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大東流

 椿屋さんでの宴会を終えて代官所へ戻った俺達は、入浴を済ませてから明日以降の事を話すために、おりょうさん達の使っている部屋へと集まっていた。


 宴会の後片付けの手伝いを申し出たのだが、貞吉さん達に固辞されたので渋々諦めた。


「明日は朝御飯を食べたら出発しますけど、京都経由で大坂という旅程でいいですか?」

「いいも何も、良太がそうしたいんだろ?」

「兄上がそう決められているんですよね?」


 おりょうさんと頼華ちゃんは、何の確認なんだ? という表情をしている。


「いや、大坂までの間に、ここに寄りたいとか、見ていきたい場所とかがあったらですね……」

「あたしゃお伊勢さんを堪能したから、他は適当でいいよ。京都にも名所は山程あるしねぇ」


 一生の内に一度はと思っている人が多い伊勢に、長期滞在して何度も参詣も出来たので、おりょうさんは京都への道中に関しては、大きな期待はしていなさそうだ。


「道中で何かおいしい物でもあれば、食べてみたいですが!」

「津はあんまり伊勢と変わらなそうだし、京都までは内陸になるから、それ程期待は出来ないだろうね。名物とかも、俺にはわからないなぁ」


 通過予定の信楽や草津なんかの名物料理の知識は、俺には無い。


「そうですか。余も道中にそれ程過大な期待はしていませんから、京都に着いたら何かおいしい物を食べさせて下さい!」

「京都でも、そんなに期待をされてもなぁ……」


 頼華ちゃんに言われてパッと頭に浮かんだのは、和菓子に豆腐に漬物くらいだ。


「あ、そうだ。これは、おりょうさんと頼華ちゃん、黒ちゃんと白ちゃんに渡しておきますね」


 椿屋さんから受け取ったぽち袋を、みんなに渡した。


「こんなに……良太が遠慮したのもわかるねぇ」


 中身が金貨である事を確認したおりょうさんは、苦笑しながら溜め息をついた。


「兄上、余の分は兄上が預かって下さい!」


 頼華ちゃんは畳の上に置いたぽち袋を、俺に向けて押し出した。


「えっ!? これは頼華ちゃんが自由に使っていいお金なんだよ?」

「それはわかっています。ですが、大前での給金にも手が付かない状況で、こんな大金を持っていても……」

「あー……」


 江戸の鰻屋、大前の経営者の嘉兵衛さんも気前のいい人だったので、働いていた頼華ちゃんも、それなりに多くの給料を受け取っていた。


 旅に出る時に頼華ちゃんの御両親も路銀を持たせてくれているので、賽銭に金貨を入れたりしても、他の出費が間食のお菓子程度なら、今回の礼金で手持ちは増えてしまったくらいだろう。


「うーん……黒ちゃん、白ちゃん。いざって時の為に、お金も少し預けておくよ」


 仕方無く頼華ちゃんからお金を受け取って仕舞ってから、黒ちゃんと白ちゃんへ渡すために袱紗包みを取り出した。


「お金なら持ってるよ?」

「俺も、殆ど使っていないが」


 黒ちゃんと白ちゃんも、江戸を出るまで大前で働いて給金を貰っている。基本的な生活費は俺が出しているし、頼華ちゃんに付き合って使っている以外には無駄遣いはしていないみたいなので、手持ちは目減りしていないのだろう。おまけに今日、椿屋さんに貰った分もある。


「まあ、ほら。持っていれば何かと役に立つから。俺がいない時に、何か必要になる事があるかもしれないしね」


 あまり考えずに、まあこんなもんだろうという感じで、黒ちゃんと白ちゃんへ無造作に金貨を十枚ずつ渡しておいた。


「おう!」

「わかった」


(金貨を二十枚渡しても、全然減らないな……)


 掏摸集団を捕まえた報奨の入っている袱紗包みから、金貨が二十枚も出したというのに、手の中の重さが半分にもなっていないのを感じる。ちゃんと中身を数えてはいないが、どうやら五十枚以上はあったみたいだ。


(いっそ旅を楽にするのに、馬でも買うか?) 


 十分過ぎる資金状態に、そんな事を考えてしまう。


(……いやいやいや。世話とかどうするんだよ?)


