9 逃げるが勝ちとは言うものの
コルス宮を早々に辞したルーナとヴィクトルは、馬車に乗り込むと揃って大きく溜め息を吐いた。
とんでもないことになった、と落ち着かない胸の裡で思う。
その出自がゆえに二転三転してきたヴィクトルの立場だが、ここに来て再びそれが揺らぐことになるとは思いもしなかった。
若くして伯爵位を継ぎ、血統を継いでいないことを理由にそれを返上、次期男爵となった彼が、まさか王族の落胤である。さすがにこれは想定外が過ぎる。
そしてヴィクトルが、王弟リクハルドに対して行った不敬の数々。殴り倒したまま放置して出てきてしまったが、果たしてそれで良かったのだろうか。
リクハルドを腹立たしく思う感情はさて置き、せめて手当をするか人を呼ぶべきではなかったのだろうか。そうぐるぐると考え込むルーナの横で、ヴィクトルが拗ねた声で言った。
「ルーナは、俺を愛しているのではなかったのか?」
「……ヴィクトル?」
驚いて顔を上げる。目を瞬かせてヴィクトルを見つめると、彼はルーナの手を取り、ずいと身を乗り出した。
「公爵に婚約の解消を持ちかけられて、きみは迷わず頷いただろう。俺を愛しているなら、どうしてあの時、はっきり断ってくれなかったんだ」
「それは……だって、それを命じたのは王族なのよ。男爵家の娘では、逆らうことなどできないわ。それに……王族のあなたに、わたくしが相応しくないのは本当のことだもの」
「相応しくない? 頼むから馬鹿なことを言わないでくれ。ルーナ、きみは俺の側にいたい、と願ってくれたじゃないか。血筋が定かではなくても気にしないと言ったのに、俺が王族の血と判った途端に拒絶するのか?」
ルーナを責めるような物言いに、思わずむっとしてしまう。
「拒絶した訳ではないわ。ただ単に身の程を知っている、というだけよ。それに……公爵のあの様子。ああも恥をかかされて、あの方が大人しく引き下がるとは思えない。場合によっては陛下を巻き込むこともあり得るでしょう。そして正式に王族からの下命があれば、わたくしに拒絶はできないわ」
「きみは……俺よりも、貴族のしがらみを取ると言うのか? 俺が平民でも構わない、変わらず愛していると言ったきみが?」
見下げたような物言いに、かっと頭に血が上る。それを言ったのがヴィクトルだからこそ、くやしくて腹立たしくて堪らなかった。
怒りのあまりに、目の前が真っ赤に染まるような思いがした。喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、息が詰まって苦しくなる。
ルーナは手をきつく握りしめると、勢い口を開いた。
「どうして、どうしてわたくしが責められなければならないの。男爵家の小娘でしかないわたくしが、王族に逆らえるわけがないじゃない。愛しているだけですべて上手くいくなら、わたくしだってあなたを諦めたりはしない。でも、そんなの夢物語だわ。叶わないと受け止めるしかないのよ。それなのに、わたくしが悪いみたいに言わないで……!」
そう感情的に返した途端に、堰を切ったように眦から雫がこぼれ落ちた。
ずっと堪え続けていた分だけ、後から後から溢れてくる。子供のように泣いてしゃくりあげると、ヴィクトルが焦ったふぜいでルーナに手を伸ばした。
大きくて温かな手が、溢れる涙を拭ってくれる。ヴィクトルはルーナの頭を引き寄せ、髪に耳に口づけながら言った。
「すまない。すまない、ルーナ。許してくれ。きみを泣かせるつもりはなかったんだ。大人気なく拗ねて、きみにそれをぶつけてしまった俺がすべて悪い。だから頼むから、泣かないでくれ……」
優しく抱き寄せられて、余計に涙が止まらなくなる。
ほろほろと泣き続けていると、涙をヴィクトルの手がルーナの頤に触れた。泣いてぐしゃぐしゃの顔を仰向かされて、すぐに口づけが降ってくる。
優しいそれを何度か受け止めているうちに、気づけば涙が止まっていた。
ようやく泣き止んだルーナの呼吸が落ち着くのを待って、ヴィクトルが口を開いた。
「……王族に対して、打つ手がない訳ではない。俺の母の件を出せば、そう強くは出られないはずだ。血統を損ねた挙げ句、息子から婚約者を取り上げるなど、王族の威光で胡麻化す範囲を超えている」
髪を撫でる手の優しさにうっとりしながら、ルーナは冷静な頭の一部が思ったままを口にした。
