狸
ありがたい事に津から亀山に至る道中に、特筆すべき事は起きなかった。出来ればいつもこうであって欲しいと、心の底から思う。
「あ、兄上っ! なんなのですか、あれは!?」
「あれって?」
行く手に怪しい気配なんかは感じないが、頼華ちゃんの指差す方へ目を凝らしてみる。
「あれは……ああ、狸か」
「狸!? あれは狸なのですか!?」
「ちょいと、凄い眺めだねぇ……」
おりょうさんが呆れるように言うのも無理はない。街道の両サイドに、焼き物の狸がズラッと並んでいるのだ。
「なんか顔が怖いな……」
俺の知っている焼き物の狸の置物は、もう少し顔に愛嬌があった気がするんだが、体型がデフォルメされて後脚で立ち上がっているところまでは同じなのに、何故か顔だけはリアルな狸っぽい作りなのだ。
「……どことなく黒と似ていないか?」
店頭に置いてある置物をじっくり観察した白ちゃんが、ボソッと呟いた。
「どっ、どこがあたいに似てるんだよっ!?」
心外な、と言わんばかりに、黒ちゃんは白ちゃんへ食って掛かる。
「……」
「な、なんで御主人は、そんな顔であたいを見てるのっ!?」
元々、黒ちゃんの事は愛嬌のある狸顔だと思っていた。すると凶悪な感じがしていた置物の狸も、俺の目には可愛く見えてくるから不思議である。
「白よ。黒と似ているとは、あんまりではないか!」
「そうか?」
頼華ちゃんが弁護をするような事を言っても、白ちゃんは首を傾げている。
「ほらーっ! やっぱり似てないってば!」
頼華ちゃんからの援護射撃を得て、黒ちゃんが勝ち誇ったように胸を張る。
「良く見るのだ。黒には無い物が、脚の間にあるではないか!」
「って、そこ!?」
どうやら頼華ちゃんは、顔が似ているとかそういう点は完全に無視して、ここもデフォルメされている股間の立派な物の有無で判別しているようだ。
「ひ、酷い……御主人からもなんとか言ってやってよ!」
涙目になった黒ちゃんが、俺に縋り付いて懇願してくるのだが……。
「……」
「露骨に目を逸らされた!?」
黒ちゃんには悪いと思いながらも、似ているという点は俺には否定出来ないので、つい目を逸らしてしまった。
「まあまあ。あたしゃそんなに似てないと思うけどねぇ」
「姐さん! そうだよね!?」
やっと理解者が現れた事に感激した黒ちゃんは、おりょうさんに抱きついた。
「ふむ……確かに言われてみれば」
白ちゃんが置物と黒ちゃんを見比べて、何か考え込んでいる。
「やっとわかったかー!」
自分のターンになったとばかりに、黒ちゃんは白ちゃんをやり込めようとする。
「うむ。黒の元の顔の方が、置物よりも凶悪だ」
「もっと悪くなった!?」
(凶悪かどうかはともかく、鵺の顔は猿じゃん……)
論点はそこでは無いだろうと自分でも思うが、白ちゃんに突っ込みそうになった。
「むっきーっ! もういいよ!」
俺が心の中で突っ込んだからでは無いだろうけど、黒ちゃんは猿みたいな声を上げて、顔を真赤にしながらズンズン歩いて行こうとする。
「あ、こら黒。父上と母上に贈る物を選ぶのだから、まだ先には進まないぞ!」
「こんな置物のあるところに、居たくないよ!」
「黒ちゃん、今日は信楽に泊まる予定だよ?」
「はうっ!」
どうしても信楽に泊まらなければならない訳でも無いのだが、逆に信楽に泊まらずに通過する意味がも無いのだ。そして泊まる予定に関しては、前もって話し合っていた事である。
さすがに、孤軍奮闘するには無理があると悟ったのか、黒ちゃんは歩くのをやめて振り返った。
「ううぅ……」
黒ちゃんは目の端に涙を浮かべながら、拾った木の枝で道端の地面に落書きをしている。
「黒ちゃん、機嫌直してよ……」
「に、似てなんかないんだよぉ……」
「はいはい……」
仕方なく、道端で蹲る黒ちゃんの慰め役を俺が引き受けた。
「これだけあると目移りしますね!」
「あ、頼華ちゃん。この夫婦茶碗なんかいいんじゃないのかい?」
「頭領と奥方なら、この酒器なんかどうだ?」
