶をしましょう。慌ただしくて申し訳ないけれど、わたくしはここで失礼するわ。あなたはゆっくりしていってね」
「ルーナさま……!」
引き留めようとするヘレンを置いて、ルーナは茶会室を後にする。
自室に戻るとメイドたちが既に着替えの支度を調えていた。彼女たちの手を借りて着替えを済ませ、髪は多少の動きでは乱れないようきっちり結い上げる。
最後に編み上げのブーツを履いたところで、クラウスが扉の向こうから告げた。
「――ルーナお嬢さま、お支度はよろしいですか? 馬車と、馬の用意が済んでございます。旦那さまへの連絡も手配いたしました」
「ありがとう、クラウス。ちょうど、わたくしの準備も終わったところよ。さあ、行きましょう」
言うと同時に扉が開く。
玄関から出ると車止めに馬車が一台と、空の鞍を乗せた青鹿毛が待機していた。
馬車の横には護衛の騎士が数騎、青鹿毛の側にも同数の騎士が控えている。彼らのうちの年嵩のひとりが、ルーナを見止めて朗らかに笑った。
「よお、ルーナ嬢。しばらく見ないうちに、ずいぶんと綺麗になったな。男爵夫人のお若いころにそっくりだ」
「――ユリウス小父さま? まあ、まさか小父さまが護衛に付いてくださるの?」
黒髪を短く刈り上げ、無精髭の印象的な彼は、名をユリウス・ウィットと言う。
彼は父ジョナサンの旧友で、商家の出であるにもかかわらず、連隊長の地位まで上り詰めた傑物だ。
だが全盛期の十年ほど前に騎士団を退き、引退した騎士らを集めて「フロール」という私設騎士団を立ち上げている。騎士というより傭兵だ、とは彼の談ではあるが、ユリウスをトップとした規律正しい護衛集団である。
フロールは街道を行く商隊を主な顧客としていて、当然、メイヴィスも大変お世話になっている。彼らの仕事ぶりは評判で、フロールなしには王都での商売は立ち行かない、と言われるほどだった。
そんな多忙を極める彼が、まさか護衛に付いてくれるとは思わず、思わず驚きの声を上げたルーナに、ユリウスが眉をひょいと上げて言った。
「おっと。小父さんが護衛じゃあ、不服かい?」
「いいえ、とんでもない。小父さまとご一緒できるだなんて、こんなにも心強いことはないわ」
言ってルーナは馬車に乗り込むのではなく、青鹿毛に颯爽と跨がった。
既に馬車は走り出していて、中に乗っているのは身代わりの騎士だ。すなわち彼らが街道を行くことで、王弟の手を引き寄せる狙いだった。
そも淑女とは普通、馬に乗ることをほとんどしない。手綱を引かれて横乗りするのがせいぜいで、鞍に跨がるなどマナー違反にもほどがある。ところがルーナは乗馬を趣味とするヴィクトルに付き合って、遠乗りに何度も出かけていた。
おかげで乗馬の腕はかなり上達して、今では一刻程度なら駆けることができるようになっていた。とは言え、王弟もよもやルーナが騎馬で移動するとは思わないだろう。
つまるところ、これはある種の思い込みを突いた計画だった。
馬車の一団には精鋭を揃えてあるから、囮どころか返り討ちをする勢いである。
かくしてルーナたちは街道を外れ、商隊が行く細道を乗騎したままに進んだ。
農夫や地元の者たちしか使わないその道は、足元の草を払っただけでまるで整地されていない。泥濘んだ場所には轍の跡がくっきり残っていて、油断すると手綱が取られそうになる。
悪路に苦心しながら細道を進み、オルスト領の外れに辿り着いたのは、地平線に夕陽が触れるころのことだった。
ここから先は、領都まで一刻もかからない。
ルーナたちは馬を駈けさせて、領都の外れから街に騎馬のまま踏み込んだ。
ヴィクトルのおかげで良く栄えた領都だが、貴族が宿泊できるホテルはまだ一軒しかない。それでルーナは正面に馬を乗り付けて、ユリウスを伴に颯爽とロビーに足を踏み入れた。
