乾酪
「黒ちゃん、しっかり!」
倒れた黒ちゃんの上半身を支え、軽く揺すってみるが反応が無い。
「黒ちゃん! 黒ちゃんっ!」
「主殿、落ち着け」
「で、でも!」
もしや加減を間違えて、黒ちゃんへ深刻なダメージを与えてしまったんだろうか? そんな嫌な考えが頭を過る。
「落ち着けと言っている。そら、黒の顔を良く見ろ」
「顔?」
白ちゃんに言われて目を向けると、だらしなく半開きになった口から涎を垂らし、まるで幸せな夢でも見ているような顔を黒ちゃんはしている。
「あの……これって?」
「多分だが、絶頂を迎えたのだろう」
「ぜ、絶頂!?」
身体は十分に成熟しているが、顔立ちや普段の仕草に子供っぽさが残る黒ちゃんには縁遠いと思っていた単語が、白ちゃんの口から発せられた。
「俺と黒は互いの雷は効かないのだが、どうやら主殿の物は少し性質が違うのだろう」
「そういう物なの?」
「雷とは呼んでいるが、実際には気の性質を変化させた物だからな。まあ推測でしか無いが」
(ゲームで言う電撃属性の耐性はあるけど、他の属性には弱い、みたいな物かな?)
元々鵺の黒ちゃんと白ちゃんと、人間の俺では属性みたいな物が違うのか。推測とは言え現状を見ると、当たらずとも遠からずというところだろう。
「それでだ、な、主殿」
「ん?」
黒ちゃんの身体を支えている俺に、白ちゃんがもじもじしながら視線を送ってくる。
「お、俺にも、その……主殿の雷をだな……」
「えっ!?」
黒ちゃんのこの状況を見た上で、白ちゃんから雷のリクエストが来てしまった。
「主殿と結ばれる事があったとしても、それは魂の結び付きで、肉体的な悦びは得られないと思っていたのだが……まさかこのような形で絶頂を得られようとは」
立て板に水な感じに白ちゃんが言葉を並べ立てた。表情にはそれ程変化が見られないが、微妙に必死さが伝わってくる。
「うん。生々しいからその辺でね?」
出来る限り二人を公平に扱ってあげたいとは思っているが、内容が内容なので、ちょっと尻込みしてしまう。
「それよりも、明日の話をしようと思ってたのに、黒ちゃんがこの体たらくじゃなぁ……」
「そ、それに関しては、俺からも謝るが……」
「……」
普段はクールな白ちゃんが、主人に怒られた子犬みたいな表情をして俺を見つめてくる。
「はぁ……明日は早起きするからね?」
「っ! で、では!?」
「その前に、布団を敷いちゃおうか」
話している間も、黒ちゃんは幸せそうな顔をしながら意識を取り戻さないので、このまま布団に寝かせてしまった方が良さそうだ。
「う、うむ。手伝おう」
白ちゃんが押し入れから布団を引っ張り出して敷いた上に、抱き上げた黒ちゃんを寝かせた。
「白ちゃんもこうなる可能性が高いから、布団に寝た状態でやろうか」
「そ、そうだな」
白ちゃんはいそいそと、もう一組布団を敷き始める。
「あの、なんで一組だけなの?」
先に敷いた布団は黒ちゃんが占領しているので、俺が寝るにはもう一組必要だ。
「ん? 俺が寝たら、脇に寄せて寝れば良いのではないか?」
「なんで白ちゃんを押しのけて……って、どうして脱いでるの!?」
話している途中で、白ちゃんは着ていた物を消し去ると、福袋から那古屋で買った着物を取り出して身に着け始めた。
「せっかくだから、主殿に買って貰った寝間着をと思ってな。このまま寝てしまうだろうし」
「そ、それはいいけど、着替えるならそう言ってよ」
何度か一緒に入浴した際に見てはいるが、そういう裸が当然の場所以外で目にする、人並み外れて白い肌の白ちゃんの一糸纏わぬ姿は、艶めかしさの中に幻想的な雰囲気を醸し出している。
「む。済まなかったな。次は気をつけよう」
「う、うん……」
視線の持って行きどころを探している内に、穏やかな寝息を立てている黒ちゃんに目が止まり、そのあまりにも無邪気な姿に思わず苦笑する。
「で、では主殿、やってくれ……」
声に振り返ると、布団の上で膝をついた白ちゃんが、寝間着をはだけて背中の白い肌を晒していた。
「あの、別に肌を出さなくても……」
「ど、どうせなら、直接主殿の手を感じたいのだが……ダメか?」
「う……」
顔だけでは無く、晒している背中の肌までを羞恥の色に染め、白ちゃんが遠慮がちな視線を送ってくる。
(なんだこの、普段とは違うしおらしい態度は……これがギャップ萌えってやつか!?)
