藤沢宿
「おはようございます。良さん、いますか?」
「嘉兵衛さん、おはようございます。いま朝食を済ませたところです」
佃煮や炒り卵が添えられた白粥の朝食を済ませたタイミングで、大きな木の桶を担いだ嘉兵衛さんが竹林庵にやってきた。
「これは見事に太い鰻ですね」
「そうでしょう? せっかくだから、正恒にいい物を食わせてやりたくなりましてね」
嘉兵衛さんが精悍な顔に、照れたような笑顔を浮かべる。
「じゃあ早速裂いて、支度しちゃわないと。すいません、調理場を借りますね」
俺はまだ食事中の店主の老夫婦にそう告げると、奥の調理場で鰻を捌きに掛かった。昨日の経験が反映されているのか、裂いて串を打つまでに数分しか掛からなかった。
「見事なもんですなぁ……」
感心する嘉兵衛さんの前で、昨夜仕込んだタレを温めて、焼いた頭と骨を投入し、少し煮詰めて火から下ろす。味見をしてみると、即席感はあるが、昨日の夕方の物よりは格段に良くなっている。
「現状では、これが精一杯ですね」
「いやぁ、この時点でも相当にうまいですよ」
少量を小皿にとって味見してもらった嘉兵衛さんは、かなり満足そうだ。
「蓋付きの瓶とかは無いから……すいません、丼をお借りします」
千切った海苔を散らした蕎麦の「花巻」などに使う、蓋付きの丼にタレを移した。どういう訳か「福袋」の中では、ひっくり返って中の荷物がタレまみれ、なんて事にはならないみたいなので、これで大丈夫だろう。
昨日買った鵺の靴を履いて紐を締め、嘉兵衛さんから預かった紹介状と地図を懐に入れ、捌いて木の箱へ納めた鰻とタレの丼を「福袋」に入れれば準備は完了だ。
「良さん、こいつも持っていって下さい。酒です」
嘉兵衛さんは焼き物の、五合くらい入りそうな徳利を俺に渡した。
「確かに、預かります。それじゃ、行って来ますね」
「道中の安全を祈ってます」
嘉兵衛さんに見送られて外に出ると、そこには長歩き用の紐付きの草履に、手には菅笠と竹の杖を持ったおりょうさんが待ち構えていた。
「そいじゃ、行こうかね」
「ちょ、ちょっと待って下さい。おりょうさんもくるんですか!?」
「何かおかしいかい?」
「おかしいというか……一人で行くつもりでしたし、町の外は危ないんでしょう?」
藤沢へは日中に辿り着けそうな距離とは言っても、それはあくまでも順調な旅路という前提で考えた場合の話だ。
「あたしゃこれでも、会津から江戸まで一人で出てきたんだけどねぇ。それにあんた、良太の気が済むまで、付き合ってやるって言ったろう?」
「あれはそういう意味じゃ……」
おりょうさんはすっかりその気になってるみたいなので、これ以上の説得は不毛そうだ。
「わかりました。じゃあ一緒に行きましょう」
「そうこなくちゃ! それに、何かあってもあんた、良太が護ってくれるんだろ?」
妙に熱の篭った視線を、おりょうさんが送ってくる。
「そ、それは……善処します」
「なら決まりだ。行こうかね」
そう言うと、おりょうさんは凄くいい笑顔で手に持った菅笠を被り、空いた手で俺の腕を取った。
「それじゃ、店の事は任せたよ」
『わかりました。お気をつけて』
いつの間にか店の前に出てきた老夫婦と通いの料理人が、並んで頭を下げた。おれと嘉兵衛さん以外は、おりょうさんが行く事は承知してたって訳か……。
「それじゃ改めて、行ってきます」
「行ってくるねぇ♪」
上機嫌で皆に手を振る、足取りの軽いおりょうさんに連行されるように、俺は刀工の正恒の住まいへの第一歩を踏み出した。
「おりょうさん、ちょっといいですか」
「ん? 疲れたかい?」
竹林庵を出て一キロほど歩いたところで、おれは足を止めておりょうさんへ話し掛けた。
「疲れたんじゃなくて、ちょっと試してみたい事がありまして」
「何するんだい?」
俺はおりょうさんの前に出ると、背中を向けたまま地面にしゃがんだ。
「……あたしは別に、疲れちゃいないけど?」