乗馬服で現れた淑女らしからぬ風体のルーナに、ドアマンが目に見えて狼狽えている。貴族であることが分かるだけに、どう対応して良いのか分からないのだろう。
ドアマンに止められないのをこれ幸いとロビーを突っ切り、ルーナはフロントのベルマンに微笑みかけて言った。
「ヴィクトル・グラートが、ここに泊まっているでしょう? どの部屋に滞在かしら。案内してくださる?」
ヴィクトルの名を出した途端に、ベルマンの顔がざぁっと青くなった。
先代のオルスト伯爵であるヴィクトルは、領都で知らぬ者のいない有名人だ。そして彼に婚約者がいることも、共同で事業を起こしていることも広く知られている。
彼が女性を連れ込んでいる状況で、どう見ても貴族の令嬢が乗り込んできたのだから、なにが起こっているか察したのだろう。
正直なところ、ルーナはヴィクトルの浮気を微塵も疑ってはいないし、ミリア・ローレンスを連れ込んでいることにも事情があるのだろうと思っている。だがオルスト伯爵の婚約者が王弟側である以上、どこに誰の目があるとも限らない。
ルーナが察していることを悟られないためにも、ある程度のパフォーマンスは必要だろう。
嫉妬と怒りに燃える婚約者の振りを、こっそり楽しんでいるルーナの横で、ユリウスが飄々とした態度で言った。
「こちらのお嬢さんは、グラート氏の婚約者だ。やっこさんが何をしてるかは知らないが、浮気現場に婚約者が殴り込みに行くのは当然の権利だろうよ。諸々の責任ならお嬢さんが取ってくれるから、あんたは気にせず鍵を出してくれ」
ベルマンは言葉を探すように口を開け閉めしてから、ルームキーを取り出した。
目配せでフットマンを呼び、キーを渡して言った。
「こちらのご令嬢を、三階の貴賓室に案内するように。分かっていると思うが、そこで見聞きしたことは一切の口外を禁ずる」
ルームキーを受け取ったフットマンが、生真面目な顔でこくりと頷く。
とんだ貧乏くじを引いてしまった彼を気の毒に思いながら、ルーナは案内されるまま三階に上がった。
貴賓室があるのは廊下の奥まった場所で、一般の宿泊客が立ち入れないような動線になっている。扉や仕切りがある訳ではないのだが、廊下の造りや照明に調度品、そういったもので上手く境界線を敷いているのが見て取れた。
そのことを密かに感心しながら廊下を進み、扉の前でフットマンが立ち止まったのを見て、ルーナも足を止めた。フットマンは扉をノックしてから、かしこまった声を上げた。
「お取り込みのところ、大変申し訳ありません。グラートさまに大切なお客さまがお出でです。お通しするよう申しつかっているのですが、こちらを開けてもよろしいでしょうか」
扉の向こうで、がたん、となにか大きな物が倒れたような音がする。ややあって、慌ただしい足音がして、それからヴィクトルの動揺しきった声が響いた。
「少し――待ってくれ。今、扉を開ける」
彼が言うと同時に開いたのは、貴賓室に続く方ではなく、その横にある飾り気のない扉だった。
使用人が出入りするためのものだろう。そこから顔を出したヴィクトルは、フットマン越しにルーナを見て、安堵と喜びが入り混じった表情を浮かべた。
彼はそのまま駆け寄ろうとして、フットマンの存在を思い出したのだろう。分かりやすく襟を正してから、上着のポケットからコインを取り出した。
それをフットマンに手渡してから、ヴィクトルは改まった口調で言った。
「ご苦労、下がってくれ」
チップを渡されたフットマンは、ルーナを見て気遣わしげな顔になったが、ヴィクトルに命じられては逆らえない。なにか言いたげにしていたが、結局口を開かずその場を後にした。
残されたルーナとユリウスは視線を交わすと、開いている方の扉から室内に足を踏み入れた。
