辻売りの嘉兵衛
「お待たせ。ご飯だよ」
竹林庵の二階の座敷に戻ると、おりょうさんがお盆に載せた食事を運んできてくれた。ご飯に鯵の一夜干し、野菜やこんにゃくが入った半透明の汁物に、茹でた小松菜と青柳の酢味噌がけという献立だ。
「おりょうさん、これは?」
俺はあまり見慣れない、汁物の椀を指差した。
「のっぺい汁って言ってね、具沢山の汁にとろみをつけたものさ。ここは蕎麦屋だから、とろみは蕎麦粉でつけてあるんだよ」
「へぇ……いただきます」
とろみが付いている事で、のっぺい汁は舌がやけどしそうに熱かったが、野菜と出汁の豊かな味わいは絶品だった。ぬたも酢の加減が丁度良く、鯵もいい焼き具合だ。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
こっちの世界に来てから少し食べ過ぎな気がするが、特に身体が重くなった感じはしないので大丈夫だろう。そう心の中で自分に言い聞かせる。
「はい、お茶。それと、さっきの辻売りが来たから通すよ?」
「あ、お願いします」
湯呑みにお茶を注いでくれたおりょうさんは、部屋を出て階下へ向かった。
「どうも、失礼します」
「こんばんは」
辻売りの店主が、頭を下げながら部屋に入ってきた。
「旦那は御夕食は?」
「いま済ませました」
「そうですか。あっしは下で注文しましたんで、そろそろ……」
「失礼します」
辻売りの店主が告げるのと同時に、接客モードのおりょうさんが部屋の外から声を掛け、障子を開いてお盆に載せた丼を運んできた。
「お待ちどおさま」
辻売りの店主の前にかき揚げの天ぷら蕎麦の丼が置かれる。
「どうも。それでは失礼して、さっと片付けちまいますんで」
「ゆっくりどうぞ」
自分の腹が落ち着いているので、俺は辻売りの店主にそう告げると、雑多な物が入った謎袋を手元に引き寄せた。
「ふぅ……お待たせしました」
蕎麦という事もあるが、すぐに食べ終わった店主は、丼を座卓の端に寄せて俺に向き直った。
「と、その前に、あれから俺なりに捌いた鰻を串に刺して焼いてみましたんで、味を見てもらえますか?」
店主は塗り物の箱を座卓に置くと、蓋を開けて鰻の串焼きを小皿に取り、俺の前に置いた。早速手に取って味わってみる。
「ん……良く出来てると思いますよ」
さすがに本職だけあって、俺が作った物よりも鰻の切り身の大きさが揃っているし、焼け具合もいい気がする。
「そうですか!」
俺の言葉を聞き、店主は心底ホッとした顔をした。
「いやぁ、鰻は力仕事をしてる連中には、味はイマイチだが精がつくってんで人気はあるんですが、あんまり数は出ねぇんですよ……だから、商売になりそうな調理法を教われるのは、本当にありがたいんですよ」
「期待に沿えればいいんですけど……ところで、さっきは訊きませんでしたけど、鰻自体の仕入れは大丈夫なんでしょうか? 安定して漁獲量があるのかどうかとか、気にしてなかったんですが」
丸のままの立派な鰻が現代日本の価格で三百円なので、安く仕入れられるんだろうとは思うけど、毎日安定して供給されないと、商売としては難しいだろう。
「その点は大丈夫です。売れ残りの魚なんかを、竹で作った罠に入れて夜の内に沈めておけば、翌朝には鰻が中に入って寝てるって寸法で、楽に獲れるんでさぁ」
鰻胴とかいう罠だったっけ? 絶滅寸前とまで言われている現代日本とは違い、こちらの世界の海や川には、天然鰻がうじゃうじゃいるんだろう。
「じゃあ、順を追って説明しますね。先ずは裂き方ですけど、背開きと腹開きがあります」
「はい」
元の世界の江戸では切腹に繋がるという事で、縁起を担いで背開きにしたという説があるが、最近では背開きの方が皮の間に串を打ちやすいという説が有力だ。
「さっきは無かったのでやれませんでしたが、腹開きにして頭を付けたまま、長い金串を打って焼くというやり方もあります」
「ははぁ……」
店主は感心したように頷きながら、懐から取り出した紙束に、筆で書き付けていく。
「あとはさっき少し話した、腹開きにしてそのまま網や鉄板で焼くというやり方ですけど、手間と好みの問題があるので、どのやり方がいいかは、店主さんが決めて下さい」
「そうですね。あ、今更ですが、あっしの事は嘉兵衛とお呼び下さい」