「それは……どうかしら。お母さまのことはともかく、王族の貴賤婚に眉を顰める人は少なくないと思うの。だからわたくしの代わりに、相応しい身分の令嬢に挿げ替えても、きっとなんの問題にもならないわ。なによりメイヴィスが痛い目を見た、と喜ばれるかもしれない」
ヴィクトルの素性が明らかになり、ルーナとの婚約が解消されれば、メイヴィスの隆盛を面白く思わない者たちにとって、これほど愉快なこともないだろう。
身の程知らずが欲をかくからだ、としたり顔で吹聴する様まで容易に想像がついてしまって、ルーナは思わず溜め息を零した。
「……公爵閣下の口をふさぐ、手頃な弱みがあればいいのだけれど。例えば詐欺紛いの商売に関わっていたり、違法な物品の取り引きを行っていたり……むしろ、今から犯罪に手を染めてくれないかしら」
ルーナが半ば自棄になって零したそれに、だがヴィクトルが、はたと面を上げた。思いの外、真剣な声で言う。
「ある、かもしれない」
「――え?」
「犯罪とまではいかずとも、公になれば騒ぎになるだろう心当たりがひとつある。事情があって今は詳しく話せないが……ルーナ、ここは俺に任せて貰えないだろうか。それと少し時間が欲しい。取り引き材料にする為には、裏取りに出向く必要があるんだ」
「それは構わないけれど、あなたが危ないことにはならない?」
「心配は無用だ。むしろ身を守って欲しいのは、俺ではなくきみの方だ。俺ときみの婚約を解消するために、あの男が卑劣な手を取ることは十分に考えられる。あまり口にしたくはないことだが、女性の名誉を傷つけるのは、男性のそれより容易だからな。……警護を厚くするよう、メイヴィス男爵と話をしておかなければ」
後の方は呟くように言って、ヴィクトルは御者席側の壁をノックした。
急いでくれ、と告げるとすぐさま馬車が進みを速くする。ほどなくして男爵家のタウンハウスに着くと、ヴィクトルはルーナを彼女の自室に押し込んだ。
くれぐれも客人を通さないよう執事のクラウスに命じ、ルーナには部屋で大人しく休んでいるよう言い置いてから、ヴィクトルは慌ただしい足取りで部屋を後にした。
ジョナサンの帰りを待つ間に、できる対策を採っておくらしい。
ルーナは着替えと入浴を済ませると、後は言われるまま大人しく眠りについた。
翌日、早々に目を覚ましたルーナだったが、ヴィクトルは既に出立した後だった。
クラウスに聞くところによると、深夜に戻ったジョナサンと話し合いを済ませて、その足でメイヴィスのタウンハウスを発ったらしい。
こちらをお預かりしています、とクラウスから渡されたのは手紙で、中にはルーナへの伝言が書きつけられていた。
相変わらずの美しい筆致だが、急いで書いたらしく文字がやや乱れている。便箋にはルーナへの愛の言葉に、身の周りに気をつけるよう注意が長々と、そして挨拶もせずに発つことへの詫びが記されていた。
ルーナは一度最後まで目を通してから、今度はじっくりと読み直して溜め息を吐いた。
丁寧に折りたたんだ便箋を封筒に戻し、ドレスの隠しポケットにしまって言った。
「お父さまはお戻りなのね。朝食は無理でしょうけれど、昼食をご一緒できるかしら? クラウスはお父さまから、なにか聞いていて?」
「くれぐれもルーナさまを外に出すな、と言いつかっております。昼食は……そうですね。時間を遅らせてもよろしければ、同席なさることは可能かと」
「そう。それなら調整をお願い。それまでヴィクトルの忠告に従って、大人しく仕事で時間を潰すことにするわ」
駄目だと言われているのに外へ出る気にはなれないし、そもそも出歩く予定もない。それでルーナは朝食を終えると、自室に戻って仕事を片付けにかかった。
経営しているコート・サウラからの報告書を読み、返事の下書きをしたため、ヴィクトルとの共同事業となった服飾店の計画を詰めていく。
賃貸契約を済ませ店舗は改装の真っ只中だが、並行して進めなければならないことが山ほどある。布地の仕入れや針子の手配、接客をする店員の教育も行わなければならない。
オルスト領内で見繕った数人は、今はコート・サウラで基本を仕込まれている。一度様子を見に行きたかったが、しばらくは書面での報告で済ますしかなさそうだ。