絨毯も敷かれていない板敷きの部屋に入った途端、ぐいと腕を引かれる。それになにかを言う間もなくぎゅうぎゅうと抱き締められて、ルーナはヴィクトルの腕の中で目を瞬かせた。
宥めるように軽く背を叩くと、ヴィクトルが絞り出すような声で言った。
「……きみが無事で本当に良かった、ルーナ。男爵から鳩で報せを受け取って、心配のあまり肝が潰れるかと思った。王弟がどう出るか分からないんだ。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ」
「それを言うなら、あなたこそ心配させないで。わたくしだって、理由もなしに無謀なことはしないのよ。オルストが安全ではなくなったから、こうして駆けつけたんじゃない」
ルーナが拗ねた声で言うと、ヴィクトルが抱きしめる腕の力を緩めた。
腕の分だけ距離を取って、ルーナの顔を覗き込む。
ヴィクトルは訝るふうに口を開きかけ、だがなにごとか言う前にユリウスが、こほん、とわざとらしい咳払いをした。はっと顔を上げたヴィクトルが、取り繕った声で言った。
「……おひさしぶりです、ユリウス卿。彼女が無事に来られのも、あなたのお力添えがあればこそ。ルーナの護衛についてくださって、心から感謝します」
「良いってことよ。それより悪いんだが……話をするなら場所を変えないか? 強行軍で駆けてきたから、どうも腰が痛くてね。わがまま言って悪いんだが、ゆっくり座らせてくれるとありがたい」
「いえ、こちらこそ気が利かず申し訳ありません。中へどうぞ。……少し散らかっていると思いますが」
うんざりしたような声音で言って、ヴィクトルは前室の突き当たりにある扉をノックした。
中から応えがあるより先に扉を開ける。
扉の向こうにあるのは広々としたリビングと、仕切りのない続き部屋にダイニングセットが設えられていた。更に奥にも扉があって、部屋の作りから考えておそらく寝室に繋がっているのだろう。
貴賓室に相応しくカーテンや絨毯、ソファなどの調度品も豪華だったが、なぜか室内は雑然と散らかっていた。
リビングのテーブルには食べかけの菓子と、空になったティーカップ。引かれたままの椅子には、ストールが適当に置かれている。それよりも更に酷いのはダイニング部分で、ソファにはデイドレスが脱ぎ捨てられ、絨毯にはヒールの高い靴が転々と転がっていた。そしてロウテーブルには紙箱が山のように積まれ、適当に開けられたそこから繊細なレースの手袋が顔をのぞかせている。
社交デビュー前の子どもでも、ここまで散らかさないだろう。
「これが、少し……?」
室内の惨状に思わず呟いたルーナに、ヴィクトルが苦り切った顔で溜め息を吐いた。
「昨日見たときは、ここまで酷くはなかったんだが……」
「昨日? それならヴィクトルは、昨夜どこで休んだの?」
「隣だ。使用人が休めるよう、廊下を挟んだ先に小さな個室がある。ベッドと物入れがあるのみだが、ここで眠るよりはずっと良いからな」
言ってヴィクトルはダイニングテーブルの方へ向かった。
心底辟易したふぜいで、テーブルの上のあれこれを脇に寄せる。食べかすを払い、最低限の片付けをしてから、ヴィクトルがうんざりと言った。
「ルームサービスを呼んで茶でも、と言いたいところだが……今は信用できる者以外は部屋に入れるわけにはいかなくてな。きみが浮気現場に乗り込んできた、という体裁を整えた以上、ここで和んでいるのも変だろう。……居心地は悪いだろうが、少しだけ堪えてくれ」
ヴィクトルが引いてくれた椅子に腰掛けて、ルーナも微苦笑を浮かべる。
「この程度は問題になりません。それより、ローレンスさんはどちらに? いらっしゃるのでしょう?」
