湯屋
肝焼きは冷めてからでもおいしい事を伝えると、おりょうさんは俺を湯屋、今で言う風呂屋に誘った。
「あんた、昨夜も入ってないだろう?」
「ああ、そういえば慌ただしかったんで。気にもしてませんでした」
確かに昨夜はそのまま寝てしまったし、さっき露店で鰻を焼く煙も浴びているから、匂いは付いているだろう。服の方には防汚機能があるから大丈夫だろうけど。
「身なりをちゃんとしとかないと、女にモテないよ? ほら、行こうかね」
入浴に必要な物が入っているらしい風呂敷包みを持ったおりょうさんに手を引かれ、湯屋へ向かう。旅行の時とかにホテルや旅館の大浴場に入った事はあるが、町の銭湯は利用した事が無いので、ちょっと楽しみだ。
夕暮れ時の湯屋は、人の出入りが多かった。暖簾をくぐると直ぐに番台で、おりょうさんはそこで何やら木の札を見せて、履き着物を脱いで上がり込んだ。
「何してんだい? って、ああそうか。あたしは羽書があるけど、あんたは持ってないんだね。入浴は銅貨一枚だよ」
「あ、はい」
羽書というのは湯屋の定期券みたいな物で、まとめて料金を払うと何度でも利用できるというシステムだ。
(現代の銭湯の入浴料が四百円以上と考えると、この時代というか世界の入浴料は安いんだな)
なんとなく感心しながら料金を払い、靴を脱いで上がり込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「お、おりょうさん!?」
「どうしたんだい? 早く脱いで入ろうじゃないか」
驚いた事に、簡単な物だが鍵付きの戸棚が左右に並んでた。しかし、本当に驚いたのはその点では無い。
「だ、男女別じゃ無いんですか!?」
「? 荷物を入れる棚は、左右で男女別になっているだろう?」
「あ、いや、そういう事じゃなくてですね……」
おりょうさんの言う通り、脱いだ物や履物を入れる戸棚は、左右に男女別で振り分けられている。しかし、脱衣所自体には間に仕切り等は無かったのだ。奥に見える洗い場にも……もしやと思ってはいたが、混浴だ。
「ほら、早くおし。あんまり使った事が無さそうだから、待っててやるから」
「わ、わかりました……」
既に着ていた物を全て脱ぎ去ったおりょうさんは、体の前に垂らした手拭いで隠された部分以外の、東北出身だけあって、眩く滑らかな白い肌と、胸や腰の丸みが目を射る。
この場合は俺の方が常識知らずな状況だし、いつまでもおりょうさんを待たせる訳にはいかないので、男性用の戸棚の前で手早く服を脱いで、閉めた棚の紐付きの鍵を抜くと、無くさないように手首に通した。腕輪を外すかどうかで少し悩んだが、そのままにしておく。
「はい。手拭いと糠袋」
聞き慣れない糠袋という、小さな巾着袋を何に使うのかと思ったが、洗い場で同じような袋で身体を擦っている人がいた。どうやら石鹸代わりみたいだ。
「まずは湯船で身体を流すよ」
「えっ!?」
「他のお客もいるんだから、いちいち驚くんじゃないよ。別にあんたを騙したりしないから」
俺の腕を引きながら、おりょうさんは洗い場の奥に進んでいく。突き当りには、天井から腰の上くらいの高さまで壁で仕切られており、そこへ腰を屈めて出入りする利用客の姿があった。
「珍しいかい? 石榴口っていう構造で、湯気が逃げないようにしてあるのさ」
「成る程……」
湯気が逃げないような構造で、浴室と湯の温度を下げない工夫のようだ。俺はおりょうさんに続いて、石榴口をくぐって中に入った。
「ふぅ……」
「はぁ……」
おりょうさんと俺は、湯船に浸かると同時に息を吐いた。どうにも落ち着かない気分だったが、やっぱり風呂のリラクゼーション効果は大したものだ。
「やっぱり、風呂はいいねぇ」
「そうですね……」