黒ちゃんの事を、それ程深刻な事態と受け止めていないというよりも、無かった事になっているようにさえ見える。それくらい頼華ちゃん達は、実に楽しそうに様々な焼き物を物色している。
「ううむ……やはり他の店も見てみましょう!」
「そうだねぇ」
「では次に行くか」
かなり時間を掛けて店内を見ていた頼華ちゃん達は、結局は何も買わずに別の店に行くようだ。
「ううぅ……」
「あー……ほら黒ちゃん、これでも食べな」
ここまでガン無視されると流石に可哀相になってきたので、二つの味のキャラメルを取り出して、黒ちゃんの御機嫌を取る事にした。
「ううぅ……御主人、おいしいよぉ……」
「はいはい……」
たまたま置物と似ていただけで何の罪も無いのに、とにかく哀れだ。俺は涙を流しながらキャラメルをモグモグする黒ちゃんの頭を撫で続ける。
「明日はいよい京の都ですね!」
草津の宿での夕食の席で、琵琶湖特産の小鮎の佃煮に舌鼓を打ちながら、頼華ちゃんは期待を抑えきれない様子だ。
信楽では一悶着有ったが、翌日になって琵琶湖が程近い草津で宿をとった。もう京都までは直線距離にすれば十五キロ程。目と鼻の先である。
「やはり渡しは使わないのか?」
「出来ればね……」
ゼンマイの炒め煮の小鉢を持った白ちゃんに明日のルートの確認をされたが、琵琶湖に棲む妖怪の事を聞いているので、俺としては回避したいところだ。
しかし草津から対岸の大津までの渡しを使えば、琵琶湖の南岸を迂回するルートと比べると、かなりのショートカットをする事が出来るので、時間のロスと疲労を考えると悩ましいところではある。
「せっかくの琵琶湖なので、舟にも乗ってみたい気はしますね!」
「そうなんだけどね……」
物見遊山の旅だし、観光の一環として渡し船を利用したいという、頼華ちゃんの気持ちも良く分かる。
「うーん……明日の天候次第では舟を使いましょうか」
「天候次第?」
小鮎の天ぷらを食べ終えて、箸を置きながらおりょうさんが訊いてきた。川で苔を食べて育った鮎のような香りは無いが、琵琶湖の小鮎は食べ易いサイズで味は良い。
「ええ。琵琶湖は時折ですが突風が吹くと宿の人が言っていましたから、晴れても風が強かったら舟は無し。雨が降ったらもう一泊しちゃいましょう」
琵琶湖では「比叡おろし」などと呼ばれる突風が吹く事があり、現代でも転覆、水難事故が起きている。
雨が振ったらもう一泊というのは、贅沢で慎重過ぎるかもしれないが、それ程無理して京都まで足を伸ばす事も無いだろう。
「もう妖怪は気にしないの?」
琵琶湖産の味も香りも良い小海老の塩茹でを、一尾ずつ口に放り込んでいた黒ちゃんが、御飯の残りを掻き込んで幸せそうな顔をする。
「気にはしてるけど、泊まってるここだって、琵琶湖に近いしね」
琵琶湖の妖怪に関しては気掛かりではあるが、そもそも江戸を出る時に舟を利用しているし、陸だから安全だとは言い切れないので、必要以上に神経質になる事も無いという結論に達した。
「風はともかく、雨は大丈夫そうだけどねぇ」
開けてある窓から見える夜空には、綺麗な星が瞬いている。
「ま、行くも留まるも、天照坐皇大御神様の御心次第だねぇ」
「そうですね」
晴天に関してはおりょうさんの言う通りだが、風は別の神様が司っているのでは? とか思ったが、それを言うのは野暮なので、勿論口には出さない。
「……ん?」
夕食後にゆっくりと風呂に入り、間近に迫った京都の話題で皆と盛り上がった後で眠ったはずだが、気がつくと俺は、おそらくはどこかの山中と思われる、霧に閉ざされた場所に立っていた。
(これは……夢だな)
これまでにも何度か見た、明晰夢というやつだろう。
「舟の上じゃなくて、森の中か……ん? あれは?」
予知とかお告げの類の明晰夢だろうと思ったのだが、予想していた舟の上のトラブルでは無かったので少し拍子抜けしていたら、霧の向こうで何かが蠢いたのが目に入った。
霧越しなのでシルエットしか見えないが、何か巨大な物が地を這うような姿勢で、こちらを伺うような動きを見せている。
「……朝か」