「先ほど屋台で買った夕食を摂って、もう疲れたから休むと言っていたが……なにをしているのやら、だ。しかし……話をするなら彼女も呼ぶべきだろうな。おそろしく気は進まないが」
そうぼやいたヴィクトルが、寝室に続く扉をノックする。だがしばらく待っても返事がない。
訝ったヴィクトルが一度目のそれより強く扉を叩くと、ようやく向こうの部屋から眠そうな声が響いた。
「もう、ヴィクトルったらなんの用? さっきから騒がしいけど、もしかして、ようやく使用人を呼んでくれる気になったのかしら」
不満たっぷりな声で言いながら、ミリアが顔を覗かせる。彼女はヴィクトルに拗ねた目を向けて、それから可愛らしく首を傾けた。
ふふ、と鈴を転がすような声で笑って、ごく自然な動作でヴィクトルに触れようとする。それをさり気ない動作で避けたヴィクトルは、背後のルーナたちが見える位置に立った。
ミリアは釣られるように椅子に腰掛けたままのルーナを見て、それから目を大きく見開いた。
「る、ルーナ・メイヴィス……!」
思わず、といったふうに声を上げたミリアに、ルーナは呆れた目を向けた。
「……いきなりで驚くのは分かるけれど、呼び捨てはやめてくださらない? さすがに不愉快だわ」
言ってこれ見よがしに溜め息を吐くと、ミリアがぴゃっと背筋を伸ばした。
「も、申し訳ありません。それと遅くなってしまいましたが、カフェでの失礼な態度も謝罪します。あの時は事情を知らなくて、ちょっと空回ってたんです。でも、貴族の方に取って良い態度じゃありませんでした」
以前会ったときとは別人のような態度に、ルーナは思わず目を瞬かせてしまう。するとそれを見たミリアが、面白くなさそうに鼻を鳴らして言った。
「だって勝ち目がないってこと、見てて丸わかりなんですもん。保身に走って当然ですよ。……まあ、もしかしたら、を狙ってたことは否定しませんけど。でもそういうふうに、さも全部分かってます、みたいな顔されたら、横から掻っ攫うなんて不可能ですよ。せめて喧嘩してるとか、そういう隙が少しでもないと」
つまり隙さえあれば、ヴィクトルに粉をかける気でいた、ということなのだろう。
まったく油断も隙もない。ヴィクトルが簡単に靡くとは思っていないが、状況が許せば手出ししようと考えていたこと自体が不愉快である。
思わず顔をしかめたルーナに、ヴィクトルが場をとりなす口調で言った。
「とりあえず席に着いてくれ。情報の整理がしたい」
「言い訳の間違いじゃなくて?」
そう軽い口調で混ぜっ返してから、ミリアはルーナから一番離れた椅子に座った。そこから手が届く位置にユリウスが腰を落ち着け、ヴィクトルはルーナの正面に着く。彼はユリウスとミリアをそれぞれ紹介してから、彼にしては珍しく言葉を迷うふぜいで口を開いた。
「……まず、ミリア嬢がここにいる説明をさせてくれ。ルーナは既に察しているだろうが、ひとつでも誤解がないようにしたい」
「そうね、情報の擦り合わせは大事だわ」
ルーナはひとつ頷いて、ミリアに視線を向けた。
「ようするにローレンスさんがスヴァルト公爵の弱み、なのでしょう? 彼女がそうなのか、彼女がそこに繋がっているのか、どちらかは分からないけれど……」
「後者だ。ミリア嬢の知り合いを引っ張り出せれば、交渉を優位に進めることができる。だが彼女は現在、事情があって身を隠している。その彼女の行き先を唯一知っているのが、ミリア嬢なんだ。だが、ただでは教えられないと言われて、それでさんざ引っ張り回された」
「……彼女? では、その方は女性なの?」
「ああ。彼女はミリア嬢の同輩――つまり元修道女だ」
ヴィクトルが言った途端、話を聞く体勢だったユリウスがやにわに身を乗り出した。
「ちょっと待った。その修道院って、まさかあの修道院か?」