「魚屋の嘉兵衛さんですね。俺は鈴白良太と言います」
「わかりました。それで鈴白の旦那、話の続きをお願いできますか?」
「いや、その旦那っていうのは、勘弁して下さいよ……」
明らかに年上の人にこういう呼ばれ方をされるのは、いくらなんでも抵抗がある。そういえばヴァナさんにも、様付け呼び方をやめてもらわないとな。
「では、鈴白様で?」
「ですから、様は……良太でいいですよ」
「ですが、恩人をそういう風にお呼びするのは……では、良さんでいいですか?」
「まあ、それなら……」
多分この辺が、嘉兵衛さんとの妥協点だろう。
「じゃあ、調理法の続きですが、これも好みの問題なんですけど、背開きに串を打った鰻を焼きます。これを白焼きと言って、そのまま山葵と醤油で食べるやり方もあります」
「鰻に山葵! 成る程、脂の多い鰻をさっぱり食べられそうですね」
俺自身は、やはり鰻はタレで焼くのが好きだが、長く品書きに残っているという事は、間違い無く白焼きが好きな人もいるから、伝えておく方が良いだろう。
「次に、白焼きにした鰻を蒸して、脂を落とすと同時に身を柔らかくしたから、タレを付けて焼き上げるやり方です」
「焼いた鰻を蒸す!? 試してみないとわかりませんが、確かに柔らかくなりそうですね。何から何まで知らなかったやり方ばかりだなぁ……」
「蒸しを入れると焼き時間も変わってくるので、その辺も実際に試してみて下さい」
本当はさっき試しに焼いてみた時に、蒸しを入れる調理法もやってみたかったのだが、蒸籠も無いし、準備するには手間が掛り過ぎるので諦めたのだ。
「それと、気がついたかもしれませんけど、焼いてる内に落ちてしまう分まで考えると、かなり大量にタレを用意しておかないと」
「ああ、それは思ってました。最初はタレ作りからですかね」
「本格的に商売として始めるなら、そうですね。何十匹分かの頭と骨を醤油と味醂で煮詰めて、後は毎日減った分を注ぎ足して」
「おお、それは寿司のツメと同じやり方ですね!」
「ああ、そういえば穴子なんかは、そういうやり方でしたね」
濃度は大分違うが、寿司の穴子は煮汁を煮詰めて継ぎ足したツメを塗ってから、客の前に出される。
この後、仕事を終えて上がってきたおりょうさんが、嘉兵衛さんが持ってきた串焼きの鰻と、さっき作った肝焼きを肴に呑んでいる脇で、今度は鰻を使った料理の説明をしていく。
蒲焼きを卵で巻いたうまき。細く切って胡瓜と合わせたうざく。ご飯に載せてタレを掛けた鰻丼と、発展系の櫃まぶし。
「一応、どの焼き方をしてもおいしく出来るんですけど、俺が聞いた限りだと、櫃まぶしには開いて金串を打ったままじっくり焼いたのがいいという意見が多かったですね」
俺にはうまく感じたが、関東に出店している店の櫃まぶしはおいしくないという意見は、根強かった。
「試してみましょう」
「それでは、串焼きですが……」
嘉兵衛さんがどういう路線での鰻の売り方をするかはわからないので、俺がわかる範囲での知識は教えておいたほうがいいだろう。取捨選択は任せればいい。
「鰻を捌く時に、形を整えるのに切り取った身は、こう、捻るように串を指して倶利伽羅焼きに」
「倶利伽羅といいますと、倶利伽羅龍王ですか?」
「確か名前の由来は、そこから来ていたんだと思います」
「この形を、倶利伽羅龍王の剣に見立てたんですね。これは縁起も良くて、売れそうですねぇ」
そういえば倶利伽羅龍王は不動明王の剣に絡みついているんだっけ。こんなところで観世音菩薩様とも縁があるとは。
「あとは切り取ったヒレを集めて焼いたヒレ焼き、こんなところでしょうか。好みですが、タレ焼きにした鰻には粉山椒が合います」
「タレと脂の味でしつこくなったところを、山椒の風味で趣を変えるんですね」
鰻屋で鰻重や鰻丼に付く肝吸いというのもあるが、実は俺自身は、あの料理は好きとか嫌いじゃなくて、意味がわからない。本当にこれは必要なのか? と、いつも感じていたので、嘉兵衛さんには教えなかった。
そもそも一匹に一つしか無い肝なので、焼いたり煮付けたりすればいい。口直しの吸い物や味噌汁、漬物なんかを用意すれば、別に過去の改竄になる訳では無いし、問題にはならないだろう。
「それと、さっき露店で聞いたカブト焼きと肝焼きですか。大変勉強になりました。しかし……」
