鰻
唐突に、周囲の音が戻った。
「……どうかしたかい?」
参拝を終えたおりょうさんが、不思議そうな顔で俺を見ている。今までも美人だとは想っていたが、観世音菩薩様に言われて、小首を傾げる可愛らしい仕草とかを、妙に意識してしまう。
「いや、何でも無いですよ。それよりも随分熱心にお祈りしてましたけど、お願いが叶うといいですね」
「っ!? そ、そうだねぇ……」
口に出してしまい、反応を見て、地雷を踏んでしまったのに気がついた。おりょうさんの願い、それは……まあ、もう少し一緒に過ごさないと、答えは出ないよな。
「じゃあ、帰りましょうか」
ちょっとだけ反応が見たくて、必死の思いで努力して、曲げた肘をおりょうさんの方に出してみた。
「っ! そ、そうだね。帰ろうか……」
今までの積極的な態度とは違い、恐る恐るという感じだが、おりょうさんは笑顔で自分の腕を、俺の腕に絡めた。
「い、行こうか?」
「そうですね」
まだなんとなく挙動不審だが、俺に腕を絡めたまま、おりょうさんも歩き始めた。
「おりょうさん、荷物は俺が持ちますよ」
「えっ? で、でも……」
「後でちゃんと返しますから、ね?」
「わ、わかったよぉ……」
小さい子に言い聞かせるように顔を覗き込むと、おりょうさんは、決して小さくはない靴の箱の風呂敷包みを俺に渡した。
「まったく。出会った時には頼りないと思ったのに、なんか急に男前になっちゃて……」
「ん? なんか言いましたか?」
おりょうさんがブツブツと何かを言っているようだが、細かい内容までは聞き取れなかった。
「な、何でも無いよぅ……」
「そうですか?」
「うん。そうそう」
おりょうさんと、そんな他愛の無い話をしていると、道に面している「飛脚」と書かれた看板を掲げた店から、時代劇で良く見る棒付きの箱を担いだ男の人が、暖簾をくぐって出て来た。
飛脚の男の人は両足の甲に御札みたいな物を貼り付けると、棒の先の鈴をチリンチリンと鳴らしながら、目にも止まらない速さで走り去った。
「……お、おりょうさん、今のは!?」
「飛脚が珍しいのかい?」
「いや、そうじゃなくてですね……物凄く足が速かったですよね?」
「そりゃあ、速さが命の商売だからねぇ。ああいう連中は、韋駄天様からお力を授かっているのさ」
当然だろ? そう言わんばかりに不思議そうな顔をしながら、おりょうさんがじっと見つめてくる。
「ほら。あそこの駕籠かきなんかも、手力男様から力を授かったりして、商売に役立たせてるのさ」
「はー……」
おりょうさんの視線の先を見れば、かなり太った商人らしい客を乗せた駕籠を、前後の駕籠かきは平然とした顔と足取りで、かなりの速さで運んでいる。
駕籠かきが服の上から付けている襷が、さっきの飛脚の御札と同じく、手力男様から授かった力、この場合は主に筋力を上昇させる効果を発揮するマジックアイテムだそうだ。
事前に聞いてはいたが、予想以上に信仰による恩恵や魔術等は、生活に根付いているみたいだ。もしかしたら街並みは木造主体でクラシカルな感じだが、機械に頼らないエアコンとかもあるのかもしれない。
あと少し歩けば品川宿の蕎麦屋、竹林庵に辿り着くというところで、辻売りと呼ばれる露店から漂ってくる煙の匂いに興味を惹かれた。
「さっき、どじょう屋で少し話題に出た、鰻を扱ってる辻売りだねぇ」
煙に混じる匂いに嗅ぎ慣れた成分があると思ったのは間違いなかったようで、やはり鰻だった。しかし、タレの焦げる蒲焼きの匂いとは異なっている。
「夕飯の前だけど、ちょっと寄ってもいいですか?」
「いいけど、物好きだねぇ……」
呆れたように言いながらも、おりょうさんは俺と腕を組んだまま、辻売りの方へ向かって歩いた。
「らっしゃい。なんにしましょう?」
年齢は二十代半ばくらいだろうか、細身だが日焼けした鍛えられた身体に精悍な顔つきの、ねじり鉢巻をした辻売りの店主が、威勢のいい声で訊いてきた。
「鰻を一つ」
「はい。まいどあり。銅貨一枚になります」
座った脇に置いてあった皿から、下焼きされていたらしい串に刺された鰻を取り上げ、刷毛で味噌のタレを塗ってから七輪の炭火に掛けた。
味噌と鰻の香ばしい匂いが漂うが、現代日本の鰻の香りを知っている自分からすると、これじゃない感が凄い。
「へい、お待ちどう様」
「どうも」
串を受け取りながら、店主に代金を渡す。昼に食べたどじょう程じゃないが、ぶつ切りで串に刺された鰻は、一見すると蛇っぽい。この時点で食欲をそそる要素が大分減っている。
「皮がパリパリで味は悪くないけど、脂が濃くて、他の焼き魚に比べると……」