仕事を片づける間に社交のお誘いを捌き、旨味も面白みもない物を破棄したところで、クラウスが現れて昼食の用意ができたことを告げた。
食堂に向かい、長テーブルに着いてしばらくすると、ジョナサンがくたびれた様子でやってくる。
明らかに睡眠が足りていない。おそらくヴィクトルとの話し合いの後、ジョナサンも忙しく動き回っていたのだろう。
完全に巻き込まれた形の父を差し置いて、のんびり眠ってしまったことを後ろめたく思いながら、ルーナはにこりと微笑んだ。
「おはようございます、お父さま。昨夜は出迎えもできず申し訳ありません」
「ああ、おはよう。……おまえはよく眠れたようだな。ヴィクトルの件で、気落ちしているかと思ったが」
「ご心配には及びませんわ。なにしろ落ち込むよりも、腹立たしさの方が強かったものですから。それに、わたくしよりも大変なのはヴィクトルですよ」
そう返すと、ジョナサンが小さく息を吐いた。
ジョナサンがテーブルの角を挟んだ隣に着くと、すぐに昼食の皿が運ばれてくる。寝起きのジョナサンを気遣ってか、メニューは常よりも簡素だった。
根菜類がたっぷりのスープに、海老と青菜のサラダ。メインはグリルした白身魚で、葡萄酢を煮詰めたソースがかかっている。添え物は柔らかく煮た人参と青豆だ。
胃に優しそうなそれらを綺麗に平らげてから、ジョナサンが重々しく言った。
「再三の忠告になるが……護衛の手筈が整うまで、おまえの外出は禁止させてもらう。仕事の不都合はあろうが、身の安全のためだ。堪えてくれ。それとコート・サウラと新事業についてだが、おまえが動けない不足分は私が手を貸そう」
「それは助かりますけれど……お父さまもお忙しいでしょう? 大丈夫ですよ。コート・サウラはほとんどわたくしの手を離れていますし、新事業も人を育てている段階ですから。もちろん、わたくしが確認しなければならないことはありますが、それはタウンハウスに籠もっていてもできることです」
「ならば良いが、問題があれば遠慮せずに言いなさい。今回のことは、ひとりで対処するには限界がある」
苦々しい表情で言うジョナサンに、ルーナは思わず首を傾けた。
「お父さまは、スヴァルト公爵についてどの程度ご存知ですの? 世代は近くていらっしゃいますよね?」
「……まあ、そうだな。あちらの方がいくつか年嵩で、身分に隔たりがあるせいで付き合いはないが、確かに同年代ではある。社交界における悪評も、他より知っていると言って良いだろう」
「悪評、ですか。やはり素行の宜しい方ではないのですね……」
「特に女性関連が最悪だな。王族という立場を使って、都合の良いように振る舞っていた。当時は婚姻前に手をつけられては敵わない、と婚期を早めるものもいたほどだ。……スヴァルトの公爵の身の上は知っているな?」
「ええ。わたくしたちに知ることが許された範囲のみ、ですが」
縁戚関係でもない限り、王族について一介の貴族に知れることは少ない。せいぜいが生まれ年や性別、大まかな容姿が分かるのみだ。
ただしスヴァルト公爵、リクハルドについてはその生まれが珍しかっただけに、他よりも知ることのできる事柄が多かった。
リクハルドの生母である先王妃が王家に嫁いだのは、彼女が十六の年のことだった。それから一年も経たずに、現国王である第一王子が生まれている。そして更にふたりの王子と、ひとりの王女を産み、やがて第一王子は十七の年に侯爵家の姫を妃に迎えた。
王子夫妻は仲睦まじく、婚姻後すぐに王女を儲けた。ところがそれと時を同じくして、王妃も子を授かったのである。やがて生まれたのが、スヴァルト公爵リクハルドだった。
遅くに生まれた彼を、先王妃は目に入れても痛くないほどに溺愛したという。同年に生まれ孫など目に入らないほどで、リクハルドを案じるあまりに、王女のお披露目を中座したことは今でも語り草となっている。
そして溺愛された末王子はわがままいっぱいに育ち、今の有様から分かるように、立派な碌でなしとなったのだろう。
ジョナサンは当時に思いを馳せていたのか、苦々しい顔のまま言った。
「未婚の令嬢の幾人かに手を出した後、さすがに先王妃も愚かな息子を庇い立て、ことをもみ消すことが難しくなったのだろう。かなり締め付けたと聞いている。それで公爵が次に目をつけたのが既婚者や未亡人たちだった。そうしろと言われたのかもしれんが、ヴィクトルの例を鑑みるに、それが何故かは考えられなかったらしい」