 しかし健脚過ぎるくらいの一行であり、福袋と腕輪によって荷物の負担が少ない事もあって、馬という護る対象が増えるのはデメリットになってしまう、という結論に達してしまった。


「お金はあんまり使い途が無いから、旅先での宿はいいところにしましょうね」


 我ながら恐ろしく贅沢な事を言っていると思うのだが、宿泊や食事は場所によっては選択肢が無い可能性もあるので、お金のある内は少しくらい奮発しても罰は当たらないだろう。


(椿屋さんみたいな店に泊まるんじゃなければ、いい宿って言っても高が知れてるだろうしな)


 現代の超高級ホテルみたいに、一泊で数百万なんかする部屋なんか無いだろうし、それは食事にしても同様だろう。


「それはいいねぇ」

「良さそうな場所はあるのですか?」

「信楽が焼き物が有名ってくらいしか、俺には思いつかないけど……琵琶湖の近くなんかは、いい宿がありそうだよね」


 焼き物の買い付けや注文などで人が訪れると思うので、信楽はそれなりに栄えていると思える。風光明媚な琵琶湖に関しては、現代と同じかそれ以上に観光名所だろうから、良い宿に関しても期待出来そうだ。


「焼き物ですか! 父上と母上に、何か買ってお贈りしようかな……」

「ああ、それは良さそうだね」


 宅配を頼むと高額な追加料金は掛かりそうだが、福袋のように中身に影響の出ない運搬の手段があるので、もしかしたら現代よりも、物品の輸送については安全かもしれない。


(プレゼントという目的以外に、頼華ちゃんの現在地がわかると、頼永様も雫様も安心出来るだろうし……いや、そこはなんらかの手段で把握してるか?)


 伊勢にも、そこそこ長い時間滞在しているので、頼永様が各地の情勢を探っている内に、俺達の動向がある程度は掴まれていても不思議では無い。


「琵琶湖か……」

「白ちゃん、琵琶湖に何かあるの?」


 琵琶湖という単語を聞いて、白ちゃんが思案顔になっている。


「ああ。大した事では無いのだがな。琵琶湖には大鯰(おおなまず)を始めとする水妖がいたと思ってな」

「大鯰!?」


 ビワコオオナマズという日本固有種の鯰がいるのだが、白ちゃんが言っているのはそういう水棲生物の事では無く、琵琶湖の主みたいな奴なのだろう。


「……とりあえず、琵琶湖に近づくのはやめておいた方が良さそうだね」

「主殿が、大鯰や水妖程度に遅れを取る事は無いと思うがな」


 白ちゃんが不思議そうに俺を見る。


「いや、厄介事に、積極的に首を突っ込む事は無いでしょ?」

「まあ、そうだな……」


 鵺である白ちゃんや黒ちゃんよりも強い相手というのは考え難いが、想像を超える可能性は否定出来ないので、こちらから藪を突っつきに行く事も無いだろう。


「琵琶湖の渡しに乗っている時に遭遇するとか、知り合った人が苦しめられている、とかでも無ければね」


 琵琶湖にも渡しがあるが、大津と草津を結ぶルートだから、俺達が京都へ向かうために利用する必要は無い。


「まあ道筋に関しても一日の行程にしても、絶対では無いので、とにかく気楽に行きましょう」

「わかったよ。楽しくが一番だからねぇ」

「わかりました!」

「おう!」

「承知した」


 一応の予定の確認だけをして解散になった。なぜかと言えばちゃんとした計画を立てても、旅に出た時から上手くいった試しが無いからだ。



「では、朔夜様、松永様、椿屋さん、そして皆さんも、お世話になりました」


 朝食を済ませて旅装を整えた俺達を、朔夜様、松永様、椿屋さん、おせんさん、お藍さん、貞吉さん、他にも手の空いている椿屋の従業員や代官所の職員の人達が、門のところまで見送りに来てくれた。