「いえ、そうじゃなくて、試してみたいだけなんです」
「試すって……あたしの重さをかい?」
おもいっきり怪訝そうな表情で、おりょうさんが訊いてきた。
「そうじゃなくてですね……おりょうさんにもしもの事があった時に、背負ってどれくらい移動できるのかを試してみたいんですよ」
まるっきり嘘ではないのだが、かなり苦しい言い訳だというのは自分でもわかっている。本音は、この世界へ転生する時に再構成された、自分の身体の能力が知りたいのだ。
品川から浅草まで、慣れない草鞋で舗装されていない道を徒歩で往復しても、全く疲れを感じていないのは、再構成された身体だからだと思われるので、少し能力を把握しておきたい。
それと、今更ながら気が付いた事だが、こっちの世界に来てから、飲食をしても排泄をしていない。自覚できる範囲で身体に不調とかは無さそうなのだが、この身体はこういう仕様なんだろうか? ヴァナさんに確認しないといけない。
「そ、そういう事なら、協力しようかね……」
もじもじと遠慮がちに、おりょうさんが俺に背中へ身体を預けてきた。背負ったまま立ち上がってみたが、一人分の体重が増えているとは思えない程、脚への負担は全く感じられない。
「じゃあ、行きますよ」
「疲れたら、直ぐにお言いよ?」
「はい」
おりょうさんに負担を掛けないために、少し前傾した姿勢だが、普通に直立したままでも歩けそうな感じだ。
「ちょっと、走ってみてもいいですか?」
「いいけど……無理するんじゃ無いよ?」
「大丈夫です。それじゃ、走りますね」
俺は走り出した。極力揺らさないように気をつけているが、それでもかなり速度が出ているのを自覚する。
「あ、あんた……こんなに速く走って、大丈夫なのかいっ!? 下手したら馬より速く走ってるよ!?」
半ば怒鳴るような大きな声で、おりょうさんが尋ねてくる。
「それが、全然疲れないし、息も切れないんですよ」
「そ、そうなのかい?」
「怖ければ、少し速度を落としますけど」
「あ、あんたが大丈夫なら、いいよ!」
「わかりました!」
おりょうさんの、俺にしがみつく腕の力が増した。こうして検証してみると、頭の中で思い描いた通りの動きを、身体がしてくれるのが良く分かる。
多分だが、元の世界での俺の全力疾走くらいの速度で走り続けたので、あっという間に多摩川の六郷の渡しに辿り着いた。
「おりょうさん、大丈夫ですか? 気分が悪くなったりしてませんか?」
上下動は極力しないように走ったはずだが、乗り物酔いとかも個人差があるので、おりょうさんに確認する。
「あ、ああ。大丈夫だよ。それにしてもあんた、普通ならここまで来るのに、二時間近くは掛かるってぇのに……」
時計なんか持ってないが、ここまで体感で二十分くらいだろう。このペースなら日が暮れる前に、藤沢宿の近くの正恒さんの住まいに着けそうだ。
「川を渡ってからも、背負って走って大丈夫そうですか?」
「あたしは平気だよ。あんたの背中の乗り心地は悪くないから……でも、あんたは大丈夫なのかい?」
「疲れたように見えますか?」
「……大丈夫そうだね。なら、とりあえずは、お昼になるまでは世話になろうかね」
「わかりました。昼には藤沢に着けるんじゃないかと思いますけど」
「信じらんないだけど、そうなりそうだね……」
同乗してる人達に、不審に思われないようにおりょうさんと小声で話している間に、渡し船は対岸へ辿り着いた。
船着き場から歩いて多摩川の土手を上がり、再びおりょうさんを背負って俺は走り出した。強がりではなく、渡しまで走った疲労の蓄積は無さそうなので、揺れを少なくするのに気をつけながら速度を上げていく。
なんとなくだが、品川宿の近くで走り始めた時よりも、身体が慣れたのか、それとも理解したとでもいうのか、揺れを抑えつつ速度を上げられるようになっている気がする。経験を得て、レベルアップかスキルアップでもしたという事なんだろうか?
