黒ちゃん御乱心
「牛若丸に武術を教えた人か……」
源義経がまだ幼名の牛若丸だった頃、鞍馬寺で京八流と言われる剣術を教えた鬼一法眼という人物に、なんとレンノールが関わりがあったというのだ。
「鬼一法眼も顔の造作などが、明らかにこの国の人々とは違いましたので、大陸から渡ってきた人のようでした。詳しい出身地などはわかりませんが」
「そうなんですか!?」
謎に包まれている京八流だが、源流を辿ると国外で発祥していたようだ。
(言われてみればだけど、日本発祥の武術にしては異彩を放ってるよな。中国武術に近いかな?)
中国武術の中の剣術や刀術は、軽快な動きに攻防を織り交ぜている物が多い。套路と呼ばれる武術の型も、日本の物とは大きく異なっている。
「鬼一法眼と行動を共にしていた中には、私のように外見からしてこの国の人間では無い者も少なくなかったので、偶に山で遭遇する猟師や木こりなどには、天狗と呼ばれておりました」
「あー……」
日本人とは顔の彫りの深さなどが明らかに違っていて、特に鼻が高い、というよりは長いくらいなので、人を寄せ付けない険しい山の中で生活している様からも、伝説に出てくる天狗と間違ってしまったのだろう。
「行動を共にする間に、鬼一法眼や仲間には様々な事を教えて頂いたのですが、どうも私には剣術や魔術の類は向いていなかったようで、元々ある程度習得していた弓に関する技術と、山野の動植物の知識を深めました」
格好は少し和風が入ってるが、レンノールは俺の知るエルフの特性が色濃く出た、RPG風に言うならばスカウトやレンジャーといったクラスのようだ。
(野外での生活の知識は習っておいて損は無いだろうから、レンノールや仲間の人達に、子供達の先生になって貰った方が良さそうだな)
蜘蛛だった子供達は天性のハンターではあるのだが、山で生活していく上では狩り以外の知識も必要なので、レンノール達に様々な取引をすると共に、そういった事を教えて貰えればと思った。
(時間がある時には、俺も教えて貰おう)
野草の知識などは自分でも知っておきたいので、なんとか時間を捻出しようと考えた。
「そんな生活を続けていて、私は長生きなので鬼一法眼を始めとする仲間を看取っていく内に、気が付いたら集団を率いる役目になっていたという訳です」
「そうですか」
人格に問題が無ければ、経験豊富な年長者がリーダーになるというのは当然の流れだろう。
「ただいま」
丁度話が途切れたタイミングで戻ってきた白ちゃんが、ゲルの入り口の垂れ幕を跳ね上げて入ってきた。
「おかえり。夕霧さんは、まだ寝たまま?」
白ちゃんの腕の中で用意した寝間着に着替えた姿で、夕霧さんは目を閉じている。
「そのようだな。タライは洗って、新たに湯を張っておいたぞ」
「それはありがとう。じゃあレンノールさん、お先にどうぞ」
タライを片付けなければならないので、俺の順番は最後の方が都合がいいからレンノールに先を譲った。
「そうですか? では遠慮無く」
立ち上がったレンノールは入浴が楽しみなのか、上機嫌でゲルの外へ出ていった。
「主殿、俺は少し出掛けてくる」
ゲルの端の方へ夕霧さんを寝かせ、用意してあった掛布を被せて戻ってきた白ちゃんが急に言い出した。
「え? こんな遅くに?」
まだ日が落ちて少ししか経っていない時間帯だが、魔術的な灯りのあるこっちの世界の日本でも、歓楽街などの一部の例外を除いては、テレビなどの娯楽が無い所為だと思うが、まだ夜更かしの風習は無い。
「黒に主殿が作ってくれた、ぱんつを渡してこようと思ってな」
「その為だけに行くの!?」
猫の目を持つ白ちゃんだし、戦闘力の面でも道中の危険は無いと思うが、たかがパンツのお届けの為に、夜間に行動をさせるのは気が引けてしまう。
「大丈夫だとは思いたいのだが……頼華や紬や玄、それと一部の子供達が主殿お手製のぱんつを履いていると知ったら、黒はどうなると思う?」
「ど、どうって?」