普段は飄々とした態度のクールな美貌の持ち主なのに、今の白ちゃんは肌を鮮やかな朱に染めて、泣き崩れそうな程弱気に見える。
「あー……じゃあ、そこにうつ伏せになってね」
「う、うむ……」
背中は出したままで胸元の布を押さえながら、白ちゃんは俺の言う通りに布団にうつ伏せになり、枕に頭を預けた。
「じゃあ、やるよ?」
「お、お願いする」
さっきは何気無くやったけど、隣で結果である黒ちゃんが寝ているので、俺も白ちゃんも少し緊張気味だ。
「ん……」
パチッ
「ひゃあぁぁぁっ!?」
うつ伏せになっている白ちゃんは、、弓なりに背を反らしながら声を上げると、直後にパッタリと動きが止まった。
「ちょっ!? 白ちゃん!?」
予想はしていたが、それでも先細りの小さな悲鳴の尾を引く白ちゃんを実際に目にしてしまうと、激しく動揺してしまう。
「……」
「あー……」
口がだらしなく半開きなところは黒ちゃんと同じだが、幸せそうというよりは放心状態という感じで、半分目を開けたままで白ちゃんは意識を失っていた。
「……」
白ちゃんの瞼をそっと閉じ、仰向けに寝かせ直して布団を掛けてあげた。
「さて、自分の布団を……なんか面倒くさいな」
自分にも雷が使える事がわかったりと、いろいろ収穫が多かったが、それ以上に精神的に疲れる日だったのが原因だろう。
自分の分の布団を敷こうかとも思ったが枕だけを取ってきて、黒ちゃんと白ちゃんを押しのけたりはしないで、二人の布団の中間点に身体を潜り込ませた。
「消えろ」
コマンドワードで照明を消して、俺は意識を手放した。
「……しゅじ……御主人!」
「ん……黒ちゃん?」
身体の上に乗っかる柔らかい感触と、揺すられながら掛けられる声に、意識の覚醒を促された。
「おはよう主殿。今日は少し早く起きるのだろう?」
「って、白から聞いたから、起こしたんだよ!」
俺に馬乗りになっている黒ちゃんが、顔を覗き込んでくる。いつもながら、黒目がちで可愛らしい顔をしている。
(なんか二人共、いつにも増して元気だなぁ……)
気の所為か、顔の色艶が良い気がするし、話し声にも張りがあるように思える。
(……まさかとは思うけど、昨日のアレが効いてて二人共元気なのかな?)