「どうかしましたか?」
嘉兵衛さんが喜色から一転して、表情を曇らせる。
「いえね、自分でもやってみてわかったんですが、鰻ってやつは捌くのが難しい。店先で捌きながら調理するなんてのは以ての外で、下拵えするにしても、一匹やるだけでも時間が掛かり過ぎるんでさ」
「ああ、それはそうですね。嘉兵衛さんほどの腕前の人でも、鰻をの捌き方を習得するのは大変そうですし……人を雇っても、やってもらえるのは接客くらいですか」
鰻を捕まえてから目打ちをして裂いて串を打つまででも、それなりに時間が掛かる、これを何十匹分もやるとすると……何か根本的な対策がいるな。
「まあ、そうなりやすね。それに露店では限界があるので、店を構えようかと思ってますが、そっちはあてがありやすんで」
「少しの間でしたら、俺も手伝いますよ」
「そうですか、そいつぁ心強い!」
自分の事では無いのでそこまで考える必要も無いと言えば無いんだが、ここで放り出すのは、あまりにも無責任過ぎるだろう。
「うーん……目打ちと、専用の包丁があれば時間は短縮できますよね?」
「目打ちというのは、あの、良さんが竹串でやってた、まな板に頭を固定してたやつですよね?」
「ええ。あれを金属製の物にすれば、繰り返し使えるし、打ち込みやすいですよね?」
「そりゃそうですね。それで、専用の包丁というのは?」
「えーっと……」
俺は布袋の中から調理用のごく普通の包丁、出刃包丁を取り出した。
「この部分にこう、角度をつけて真っ直ぐに加工して裂きやすくして、この普通の包丁と同じ刃のある部分で骨を削ぎ取るんです」
出刃包丁の各部を示しながら、鰻裂きと呼ばれる包丁の構造を説明するが、これは元の世界の関東式の物で、大阪や名古屋の物は様式が違っている。同じ鰻を捌くのに大きく形状が違うのは不思議な話だが。
「しかし良さん、こいつぁ、今ある包丁を研ぎ直ししたりしても、出来るもんじゃありませんぜ。一から作るんじゃなければ……」
「やっぱり、そうなりますよね……」
「しかも切れ味が良くなけりゃ、使い物になりません。どうもここいらの町中にいる鍛冶屋程度には、出来そうにありませんなぁ」
「そうですか……となると、刀鍛冶の方に頼む感じですか?」
「そうなりますねぇ」
現代の日本でも、和包丁は日本刀と同じ割り込み技法という鍛造法で作られているので、別におかしな話ではない。しかし、かなり高価になってしまうと予想できる。
「刀鍛冶には、ちょっと心当たりがございやす。どうせ数日はタレの仕込みと試作のつもりでしたから、その間に新しい道具を調達出来ればいいんで、問題は無いでしょう」
「嘉兵衛さんがそれでいいんでしたら。俺は助言しただけですから」
「そこで良さん、色々教えて貰った事と合わせて礼はしますんで、もう一つ、骨を折っちゃ貰えませんか?」
「どういう事ですか?」
嘉兵衛さんが言うには、藤沢宿の少し先の山の中に、知り合いの相州伝の流れを汲む刀工が暮らしているらしいので、その人に鰻裂きを作ってもらいに、俺に行って欲しいというのだ。
「いきなり俺が行って、作ってくれるもんなんですか?」
「そこはあっしが手紙を書きますんで。それに良さんが直接説明してくれた方が、鰻裂きの正確な大きさや形がわかりやすいと思うんですよ」
嘉兵衛さんの言う事はもっともだった。口頭と出刃包丁を見せながら説明したが、図面とかを見せたわけでは無いのだから。
「じゃあ引き受けます。その、鍛冶屋さんへの支払いとかは?」
「たまに生活に必要な物を町まで買いに出てきますので、その時に精算すれば良くなってます」
「そうですか」
「それで、こいつがその、知り合いの刀鍛冶が作った物なんですが」
嘉兵衛さんは懐から、露店で借りたのとは違う、木の鞘に収められた刃の長い包丁を取り出して俺に手渡した。これは柳刃ってやつかな? 俺は鞘から抜いて眺めてみた。
「これは……俺は素人ですけど、良い物だというのはわかります」
「そんな素人だなんて、謙遜を……」
謙遜でも何でも無く、本当に素人なんだけど……それにしても、思わず見入ってしまうほど、冷徹な輝きを放つ見事な包丁だった。柄の近くの平らな部分に、作り手の名前だと思われる「正恒」という銘が彫り込んである。