何がそんなに問題なのか、妙に不安を煽るような白ちゃんの言いたい事は俺にはわからない。
「俺の考え過ぎだといいのだが……」
「……」
白ちゃんが妙な間の取り方をするので、俺は思わず固唾を呑んだ。
「黒の事だから、自分が差別されたと思って物凄く落ち込むか、荒れ狂って頼華や子供達からぱんつを剥ぎ取ったりしそうな気がしてな」
「あー……」
そんな馬鹿なと笑って済ませてしまう訳にはいかない程度には、黒ちゃんの俺への愛情は重く深い。
(なんか光景が頭に浮かんじゃったなぁ……)
血の涙を流しながら雷鳴のような咆哮を発する黒ちゃんは、泣き叫ぶ子供達からパンツを剥ぎ取っていく……それを取り押さえようと、おりょうさんと頼華ちゃんが身構えている姿が、まるで本当にあったシーンのように脳裏に浮かんでしまった。
「……白ちゃん、悪いけど頼むよ」
これまでの黒ちゃんとの付き合いから考えると、たかが想像だと笑って済ます事は出来ない。
「うむ。俺自身の精神衛生的な意味でも、憂いを無くしておきたいからな。では行ってくる」
苦笑交じりの表情で、白ちゃんはゲルを出ていった。
「さて、と……ん?」
夕霧さんが寝てはいるが、みんな出払ってやる事が無くなったので、椿屋さんから預かった着物を、蜘蛛糸で複製する作業でもするかと、腕輪を操作しようとしたところで、ゲルの中の気配が変化した事に気が付いた。
「夕霧さん、目が覚めました?」
「……」
身じろぎもしないが、気配の変化で夕霧さんが目を覚ましたのは間違い無い。
「……喉とか乾いたら、言って下さいね」
一応は声を掛けたが、もしかしたら起きたくないのかもしれないので、これ以上は追求しない。
「ぅぅぅぅぅ……」
「ちょっ!? なんで泣いてるんですか!?」
着物の複製の作業を再開しようかと思ったら、頭から掛布を被っている夕霧さんが、身体を震わせながらシクシクと泣き出した。
「夕霧さん、いったい何が……」
作業を中断して夕霧さんに駆け寄った俺は、掛布の頭の位置の見当をつけて、そっと手で触れた。
「は、恥ずかしい姿ぁ、良太さんに見られちゃいましたぁ……もうお嫁さんに行けませぇん……」
「あー……」
(困ったな。正直、フォロー不能の事態だぞ……)
別に気にしないとか言っても、立場が逆なら絶対に信用しないので、慰める事も出来ない。
「ふぇぇぇぇぇ……」
それ程盛大な泣き方では無いのだが、夕霧さんの泣き止む気配が見えない。
(困ったなぁ……)
天の岩戸に閉じ籠もった天照坐皇大御神様を引っ張り出すよりも、今の夕霧さんを泣き止ます方が難題かもしれない。
(なんですって!?)
(あ、すいません……)
文字通り天の声が聞こえたので、今度関連している社を詣でて謝ろう。
「もぉぉぉぉ……あたしったらぁ、恥ずかしい姿を見せるどころかぁ、せっかく良太さんが作ってくれたぱんつなのにぃ、汚しちゃうなんてぇ……ふぇぇぇぇぇぇ」
「いや、そんなのまた作りますから……」
この言葉が慰めになるのかはわからないが、その場凌ぎで言っている訳では無い。
「そんなぁ……どうせ作ってもらってもぉ、またすぐに汚しちゃうんですよぉ……ふぇぇぇぇぇ」
「普通に履いてても汚れる物ですよ。それに汚れたら洗えばいいし、また新しいのを作りますから」
パンツで御機嫌を取るという、なんとも間抜けな図ではあるが、これで夕霧さんが立ち直るのなら構わないだろう。
「ぅぅぅぅぅ……もぉ、もぉね、あたしの恥ずかしい姿を見ちゃった良太さんがぁ、責任取ってぇ、お嫁さんにして下さいぃ……」
「えー……」
殺気を放ったのは俺だから、夕霧さんの言う責任の一端は確かに俺にあるのだが、結婚を迫られるとは思わなかった。
(同じ場に白ちゃんもレンノールもいたんだけどな……)
などという現実的な話を、夕霧さんもしたい訳では無いとはわかっているのだが、矛先が俺にだけ向かうというのは、なんとも理不尽に感じる。