「朔夜様、昨日の内にお返しするのを忘れていたんですが、これを……」


 那古野の織田屋敷に出入りする際の身分証代わりに預かっていた、朔夜様の小柄(こづか)を両手で捧げ持つように差し出した。


「それは、鈴白様がお持ち下さい」

「ですが、家紋入りのこれは……」


 家紋入りの物品を、織田の名を名乗れる人間以外が持っていると、色々と不味いはずだ。


「尾張の領内でしたら、何か揉め事が起きた場合には、それが役に立つはずです」


 差し出した俺の手を、朔夜様がそっと押し返した。


「姫の本音は、まだ鈴白を逃さねえぞって事だよ」

「ま、松永っ!?」


 顔を真赤にして大声を上げるが、朔夜様は否定の言葉を口にしなかった。


 そんな朔夜様に大して、頼華ちゃんと黒ちゃんが口の端を開いて少し歯を剥き、殺気では無いがイラッとした雰囲気を発する。


「そんな鈴白に、これは俺からの選別だ」

「あの、これは?」


 松永様が差し出してきた、折り畳まれた書状を受け取った。


「俺の署名入りの、お前の身元を証明する書状だ。代官なんて偉い人じゃなくて、俺程度の役人の署名入りの方が、厄介事にならねえだろう?」


 松永様の言う通り、朔夜様は織田家直系の人物であり、伊勢を預かる代官という身分的にも、逆に関係を疑われてしまいそうなのだ。


 松永様の場合は代官所で働いているという、凄く素性のはっきりしている人物だが、朔夜様程は身分が高くないので、こちらの身元を保証をしてもらう相手としては最適と言える。


「ありがとうございます!」

「姫、本当に気を使うってのは、こういうのを言うんですよ?」

「姫言うな……」


 図星を突かれたから余計にだろう、朔夜様が思いっきり恨みがましい目つきで松永様を見ている。


「それに貴様のそれは、元手が掛からないというだけだろう!」

「うっ!」


 しっかりと朔夜様にやり返されて、松永様が言葉に詰まる。


「これは私の方からでございます。鈴白様達が商売で旅をしているのでは無いというのは存じておりますが、何か商い上の問題が起きた時には、信用という面でお役に立つでしょう」


 椿屋さんも、自分と取引の実績があるという旨が記されている書状を作ってきてくれていた。


「気を遣って下さって、ありがとうございます……」


 しっかりと両手で受け取り、松永様から頂いた書状と共に懐へ収めた。


「今度は、是非お客様としてお見えになって下さいね。習い覚えた接客の腕を、披露させて頂きますわ」

「いや、それは……」


 お藍さんが、実に艶のある仕草で頭を下げるが、ここでいう接客が意味するのは……俺には曖昧な答えしか返せなかった。


「あの、これをお持ち下さい」

「お守りですね。ありがとうございます」


 小さな巾着型のお守り袋を、おせんさんが渡してくれた。


「道中の御無事をお祈りしています。ですから、たまにでいいので私の事、思い出して下さい……」

「おせんさん……」


 絞り出すように言ったおせんさんの目からは、涙が溢れそうだ。


「す、すいません……」

「いえ。おせんさん、お元気で」


 ここで俺が辛そうな顔をしても、おせんさんを苦しめるだけなので、ぎこちなくしか出来ないが、笑顔を作って別れの言葉を掛けた。



「それじゃあ、お世話になりました」

「「「お世話になりました」」」


 最後に、俺が礼を述べて頭を下げると、おりょうさん達も続いて頭を下げた。


「鈴白様、また伊勢にお越し下さいね!」

「鈴白様、料理や接客の成果を、見に来て下さいませ!」


 俺達の姿が見えなくなるまで、朔夜様と椿屋さんの見送りが続いた。


「いい人達ばかりでしたね」

「そうだねぇ」

「悪い連中もいたけどね!」

「そうだね……」


 おりょうさんと感慨に耽っていた俺を、黒ちゃんが現実に引き戻してくれた。なんか色々と台無しだが、刃傷沙汰を起こした者や掏摸集団が悪いのであって、黒ちゃんが悪い訳では無い。


「何にせよ、旅に出るにはいい日和だねぇ」


 おりょうさんの言う通り、柔らかな日差しが行く先を明るく照らしている。天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)様が、旅に出る俺達を祝福してくれているかのようだ。