「進藤正恒というのが、そいつを作った野郎の名です。元は源様のお膝元の鎌倉で刀を打ってたんですが、今はさっき説明した通り、時折人里に出てくる以外は、山に籠もって作刀三昧の生活をしてるんですよ」
「そういう事なら、食料なんかを土産に持っていったら喜ばれますか?」
「ああ、そいつぁいい考えだ。そうだ! 持っていくのは鰻ってのはどうですか?」
嘉兵衛さんが、ポンと膝を打った。
「鰻を捌く刃物を頼む訳だから、そうしましょうか。んー、でも生きた鰻を持っていくのは難しいなぁ……」
「良さんの持ってるそいつは、特別な袋でしょう?」
「えっ!? どうしてわかったんですか?」
「そりゃあ、布袋から音も立てずに、剥き出しの刃物が出てくりゃぁ……」
言われてみれば、さっき鰻裂きの形状を説明するのに、謎袋から包丁を取り出したんだった。
「そいつなら、生きたまんまはダメでも、裂いて開いた鰻なら鮮度を落とさずに運べるでしょう」
嘉兵衛さんが言うには、この謎袋は「福袋」と呼ばれているらしい。何が入っているか見た目からはわからないので、機能に相応しいネーミングではあるが……。
「そうですね。となるとタレが問題だけど……なんとかしましょう。嘉兵衛さん、鰻の仕入れはお願いできますか?」
「その辺は、任しといて下せぇ!」
胸をドンと拳で叩きながら、嘉兵衛さんは頼もしく仕入れを請け負ってくれた。
「なら、今夜中にタレを仕込んで、明日の朝に嘉兵衛さんが仕入れてきてくれる鰻を受け取れば……おりょうさん、ここから藤沢宿まではどれくらいですか?」
俺達のやり取りを聞いていたのかいないのか、おりょうさんは静かに鰻の試食をしながら、酒盃を傾けていた。
「そうさねぇ……四十キロちょっとだから、普通に歩いて八時間ってところかね」
本来は何里とかで言われるはずの単位が、キロ単位に変換されて説明されるのは、わかりやすくてありがたい。
「正恒の住まいは、藤沢宿から二キロばかし北へ行った山ん中です」
「嘉兵衛さんを待って、朝食や支度を考えると……藤沢宿に着いた時点で、正恒さんの住まいまで行くか、宿を取るかを決めればいいか」
買い足そうと思っていた旅回りに必要な物は、藤沢の宿場町でも調達は可能だろう。
「では、あっしはこれで失礼しやす。明日の朝、仕入れた鰻と正恒への紹介状と、奴の住まいの場所を詳しく書いて持って来やす」
「わかりました。お願いします」
頭を下げて、嘉兵衛さんが部屋から出て行った。良くわからない展開になってきたが、まあそれなりに楽しいからいいか。
「おりょうさん、ちょっとお願いがあるんですけど?」
「っ!? な、なんだいっ!?」
何にそんなに激しく反応したんだかわからないが、おりょうさんは座卓へ叩きつけるような勢いで酒盃を置くと、座ったままで飛び上がり、俺の方へ向き直った。
「えっと……実は欲しい物がありまして」
妙に熱い視線を送ってくるおりょうさんへお願いの内容を伝えると、急速に熱が冷めるように、明らかに落胆した表情になった。
「なぁーんだ……まあ、少しくらいなら大丈夫だろうさ。その代わり、幾らかは出してもらうよ?」
「はい。それは勿論」
「まったく、仕方ないねぇ……」
不平を漏らしながらも、おりょうさんは俺の願いを叶えてくれるために、部屋を出て階下へ下りていった。
竹林庵から蕎麦ツユに使う、砂糖と醤油を混ぜ合わせて寝かせた「かえし」を分けてもらい、みりんを加えて煮詰め、鰻のタレの基本になる物を作った。
材料費よりも、仕込む日数が必要な「かえし」を分けてもらうのは心苦しかったので、礼金として銀貨一枚を支払った。
「うん。さっき作った物よりも、材料同士の馴染みがいい気がする」
醤油と酒とみりんをそのまま混ぜるより、既に溶け合って寝かせてあった「かえし」は、塩気や甘さの尖った感じが無くなっているのが、鰻無しでタレだけを味見しても良くわかった。
「なんていうか、自分の店の事でもないのに、あんたも物好きだねぇ」
「自分でもそう思いますけど、楽しいですよ」
呆れた顔でおりょうさんに言われたが、まったくその通りなので苦笑するしか無い。
「さあ、明日は藤沢まで行くんだから、早くおやすみ」
「そうですね。おやすみなさい」
火から下ろしたタレの鍋はそのままにして、俺はおりょうさんに挨拶して、二階へ上がった。