1.
物心ついた時から、ひとりだった。
冷たい黒い金属の高い建物が、互いを押し退けるように乱立する。空は灰黒色の雲で覆われ、常に夜のような様相だ。黒と灰黒の世界を、建物の溝、地面の側溝を紅く走る電光が時折刺激する。この紅い光は、こんな貧困層まで電気が通っている証である。ライフラインの整ったまま放置されたここら一体は、困窮する人々の安息の地となっていた。
僕は若人航太郎。そんな貧困層に住む、ごくごく普通の男である。
…いや、普通、は語弊がある。僕自身は至って普通の、背も高くない、太っても痩せてもいない、ごくごく一般的思考の持ち主の、ただの若い男であるのだが、僕の「体」、とでもいえばいいのだろうか。体質が、普通ではない。
『異常者』。
これは、この街においては、少ないながらも周知されている異端者の通称である。正式名称は『Aberrant syndrome』、訳すと『異常症候群』。身体能力が常人の数倍であり、稀にだが、特殊効果…超能力のようなものと思って貰えればいい…を持つものもいる。そんな存在である。
かくいう僕も、その『異常者』である。昔からかけっこでは負けたことがないし、5、6mくらい空いたビルとビルの間を飛び移ったこともある。体力は普通か少しあるかくらいだが、それでも十分『異常な』身体能力を保持していると言えよう。
そして、さきの「特殊効果」であるが、僕は他人の「深層心理」…つまり心の中…に入り込むことができる。
例えば、僕の昔の友人、Kくんにせがまれて、彼の深層心理を覗いて見たことがある。彼は素直で明るく、妹思いな、誰にでも愛される人物であったが、深層心理も同様のイメージであった。
心の中は、その人物の「核」とでも言おうか、人の「人となり」が如実に現れる場所である。人の良い彼の心の中は、暖かな草原であった。現実世界ではついぞ見たことがないであろう、明るい青空、広い緑の草原、遠く浮かぶふわふわの白い雲、眩しい太陽。所々には、可愛らしい小さな黄色い花が咲く。大変居心地の良い場所であった。
彼と彼の妹は、こんな景色の出てくる絵本を好んで読んでいた。僕も見せてもらったことがある。その絵本では、もちろん雲は流れず草は靡かず日の暖かさも感じられないが、彼の深層心理は違った。暖かい。彼が絵本を読みながら心に思い浮かべた情景の、なんと美しいことだろうか。
現実に戻って彼にそれを伝えると、彼は嬉しそうに笑ったあと、「妹にも見せたい」、と少し残念そうにしていた。…妹に、暖かい日の光と、動く雲と、風に流れる草原と、彼女の好きな色の花を、見せてあげたい。…それが、彼の「核」を形作っていたのだ。
こんな具合で、僕は人の深層心理に入り込み、情景を観察することができるのであるが、実は、実用性はあまりない。人の心を盗み放題ではないか!…いや、僕が見ることができるのはあくまで「深層心理」、本人すら自覚のない部分である。その人が今何を考えているのか…自らの意思で何を思考しているのか…までは、分からないのである。そして、僕は別に何も知らない赤の他人の深層心理なんて見たくもない。
故に、僕はちょっと運動ができるだけの、今はそれを生かしてさきの友人Kとその妹に食糧を届けているだけの、ごくごく普通の貧困層の住人Aである。
…その、はずだったのである。