結局、一度も休憩を入れる事も無く、昼の少し前に藤沢宿へ辿り着くことが出来た。
「……まったく、実際にここまで来ちまったけど、信じられない思いだねぇ」
藤沢宿の茶屋で、御飯と味噌汁と野菜の煮しめの昼食をとりながら、おりょうさんが怒ったような呆れたような口ぶりで俺を見てくる。
「ま、まあ、早く着く分にはいいじゃないですか」
「そうだけどねぇ……」
「あ、そ、そうだ。早く着いたついでに、ちょっと買い物をしていきたいんですけど」
視線を泳がせた俺は、この場を誤魔化すように、おりょうさんに提案した。
「別に構わないけど、何を買うんだい?」
湯屋に連れて行ってもらった時に思いついた、衣類や旅回り品などの事をおりょうさんに説明した。
「ふぅん。物は江戸市中の方が揃ってるし安いかもしれないけど、ここの方がまとめて売ってる店があるから、買い物はしやすいかね」
おりょうさんの言う通り、藤沢宿よりは江戸市中の方が店の数は圧倒的に多いのだが、逆に多過ぎるのと、専門店があるので、必然的に何軒かを回らないと買い物が終わらない。
同じ宿場町の品川宿で買っても良かったのだが、初めての旅で時間が読めなかったから出発を遅らせたく無かったのと、道中で買い足す物に気がつく可能性も考えて、藤沢宿でという事にしたのだ。
「それじゃ、さっさと済まそうか」
「はい」
食後のお茶を飲み干すと、湯呑みを置いて俺とおりょうさんは茶屋を後にした。
「服は大丈夫だけど、傘もいるな。替えの足袋に、房楊枝と歯磨き粉、肌着は……あ、加工してないサラシがあるから、これで作れば良いのか。となると裁縫道具も……」
野郎が自分のパンツを手縫いしているのを思い浮かべると、なんとも物悲しい物があるが……妥協して褌というのは避けたい。
俺は菅笠を裏返して、その上に買う物を載せながら、店内を物色して回る。
「なんか、思ってたよりも大事だねぇ……」
呆れたように言うおりょうさんには申し訳ないが、俺の買い物はもう暫く掛かりそうだ。
「次は……少し町中でも買い物したいんですけど」
「……好きにおし」
おりょうさんの表情が、呆れから達観に変わりつつある。これはまずい。
「あと少しだけですから、お願いします。時間が掛かった分は、また俺が挽回しますから」
「っ! そ、それってまた、あんたがあたしを背負ってくって事かい?」
「ええ」
山道ではどれくらいの速度を出せるのか、検証しておきたい。
「しょ、しょうがないねぇ……」
「ありがとうございます」
おりょうさんの許可は出たので、野宿を想定して米や味噌や醤油、昆布や鰹節、魚の干物なんかも買っておいた。「福袋」があるから生の魚でもいいんだが、一から調理するのが面倒な時もあるかもしれない。
一部の品物は「福袋」に入れるふりをしながら腕輪の方の収納へ入れた。あとは実際に旅に出て、不足を感じた物を買い足すしか無いだろう。
「お待たせしました。それじゃ行きましょうか」
結局、一時間くらいおりょうさんを連れ回して買い物が終了した、これなら江戸市中でも変わらなかったかもしれない。
「やっと終わりかい? まったく、女の買い物と同じくらい時間を掛けるねぇ」
「すいません。ここからは先は、おりょうさんには楽をしてもらいますから」
ここから正恒さんの住まいまでは二キロ程度。山道とは言ってもそれほど険しくは無さそうなので、迷わなければそんなに時間は掛からないだろう。
「あ、でも、町中から出るまでは歩いて下さいね」
「わ、わかってるよ!」
頬を染めながら、おりょうさんが俺の背中を叩いた。敵意が無いからか「気」の防御に弾かれたりしなかった打撃は、かなり痛かった。