京八流
「昼の用意をするには、ちょっと早いな……頼華ちゃんと朔夜様は、まだ鍛錬中かな?」
朝食を終えてすぐに那古屋に行って戻ったのだが、界渡りを使って移動時間を極端に短縮出来たので、現代の時間で言えばまだ午前十時前だ。
「時折音が聞こえるので、朔夜が無事ならばまだ鍛錬中だろう」
「ははは……」
頼華ちゃんにやり過ぎないように言ったので、ダメージの方はそれ程心配していないが、朔夜様が体力の限界を迎える可能性はある。
「ちょっと様子を見に行こうかな」
「あたいも一緒に行っていい?」
「勿論、構わないけど、作業は終わったの?」
作業というのは、明日の宴会のための食材の準備だ。
「ちゃんとやっておいたよー!」
「切るのと下茹でが主な作業だったからな。終わらせて部屋に戻ったところで、主殿が帰ってきたという訳だ」
料理する為に猪と鹿の内蔵を切って、部位によって水に浸けたり下茹でしたりする必要があったのだが、二人共すっかり上達した技術で作業を終わらせてくれたみたいだ。
「そっか。なら一緒に行こう」
「おう!」
首にぶら下がるように抱きついていた黒ちゃんは、俺の左側に回って腕を絡めてきた。
「俺も行こう」
俺と並んだ黒ちゃんの後に続く白ちゃんと共に、部屋を出て鍛錬場へ向かった。
「中々いい受け流しだったが、頭上ががら空きだぞ!」
「くっ!」
下段から斜め上に走り抜ける斬撃を、木刀の鍔元近くで受け流した朔夜様だったが、勢いそのままに宙へ身を躍らせた頼華ちゃんが、上段に構え直した木刀を、地面を断ち割らんばかりに斬り下ろす。
ドゴンッ! メキィッ!
異なる種類の音が同時に聞こえたと思ったら土煙が広がり、巻き上げられた土砂が周囲へ飛び散った。
「良く避けたな、朔夜」
「あ……ありがとうございます!」
間一髪、後方へ大きく飛び退く事によって朔夜様が斬撃を避けると、空を斬り裂いた木刀は地面を穿ち、軋むような音を発して中程に無数の罅が入った。
木刀に闘気を込めていなかったので、威力と構造力が強化されていなかったという証拠だ。
(頼華ちゃんの場合は、闘気を込めても壊れちゃうかもしれないけどね)
ある程度以上の技量を持つ武人になると、扱う闘気の量や強度が膨大になるので、使用する武器自体にも強靭さが無ければ、耐えきれずに壊れてしまう。
「兄上も来たようだし、今日はここまでにしておこう」
「はい! 御指導ありがとうございました!」
困ったように罅の入った木刀を見ながら、鍛錬の終了を告げた頼華ちゃんに、朔夜様が頭を下げる。
「お疲れ様、頼華ちゃん、朔夜様」
「兄上、早かったのですね!」
「おかえりなさいませ、鈴白様。ここと那古屋をどうやってこんな短時間でとは、お訊きしない方が宜しいのでしょうねぇ……」
俺が帰ってきたのを笑顔で迎えてくれた頼華ちゃんとは対象的に、早過ぎる那古屋からの帰還に、朔夜様があからさまに不審そうな顔をしている。
「えっと……商人のブルムさんと石鹸についての話をしてきました。入荷したら知らせてくれるか、ここへ来るかして下さると思います」
「まあ! ありがとうございます!」
那古屋との往復手段に関しては、説明してもしなくても不毛な状況になりそうなので、実務的な話をしたら朔夜様の表情が輝いた。
「兄上、何かお土産は無いのですか?」
「頼華ちゃんもそれ?」
食べ物に関する考え方が頼華ちゃんと黒ちゃんは似ていると思っていたが、こんなところまで同じだとは思わなかった。
「仕入れてきた物がある事はあるんだけど、口には合わないかもよ?」
俺の知る限りでは今の所、頼華ちゃんに好き嫌いはないみたいだが、一応予防線を張っておいた。
「どんな物ですか?」
「えっ? うーん……原料は牛の乳で、固めてから熟成させた物なんだけどね」
説明的には合っていると思うが、味に関しての表現が難しい。
「乳酪みたいな物ですか?」