しかし、おりょうさんから声を掛けられて、急激に我に返ってしまう。俺の世界の江戸時代なら、こういう構造なら湯船のあるこの場所は相当に暗いはずだが、何かの神様の恩恵か魔法によるものかは不明だが、凄く明るいのだ。
明るいお陰で、いきなり湯船に浸かるのはどうなんだろうと思っていたが、これも何かの技術なのか湯は綺麗で、軽く見回した感じでは不潔な印象は無い。
「さて、温まったから身体を洗おうかね」
「っ!」
水滴を身体から垂らしながらおりょうさんは立ち上がると、湯船を出て洗い場へ向かった。
一応、手拭いで前を隠しながらだが、俺に向けられた背面は……まあ、あまり意識し過ぎるのも失礼なので、俺もおりょうさんの後を追って洗い場へ向かった。
湯の出る蛇口やシャワーなどがある訳が無いが、小さな浴槽のような場所から、沸かして流し込まれている湯を木の桶で汲み、身体を洗う。
「結構、綺麗になるもんなんだな」
糠袋を使って身体を擦ってみると、石鹸のように泡が出ないのでなんとなく頼りない気がしていたが、油分が含まれているので、汚れを落とすと共に肌がツルツルになる。
「頭は……」
元の世界の江戸時代辺りは、男女共に風呂での洗髪はしないで、数日毎に専門の店で洗っていたと聞いた事があった。しかし、ここでは周囲を見回すと、勿論シャンプーなんかは無いが、頭から湯をかぶっている人は男女問わずに見受けられたので、俺も桶に汲んだ湯を頭からかぶった。
「ふぅ……」
入る時には慣れない状況に戸惑ったが、入浴を終えたら心身共にさっぱりした。
「ああ、そういえば、靴の入手でいっぱいいっぱいで、考えてなかったな……」
鍵で戸棚を開けて服を身に着ける時に、着替えが無い事に気がついたのだ。
「しまったなぁ。まだそんなに汚れて無いとは思うけど……」
服の上下は付与のお陰で衛生面でも問題無いだろうけど、肌着と靴下代わりの足袋は普通の品だから、当然使用による汚れと劣化がある。
「えーっと、肌着と足袋の換えと、歯磨きの房楊枝なんかも、旅をするなら必要だよな……非常食なんかもいるかな?」
この先、人里に立ち寄れない場合の事とかも考えて、旅に必要な物を頭の中で思い浮かべる。
「ナタと斧と小刀はあるけど、護身用の武器とかは必要かな……」
「なんか、物騒な事を言ってるねぇ」
「っ!? って、おりょうさんか。驚かさないで下さいよ」
「おや、驚かせたんなら悪かったね。さ、行こうか」
おりょうさんに促されて、脱衣所から出口に向かい、靴を履く。
「すっかり日が暮れちゃったねぇ」
暖簾をくぐると、当然のようにおりょうさんが俺に腕を絡めてくる。
「そ、そうですね」
湯上がりのおりょうさんは、軽く上気させた顔がほんのりと赤く染まり、濡れた髪と相まってなんともいえない風情の色気がある。
「……」
するとどうしても、部分的にとは言え湯屋の中で見てしまった、魅惑の肢体が思い出されてしまう。
「もう……そんなに見たら、恥ずかしいじゃないのさ」
「っ!? す、すいませんっ!!」
意識しないように気をつけていたつもりが、心とは裏腹にじっと見つめ続けてしまっていた。いくらなんでもおりょうさんに失礼だ。
「まあ、別に嫌じゃないから、そう気にしないでもいいさね……」
怒らせてしまった訳では無さそうだが、おりょうさんは軽く口を尖らせて前方を見つめ、俺に絡めた腕に力を入れた。
「あ、あたしは鰻でお腹膨れたけど、あんた……良太はお腹減ってるんだろ?」
「そうですね。早くご飯にありつきたいです」
おりょうさんが話題を変えたのをこれ幸いと、俺は調子を合わせた。
「なら、急いで帰ろうかね」
笑顔を見せてくれたおりょうさんに腕を引かれ、日が沈み切る前に俺たちは竹林庵に帰り着いた。