「ふぅ……」


 伊勢を発って暫く歩いたところで、おりょうさんが小さく溜め息をついた。


「おりょうさん、具合でも悪いんですか? 少し休みましょうか?」

「えっ!? あ、ああ。大丈夫だよ。体の方は絶好調さ」

「そ、そうですか?」


 微妙に表情は冴えないが、少し目を凝らしても体表を覆う(エーテル)におかしなところは見当たらないので、確かに体調が悪いという事は無さそうだ。


「朔夜様の元から離れた今だから言うけど、実はあたしの身に付けている武術は、ちょいと織田家とは因縁があってねぇ……」

「……もしかして、以前に織田家と争ったとかなんですか?」


 おりょうさんから、故郷は東北の方だと聞いているが、隣接している土地でも無いのに、そういう事があるのかは俺にはわからない。


「そうじゃないよ。まあ、全く見当外れとも言えないんだけどねぇ」

「それは……俺が聞いてもいいんですか?」

「構わないさ。今までなんとなく話さないでいたけど、その理由もなんとなくでしか無かったからねぇ」


 少し遠いところへ視線を放ちながら、おりょうさんは口元へ笑みを浮かべた。


「遠い、昔の話だよ」


 ぽつりぽつりと、おりょうさんが言葉を紡ぎ出した。


 もう数百年も前の話。尾張を支配する織田家の頭領である信長の仇敵の一人に、甲斐を支配する武田家の頭領である信玄がいた。


 家臣や領民にとって魅力のある人物でもあったが、軍事力と恐怖で支配をする信長に対し、信玄は義を重んじ、人同士の繋がりを重視した統治を行っていた。


 そのはずなのだが、おりょうさんの数代前の先祖である人物は、信玄の元を離れて東北へと移り住んだ。姓は武田である。


 武家の娘であるという説明は受けていたが、おりょうさんの家名は武田だったのだ。信玄との繋がりは不明との事だが。


「ただねぇ。甲斐の武田に、あたしが叩き込まれたような武術があるって話は、聞いた事が無いんだよ」


 元の世界の武田信玄といえば騎馬隊が有名だが、後年の研究ではこの時代の馬は小柄であり、武者を乗せての突撃などには用いられなかったという意見が有力になっている。


 騎馬武者による突撃が眉唾だとしても、家臣との繋がりを重んじる信玄なので、集団戦が得意だったのは間違いないだろう。しかし、何らかの武術が武田家と家臣団に伝わっていたという、明確な証拠は残っていない。


「それは、その御先祖様が編み出したという事ですか?」

「武術の創始者は、あたしの四代前の爺さんだよ」


 創始者の人は既に存命では無いので、確認を取る事は出来ないそうだ。生きていても教えてもらえるとは限らないが。


「その人は半分伝説になってるけど、恐ろしく強かったって話でねぇ」

「おりょう姐さんの御先祖なら、当たり前だよね!」


 黒ちゃんが、うんうんと頷く。


「……そりゃ、あたしが恐ろしいって事かい?」

「うっ! そ、そんな事は……無いよ?」


 熱い油の煮え滾る鍋の前でも涼しい顔をしていた黒ちゃんが、おりょうさんに睨まれて、ダラダラと汗を流しながら必死で弁解している。


(実際に強いんだから、黒ちゃんも否定し辛いよなぁ……)


「……良太が今、何を考えているのかわかるよ」

「えっ!?」


 伊勢の滞在中に新たな能力に目覚めたのか、俺の心の中はおりょうさんに見透かされたようだ。


「……まあ、いいけどさ」


 小さく溜め息をついたおりょうさんは、面白く無さそうに口を尖らせた。


(こういう表情をすると、おりょうさんも可愛いなぁ)


 普段のアダルトな表情と違って、悪戯を咎められた少女のような顔をする今のおりょうさんからは、年齢相応の可愛らしさが感じられて、なんか嬉しい。


「おりょう姐さん。主殿は、今のような姐さんの顔が好きなようだぞ」

「えっ!?」

「っ!」


 ニヤニヤ笑う白ちゃんの言葉に、おりょうさんがハッとなって俺を見る。


「それにしても、姉上の話は興味深いですね。そしてかなり薄いですが、姉上と私には縁が有ったと知って驚きました!」


 伊勢を離れた自覚からか、頼華ちゃんの一人称が「余」から「私」へ切り替わっている。


「あたしと頼華ちゃんに、縁かい?」

「ん? どういう事?」


 上手い具合に矛先が逸れたが、それよりも頼華ちゃんの話が気になる。


「話していませんでしたか? 私の世話役だった胡蝶ですが、あの者は甲斐武田に仕えていた忍びの末裔です」

「「ええっ!?」」


 今更ながら、物凄い裏設定が明かされて、俺とおりょうさんの驚きの声が重なった。


「ま、まあ、世慣れてるのか浮世離れしてるのか、良くわからないところがあったけどねぇ……」

「そ、そうですね……」


 おりょうさんの言う通り、胡蝶さんは万能と言っても差し支えの無いくらいなんでも出来る人だったが、芝居をしているような姿が垣間見える事が多々有った。


「言うまでもありませんが、胡蝶というのも本名ではありませんよ。本名は私も知りませんが」

「ああ。そこは薄々感じてたけどねぇ」

「どういう事です?」

「良太は気が付かなかったのかい?」

「?」


 おりょうさんが意外そうに俺を見るが、胡蝶さんの名前は、なんとなく雅な感じだなくらいにしか思っていなかった。


「胡蝶さんだけだったら気が付かなかったけど、後から来た三人がねぇ……」

「後から来た三人って、初音さんと夕霧さんと若菜さんですか?」


 おりょうさんには、胡蝶さんを始めとする四人に何か共通する物があるのがわかっているみたいだが、俺にはさっぱりだ。


「物知りの良太にしては、珍しく知らないみたいだねぇ。雇い主が源で、胡蝶、初音、夕霧、若菜って言えば、第一帖の桐壺(きりつぼ)から第五十四帖の夢浮橋(ゆめのうきはし)まである、源氏物語の巻名だよ」