「乳酪は調味料だけど、買ってきた乾酪というのは、そのまま食べたりもするんだよ。味が近いのは、イカの塩辛かなぁ」
「牛の乳が原料で、そのような味に!? た、食べる事は出来ますか!?」
幾つか乳製品を食べているので気になるのだろう。頼華ちゃんの瞳が好奇心で輝く。
「お昼の前だから、簡単な物でいいかな?」
朔夜様にも味見をしてもらうには、いい機会だろう。
「はい! 口に合ったら食事にも出してくれますか?」
「いっぱいあるから、大丈夫だよ」
(なんというか、戦いにも食べ物にも、頼華ちゃんには一切怖気づくところが無いなぁ)
御両親の育て方なのか、生来の物なのかは不明だが、立ち塞がる全ての物を粉砕するような頼華ちゃんの生き様である。
「では、早く行きましょう!」
「そんなに慌てなくても……」
頼華ちゃんに引っ張られて厨房へ向かう俺の姿を見て、朔夜様が笑いを堪えている。
「とりあえずは、こんなもんで」
鍋で湯を沸かして数本の腸詰とじゃが芋を茹でてスライスし、五百グラムくらい切り取った乾酪の
塊を左手に持ち、権能の炎を灯した右手で表面を炙って溶かした物を、包丁で削ぎ落として掛ける。チーズの種類は違うが、ラクレットにしてみた。
(予定外になったけど、まあいいか)
調味料的な使い方をして、食べられるか様子を見ようかと思ったが、乾酪の味を確かめて貰うには、こういう食べ方の方がいいだろう。
「む。確かに匂いは、塩辛に似てますね」
ひくひくと鼻を動かして、頼華ちゃんが匂いを確かめている。
「あ。でも確かに、牛の乳の風味もしますね」
少し匂いに顔を顰めていた朔夜様だったが、牛乳の成分を嗅ぎ取ったみたいだ。
「食べられそうなら、腸詰や芋に絡めてどうぞ」
言い出した人間として、箸で腸詰を摘んだ俺は、熱で糸を引く乾酪を絡め取って口に運んだ。熱が入って風味の広がり方が大きくなり、絡めた腸詰の味と組み合わさっておいしさを倍増させている。
「あたいもー! おおおぉ! 濃厚でおーいしぃー!」
「ふむ。芋に塩気が合うな。他の野菜にも合いそうだ」
俺に続いて黒ちゃんと白ちゃんも手を伸ばし、味わってくれている。
「では余も。ふむ……これは珍味ですね。だが、確かに肉にも野菜にも合います!」
腸詰を食べた頼華ちゃんは、ヒョイっと追加でじゃが芋を食べて味を確認し、くわっと目を見開いた。
「うっ。鼻いっぱいに、独特の匂いが……あ、でも芋にいい感じに塩気が追加されて、おいしい?」
食べ慣れない風味に戸惑いながらも、朔夜様は味を確認するために再度手を伸ばした。
「うん。確かにそのままでも食べられますけど、これは調味料的な使い方の方がいいように、私には思われます」
「そうですね。そのままとは言っても、これは御飯のように主食としては食べませんから」
乾酪を主食なんかにしたら、塩分もカルシウムも摂り過ぎだ。カロリーも大変な事になる。
「好きか嫌いかをお答えするのは難しいですが、これを使った料理は、食べられない事は無さそうです」
「そうですか。じゃあ昼は、これを使った料理を出しましょうか?」
「ええ。何事も挑戦ですので、宜しくお願いします!」
妙にやる気の朔夜様は、汗と汚れを流すために、頼華ちゃんと一緒に浴場へ向かった。
「そろそろ支度を始めてもいいだろう。手伝うぞ」
「あたいもー!」
試食品の皿を片付けながら、白ちゃんと黒ちゃんが手伝いを申し出てくれた。俺が戻ってから一時間程度が経過しているので、確かに昼食の支度を始めてもいい頃合いだ。
「ありがとう。じゃあ白ちゃんには汁物をお願いして、黒ちゃんには俺を手伝って貰おうかな」
「わかった」
「おう!」
三人で肩を並べながら、昼食の支度を開始した。
「これはなんだい?」
昼食の席で、皿に載った料理を指差しているおりょうさんに尋ねられた。
「咖喱の時に添えていた揚げ物と同じです、肉は猪じゃなくて、鹿ですけど」