「……では、ヴィクトルの他にも公爵の落胤がいるのでは?」
「可能性はないとは言えん。だが、醜聞だからな。ヴィクトルのような状況に陥りでもしない限り、それが表沙汰になることはないだろう。いくら王族の血筋とは言え、継承順位は低く当人の素行も悪い。被る苦労に見合う利は得られん。正式な婚姻を結ぶならともかく、そうでなければあれと繋がりを求めようとは思わんさ」
もっともである。
「正式な婚姻と言えば、スヴァルト公爵には婚約者はいらっしゃらなかったのですか? 素行の悪さはともかく、普通なら婚約者を充てがわれると思うのですけれど。今も未婚でいらっしゃるのは、なにか問題でもあったのでしょうか」
ふと疑問に思ってルーナが口にしたそれに、ジョナサンが苦虫を噛み潰したような顔になった。
そのまま言葉を探すように黙り込んで、父にしては珍しく躊躇う口調で言った。
「婚約者の候補に目されていた者はいたが、婚約が結ばれる前に破談になっている。…………今だから言えることだが、おまえの母がその候補者だった」
「お母さまが?」
「あれは侯爵家の出だ。身分と公爵との年回り、容姿と才覚を考えれば、候補に入るのも当然の帰結だろう。もっとも、スヴァルト公爵の女癖の悪さを知って、早々に逃げ出したそうだが」
「それは……初めて伺いました。もしかして、我が家と侯爵家の折り合いが悪いのは、そのことも関連しているのですか?」
男爵家であるメイヴィスに母が嫁いだのは、生家である侯爵家の大反対を押し切ってのことだった。
ジョナサンに一目惚れしてメイヴィス家に押しかけたのだ、とは生前の母が語っていたことだが、それだけでなく王族との婚約を破断にしたなら、面目を潰されたと腹を立てても仕方がないかもしれない。
ルーナの指摘に、ジョナサンは深々と溜め息を吐いた。
「無関係とは言えんだろうな。どれだけ相手の素行が悪くとも、王子妃と男爵夫人では比べ物にならん。外戚となる芽を潰されたのは、侯爵家にとって痛手だったはずだ」
「どうりで。ようやく腑に落ちた思いです」
メイヴィスに嫁いだ母と一切の関わりを絶ち、孫であるルーナとは目も合わせないくらいだ。王族の繋がりを断ったメイヴィスには、色々と思うところがあるのだろう。
もっとも、そういう考え方をする者とは、親しい付き合いがなくて助かったと言える。
そうでなければ、ヴィクトルが爵位を返上した際に、余計な口を出してきたに違いない。
王族という厄介ごとが目の前にある現状、対処すべき事柄が少なく済んでありがたいくらいだ。そう思って溜め息を吐いたルーナに、ジョナサンが気遣う目を向けた。
「ヴィクトルの件も含め、おまえには要らぬ苦労をかける。私が上手く立ち回り、侯爵家の力を借りられれば、もう少し打てる手も増やせたのだろうがな……」
「まあ、お父さまがそのような弱気を仰るなんて、今日は雨でも降るのではありませんか? 心配してくださるのは嬉しいですが、ヴィクトルとの件は苦労とは思っておりません。彼と別れなければならない、と覚悟したことを思えば、対処のしようがあるだけ気は楽ですよ。待つだけというのは、性に合いませんが」
そう苦笑して言うと、ジョナサンがつられたように笑った。
「おまえを絶対外に出すな、と言ったヴィクトルは慧眼だな。護衛もなしに飛び出されては、目も当てられん」
「お言葉ですが、わたくしはそこまで短慮ではございません。万が一飛び出すとしても、護衛をきっちり揃えてからいたします」
「……飛び出すことには変わらんのか。王弟では動かせる手も限られるだろうが、脅威であることには変わりはない。くれぐれも油断はするなよ。先王妃がどう動くかも分からんからな」
「先王妃、ですか。……社交界ではお見かけしませんけれど、あまり体調がよろしくないのですよね?」
以前は社交界の主として君臨していた先王妃だが、寄る年波には勝てず、数年前に体調を崩したきり今はまったく姿を見せていない。
今は王都ではなく直轄地にある離宮に下がり、親しい友人たちと共にのんびり静養しているという。
王族であるのだから権力はあるのだろうが、離れた場所にいる相手にどこまでできるかは疑問だ。ルーナは首を傾げたが、ふと思い出してジョナサンに問いかけた。