「あっ!」


 ここまでおりょうさんに説明されて、やっと俺にも合点がいった。


「全然気が付きませんでした……」


 初音や若菜という名前は現代でも普通に名付けられているので、本名だとすら思っていた。


(胡蝶さん達の名前は、源氏名だったんだな……)


 源氏名は接客業の女性などが、本名の代わりに使う名前を指すが、本来は源氏物語の巻名や登場人物の名を用いる事を言う。


「それでは、源に雇われている甲斐の忍びは五十四人以上いるのか?」

「さあ? それに源氏物語の巻名も、全部が女の名に相応しくは無いからなぁ」


 白ちゃんの指摘に、頼華ちゃんが首を傾げる。


鈴虫(すずむし)とか雲隠(くもがくれ)なんてのもあるからねぇ……」

「仮に名付けられてたら、ちょっと可哀相な気もしますね」


 コードネームなのでなんでもいいのかもしれないが、ちょっとセンスを疑ってしまう。


「雇っている忍びの名付けは、頼永様が?」

「いいえ。母上です」

「成る程ね」


 全ての忍びがそうなのかはわからないが、胡蝶さんは頼華ちゃんの世話役でもあるし、源屋敷の給仕などの仕事もあるので、女性の忍びの統括を雫様がしているというのは納得だ。


「でも、縁があるのはおりょうさんと胡蝶さんであって、頼華ちゃんとは……」

「で、ですから、薄いと言ったではないですか!」


 一応、自覚は有ったのか、頼華ちゃんが顔を赤くしながら俺に抗議する。


「そんな薄い縁なんかどうでもいいくらい、頼華ちゃんとあたしとは、もう切れないくらいの縁じゃないか」

「姉上……」


 おりょうさんが頼華ちゃんの頬に軽く手を当てると、嬉しそうに目を細めた。


「良太もだろぉ?」

「えっ!?」

「ち、違うのですかっ!?」


 突然話を振られたので反応出来なかっただけなのだが、それを否定と受け取ったのか、頼華ちゃんが表情を歪めて涙を浮かべている。


「ああもう……」

「ひゃあっ!?」


 ただ謝ったりしても涙を止められないと思ったので、少しビックリさせる意味もあって、頼華ちゃんを抱え上げて右肩の上に座らせた。着物姿なので脚を開く肩車は出来ない。


「おやいいねぇ。そうしてると親子みたいだよ」


 おりょうさんが俺と頼華ちゃんを見て、手で口元を押さえながら笑っている。


「お、親子っ!? 姉上、せめて兄妹くらいにして下さい!」

「親子はちょっとなぁ……」


 頼華ちゃんとは五歳くらいしか離れていないので、親子はあんまりだ。


「む! 御主人、あたいもー! とうっ!」

「ちょ!? 黒ちゃん、張り合わないでいいから!」


 重力を感じさせない身軽さでジャンプした黒ちゃんは、両手を付いた猫のようなポーズで、恐ろしいバランス感覚を発揮して俺の左肩に留まっている。


「……」


 騒がしい一行に何事かという訝しげな視線が、すれ違った旅人から投げ掛けられた。


「黒ちゃん、目立っちゃうから降りてくれないかな……」

「頼華だけなのぉ……」

「別に贔屓してる訳じゃ無くてね……」


 困った顔をする俺を見て、黒ちゃんが泣きそうに表情を歪める。


「兄上、私は黒が左肩を占有しても構いませんよ!」

「俺の肩なんだけどなぁ……」


 実際に肩を使われている俺では無く、頼華ちゃんの口から許可が出た。


「ああもう……わかったけど、位置変更!」

「「は、はいっ!」」


 少し大きめの声を俺が出すと、頼華ちゃんと黒ちゃんがビクッと反応した。


「頼華ちゃんが前で、黒ちゃんは背中に。黒ちゃんは、支えなくても大丈夫だね?」

「おう!」


 黒ちゃんは俺の左肩に付いた手を首に絡め、ぶら下がるような体勢になると両脚を腰に巻きつけ、へその前辺りで足首同士をロックした。


「んじゃ頼華ちゃんは前に」

「はい!」


 肩に乗っていた頼華ちゃんの腰を軽く浮かせ、落下する前に胸の前で受け止めて横抱きにした。


(なんか傍からの見た目が悪そうだけど、二人が満足そうだからいいか……)