カツは何度か咖喱に添えて出しているのだが、今回は一品料理であり、簡単な赤茄子のソースを掛けてあるので、おりょうさんには別の料理に見えたのかもしれない。
鹿の肉にパン粉代わりの麸を砕いた衣をつけて揚げ焼きにした、所謂カツレツという料理。今日は通常よりも肉を薄めに切り、真ん中にチーズを挟んで揚げてある。
「中に今日仕入れてきた材料が入っているんですが、もし食べられそうになかったら、入っていない物も作っ
てありますので、無理しないで下さい」
カツレツは本来は切らずに出す物だが、ナイフとフォークを添えたり出来ないので、トンカツと同じように包丁で切り分けてある。
切った断面からは熱い乾酪がとろりと溶け出し、好きな者にはたまらない、芳醇な香りが広がっている。
カツレツと一緒に出している汁物は、白ちゃんが牛乳と乳酪、じゃが芋と乾物の玉蜀黍で作ったポタージュだ。
「そうかい? ん……な、なんか、塩辛をぶち込んだみたいな味だねぇ」
さすがというか、おりょうさんは初めて食べる乾酪の味の核心を突いてきた。
「糸を引きやがる……こりゃあ、酒のつまみにした方がいいんじゃねえか? 俺は味自体は気に入ったぜ」
齧ったところから乾酪の糸を引っ張りながら、味を確かめた松永様の意見は、やはり酒に関連していた。
「……二口目になると、不思議と嫌な感じはしないねぇ。御飯にも合ってる?」
厨房で味見をした時の朔夜様と同じで、おりょうさんも乾酪の風味に戸惑っているみたいだ。
「やや淡白な鹿肉に、乾酪の塩気と濃厚さが加わって……兄上! 今までの物よりも、こっちの方が余は好きです!」
「御主人! これ咖喱と一緒に食べたい!」
「ぬぅ! 黒よ、なんという罪深い事を考えるのだ!」
「……」
咖喱という単語を聞いた白ちゃんが、大はしゃぎの二人に向けて、忌々しい物でも見るような視線を送っている。
(その時には、また赤茄子を掛けるやつも作ってあげるから)
(……主殿には世話を掛ける)
念話で話しかけると、白ちゃんが苦笑しながら返答してきた。
結局、念の為に作っておいた乾酪の入っていないカツレツは、頼華ちゃんと黒ちゃんが綺麗に平らげた。
「ところで、頼華ちゃんや鎌倉の人達が使っている武術には、流派みたいな物はあるの?」
鍛錬の時の、縦横無尽に動き回る姿を思い出しながら、食後のお茶を飲んでいる頼華ちゃんに訊いてみた。
「急にどうされました?」
「さっきの朔夜様との戦いを見ていて、ちょっと気になってね。実は前から訊いてはみたかったんだ」
最初に藤沢宿近くの正恒さんの家で出会った時の、特定の流派を身に付けているとは思えないような自由自在な動きを見てから、ずっと疑問には感じていたのだ。
「大元は、義経様が蔵馬寺で習得された京八流だと言われております」
「ああ、やっぱりそうなのか」
男女の違いはあるのだが、頼華ちゃんにはコミカライズされた牛若丸のイメージが重なると、前々から思っていた。
「実は京八流自体が、謎の多い流派でして……余からも説明が難しいのです」
頼華ちゃんが言うには、創始者と言われている兵法者、鬼一法眼という人物に関しても、鞍馬寺で祀られてはいるが、実在したかは微妙なところだそうだ。
「京八流は敏捷性を生かして短い刀剣を用いて戦うというのが主眼だそうで、体格が似ている余には合っていると、父上に言われました!」
どうやら牛若丸と頼華ちゃんのイメージが似ているというのは、俺の錯覚では無かったみたいだ。
「あれ、でも頼華ちゃんの薄緑は、短くは無いよね?」
正確なサイズは聞いていないが、小柄な頼華ちゃんが身に帯びるには、一見して無理があるように思える程、薄緑は長大だ。
「二尺七寸ありますからね。ですが既に身体の一部と言えるほど馴染んでおりますので、取り回しで不自由を感じた事はありませんよ」
「それは見てればわかるよ」