昨日のアレ、俺が二人に放った雷に、妙な効果があるのは確かなようだ。
「ああ、そうだっけ……ところで黒ちゃん、起きられないんだけど」
「あ! ごめんなさい!」
起きられない原因が自分だと悟った黒ちゃんは、大慌てで俺の上から飛び降りた。
「じゃあ、今日の予定だけど」
「おう!」
「うむ」
布団を片付けて、まだ夜も明けていない時間なので、俺達は頭を寄せ合って話を始めた。
「那古屋の織田屋敷に牛乳を貰いに行った時に、明後日からの分はいらないと言ってくるのを忘れないように。あ、いや。今日は俺が行ってこようかな」
出発前にブルムさんに挨拶もしたいし、在庫があれば買いたい物もある。何よりも近場の土地で、界渡りを試しておきたいのだ。
「俺か黒のどちらかが、ついて行かなくてもいいか?」
「うん。その代り、明日の準備をして欲しいんだ」
界渡りが出来なかったり、途中でトラブルが起きたとしても、なんとか午後まで、最悪でも夕方には帰って来れるだろう。
「具体的には何をするんだ?」
「椿屋さんと相談して購入する食材以外の下拵えかな」
荷物の中には、まだ未処理の猪や鹿の肉に内蔵、別分けしたが加工していない脂身などが、まだ大量にある。
「内臓は食べきれないくらいあるから、明日の宴に少し出そうかと思ってるんだ。下処理の仕方を教えるから、それをお願いしたいんだけど……量が多いから大変だよ?」
「おう!」
「量が多い程度は問題にならん。俺達に任せておけ」
他にも幾つかの指示をしてから、朝食の支度をしに厨房へ向かった。
「じゃあ良太は、那古屋へ行くのかい?」
味噌汁の椀を置きながら、おりょうさんに尋ねられた。
「ええ。早めに戻ってくるつもりですが、もしもの事を考えて必要な食材を書き出しておきましたから、夕方までに俺が戻れなかったら、これを椿屋さんに渡して下さい」
折り畳んだ紙片を、おりょうさんに手渡した。
「何か、遅くなりそうな用事でもあるのかい?」
「那古屋で会ったブルムさんという外国の商人が、色々と入手が難しい物を扱っているので、在庫があれば少し買い足そうかと思いまして」
「ああ。赤茄子を売ってくれた人かい?」
俺が買ってきた新たな食材、赤茄子を売っている商人というのが、おりょうさんのブルムさんの認識のようだ。
「ええ。玉蜀黍も扁桃も、ブルムさんの店で買ったんですよ。そうだ。朔夜様、これを……」
「なんですか?」
茶碗と箸を置いた朔夜様は、呼び掛けた俺の方に向き直った。
「そのブルムさんという商人から買ったのですが、石鹸です」
俺は取り出した石鹸の木箱を、畳の上にそっと置いた。
「まあ! 鈴白様達がお発ちになった後、どうしようかと思っていましたのに……凄く助かります!」
表情と仕草で、朔夜様は喜びを現してくれている。
「これだけあれば数ヶ月は保つでしょう。ブルムさんに石鹸を愛用されている人がいると話をしておきますか
ら、もしも伊勢を訪れた時は」
「歓待させて頂きます!」
織田家の朔夜様と面識を持つ事は、商人であるブルムさんにもメリットがあると思うので、顔を出すついでに話をしておけばいいだろう。
「俺も扁桃は気に入ったんで、その商人と話がつくと助かるぜ」
「在庫があるかは、わかりませんけどね」
在庫切れになったら、次にいつ外国から入荷されるのかはわからない。だから朔夜様のお気に入りの石鹸などは、先手を打って手配しておく必要がある。
「という訳で、俺は鍛錬には参加出来ないけど、やり過ぎちゃダメだよ?」
俺がいなくなると、頼華ちゃんが朔夜様に厳しくし過ぎる可能性があるので、念の為に注意しておく。
「わかっております! では余の方は攻撃に闘気を使わず、朔夜はなんでもありで立ち会いを……」
「ひぃ!」
自分が戦っている姿を想像したのか、朔夜様が小さく悲鳴のような声を上げた。
「……程々にね?」
聞いている限りではかなりのハンデ戦なのだが、多分深刻なダメージは受けないだろうけど、朔夜様が四方八方から滅多打ちにされるという結果が予想出来る。
(肉体よりは、精神的なダメージが大きそうだなぁ……)
もしも朔夜様の消耗が激しいようなら、何か適切なフォローをと考えながら、俺は朝食を片付けた。
「それじゃ行ってくるね」
自分の部屋で外套を身に纏い、返却する木樽を腕輪に収納して出かける支度を整えた俺は、黒ちゃんと白ちゃんへ出発する旨を告げた。
「いってらっしゃーい!」
「主殿ならば大丈夫だとは思うが、困った事が起きたらいつでも呼んでくれ」
「あはは。二人共頼もしいね。でも、いくら界渡りを使っても、那古屋まで駆けつけたりは出来ないからなぁ」
伊勢、那古屋間を約十分という、非常識な短時間で移動出来る界渡りだが、緊急時の十分のタイムラグというのは、場合によっては命取りだ。