「お嫁さんて言ったって、夕霧さんには仕事もあるでしょう?」
現在は集落で待機中との事だが、別に源家との雇用契約が解消になった訳では無いだろう。
「うっ……し、仕事よりもぉ、あたしは良太さんとの愛に生きるんですぅ……」
(……言葉に詰まったな)
多分だが、俺の想像通りに雇用契約は生きていて、命令が下されたら鎌倉に赴かなければならないのだろう。
「うーん……じゃあこうしましょう。お嫁さんには出来ませんけど、夕霧さんを俺の専属にします」
おりょうさんや頼華ちゃんを飛ばして夕霧さんを、という訳には行かないのだ。七番目とかいう話は置いておくとして……。
「ど、どういう事ですかぁ!?」
俺の申し出が効果を表したのか、夕霧さんがガバっと身体を起こし、泣き顔を見せてくれた。
「あーあ。こんなに涙で汚しちゃって……綺麗な顔が台無しですよ?」
即席で織り上げた布で、夕霧さんの涙を出来るだけ優しく拭き取る。
「そ、そんなぁ……綺麗なんかじゃ無いですよぉ……」
口では否定しながらも満更でも無さそうで、夕霧さんは左右に身体をくねらせた。
「また、どこが綺麗なのか言いましょうか? 先ずは目からかな」
忍びなんてやっているのが信じられない程の、夕霧さんの澄んだ瞳をじっと見つめる。
「!? いいい、いいですぅ!」
俺の褒め言葉はそんなに恥ずかしいのか、夕霧さんが泣くのをやめて必死に止めに掛かる。
「そ、それよりもぉ、あたしを良太さんの専属にするってぇ、どういう事ですかぁ?」
「ああ。この里を、子供達の面倒を含めて、夕霧さんに見て欲しいって考えているんです」
「この里をですかぁ?」
泣き顔を見た直後だからか、首を傾げる夕霧さんの仕草が、いつも以上に可愛らしく感じられた。
「紬と玄がどうも頼り無いんですよね……それに代表に決まった麗華ちゃんと凛華ちゃんは、まだ幼いですし」
「それはぁ、そうですねぇ……」
冷静さを取り戻したのか、夕霧さんは頭の中で里の現状を分析しているようだ。
「夕霧さんがというか、忍びの集落が源家とどういう雇用契約をしているのかはわかりませんけど、それ以上の内容で、俺が夕霧さんを引き抜きます」
守秘義務などがあるとは思うが、源家に関しては八幡神様に対して遵守する事を誓えば問題は無いと思うので、残る点はお金だろう。
(里の為にも使いたいから、金貨五十枚以内くらいで収まればいいけど……)
俺の財布の中身が空になるのは構わないのだが、里で必要な物はまだまだあるから、その分くらいは残るとありがたい。
(あ、でも、財布が空になると、旅先で利用する宿が貧相になるか……)
あまり先の事ばかり考えても仕方が無いが、お金を使い果たした後で、何か稼ぐ手段を考える必要があるかもしれない。
「そ、そんなぁ! あたしはぁ、良太さんにそんな事をして貰う程ぉ、価値のある女じゃ無いですよぉ!?」
「それを決めるのは、夕霧さんじゃなくて俺ですから」
実際問題、ブルムさんが定期的に通ってくれるとは言っても、拠点は京に構えるのだし、子供達も人の中での生活に慣れさせるのに、何人かずつ京で過ごさせたいので、引率をする俺達がいつも里にいるとは限らない。
夕霧さんは子供受けがいいし、元々が集落に住んでいたので、山で生活している人達とも最初から顔見知りなのでやり取りもし易い。正にいい事ずくめだ。
「それに、里の面倒を見てもらうとは言っても、そんなに長くなる話でも無いですよ」
既に里の面倒を、夕霧さんに見て貰うという前提で話をしているのは不味いという気もするが、今はそれはいいだろう。
「……それってぇ、どういう事ですかぁ?」
「ある程度落ち着いたら、俺達は旅に戻りますから。そうしたら夕霧さんも、自由の身という事です」
里を整えて、ブルムさんの行商と糸の製品の流通が軌道に乗ったのを見届けたら、俺達は旅に戻る。これだけは確定事項だ。
「里は放っちゃってぇ、良太さんは行っちゃうんですかぁ!?」
「別に放る訳じゃ……」