「だから言ったろう? 食い物の好みなんて、人それぞれだけどさ」
「そう、ですねぇ……」
食事に油脂分を欲していたが、昼のどじょうはともかく、この形の鰻の焼き物は飢えを満たしてはくれそうにない。
「お客さん、売ってるあっしが言うのもなんですが、鰻ってのは、好みが分かれる下賤な食いもんでさぁ」
「うーん……丸のままの鰻はありますか?」
「ありますけど、どうするんで?」
「?」
店主とおりょうさんが、俺の唐突な申し出に目を丸くしている。
「あ、先に代金を払いますから鰻をお願いします。それと、包丁とまな板を使わせて下さい」
「それくらいは構いませんけど……それじゃあ、鰻一匹で銅貨三枚でいいですよ」
店主が木の桶から、太くて長い鰻を掴み出した。銅貨三枚というと……天然鰻のこんな立派なのが三百円!? 現代日本と比べると夢のように安価だ。
「いったい、どうする気なんだい?」
「上手く出来るかどうかは、わかりませんけど……」
辻売りの店主に代金を渡し、近くの桶に汲んであった水を使わせてもらって手を洗った。
「確かこんな感じで……」
両親が共働きだったので、食事代を浮かせようと小さい頃から料理はしていたので、一通りの技術は持っている。
しかし、スーパーなんかで売っている魚はともかく、鰻を捌いた事なんかあるわけがない。クッキング◯パじゃあるまいし……でも、料理漫画は好きでかなり読み込んだので、多分大丈夫だろう。
「金串が無いから竹串で……」
竹串でまな板の端の方に、一メートル近くありそうな大きな鰻の頭を固定し、一気に包丁を入れて背側から割いた。
「ちょっ!? あ、あんた今、どうやったんだい?」
「お、お客さん、何者なんです!?」
おりょうさんと店主が何か驚いているようだが、そんなに変な事をやってしまったか? まあ今までには無かった調理法だろうけど。
とりあえず、俺自身も慣れない鰻なんかを捌いている最中なので、二人の声を他所に、記憶を頼りに包丁を使い、内臓と骨を外した。
「こりゃあ……見事なもんだねぇ」
「お客さん、料理人ですか?」
「いや、そういう訳じゃ……」
包丁の手入れが良いみたいで、切れ味に助けられて、初めてだが上手く鰻を捌けた。
「大きいから、三種類試してみるか……この竹串、使わせてもらいますね」
「あ、ああ。どうぞ」
「……」
何故か呆然としている店主とおりょうさんが気になったが、俺は頭を落としても大きな鰻を開きのまま三等分して、頭寄りの身に、俺には馴染みのある蒲焼きの形になるように三本串を通した。真ん中の腹のあたりの身は三センチくらいの四角い形に切り分けて、一本の串に三切れの身を通す。尾側の身はそのままにした。
「砂糖はありますか?」
「いや、置いちゃいません」
「あんた、砂糖は高価なんだよ?」
「ああ、そうでしたね……あっ、そうだ! おりょうさん、お店の方に、蕎麦のツユに使う酒かみりんはありますか?」
「そ、そりゃあ、あるけど……」
「すいません。醤油と、出来ればみりん、ダメなら酒を、少し持ってきてもらえますか?」
「な、なんかわからないけど、任しときな!」
威勢良く応えたおりょうさんは、竹林庵の方へ駆け出した。
「これで調味料のあてはついたから、先ずは下焼きしましょうか」
なんとか現代風の鰻に近づけそうな目処が立ったので、俺は先ずは串を打たれた二種類の鰻を火に掛けた。
「お待たせぇ。これでいいかい?」
おりょうさんは陶器の容れ物に入ったみりんと、酒も持ってきてくれた。
「……うん。予想通り、かなり甘い」
江戸期の清酒はかなり甘くて強く、水で薄めて飲むと聞いていたのだが、少し舐めてみると、確かに砂糖が入っているのではないかと思えるくらいの、甘く重い味だった。
「即席だから……頭も焼いてから入れるか」
頭だけを刺した串を火に掛け、その間に小さな鍋で醤油、酒、みりんを混ぜ合わせ、捌いた時に取った骨を入れ、これも火に掛ける。
「骨をそんな風に使うとは……」
俺の調理に、店主が驚きの声を上げる。
「さてと……」
一度焼いた串に刺された鰻を火から下ろし、これも焼けた頭をタレを作っている鍋に入れて煮詰める。
「頭まで!?」
「だ、大丈夫なのかい?」
もしかして、まだカブト焼きも無いのだろうか? 俺は煮詰まってきたタレを、量が少ないので刷毛塗りして、再び火に掛けた。
「すげぇ……今までに嗅いだ事が無い、なんていい匂いだ」
「基本の材料は蕎麦ツユと変わらないのに、鰻と焼かれると、こんな匂いになるんだねぇ……」
俺にも懐かしい匂いを放ち始めた鰻を、店主とおりょうさんが見入っている。