「「~♪」」


 横抱きにしているので、息が掛かる程の近さのニコニコ顔の頼華ちゃんと、俺にしがみついている黒ちゃんからは、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。



「……二人共、もういいでしょう?」


 一時間程歩いていると、行き交う人からは変な目で見られるし、最初の内は微笑ましい感じで見ていたおりょうさんも、少しずつ表情を引き攣らせて行った。白ちゃんだけが、人の悪いニヤニヤ笑いを浮かべ続けている。


「「もっとー♪」」


 結局、昼食のために道沿いの茶屋に立ち寄るまでの間、俺はこの体勢を続けさせられたのだった。



「さっきは話が途中になりましたけど、おりょうさんの御先祖様の創始した武術は、なんという流派なんですか?」


 茶屋で出された、(たけのこ)を具に入れた熱い味噌汁を味わった後で、ふと思い出しておりょうさんに尋ねた。


「頼華ちゃんにも訊いてたけど、そんなに武術の流派に興味があるのかい?」


 この辺りの特産らしい、細長い大根の漬物で御飯を食べていたおりょうさんが、箸と茶碗を置きながら言った。


「興味……そうですね。特に深い意味は無いんですけど、興味はあります」


 何故と言われると、本当に興味としか答えようが無かった。


「名前の由来は知らないけど、大東流っていうんだよ」


(大東流!)


 特に気負っている感じでもないおりょうさんが教えてくれた流派名を聞き、俺は心の中で息を呑んだ。


(東北で無手の武術という時点で、なんで気が付かなかったんだろう……となると、おりょうさんの先祖で流派の創始者で武田姓っていうのは、武田惣角(たけだそうかく)の事かぁ)


 元の世界の会津藩で、武田惣角が広めた大東流合気柔術だが、伝承では平安時代の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が流祖と言われ、その後、甲斐武田氏に伝わったとされている。


(あれ? 新羅三郎義光の元服前の名は源義光……本当に頼華ちゃんとおりょうさんに、縁が出来ちゃったぞ! それでもかなり薄いけど)


 しかし、新羅三郎の武術が甲斐武田に伝わった形跡は無く、どうやら系譜だけの物であり、実際は武田惣角が習い覚えた様々な武術を統合し、東北の地で大東流として発祥したのだろう。


「あたしは習いはしたけど、正式な伝承者って訳じゃ無いから、全ての技は知らないんだけどねぇ」


 世紀末救世主の暗殺拳では無いが、どうやら大東流にも伝承者でなければ知らない、秘伝とか奥義みたいな物があるようだ。

 

「良太が朔夜様に教えた基礎の基礎は、慣れるまでは苦しいけど理には適ってた。だけど、あたしが教わったのは酷くってねぇ……」


 お茶を一口飲んだおりょうさんはの目は、凄く遠くを見ている。


「あの、酷いと言うのは?」

「……一メートル先も見えないような雪が降る中、ひたすら斧で太い丸太を切るんだよ」

「……は?」


 生えている木を切り倒すという鍛錬法は耳にした事があるが、おりょうさんの言うようなのは初耳だ。


「普通の着物でそんな天気の中だから、木を切る手を止めると、ね……」

「そ、それは……」


 斧を丸太に打ち付ければ、当然凄いショックが跳ね返って来る。数回も続ければ手がおかしくなってしまうだろうが、続けなければ身体が冷えるので、最悪の場合には凍死だ。


「身体を鍛えるためって理由で、最初にそれをやらされたのは、五歳の時だったかねぇ……」


(五歳の、しかも女の子に、そんな過酷な事を……)


 おりょうさんが遠い目をした理由が、良くわかった。


「そんな思いまでして身に付けた武術だけど、伝承者じゃないあたしには後世に残す役目も無いし、地元に留まって適当な相手に嫁入りさせられるのも嫌だったから、飛び出してきたって訳さね」


 訊いた事自体は後悔していないが、あまりにも壮絶な内容だったので、おりょうさんの口から語らせてしまった事については、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

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