放ると言うなら、既にこの場にいなくてもおかしくないのだが……夕霧さんからはそういう風に映ってしまうのだろう。
「落ち着くとこまで面倒を見た後で、まだ俺の手が必要と言うのなら、それは依存ですよ?」
「そ、そう言われればぁ、そうかもしれませんけどぉ……」
忍びの集落に所属しているとはいえ、任務になれば自分で判断して動いているのだろう夕霧さんには、俺の言いたい事が伝わったみたいだ。
「紬と玄にも言いましたけど、縁を切るとか二度とこの里に戻ってこないっていう事じゃ無いんですよ」
見捨てると言うならとっくに見捨てているので、旅に戻る事をそれ程大袈裟に受け取って欲しくは無い。
(でもなぁ、いざその場面になったら、絶対にちびっ子達に泣かれるよなぁ……)
俺だけでは無く、おりょうさん達も子供達の名付け親になっているので、別れの際には大騒ぎになるのが容易に予想出来る。
「それはもしかしてぇ、家を出た人間が実家に帰省するぅ、みたいな感じですかぁ?」
「ああ、それそれ。そんな感じです」
何年も音沙汰が無くふらっと舞い戻っても、暖かく迎えてくれる……こっちの世界に故郷と呼べる場所の無い俺にとって、この里はそんな場所になって欲しいと願っている。
「甘やかすばかりじゃ子供達の為になりませんから、夕霧さんには優しくも厳しく接して欲しいんですけど……って、これは浮橋さんと話をつけてからの事ですけどね」
まだ仮定の話であり、夕霧さんが引き受けてくれた訳でも無いので、これ以上は無意味だ。
「あ、あのぉ、ですねぇ……里の整備が終わってぇ、良太さんが旅に戻る時にぃ……あ、あたしもついていっちゃってもぉ、いいんですかぁ?」
俺の方をチラチラと見ながら、夕霧さんがグリグリと床にのの字を書く。
「いいとか悪いとか、別に無いですよ」
「? それってぇ、どういう意味ですかぁ?」
当たり前だが、夕霧さんには俺の言っている意味がわからないらしい。
「んー……俺が江戸を発つ時には、白ちゃんと黒ちゃんしか同行しない予定だったんですよ」
「でもぉ、良太さんがお発ちになる日にぃ、おりょうさんも頼華様もぉ、江戸を発ってますよぉ?」
「そうなんですよね……」
俺の出発の準備は内密に行っていたはずなのだが、実は黒ちゃんと白ちゃんからおりょうさんに筒抜けで、頼華ちゃんは俺が旅に出ることを伝えていた、鎌倉からの連絡で知らされていたのだ。
(まあ俺の情報管理が甘かったんだが……)
白ちゃんと黒ちゃんにしっかり口止めをしなかったのも、江戸と鎌倉では距離があるから、当日までバレないと安心していたのも俺のミスだ。
「俺の旅には目的も無いし、どこまで行ったら引き返すって事も考えていないんですよ。だから、おりょうさんと頼華ちゃんにも声を掛けなかったんですが……」
おりょうさんは店を持っているし、頼華ちゃんは源家のお姫様だ。二人共江戸と鎌倉に留まっていれば安泰なのに、とは何度も思った。
「それだけぇ、良太さんにぃ、ついて行きたかったんですねぇ」
「ありがたい事だとは思うんですけどね」
(だから逆に、重いっていうのもあるけどね……)
伊勢で騒動に巻き込まれたり、琵琶湖で大鯰に遭遇したり、今も里の問題に直面したりはしているが、ここまで命に関わるような事には遭遇していない。
だが、この先もそうだとは言い切れないので、みんなを護りながら旅をする事を考えると、少しだが気が重くなる。
(何があっても、絶対にみんなを護るつもりだけどね)
これだけはあらゆる物に誓って、命を懸けて成し遂げるつもりだ。
「良太さんにぃ、一つお願いがあるんですけどぉ」
「お願いですか? 夕霧さんの言う事なら、大概は聞きますよ」
「そ、そんなぁ……」
勿論、俺の本心なのだが、どういう意味に受け取ったのか、頬を染めた夕霧さんは照れながら、指で床をグリグリしている。
「そのぉ、ですねぇ、良太さん達が旅に出る時にぃ、あたしに黙って行っちゃわないってぇ、約束してくれますかぁ?」