テレビのチャンネルを替えたように、夢は唐突に途切れていきなり目が覚めた。泊まっている宿の中で人の動き回る気配を感じるのは、朝の支度で働いている人達の物だろう。
「何にせよ、用心した方が良さそうだな……」
もう少し布団に入っていようかとも思ったが、夢の内容が気になって頭が冴えてきてしまったので、寝るのは諦めた。
「……」
小さく溜め息をついてから俺は布団を片付けると、歯磨き用の房楊枝を持って洗顔のために部屋を出た。
「天気もいいし風も弱いですから、予定通り出発して渡し舟を使いましょう」
京都へ向けて出発する事を宣言した俺は、小鮎の佃煮を載せた御飯を頬張った。江戸の物とは違ってやや薄味だが、これはこれで上品な感じでうまい。
「順調だったら、昼には京に入れるねぇ」
渡し舟の着く場所の大津から、少し歩けば山科になる。地域的には京都になるのだが、現代人でも洛外は京都と認めない場合があるので、おりょうさんもそれに倣ったのだろう。
「兄上の考えに反対する気はありませんでしたが、舟の上から琵琶湖岸の景色も見たかったので、嬉しいです!」
(しまった……配慮が足りなかったな)
琵琶湖が有数の観光地だというのは頭にあったのに、安全を重視し過ぎて頼華ちゃんの楽しみにまでに考えが及ばなかった。
「ごめんね頼華ちゃん。これからは気をつけるよ」
「あ、兄上っ!? そんな、謝ったりしないで下さい!」
味噌汁の椀を放り出さんばかりの勢いで食卓に置いた頼華ちゃんは、畳に手を付いて俺に頭を下げた。
「兄上が、皆の事を思い遣って慎重になっているのはわかっております。どうか、あやまったりしないで下さい……」
「わかったよ。でも、これからは何か希望があったら、ちゃんと言ってね?」
「わかりました!」
顔を上げた頼華ちゃんは、晴れやかな笑顔をしている。
(こういう笑顔を見るために、少しだけ無理をすればいいんだよな……)
どうにもならない程困難な場合は別だが、そうで無ければこの手で排除すればいいのだ。おそらくはその為に、自分には非常識な程の力が備わっているのだから。
朝食後、手早く宿を出る支度を終えた俺は、自分の寝泊まりしていた部屋を出た。
「黒ちゃん、白ちゃん、ちょっと……」
「おう!」
「どうかしたのか?」
女性四人で使っていた部屋に行くと、部屋の外から黒ちゃんと白ちゃんを小声で呼び寄せる。おりょうさんと頼華ちゃんは、まだ支度の最中だ。
「今日の道中なんだけど、黒ちゃんはおりょうさん、白ちゃんは頼華ちゃんから、離れないようにして欲しいんだ」
「おう! でも、なんで?」
「承知したが、何か気掛かりな事でもあるのか?」
当然といえば当然の疑問が、二人から俺に投げ掛けられた。
「……ちょっと気掛かりな夢を見てね」
おりょうさんと頼華ちゃんの事をこちらがお願いする立場でもあるので、正直に話す事にした。命令すれば済む事なのだが、出来ればそれはしたくない。
「実は、黒ちゃんと白ちゃんと鎌倉で出会った前の日にも、お告げなのか予知夢なのかはわからないけど、夢に見たんだよ」
夢のお告げがあったから言う事を聞いて欲しいというのも、立場が逆なら無茶だなと思うので、少しでも信憑性をもたせようと、二人と出会った切っ掛けの夢の事を話した。
「そうだったんだ!」
「成る程な。だから主殿と頼華に、まんまと待ち伏せをされたのか……」
ちょっと拍子抜けするくらい、黒ちゃんと白ちゃんは、俺の説明をあっさりと信じてくれた。
特に白ちゃんの場合は、予め鶴岡若宮への侵入が知られていなければ、自分が騙し討ちを喰らって捕まるとは思っていなかったはずなので、夢の話の信憑性は高くなったと思う。
「そこまで話したのなら、今回はどういう夢を見たのか、教えてくれてもいいだろう?」
「そうだよー!」
「そうだね……実は」
俺は夢の内容を二人に話した。だが、霧ではっきりとは見えない、何か大きな物が蠢いていたというだけなので、詳しい説明自体が出来なかった。
「霧の中の巨大な物か……」
「白ちゃんには、何かわかる?」
「霧と、巨大なだけではな……関連している妖怪だけでも多過ぎる」