「後先を考えなければ、すぐに駆けつけられるよ!」
「ん? どういう事?」
昨日の夜に色々と衝撃的な話を聞いたのだが、黒ちゃんの様子ではまだ何かあるみたいだ。
「俺と黒が主殿を目標にして、界渡りで移動出来るのはわかっているだろう?」
「ああ。そうだよね」
基本的に界渡りでの移動先は行った事のある場所と、大きな寺社や気の集まりやすいところなどに限られるのだが、黒ちゃんと白ちゃんは例外的に、俺を目標として使用出来る。
「気の消耗が激しいので、その後の事を考えるとあまり使いたくないのだが……界渡りをする際に非実態化を併用すると、一瞬で主殿の元へ馳せ参じる事が出来るのだ」
「へぇー……」
非実体化すると移動力が落ちそうな気がするが、もしかしたら何か根本的に違う方法なのかもしれない。
「まあ、なるべく厄介事に巻き込まれないように気をつけるよ」
「そうだな。それがいい」
「気をつけてねー!」
二人の見送りを受けて、本当に出来るかどうか自信が無かったが、何度か手助けされて使っていた界渡りをイメージすると、あっさりと周囲の景色がワイヤーフレームに切り替わった。
(大丈夫だったな……じゃあ、行くか!)
出来なくて恥をかかずに済んだ事にホッとした俺は、那古屋の方を向いて大きく一歩を踏み出し、低い放物線を描いて空中へと飛び出した。
「おお……」
今までは黒ちゃんか白ちゃん、あるいは両方に抱えられるようにしての移動だったが、自分の脚でというのがなんか感慨深い。
「しかし……」
放物線の頂点に差し掛かった時、部分变化もどきを使って、背中に翼を展開する。
「おおお! 飛んでる飛んでる!」
当たり前だが、実際の鳥のように翼の羽ばたきで飛んでいる訳では無く、羽ばたく事も出来る見かけだけの翼から気を放射して、高度と速度を得ているのだ。
「だから当然……」
翼に気を集中すると、爆発的に速度が上がった。
「お……おおぉ!?」
あまりにも速度が上がり過ぎたので、目標を那古屋に定めておかなかったら、遥か彼方までどころか大気圏を離脱してしまったかもしれないところだった。
色々な法則という軛から解き放たれているから可能な瞬間的な超加速と超制動は、界渡りという移動方ならではだ。
「空を飛んだ実感は、少し薄いな……」
空を飛び、気を無駄遣いしての推進だったので、通常の界渡りによる移動時間の約十分でも驚異的なのに、計っていないので正確では無いが、体感では伊勢から熱田神宮への到着までに一分を切っていると思われる。
界渡りに飛行の併用で移動時間の短縮を出来たのだが、時間も短かくなった事によって空を飛んだ実感が薄まってしまったのだから、なんとも皮肉な話だ。
「帰りは飛ぶにしても、無駄な力は使わないようにしようかな……」
界渡りを使えるかどうかと、翼による推進力の増加とショートカットの検証は成功したので、那古屋で時間を取られない限りは、無駄な力を使うのはやめようと密かに心に誓った。
「では、明日が最後になりますが、宜しくお願いします」
那古屋の織田屋敷で今日の分の牛乳を受け取り、明日で最後になる事を告げて門を出た。幸いにも、明日受け取る分の樽は元々が廃物利用なので、返却をしないでもいいという事になったので助かった。
「さて、ブルムさんは店を出してるかな……」
今日の分の牛乳の樽は腕輪に収納したので、手ぶらになった俺は露店が立ち並ぶ通りへ向けて歩き始めた。
「おはようございます、ブルムさん」
「おお。これは鈴白さん、おはようございます」
数日前に出会ったのと同じ場所で、店開きの準備中のブルムさんを見つけて挨拶した。
「今日は何か御入り用ですか?」
「まだ扁桃の在庫があれば、購入したいんですが」
ちょっとした間食や酒のつまみにいい扁桃は、試食した人には概ね評判が良かったので、少し多めに購入してもいいと思っている。
「この間と同じ量の袋が、あと二つあります。それで品切れですね」
「じゃあ差し支えがなければ、二袋とも下さい」
一袋はそのまま朔夜様に預ければ、松永様を始めとする代官所の中の人達で食べるだろう。
「他に、野菜類はありますか?」
「今あるのは新たに収穫出来た赤茄子が、一箱くらいですねぇ」
「それも頂いておきます」
既にミネストローネやハヤシライスにかなりの量を使っているので、十二個入り一箱でも追加購入出来るのはありがたい。
「あとは野菜では無いのですが、調理用にこんな物もいりますか?」
ブルムさんが出したのは、蝋で封をされた大きな壺だった。
「これは?」
「中に橄欖油が十リットル入っています」
「是非とも、購入させて頂きます」
料理によっては独特の風味のあるオリーブオイルを使いたいと思っていたので、これは嬉しい不意打ちだった。
「ふむ……赤茄子と橄欖油を喜ばれる鈴白さんなら、こんな物もお食べになりますか?