「あー……わかりました。約束します」
この場でいきなりいなくなる宣言をしても意味が無いし、既にお世話になっている上に、これからお世話になる予定の夕霧さんに不義理は出来ない。
「あのぉ、正直に言えばぁ、まだ良太さんについていきますってぇ、言う自信が無くってぇ……だけどぉ、旅に出る時までにぃ、決心しておきますぅ」
やはり、これまでの夕霧さんを取り巻く環境などを捨て去って俺についてくるというのには、覚悟がいるのだろう。そして現在は、まだその覚悟が出来ていないという事だ。
(そう考えると、おりょうさんと頼華ちゃんの思いっきりの良さは、賞賛に値するよな……)
どう考えてもおりょうさんと頼華ちゃんのこれまでの生活に、俺が見合うとは思えない。
(でもまあ頼華ちゃんの場合は、ちょっと例外か)
自分よりも強い相手の嫁にしかならないという頼華ちゃんの考えは、周囲が思っていたよりも強固だったという事だ。
「えへへぇ。じゃあ良太さんがぁ、浮橋様を説得して下さったらぁ、里でのお仕事お引き受けしますねぇ」
ついさっきまで泣いていたとは信じられない程、夕霧さんは屈託の無い、凄く素敵な笑顔を見せてくれた。
「ただいま戻りました。いやぁ、湯に浸かるのは久し振りで、実に気持ちが良かったです」
上機嫌で、入浴を終えたレンノールが戻ってきた。
「窮屈じゃ無かったですか?」
「いえいえ。非常に快適でしたよ。川に入って水浴びが出来るのも、初夏から秋口までが限界ですから」
「あー、成る程」
渓流は夏でも水温が低いので、泳げる期間は極端に限られるのだろう。しかも夏でも水温が低いから、短時間にしておかないと低体温症になってしまう。
「ただいま、主殿」
「おかえり、白ちゃん」
レンノールとほぼ同じタイミングで、白ちゃんも戻ってきた。
「どうだった?」
「うむ。やばいところだったので、行っておいて良かったぞ」
「そ、そんなに!?」
何も無かっただろうと思って白ちゃんに訊いたのだが、俺の予想は裏切られたようだ。
「紬を始めとする数人の子供から、黒がパンツを剥ぎ取ったところで、おりょう姐さんと頼華が止めに入ったのだが、黒の奴、殆ど正気を失っていてな。二人掛かりでも止められずにいたんだ」
「うわぁ……」
俺がもう少し配慮をすれば良かったんだが、おりょうさん達にも宿にも迷惑を掛けてしまった。
(それにしても、おりょうさんと頼華ちゃんで止められないって、どんだけだよ!?)
二人共、黒ちゃんを極力傷つけないようにしてくれたのかもしれないが、それにしたって想定外の事態だ。
「そんな場面に出くわした俺が、黒の前で「お前のだ」と言いながらぱんつをブラブラさせると、飛び付いてきたんだ。狂気の中でも、自分の尻の形に誂えてあるのがわかったらしい」
「そ、そう……」
なんか俺は黒ちゃんに愛されているというよりは、呪いでも掛けちゃったんじゃないかと思えてくる。
「急に大人しくなった黒は、子供達のぱんつを放り出して、涙を流しながら自分のぱんつに頬擦りを始めてな」
「……」
あまり知りたくなかった情報ではあるが、俺に責任があるので最後まで聞くのが義務だろう。
「……黒ちゃんは宿に居辛いだろうから、白ちゃんに連れてきて貰っちゃっても良かったかもね」
騒ぎを起こした後では、おりょうさんや子供達とも暫くギクシャクしちゃうだろうから、黒ちゃんにはこっちでクールダウンして貰った方がいいかもしれないと思った。
「主殿ならそう言うだろうと思って、一緒に戻ってきた。黒も主殿が恋しかったみたいでな」
「……」
凄くバツが悪そうな、申し訳無さそうな表情で、黒ちゃんが入り口の影から姿を表した。
「ご、ごめんなさぁい!」
「黒ちゃん!?」
ゲルの入口の前で、黒ちゃんがいきなり土下座をした。
「いや、今回は俺の考えが回らなかったのもあるし……気にしないでいいよ?」
とはいえ、おりょうさん達や宿へのフォローは必要なのだが。