「ユリウス小父さま?」
驚いて顔を向けると、ユリウスがはっとした様子で口を閉じた。言ってはいけないことを口にしてしまった、と言わんばかりのその表情に、なんとなく嫌な感じがする。
これはどういうことだ、と問う視線をヴィクトルに向けると、彼は眉間に深い皺を刻んで言った。
「……先々代の伯爵が残した負の遺産は腐るほどあるが、ルフレールにある修道院はその最たるものだろう。それをきみに説明するのは、気が進まないのだが……」
口ごもったヴィクトルに、ミリアが呆れた声で言った。
「良い顔しちゃって、これだから男って嫌なのよ。……あのですね、ルーナさま。私がいた修道院って、まっとうな場所じゃなかったんです。そもそも行き場のない元貴族や商家の娘を、ただ善意だけで集めると思います?」
「……思わない、と言えば敬虔な信徒を貶めることになるでしょうね。でも、世の中が善意だけで回っている、だなんて甘い考えは持っていないわ。そして悪事を働く者が、どういう振る舞いをするかは分かっているつもりよ」
ルーナは言って、小さく息を吐いた。
「つまり修道院を隠れ蓑にした、売春施設だった、ということなのでしょう?」
「ご明察です。と言ってもそればかりやっていたわけではなくて、寄付金集めの一環だったんですけど。神のために喜捨してくださった方には、心清らかで美しい修道女たちが、素晴らしいもてなしをいたします。っていうふうにね」
そう吐き捨てたミリアは、暗い顔で続けた。
「私はそれが死ぬほど嫌で、だからルフレールから逃げて領都にいたんです。身体を売らされる前に、どうにか修道院から逃げ出したくて。そんな時に伯爵の葬儀があって、それでヴィクトルに助けを求めたんです。父は伯爵領の騎士だったので、まったく面識がなかった、というわけでもなかったですし」
「……だからカフェで、あれだけ必死だったのね。還俗して修道院から逃れられたとは言え、後ろ盾も無しに放り出されたら困るもの」
「ご理解いただけて感謝します。ああ、そうだ。もしよかったら、私たちお友達になりませんか? こうしてお互い事情が分かって、和解できたことですし。私これから商売を始めるので、貴族のお友達が欲しいと思っていたんです」
「それは無理。隙があればヴィクトルを狙う方と、友情を育めるとは思えないもの」
きっぱり断ると、ミリアが残念と言うふうに肩を竦ませた。
まるで堪えた様子がないのは、ルーナの反応を予測していたからだろう。
ヴィクトルとの件を鑑みるに、どうやらミリアは、駄目で元々、取り敢えず行動してみる、という猪のような性質であるらしい。可憐な見た目に反するこの勢いは好ましいが、だからこそヴィクトルに近づいて欲しくなかった。
淑女らしく穏やかに交渉が決裂した横で、ユリウスがなんとも言えない渋い顔をしている。
そう言えば、とルーナはユリウスに問いかけた。
「ユリウス小父さまも、ルフレールの修道院のことをご存知でしたのね」
「……ん? ああ、まあな。ヴィクトルが修道院の手入れをした際に、俺もちょいとばかし力を貸したんだよ。ジョナサンに頼まれてな」
「それは、いつ頃の話ですの?」
「ヴィクトルが爵位を継いで間もなくだったから……三年くらい前か。当時の修道院長は悪辣で強欲だったが、身の回りを固めることに金を惜しみはしなくてな。かなりの数の修道兵と、ごろつき紛いの傭兵を揃えてあったんだ」
当時のことを思い出したのか、ヴィクトルが微苦笑を浮かべる。
「オルストの騎士では、人数的に対処のしようがなかった。それでメイヴィス男爵に相談したところ、ユリウス卿を紹介していただいた、という流れだ」
「俺もこの年だから、それなりに修羅場を潜っちゃいるが……ルフレールの件はかなり胸が悪くなった。俺も娘がいるから、余計にな」