脳内に二尺七寸は約八十一・八センチという情報が流れてきた。一般的な刀が七十センチ程度だし、背の低い頼華ちゃんにとっては薄緑は長大と言える。
「刀と太刀が違うのは知ってるけど、短い太刀っていうのも変な話だよね?」
腰に佩いた時のバランスや、場上での戦闘などにも使う事を考えると、ある程度の長さが必要だと思う。
「そうですか?」
俺が疑問に思った事を、頼華ちゃんはおかしいとは思わないみたいだ。
「この薄緑は長いままですが、太刀の刀身を短く切るというのは、比較的良くある事です」
「ああ、そうだったね……」
入手した太刀を短く切った例は多い。太刀だけでは無く、槍の穂先を短く切った話なんかもあったのを思い出した。
「義経様が源平合戦で使用した車太刀は、一尺五寸三分だったと伝わっております。これも刀身を短く切ったのではないかと思われます」
一尺五寸三分は、なんと四十六・三センチだ。確かに京八流の理念には合っているように思うが、かなりの短さなのがわかる。
「朔夜様、織田家には何か武術の流派とかはあるのですか?」
頼華ちゃんとの会話の流れで、ふと疑問に思ったので、良い機会だと思って朔夜様に尋ねてみた。
「えっ!?」
俺達の会話を聞きながら、のんびりとお茶を飲んでいた朔夜様が、急に水を向けられて動揺している。
「お、織田家では、主に相撲と水練で身体を鍛えておりますが、特に流派というのはございません」
「す、相撲ですか?」
「ええ……」
織田信長が相撲好きで、家臣に相撲奉行なんて役職を与えたのは知っているが、まさか朔夜様まで……。
「あの、私は諸肌脱ぎで、相撲をしたりはしませんからね?」
「う……」
朔夜様に心中を見透かされた俺は、言葉に詰まる。
「脱ぎはしませんが、相撲は取りますよ」
「姫は、強えんだぜえ」
松永様が、まるで自分の事のように朔夜様の言葉を継いだ。
「姫言うな。まあ松永如きでは、相手にはならないとだけ申しておきます」
多分だが朔夜様は、普段の着物姿で相撲を取るんだろうけど、袴を履いているので、現代人の俺には合気道とかのように見えそうだ。
「自慢気に言っているが、相撲なら朔夜は、姉上どころか余の足元にも及ばないであろう?」
「う……」
無手の戦闘のエキスパートであるおりょうさんが相手では、朔夜様は立ち位置を変えさせる事も出来ないだろう。体格で劣る頼華ちゃんにしても、まだまだ敵いそうにない。
「いっちょ揉んでやろうかい?」
「! い、いえ! 午後からは執務がありますので!」
脂汗を浮かべながら朔夜様は、仕事を理由におりょうさんの申し出を断わった。気持ちは良く分かる。
「良太は、午後から椿屋さんへ出向くのかい?」
食後の茶器を片付けていると、おりょうさんに話し掛けられた。
「ええ。食材の手配を頼んだら、戻ってきて仕込みですね」
明日は宴会の進行中にも料理をするつもりなので、今のうちに出来る事は済ませておくつもりだ。
「じゃあ、あたしも一緒に行こうかねぇ」
「最後の参詣でも、してきてくれていいんですよ?」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、良太にだけ働かせるってのもねぇ」
俺の言葉に、おりょうさんが苦笑する。
「あたいは御主人を手伝うよー!」
「俺も手伝うから、おりょう姐さんと頼華は……」
「あんたらは、良太の一部だからねぇ」
黒ちゃんと白ちゃんが俺と一緒に働くのは、おりょうさんの中では既に当然の事という認識のようだ。
「余も手伝いますよ!」
「ありがたいけど、そんなに大変でも無いんだけどね……」
宴会の参加予定人数が多いので、大量に作らなければいならないのだが、特に凝った料理をつくるつもりは無いので、地味な作業を積み重ねていくだけだ。
「余も少しは、料理を覚えたいのです!」