この国の人の口には合わないようなんですが……」
ブルムさんは大きなクリーム色の塊を取り出した。塊からは独特の匂いがして、断面の所々には小さな穴が開いている。
「これはもしや……」
「ご存知ですか? 乾酪です」
(やっぱり! この特徴的な穴だらけの見た目は、エメンタールっぽいな)
外国のアニメなどで良く見る、ネズミの大好物の穴開きチーズのエメンタールは、元の世界のスイスとその周辺国で生産されていて、直径が一メートル、百キロくらいの大きさの物もある。
マイルドな風味のエメンタールチーズは、そのまま食べたりチーズフォンデュにしたりと、万能タイプの楽しみ方が出来る。
「私なんか食事は、これと芋と腸詰があれば間に合うくらいなんですが、どうもこの国の人には……」
ドランさんから聞いた時にも思ったが、どうやらドワーフの食生活は元の世界のドイツと近いようだ。
「乾酪はどれくらいの量があるんですか?」
「私の食べかけ以外では、今お見せしている四分の一個ですね」
ブルムさんが出した塊は相当な大きさなので、もしかしたら最大級の百キロくらいの物の四分の一かもしれない。だとしたらこれで約二十五キロだ。
(うーん……黒ちゃんと白ちゃんは、味さえ良ければ食べ物に偏見は無さそうだけど、おりょうさんと頼華ちゃんの口には合わないかもしれないなぁ)
エメンタールはマイルドな風味とは言っても、チーズ自体が苦手な人は結構いるので、こればっかりは試食してもらうまではわからない。
(食事を適当に済ませたい時に、俺が食えばいいか)
チーズは密度がある食べ物なので、調理が面倒な時などに手早く空腹を紛らわすのには丁度いい。
「せっかくなので、それも頂きます」
チーズは優れた食品なので、自分一人しか食べなくても構わないと考えて、購入を決意した。
(これを逃すと、次に買える機会は無さそうだしなぁ)
思っていたよりはかなり住み易いこの世界ではあるが、ちょっと出歩いたり通販を利用したりすれば、簡単に物品の購入が出来る現代文明は、やはり凄いのだと思わされる。
「あ。先日買わせて頂いた石鹸なんですが、伊勢の代官である織田家の朔夜様と、古市にある椿屋という妓楼の店主さんが気に入っていまして、出来れば継続的に使いたいという事です」
「そうですか。ありがたいお話なのですが、手持ちは先日の分で終わってしまいまして……」
表情を曇らせるブルムさんのこの返答は、予想の範囲内だ。
「ええ。ですので購入を約束するので、手配をお願いしたいと」
「ああ、そういう事ですか。わかりました」
「ブルムさんのお名前は教えてありますので、伊勢の代官所で代官の朔夜様の元へ行って頂ければ、わかるようになっています」
「それは、何から何までありがとうございます」
少し困惑気味に、ブルムさんは俺に向かって頭を下げた。
「いや、俺は何も……ブルムさんがいい商品を扱っているというだけですよ」
「そうは仰いますがねぇ……」
「俺が言わなかった物で朔夜様や椿屋さんに入り用の、特に女性向けの物もあるかもしれませんから、存分に商人としての腕を奮って下さい」
「これは……私などよりも鈴白様の方が、余程商売人のようですなぁ」
俺とブルムさんは、顔を見合わせて笑いあった。
「ただいまー」
帰りの界渡りでは、空を飛んでも気による推進力の増加はしなかったのだが、空路なので一直線のルートだった事もあり、移動時間は五分程度だった。