「で、でもぉ、御主人の言い付けの、子供達の面倒も放り出しちゃったし、姐さん達にもいっぱい迷惑掛けちゃってぇ……ふぇぇぇぇぇ」
夕霧さんが泣き止んだと思ったら、今度は黒ちゃんの番だった。
「あー……黒ちゃん、俺はこれから風呂にするから、一緒においで」
立ち上がって黒ちゃんに近づいた俺は、背中をポンポンと軽く叩きながら、出来るだけ優しく語り掛けた。
「ふぇぇぇ……い、いいの?」
「うん。顔も服も汚れちゃってるから、丁度いいよ」
黒ちゃんが土下座しているのは、ゲルの外の剥き出しの地面だし、下げられたままの顔は、おそらく涙と鼻水で大変な事になっているだろう。
「レンノールさん、紹介はまた今度で」
レンノールには機会が来たら紹介すると言っていた手前、何も言わずにこの場を後にするのは失礼だ。
「わかりました。では私は、先に休ませて頂きます」
「あたしもぉ、お先に休みますねぇ」
「はい。おやすみなさい」
察しのいいレンノールと夕霧さんに頭を下げて、俺はゲルの外へ出た。
「それじゃ、行こうか」
「うん……」
まだしゃくりあげている黒ちゃんを立たせ、俺は水場の方へ向かった。
「さすがに二人じゃきついから、黒ちゃん、お先にどうぞ」
洗って立て掛けてあったタライを置いて、桶で何度か水を入れてから、権能の付与してある金貨は使わずに、手で直接温度を上げていく。こっちの方が早いし、温度の調節も簡単だ。
「そ、そんな! 御主人が先だよ!」
俺の申し出で涙が引っ込んでしまったのか、黒ちゃんが両手を前に出して拒否の構えをする。
「俺はそんなに汚れてないから、女の子の黒ちゃんが先。わかった?」
「うぅー……わ、わかったよぉ」
柔らかく言っているが、俺の口調自体は強めだとわかったのか、黒ちゃんは渋々ながらも服を脱ぎ始めた。
「そうそう。黒ちゃんは聞き分けの良い、いい子だね」
高温を纏った手に水を掛けると、あっという間にお湯になってタライに溜まっていく。我ながら便利だ。
「うぅー……御主人がイヂワルだ」
「ははは。男は可愛い子を、イヂメたくなるもんなんだよ」
いい湯加減に用意出来たので、黒ちゃんが入浴している間に、夕霧さん達にも作った寝間着を用意する。
(タオルも用意しておくか……)
パイルのような表面を意識しながら、吸水性が良くなるようにと、少し粗目で厚目に布を織り上げていく。
「ねえ、御主人」
「ん? お湯が熱かった?」
水音と共に、黒ちゃんが声を掛けてきた。
「そうじゃなくって……せ、背中流してくれる?」
遠慮がちに黒ちゃんが言ってくる。
「勿論、いいよ」
出来上がった寝間着とタオルを腕輪に収納して、俺は背中を向けている黒ちゃんに近づいた。
「なんか久し振りな気がするね」
「宿のお風呂では、別々が多かったらね」
伊勢で世話になっていた椿屋や代官所の風呂は広かったのだが、宿の風呂はどこもそれ程の広さは無く、他の利用客もいたので、ここ最近は黒ちゃん以外の旅の一行とも、一緒に入浴する機会は無かった。
「なんとかここに、少し大きめの風呂を作ろうと思ってるから、そうしたら一緒に入ろうか」
「ほんと!?」
「黒ちゃんに嘘言ってどうするの?」
黒ちゃんが条件反射的に言っているのはわかるのだが、普段から嘘を言っているのかと思われているような気がして、ちょっと複雑だ。
「ご、ごめんなさい! いつでも御主人の事は信じてるよ!」
「ははは。じゃあ黒ちゃんの信頼に応えなくっちゃね」
俺は笑いながら取り出した手拭いに、これも取り出した石鹸を擦り付けて泡立て始めた。
「痛かったら言ってね」
「うん……」
気で構成されている黒ちゃんが痛みを感じるのかは不明だが、一応、断っておくのがエチケットだろう。
(小さい背中だなぁ。腰も細いし)
勿論、ちびっ子達や頼華ちゃんと比べれば、黒ちゃんの身体は十分に成熟しているのだが、凄まじいパワーを秘めているとは信じれらない程、小さくて華奢な背中をしている。