「そうだよねぇ……」
気象条件によって霧は出るし、その霧に乗じて人を化かそうとする妖怪などは、数限り無くいるだろう。
巨大という事であれば、地面をえぐり取って富士山を作り、その掘り跡が琵琶湖になったと言われるダイダラボッチなどが代表例だが、こちらも現状では絞りきれない。
「どうも以前に主殿が言っていた、離れ離れになるという状況になりそうな気がするな……」
「ああ、それはそうかもね」
四六時中も一緒にいるという程では無いが、大概は旅のメンバーの誰かが傍にいるので、夢の中で俺が一人で霧の中にいたというのは、白ちゃんの言う通り、離れ離れになるという暗示かもしれない
「御主人と離れ離れになっちゃうの!?」
この話題になった時点で覚悟していたが、案の定というか、黒ちゃんが涙目で抱きついてきた。
「ああ、うん、俺も黒ちゃん達と離れたくないよ。でもね、お願いした通りに、俺じゃなくておりょうさんと頼華ちゃんから離れないでいて欲しいんだ」
「で、でもぉ……」
まだ宿からも出ていないのに、黒ちゃんは俺から離れまいとして、服の胸元の布をギュッと掴んでいる。
「頼むよ。二人になら、おりょうさんと頼華ちゃんを任せられると思ったから、お願いしてるんだ」
おりょうさんも頼華ちゃんも、決して生存能力が低いとは思わないが、孤立するよりは人数が多い方が、より生存率は高められるだろう。
「うぅ……」
「それに黒ちゃんの御主人は、結構強いんだよ?」
(……うがーっ! 心配させたくないとはいえ、こんな台詞言いたくねぇーっ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……)
黒ちゃんを心配させたくないので表面上は笑顔を作っているが、内心では恥ずかしい台詞を吐いた事への激しい自己嫌悪で、叫びながら地面を転げ回りたい衝動と戦っていた。
「黒、主殿がここまで申しているのだ。これで言う事を聞かなければ、下僕たる資格を無くすぞ」
「いや、そこまでは……」
別に資格なんかいらないし、そもそも二人を下僕とかにしているという意識が俺には無い。
「うぅー……わ、わかったよ! おりょう姐さんはあたいが!」
「そして頼華の事は、俺が引き受けた」
なんとか二人(主に黒ちゃん)を説得出来たので、とりあえずは一安心だ。
「これだけ言ってて、何も起きなかったら申し訳ないけどね」
「その時は、それでいいではないか」
「それもそうだね」
(まあ、絶対に何か起きるだろうな……)
フラグと言うか予定調和と言うか、このまま何も起きないで京都へ到着という事は無いだろう。良くて、琵琶湖で何も起きないという程度に考えておけば、事態に直面しても慌てずに済む。
「お待たせー……って、何を朝からいちゃいちゃしてるんだい?」
部屋を出てきたおりょうさんが、黒ちゃんに抱きつかれている俺の姿を見て、表情を険しくする。
「兄上! 私も抱きついていいですか!?」
黒ちゃんに張り合おうというのか、頼華ちゃんは俺に近づくと、服の袖をツンツンと引っ張った。
「別にいちゃいちゃなんて……」
「おう! じゃあ今度はおりょう姐さんに!」
「ちょっ!? 黒、暑っ苦しいからくっつくんじゃ無いよっ!」
離れないでという指令を早速実行に移そうというのか、黒ちゃんは俺から離れて、おりょうさんへ抱きついた。
「えへへー!」
「な、なんかあったのかい?」
黒ちゃんは芝居の出来るタイプでは無いので、もしかしたら甘えるタイミングを図っていたのかもしれないと思える程、いい笑顔でおりょうさんに抱きついている。
「今日のところは、黒ちゃんのしたいようにさせてあげてもらえませんか?」
「そ、そりゃ構わないけど……黒、歩くのに邪魔にならないようにおしよ?」
「おう!」
聞き分け良く、黒ちゃんはおりょうさんの左側にポジションを移し、腕を絡めた。
「私が兄上に抱きつくのは構いませんか?」
「抱きつかれるのはなぁ……手を繋ぐくらいじゃダメ?」
伊勢を出た日に頼華ちゃんと黒ちゃんを前後にくっつけて歩いて、すれ違う人々から妙な注目を浴びたので、出来れば勘弁して欲しい。