「おや、そりゃ感心だねぇ。良太、構わないよねぇ?」
頼華ちゃんの頭を撫でながら目を細めるおりょうさんに、こう言われてしまっては既に断る余地が無い。
「わかりました。じゃあ、みんなでやりましょう」
「「「おー!」」」
俺以外のメンバーが、威勢のいい声を上げた。
「こんにちはー」
「「「こんにちは、親方!」」」
裏口から椿屋さんに入ると、料理の手を止めた厨房の人達に挨拶で迎えられた。
「親方が来たらお通しするように言われてます。旦那は帳場にいますので、どうぞ」
「どうも」
厨房責任者の貞吉さんに先導され、俺達は椿屋さんの帳場へ向かった。
「旦那。鈴白の親方とお連れ様がお見えです」
「これはこれは。皆様には御足労お掛け致しまして……」
俺達の姿を認めて、椿屋さんが深く頭を下げてきた。
「明日の打ち合わせに参りました」
「はい。ではこちらへ」
椿屋さんへ促され、何度も利用している応接室へ向かった。
「これが、予定している料理に必要な材料です」
おりょうさんに返却してもらった、俺が戻れない場合を想定して用意しておいた食材リストを、椿屋さんへ渡した。
「特に仕入れが難しい物は無さそうですね」
「……そうですね」
椿屋さんがざっと一瞥したリストを、同じく目にした貞吉さんも同様の反応だった。
「飯炊きは、こちらの厨房でやっておきましょう」
「そうですか。助かります」
必要と思われる炊飯の量が二升くらいあるので、椿屋の厨房で引き受けてもらえるのなら相当に楽になる。
「話は変わるんですが。これ、那古屋で仕入れてきた石鹸です」
「おお! これは助かります。ですが、鈴白様の分は大丈夫なのですか?」
「ええ。自分達が必要な分は、別に確保してありますから」
伊勢に来てから大分使ったり配ったりしたが、その残りと自分達用に那古屋で仕入れた分が一箱あるので、旅のメンバーだけで使うのなら当分の間は問題無いだろう。
「代官の朔夜様にも報告をしてありますが、那古屋で店を出している商人のブルムさんに話をしてありますから、今後の仕入れとかに関しては、そのブルムさんと直接か、連絡をつけてやり取りして下さい」
数日以内なら、ブルムさんは那古屋から動かないだろう。
「なんと……何から何まで、お世話になります」
恐縮した表情になった椿屋さんは、その場で頭を下げた。
「そんな、お手をお上げ下さい……交渉が上手く行くかは、また別の話ですし」
極端な値引きなんかをしなければ、取引は成立するだろう。そして椿屋さんもブルムさんも、そういう事をするタイプでは無いと、これまでの付き合いからわかっている。
「あと、これは乳酪を作った後の、残った水から作った酒なんですが、味見をしてもらえますか」
朔夜様と松永様にも味見してもらった、乳清から作った酒を取り出した。
「乳酪を作った後の水というのは、出汁殻みたいな物では無いのですか?」
乳酪を作った後に残るのは、少し濁っている水にしか見えないので、椿屋さんの疑問は当然だろう。
「確かにそうなんですが、出汁殻から二番出汁を取ったりもしますよね?」
「まあ、そうですね……」
発酵をさせているので出汁とは違うのだが、貞吉さんは俺の説明で納得してくれたみたいだ。
「とりあえず、味見をどうぞ」
「それでは……むぅ!? これは本当に乳酪と同じ原料から作ったのですか!? 微かな甘さの中に、言われてみれば程度しか、牛の乳の風味は……」
「乳酪や牛の乳とは、全く違う甘さと酸っぱさですね……少し物足りない感じはしますが、これはこれでうまいですなぁ」
少し微妙な反応ではあるが、味見をした椿屋さんも貞吉さんも、拒否感は無いようだ。
「凄く滋養があるので、口に合わなかったり体質的に酒を受けつけないとかで無ければ、栄養補給にもなりますよ」
「ですが、牛の乳は……」
牛乳は入手が用意ではないので、椿屋さんが表情を曇らせる。