「もう何度かタレを付けて焼きたいところですけど、とりあえず試しに……うん。うまい」
俺は小く切った方の身を一つ、口で引っ張って串から抜いて食べてみた。初めてやった割には香ばしく焼きあがり、即席にしてはタレも良く出来た方だろう。どうしても深みが足りなく感じるのは仕方がない。
「あ、あたしもいいかい?」
「ええ。ご主人も。こっちの開いた方も試して下さい」
「で、では……」
二人とも、先ずは串焼きの方から食べ始めた。
「こいつぁ……串焼きは脂が落ちてカリッと焼けてて、表面で少し焦げた、甘じょっぱいタレがたまんないねぇ」
「むぅ……手間は掛かってるけど、それだけの甲斐がある味ですね」
目を瞑って串焼きを味わう店主が、溜め息混じりに言った。
「大きなままの方は、独特の焼けた姿がいいですね。串焼きよりも身と脂の味を、より感じられる気がします。しかも、頭も骨も無駄しないとは……」
「あ、頭と骨は、今回はタレの味を作るのにこういう使い方をしましたけど、骨だけカリカリに焼いたり、油で揚げたりしてもイケるんですよ」
「なんと!」
「好みですけど、頭の方も、集めておいて串焼きにすれば食べられますよ」
「なぁるほどなぁ……ところで、ここに置いてある開いた身は、どうするんで?」
店主は三分割された尾側の身を指差した。
「今みたいに串を刺す以外に、このまま鉄板や網で焼くってやり方があるので、試してみようかと」
「ほほぅ……」
「はぁ……鰻っておいしいもんだったんだねぇ」
感心する店主の前で、俺は開いて串打ちをしていない身を、金網に乗せて焼き始めた。おりょうさんは残っている串焼きと蒲焼きを食べながら、タレの材料の残りの酒を呑んでいた。
「こんなもんかな?」
串を打たずに焼いた鰻は、皮が縮んで丸まってしまい、焼くのに手間取った。
「丸まったから少し焼きムラがあるけど……うん。味はあまり変わらないですね」
「割くだけで済むなら楽ですね。でも串の方も、予め用意しておけば、これだけでも商売になりそうな……」
店主は頭の中で、鰻を使った商売の展望をしているようだ。
「他にもやり方があるんですけど、教えておきましょうか?」
「本当ですか!? 是非!!」
よほど口に合ったんだろうか、感激した面持ちで店主は俺の両手を握ってきた。
「あ、あの、俺はそこの竹林庵っていう蕎麦屋に世話になってるので、後でそこに来てくれませんか? そろそろ店じまいもしなきゃいけませんよね?」
「あっ!? こいつぁいけねえや。じゃあ、晩飯はその蕎麦屋で食いますんで、後ほど必ず」
「わ、わかりました」
「はぁー……旨かった」
俺が店主と会話している間、ずっと鰻を食べていたおりょうさんが、満足そうな溜め息を吐いた。
「おりょうさん、もう夕飯はいらない感じですか?」
「そうさねぇ。食べずにもう少し呑むかな、って感じかねぇ」
「じゃあ店主さん、もう少しだけ」
「こ、今度は何をするんで?」
店主が注目する中、俺は鰻を割いた時に取り分けた、肝と繋がった内蔵をまとめて串に刺すと、タレを付けて焼き上げた。本当は数匹分を串に刺して焼くんだけど、試作だしいいだろう。
「これを酒のツマミにどうぞ。ちょっと苦いけど、酒に合うと思いますよ」
「す、すげぇ。まったく無駄がねぇ……」
今日のところはおりょうさんに進呈するが、自分で食いたくなったからやってみただけなんだが……店主のあまりの感激ぶりに照れる。
「じゃあ、また後で」
「絶対ですよ!」
何度も念を押す店主に見送られながら、俺とおりょうさんは竹林庵へ向かって歩いた。
「まったく。世間知らずかと思ったのに、料理の心得まであるとはねぇ」
「心得って、そんなに大層な物じゃないですよ」
「そんな事言うけど、鰻みたいな扱いにくい魚を、あんなに綺麗に捌ける奴は、そうはいないよ?」
「そうですかねぇ」
元の世界で魚を捌いた時には、随分と骨に身が残ったりしたんだが、今回は初めての鰻なのに、妙に上手く出来た気がするのも確かだ。こっちの世界の事だから、何かの力が働いたのかもしれない。
「あたしが手料理を食べさせるより、先に食べさせられちゃうなんて……しかも、おいしいし」
「あ、すいません。何か言いました?
ブツブツと歩きながら呟くおりょうさんの言葉は、考え事をしながらだったせいか、ハッキリと聞き取れなかった。
「な、なんでもないよ! さて、あんたは晩御飯。あたしはこの串焼きで呑み直そうかねぇ」
おりょうさんは俺からの質問をはぐらかすように、肝焼きの串をくるくる回しながら、竹林庵の暖簾をくぐった。