「では、手を繋いで歩きましょう!」
「わかった」
利き手を封じられると、いざという時の対処が難しいので、頼華ちゃんに左手を差し出した。
「では、反対の手は俺と繋ごう」
俺と手を繋いだ事に気を取られていた頼華ちゃんの左手を、白ちゃんが取った。
「なんだ。白も私と手を繋ぎたいのか?」
「ああ。頼華に繋いでもらってないと、迷子になってしまうかもしれないな」
「むむ! 仕方のない奴め! では、はぐれないようにしっかりと繋いでいるがいい!」
メンバーの中で最年少なので、少しお姉さんぶりたいのか、頼華ちゃんは鼻息も荒く白ちゃんに手を繋ぐことを許可した。
「じゃあ、行こうか」
両サイドから自分よりも身長の高い俺と白ちゃんに手を繋がれているので、迷子にならないように気を使われているのは頼華ちゃんの方だと、状況を知らない人間の目には映るだろう。
しかし頼華ちゃんは自慢気に胸を反らして、精一杯お姉さんっぽく振る舞おうとしている。その姿が微笑ましくて、俺と白ちゃんは笑いを堪えるのに必死だった。
草津側の渡し場から舟に乗った俺達は、甲板で陽を浴びながらのんびりと舟旅を楽しんでいた。
程良く風の吹く琵琶湖の湖面を、渡し船が軽快に帆走する。好天に恵まれている事もあって遊覧気分だ。
「……ん?」
陽光が煌めく湖面を眺めていたら何か黒い物が、舟の五百メートルくらい先の水面下で、動いているのが見えた。
「白ちゃん……」
「俺も気が付いている。さて、どう動くやら……」
頼華ちゃんを挟んで反対側にいる白ちゃんも、水面下の異変に気が付いているようだ。
「御主人!」
「黒ちゃんも来たか」
少し離れたところで、おりょうさんと一緒に景色を楽しんでいた黒ちゃんも、俺達の方へ近づいてきた。
「どうしたもんかな……」
今のところは水面下の存在から、明確な敵意は感じられないのだが、確実に俺達の乗っている渡し舟に近づいてきているのだ。
「多分だが、鯰のようだな」
「大鯰ってやつだね?」
少し近づいて四百メートルくらいの相対距離になっているが、これだけ離れている水面下にいても存在が確認出来るというのは、かなりの大きさだからだ。
「ちょいと、あたしには見えないねぇ……」
「存在はなんとなくわかりますが、私にも視認出来ません!」
「まあ、普通はそうだよね」
(黒ちゃんと白ちゃんは、身体構造も違うんだけど、俺の視力に関しては、俺自身にも良くわからないな……)
視力の良い者であれば、この距離でも水面に浮かぶ物体なら視認出来るが、晴れた湖面なので陽光の反射や陽炎など、相当に錯覚を起こす要素が多い。
そんな状況で水面下の存在を確認出来る方が、本当はおかしいのだ。
「百メートルまでは様子を見ようか」
「うむ。妥当な線だな。もし、それ以上近づく場合は、敵意があると見なしていいな?」
「仕方ないね……」
事を荒立てたくは無いが、俺達一行を含む、乗客と乗組員の安全を考えなければならない。
「通り過ぎてくれるといいんだけどね……」
しかし願いも虚しく、水面下の存在は、ボーダーラインである百メートルの距離に侵入してきたのだった。
「どうするかな……遠当てがいいかな?」
黒ちゃんが伊勢の代官所でおりょうさんと戦った時に使った、離れた相手に対して気を直接ぶつける遠当てが、この場合は有効だと思えた。
「ふむ。主殿の権能の炎では、水面下の敵には効果が薄そうだな」
「雷じゃ、俺と黒ちゃんと白ちゃん以外は危ないしね」
妖怪なので、水棲生物と言ってしまっていいのかはわからないが、雷による電撃はかなり有効だと思われる。しかし舟にも被害が及ぶ可能性が大きいので、これも却下だ。
「あたいが行って、痛めつけてこようか?」
「ああ。その手もあるな」
「だったら俺が……」
部分变化もどきの翼が使えるので、俺なら上空から相手をする事が出来る。
「いや。外套を着ても翼は隠しきれないので、やめた方がいい。それに、主殿が危険を犯すのは俺達の後だ」