暗い声で零したユリウスは、黒の短髪をがしがしとかき混ぜてから後を続けた。
「ともあれ、色々と合点がいったぜ。ようは修道院の顧客リストに、スヴァルト公爵の偽名があった、ということなんだろ? それでそっちのお嬢さんのお友だちは、奴のお馴染みさんだった、という訳だ。しかし……行方をくらますには少し弱いな。他にも理由があるんじゃないか?」
答えを分かった上での問いかけに、ミリアがこくりと頷く。
「その子……名前はクリスタっていうんですけど、彼女はヴィクトルが修道院の手入れをする少し前、病気を口実に追い出されてます。でも実際は病気じゃなくて、追い出されたのはクリスタが妊娠したからなんです」
「腹の子の父親はスヴァルト公爵、か?」
「大事なお客さまを不愉快にさせないために、他の人の相手はさせないって聞いたことがありますから。だから、たぶん、そうなんだと思います。クリスタも、そう言ってましたし」
話を聞いただけでうんざりする。
ルーナは堪えきれなかった溜め息を吐き出してから、ミリアに視線を当てた。
「ひとつ聞いても良いかしら?」
「ええ、どうぞ。ひとつと言わずいくらでも」
「……では伺うけれど、スヴァルト公爵のお相手の方は、貴族階級の出身でしたの?」
「いいえ、商家の出です。正確に言うなら大店のご主人が、従業員に手をつけて生ませた婚外子ですね。ご主人の浮気に対する奥さまの怒りがすごくて、引き取ることも認知することもできず、それで生後まもなく修道院に預けられた、って聞いてます」
「そう。そういうことだったのね」
これでようやく、すべてが腑に落ちた気分だ。
ヴィクトルが徹底的に情報を伏せて動いた理由が良く分かる。
「ヴィクトルが言ったとおりだわ。もしこのことが表沙汰になれば、社交界は間違いなく大騒ぎになるでしょう。そしてスヴァルト公爵は、先王妃の遺産相続人から外されかねない」
だろうな、と呆れた声で言ったのはユリウスだった。
「先王妃の偏った貴族主義は、彼女が社交界から去った今でも人の口に上るほど有名だ。先王妃にとって貴族以外は人ではなく、路傍の石のようなものだったからな。なにせ彼女の離宮では下働きまで貴族の子弟で揃え、平民は視界に入ることすら許さなかったくらいだ。平民が彼女の血を引く子を産んだ、と知れば激怒すること間違いなしだ」
「……それだけで済むとは思えませんわ。ここは一刻も早くクリスタさんの安全を確保いたしましょう。スヴァルト公爵が、どこまで情報を得ているかも不明点ですし」
ヴィクトルが難しい顔になる。
「だが問題は、どう彼女を確保すべきか、だ。メイヴィス男爵から護衛を借りてはいるが、彼らを使えばどうしても人の目を引いてしまう。かと言って少数では、もしもの場合に不安がある」
「だったら、俺が直々に動いてやろうじゃないか。お誂え向きに、ルーナ嬢の護衛のため精鋭を揃えある。一騎当千とは言わないが、母ひとり子ひとりを守るには十分だろう」
そう頼もしく言って、ユリウスはにやりと笑った。
「安心しろ、ヴィクトル。護衛料はまけてやる。ちょっとばかし早いが、結婚祝いと思ってくれ」
「それは助かります。……状況の開始は、いつごろに?」
「早ければ早い方が良い。とは言え、優先されるのはルーナ嬢だ。まずは彼女をメイヴィス所有の屋敷に避難させなきゃならん。ついでだから、そっちの嬢ちゃんも匿ってやれ。……ヴィクトル、おまえはどうする」
「もちろん、同行します。戦力にはならずとも、元領主がいれば役に立つこともあるでしょう」
「もっともだ」
ユリウスが言って立ち上がる。
迅速に手筈を整えた彼に追い立てられるようにして、ルーナたちはホテルを後にした。