結局、那古屋での用事を全て済ませても、移動も含めて二時間も掛からずに伊勢の代官所へと帰り着く事が出来た。
「おかえりなさぁーい! お土産は?」
笑顔で抱きつきながら迎えてくれた黒ちゃんに、お土産をねだられた。
「黒、主殿は那古屋に遊びに行ったのでは無いのだぞ」
「あはは。口に合うかはわからないけど、新しい食材は買ってきたよ」
「新しい食べ物!? やったー! だから御主人大好き!」
食材の内容もわからないのに、黒ちゃんは喜びを全身で現しながら、抱きつく腕の力を強めてくる。
「でも、俺は好きなんだけど、この国の人の口に合うかは本当にわからないから、お昼ご飯じゃなくて、先ずは味見程度だね」
昼食をチーズを使った何かにしてしまうと、口に合わない人間が多かった場合には大惨事になる。
「そんなに癖のある食材なのか?」
「うーん……漬物とか納豆程度には、好き嫌いが出るかなぁ」
そもそもチーズというのも一括りにしてしまうのは無理がある程、多種多様な物がある。例えばモッツァレラのようなフレッシュチーズと、強烈な匂いのウォッシュタイプのチーズなどは、全く違う食べ物にも思えるくらいだ。
「少し食べてみる?」
「ん? 調理が必要な食材では無いのか?」
俺の申し出に、白ちゃんが意外そうな顔をする。
「調理してもいいし、少し塩気が強いけど、そのままでも食べられるよ」
「うお!? でか!」
俺が取り出した大きなチーズの塊を見て、黒ちゃんが驚きの声を上げながら目を丸くしている。
「む……嫌な匂いという程では無いが、確かに少し独特だな」
「あんまり、普段は無い類の匂いでしょ?」
「そうだな」
俺がチーズを出す前にした説明に、現物を目の前にした白ちゃんは納得したようだ。
「じゃあ少し……うん。乾酪らしい味だな」
これも取り出した柳刃で、ほんの少量のチーズを切り取り、黒ちゃんと白ちゃんに渡してから口に運んだ。
少しナッツに似た風味を感じる、クリーミィな味わいだ。
(バターとチーズが手に入ったから、こうなるとパンが欲しいところだけど……パンケーキくらいで我慢するしかないか)
ベーキングパウダーや重層は無いが、天然酵母でパンを作る事は出来る。しかし、そこで問題になるのが発酵時間と焼窯である。
天然酵母による発酵は時間が掛かるし、気候によってはうまく発酵しない事もあるので、旅の最中に手軽に作る事は出来ない。
生地が出来ても焼窯が無ければ焼く事が出来ないし、焼窯を設置するなら家を買って定住でもするしか無いだろう。結果的にパンは諦めるしか無いという結論に達する。
「おおぉ!? なんか初めてな味だけど……食べ終わりの感じは乳酪に似てるのかな? あたいは嫌いな味じゃ無いよ!」
「ふむ……少し強めの塩が、酒に合いそうだな」
「やっぱり白ちゃんは、お酒に合うかが基準なんだね」
チーズにワインや蒸留酒は鉄板の組み合わせと聞くので、酒好きという程は飲んでいる姿を見ない白ちゃんだが、表現の仕方としては間違っていないのだろう。
「む。良くないか?」
「そんな事は無いよ。お茶に合うとか御飯に合うとかって言うしね」
(でもまあ、そのまま食べるよりは、調味料的な使い方をして様子を見ようかな)
フォンデュやラクレットみたいな、チーズ主体のメニューをいきなりはきついだろうから、例えばカレーのトッピングにしたりして、チーズ無しでも食べられる状態で出して様子を見た方がいいだろう。