「先王妃の持つ資産絡みで、スヴァルト公爵にとって都合の悪いことがあったのだろう、とヴィクトルが指摘していましたけれど……。お父さまはなにかご存知でいらして?」
ヴィクトルが把握している情報なら、当然ジョナサンも知っているに違いない。半ば確信を持ってのそれに、ジョナサンは難しい顔になった。
「ある筋から聞いた噂だが……先王妃はあまり長くないようだな。近頃では寝台を出ることも難しいと聞いている。だが溺愛する息子が心配で、今のままでは死んでも死にきれないそうだ。せめて孫を抱くまでは、と言ってスヴァルトの嫡子を相続人にしたらしい。遺産を盾に取れば、放蕩息子も身を固めると思ったのだろう」
「ところが放蕩息子は身を固めるのではなく、過去に撒いた種を利用しようと考えのですね。呆れてものも言えませんし、さすがに先王妃がお気の毒です」
「そうなるように育てたのだから、それこそ自分の撒いた種だな。そして、だからこそ先王妃を警戒せねばならん。彼女がヴィクトルを受け入れれば、その意を汲んで動く者たちが外堀を埋めていくだろう」
つまり、と言ってルーナは溜め息を吐いた。
「ヴィクトルは公爵家の嫡子となり、わたくしは婚約者を奪われる、というわけですね。これで飛び出すな、と言うのは酷だと思うのですけれど」
とてもじゃないが、じっとしていられない。
ヴィクトルと別れる覚悟はしていても、できることがあるなら足掻いてみたいと思う。打てる手は少ないが、それでもなにもやらないよりは良いはずだ。
そう心に決めて、ルーナはテーブルの下で拳を握りしめる。きゅっと吊り上がった眉に察するものがあったのだろう。ジョナサンが溜め息混じりに言った。
「これは以前から考えていたことだが……最悪、国を捨てることを考えても良いかもしれん」
「お父さま?」
ぎょっとして声を上げる。するとジョナサンは口端を吊り上げて笑った。
「メイヴィスは土地を持たない貴族だ。商売の基軸はこの国にあるが、だからと言って他所でやれぬことでもない。貿易の拠点は、既に分散させているからな。おまえの婚約だけが気がかりだったが、ヴィクトルも今なら身軽に動ける。おまえが一緒に来いと頼めば、あれならふたつ返事で着いてくるだろう」
確かに、ヴィクトルなら尻尾を振る勢いで頷いてくれそうだ。ルーナは小さく微笑って、それから問いかけた。
「以前から考えていた、とおっしゃいましたけれど……もしかして、この事態を予測してらしたのですか?」
「それはさすがに買いかぶりだ。資産の分散は危機回避の基本、いつなにが起こっても良いように、対策していただけに過ぎん」
もっとも、と言ってジョナサンは肩を窄ませた。
「この国の窮屈さに、思うところがあったのは事実だ。社交界の有様を見れば分かるとおり、この国の貴族には国を支えようとする気概がない。今は平和だが、いざことが起これば保身に走り、国は一気に衰退へと傾くだろう。今の国王は凡百で求心力がないからな。代が変われば、風向きも変わるかもしれんが……」
「お父さま、話が逸れておりますよ。とにかく、今は準備を整えなくては。ヴィクトルの目論見が上手くいっても、そうでなかったとしても、身を軽くしておくのは悪いことではないですから。それに国外に出る準備も進めなければなりません。……出立するとしたら、やはりオルスト領からですか?」
ジョナサンが少し考える顔になる。
「オルストであれば船の手配は楽だが、妨害される可能性が高い。脱出の足は、複数用意すべきだろうな」
「でしたら、使う足は商船にしませんか? 荷に紛れることができますし、貴族が乗り込むとは誰も思わないでしょう。なにより国内に残ることになっても、船代が無駄になりません」
「……商船か。乗り心地はお世辞にも良いと言えないが、方法としては悪くないな。選択肢のひとつに入れておこう」
言ってジョナサンは席を立つ。彼はルーナに改めて大人しくするよう言い置いてから、足早に食堂を後にした。
それと入れ替わるようにして、メイドが食後のお茶と菓子とを運んでくる。これから忙しくなるのだから、気合いを入れるためにも甘いものは欠かせない。
ルーナは焼き菓子をきっちり食してから、意気揚々と自室へと引き返した。