「はーい。終わったよ」
「ありがとう。あの、御主人、頭も洗ってくれる?」
「いいよ。その前に身体を流そうか」
「うん!」
やっと少し元気が戻ってきたようで、黒ちゃんの返事にも力が込もってきた。
(あー……タライでの入浴だと、ユニットバスと同じになっちゃうんだな。レンノールと夕霧さんには悪い事をしちゃったかな)
考えてみれば当たり前なのだが、別の桶に湯を用意しておいたりしないとタライに溜めた分しか無いので、
浸かっている湯で洗った身体を流す事になる。椅子なんかも無いので、タライから出て身体を洗うのも難しい。
(夕霧さんの方は、白ちゃんがなんとかしてくれたのかもしれないけど……)
それでも二人共、入浴に満足そうにしていたので、山での生活という点を別にしても、現代人の俺とは感覚が違うのだろう。
「それじゃ流すね」
「うん!」
汲んだ水に手を突っ込んで湯にしながら、黒ちゃんの背中を流す。
「じゃあ次は頭流すよ、目を瞑ってね」
「うん!」
一度激しく落ち込んだからか、たかが頭を流すだけの事で、黒ちゃんが実に嬉しそうにしている。
「洗うねー。そーれ、ゴシゴシゴシゴシ」
口で言う程は力は入れず、黒ちゃんの頭を泡立てた石鹸で、マッサージするように洗っていく。
「ひゃー♪」
俺の調子に合わせたのか、黒ちゃんがわざとらしくも可愛らしい悲鳴をあげる。
「洗い終わったから流すねー。そーれ、ざばー」
「ふぉぉぉ。さっぱりしたぁ!」
身体と頭と一緒に、鬱屈まで洗い流してしまったかのように、黒ちゃんは言葉でも顔でも爽快感を表した。
「寝間着代わりに、これを用意したからね」
酢でのトリートメントも終えて、隅々まで綺麗になった黒ちゃんに、タオル代わりの布の次に貫頭衣タイプの服を渡した。
「わあぁ。ほんとに御主人はなんでも作っちゃうんだね! おお!? この服、凄く着心地が良くて楽だね!」
「そりゃまあ、布を被ってるだけみたいなもんだしね」
最も原始的なタイプの服の一種だから、使っている布が軽ければ、それは楽だろう。
「この服、普段から着てちゃダメ?」
「……室内ならね」
ポンチョとか幼稚園児が着るスモックと同じ類なので、あまり人前で着る服では無い。
「中々定義が難しいんだけど、世の中にはちゃんとした衣類っていうのがあってね、人前に出る時や人と会う時なんかは、それなりの服装を求められるんだよ」
「むう。面倒くさいんだね!」
そんなに砕けた服装が好きな訳では無いが、面倒くさいという点に関しては、俺も黒ちゃんに同感だ。
「そうなんだけどね。でもそれは黒ちゃんが俺の作ったパンツに拘ったりするのと、同じ事なんだよ?」
「うっ!」
ごく身近な例を持ち出したので、黒ちゃんが言葉に詰まった。
「まあ服装程度でゴネて、相手の機嫌を損ねると更に面倒な事態が起こりかねないから、そこは先を見越して、服装くらいは妥協してやるかって考えればいいんだよ」
逆に、ちゃんとした服装をしているのにイチャモンをつけてくるような相手には、礼儀正しく接する必要なんか無い。
「そっか! 御主人がわかり易く言ってくれたから、今後はそうするよ!」
「そうそう。多少はこっちが、余裕を見せてやらなきゃね」
力でねじ伏せるだけが手段じゃ無いと、少しは黒ちゃんもわかってくれたみたいだ。
「それじゃ今度は俺が風呂を使うから、黒ちゃんは先に戻ってて」
タライの湯を捨てて桶の湯で流してから、俺は新たに湯を溜め始めた。
「えー。今度はあたいが、御主人の背中を流すよ」
「いや、俺は別に……」
山の中を歩いたりしたので多少は汚れているが、相変わらず新陳代謝は無いので、手伝って貰う程には念入りに身体を洗う必要は無いのだ。
「……ダメ?」
「……はぁ。いいよ」
迷惑を掛けたという思いからなのだろうが、お預けを食らった子犬みたいに、上目使いで黒ちゃんが見てくるので、俺はあっさり負けを認めた。