「朔夜様が、牛の飼育を前向きに検討して下さるそうですから、多分大丈夫ですよ」
朔夜様には、かなり強烈に乳製品を使った料理をプッシュしたので、代官所の厨房へ預ける予定の乳酪や牛乳を使い尽くす前に、伊勢で畜産が始まるだろうと予想している。
「そうでございますか。幸いな事に、鈴白様発案の陽鏡も、口こみで評判が広がっておりますので、牛の導入に関しては手前どもでも、金銭面などで協力させて頂こうと思います」
甘いカステラ生地に小豆餡を挟んだ陽鏡と名付けたお菓子も、どうやら好評のようだ。
椿屋から代官所へ戻った俺達は、厨房で明日の宴会の準備を始めた。
「それで、何をすればいいんだい?」
おりょうさんは前掛けに襷姿で、やる気満々だ。
「おりょうさんは、粉を練って皮を作って下さい」
「ああ。この間の汁に入ってたやつだね?」
食事に出した、海老と挽き肉の雲呑を、おりょうさんは覚えていたようだ。
「少し手持ちにも欲しいので、多めに作って下さい」
「わかったよ」
「頼華ちゃんには、鍋の番をお願いするよ」
「鍋の番ですか?」
聞き慣れない言葉だったのか、頼華ちゃんは首を傾げている。
「猪の内蔵を煮込むんだけど、臭みを取るのに何度か湯を換えるんだ」
「そういう事ですか!」
「地味だけど、おいしさを左右する重要な役割だからね」
「わかりました!」
元気良く返事をして、頼華ちゃんが作業を請け負ってくれた。
「黒ちゃんには材料を切ってくれるかな。大きさとかは手本を見せるけど、量が多いから大変だよ」
切らなければならない煮込む予定の内臓や野菜などが、ちょっとした山のようにある。
「おいしい料理のためだもんね!」
「うん。頼んだよ」
「おう!」
江戸で包丁を持ったばかりの頃の黒ちゃんは危なっかしかったが、今では作業を任せる事に不安は無い。
「白ちゃんには、鶏を捌いてガラを煮出してもらって、その肉を俺が部位ごとに分ける」
「分ける方は手伝わないでいいのか?」
「ガラを入れた鍋が煮立つまでの間だけ、お願いしようかな」
「承知した」
こうして、作業を分担して明日の宴会の準備に取り掛かった。
「良太ぁ。練った粉の分の皮は作り終わったよ?」
「じゃあすいませんが、海老の殻を取って、身を叩いてくれますか」
「任しときな」
さすがの手際の良さで、俺の予想よりも早く、おりょうさんが作業を終えてしまった。
「兄上! 三度目の煮こぼしが終わりましたよ!」
「ありがとう。じゃあ浸るくらいの水を入れて、今度は調理のために煮立てようか」
「はい!」
頼華ちゃんの作業も順調なので、そろそろ内蔵以外の具材も用意しなければならなそうだ。
「御主人! 言われた分は切り終わったよ!」
「黒ちゃんも早いね。じゃあ悪いんだけど、頼華ちゃんと一緒に煮物をお願いしようかな」
「おう!」
野菜の下準備と、味付けの手前までの調理の手順を頼華ちゃんと黒ちゃんへ伝えた。
「主殿。これで濾していいか?」
鶏のガラと生姜と葱を煮込んで作っていたスープが完成したようだ。
「うん。良さそうだね。その鍋は放っておいていいよ」
少し白濁したスープには綺麗な脂が浮かび、匂いも凄く良い。極上の出来と言っていいだろう。
「では俺の手は空いたな。主殿を手伝うか?」
「ありがたいんだけど、白ちゃんにはちょっと……」
「俺が何か? あ……そういう事か」
俺が手掛けている料理の調味料に、咖喱のスパイスミックスがあるのを確認して、白ちゃんが苦笑しながら納得した。
「白ちゃんには、おりょうさんを手伝って貰おうかな。挽き肉に味付けして、皮で包んで欲しいんだけど」
「承知した」
作業は順調に進み、夕食後も手伝うと言うおりょうさんと頼華ちゃんには先に休んでもらって、俺と黒ちゃんと白ちゃんで数時間作業をした。
それ程無理をする事も無く、遅くない時間に作業を終えて、ちゃんと入浴もしてから前日準備は終了した。