俺の事を気遣ってだけというのなら、白ちゃんの意見を突っぱねる事も出来るのだが、目立たないようにと考えると、確かに最初は黒ちゃんに任せた方が良さそうだ。
目測で舟まであと百メートルというラインまで水面下の存在が侵入してきたので、俺は行動する事を決断した。
「じゃあ黒ちゃん、最初は諭したり脅したりで帰ってもらって。それでもダメなら、遠慮しないでいいからね」
「おう!」
言葉や意志の疎通で説得出来るならお帰り願い、それでもダメなら殺気を放って追い返すというのが基本方針だ。
しかし、鵺の黒ちゃんの殺気を受けても向かって来るという事は、より強力な意思を持っているか、まともな思考が無いかのどっちかである可能性が高い。
そうと確定したら、全力で迎え討たなければならないが、それは最後の手段だと考えている。
「白ちゃん。黒ちゃんが跳んだら、いつでも動けるように待機して」
「承知した」
黒ちゃんがピンチに陥るような事態が発生したら、目立つとかそんな事を考えるまでも無く、白ちゃんは俺と共に救出に向かう予定だ。
「私も、弓があれば援護くらいは出来るのですが……」
「ありがとう頼華ちゃん。でも弓を持ち歩くのは、旅には向かないしね」
悔しそうに言う頼華ちゃんの弓の腕前は達人級なので、確かにこういう場合には頼りになったはずだ。
「おりょうさんと頼華ちゃんは、自分の安全だけ考えていて下さい」
「あたしも舟の上じゃ役立たずだから、仕方ないねぇ」
頼華ちゃんに劣らず、おりょうさんも悔しそうだ。
「そいじゃ、行ってくるねー! とうっ!」
風と波を切る音で掻き消される程度にだが、黒ちゃんは元気な声を上げると、渡し舟の舷側を蹴って宙に舞った。
舟の推進力のベクトルも利用し、黒ちゃんは重力を感じさせない低い放物線を描いて、一蹴りで数十メートル先の目標の上に着水した。
迷彩効果のある外套を着ているし、着水時の水柱も低かったので、乗客と乗組員の中に気が付いた人間はいなかったようだ。
(さあ、どう出る?)
念の為に、外套の下で刀の巴を腰に帯び、右手では江戸のドランさんから貰った戦斧を握っている。
「戦い始めちゃったか……」
黒ちゃんが着水した辺りの水面が波立ち、周囲を泳いでいた水鳥が何羽か飛び立った。
「む。戻ってくるようだ」
こちらも念の為に、鎖付き苦無の羂鎖を用意していた白ちゃんが、黒ちゃんが跳んで行った方を指差す。
「ほいっと!」
帆走は続いていたのでかなり距離が詰まってはいたが、甲板よりも低い水面から、黒ちゃんは一気に舟に乗り込んできた。
「御主人、これお土産!」
ずぶ濡れになった黒ちゃんは、一辺が五十センチくらいある、血まみれの塊を持っている。
「黒ちゃん、これって……」
「あいつの身体の一部だよ! 言う事聞かないから懲らしめるついでに、お土産に切り取ってきた!」
「そ、そう……」
渡されたので仕方なく受け取ったが、表面がぬるついて血まみれの塊は、ずっしりと重かった。
「脂っこいけど、結構おいしいね!」
「食べたの!?」
「うん! 御主人の口に合うかどうかわかんないから、まずは味見と思って!」
俺の手にある塊には齧った跡は見当たらないので、どうやら黒ちゃんは本体の方で味見を行ったようだ。
「それで、あれは何だったの? っと、その前に、身体を拭いて着替えた方がいいね」
危うく好奇心の方が勝ってしまうところだったが、濡れている黒ちゃんのケアの方が先だ。
「気を遣ってくれてありがとう! でも平気だよ!」
白ちゃんに外套を渡して、気配が一瞬希薄になった黒ちゃんは、次の瞬間には、水に濡れていない状態でその場に立っていた。
非実体化をしてから再実体化したので、湖の水を始めとする汚れは、綺麗サッパリ黒ちゃんから消えてしまっていた。
「とりあえずお疲れ様。詳しい話を……って言ってる間に、岸が近いみたいだね」
気がつけば渡し舟は、接岸するために速度を落とし、舳先の方向を変え始めていた。
「話は上陸してから聞かせてね。とりあえずはお疲れ様」
「おう!」
俺が頭を撫でながら労をねぎらうと、黒ちゃんは気持ち良さそうに目を細めた。




