那古屋
「あ、御主人おかえりな……むー! 御主人から朔夜の匂いがする!」
「に、匂い?」
風呂から出て部屋に戻ったら、頬を膨らませた黒ちゃんに睨まれた。
「なんで風呂から戻って、朔夜の匂いがするの!?」
「あー……実はね」
隠しても仕方がないので、朔夜様が風呂に入ってきてから、松永様の乱入によって救われた事までを正直に話した。
「ほほぅ……どうやら朔夜は、命が惜しくないと見える」
半眼になった白ちゃんが、予備動作無しにふわりと立ち上がった。
「し、白ちゃん、ダメだよ!?」
「りょう姐さんやあたい達を差し置いて抜け駆けするなんて許せないー! お望み通り純血散らしたらー! あたいがな!」
白ちゃんに続いて黒ちゃんも立ち上がると、グッと拳を握り締めた。
「黒ちゃんも落ち着いて!」
このままいくと白ちゃんは朔夜様を亡き者にしそうだし、黒ちゃんは死んだほうがマシな状態にしてしまいそうだ。
「二人共言う事を聞くんだ!」
立ち上がった俺は二人の肩に手を置くと、声に威圧を込める。
「くうっ……」
「あうぅ……」
魂の結びつきの関係だと思うが、威圧を込めた俺の言葉は二人には効果覿面で、小さく声を上げると糸が切れたように、その場に崩折れた。
「はぁ……二人共、出来れば俺にこういう命令みたいな言い方は、させないで欲しいんだけどな」
小さく溜め息をついた俺は、しゃがんで憔悴している二人の様子を見る。
「うぅ……で、でもぉ……」
「主殿の意向を無視した、朔夜の行いは……」
二人にとって俺の言葉は、相当な強制力があるはずなんだが、驚いた事にまだ、歯を食いしばって抵抗の意志を見せている。
「……やられっぱなしは悔しいから、朔夜様をどうするかは、俺に任せてくれないかな?」
この代官所に世話になる間は、今夜のような事がまた起きる可能性がある。そのための予防措置も必要なので、少し策を練る。
「わかったー! 御主人が自分で朔夜を懲らしめるんなら、あたいには文句は無いよ!」
「主殿の手を汚させるのは気が進まんが……何か考えがあるようだし、任せた」
俺の言葉を受け入れたので、逆らう事による重圧に抵抗する必要が無くなったからか、二人の表情が柔らかくなった。
「とりあえずは朝になったら、おりょうさんと頼華ちゃんにも今夜の事を話そうかと思う」
おりょうさん達にも直接行動に出ないようにと、気をつけて話をしないとならないのが頭が痛い。
「そうだね! まずはおりょう姐さんと頼華が手を下してから、あたい達の出番だね!」
「むう。差し出がましい事をしてしまうところだった。さすがは主殿。細かい心配りだ」
「いや、手は下させないけどね……」
朔夜様の過失なんだが、それでも伊勢の代官であり、尾張織田のお姫様相手に事を構えるのは不味い。
「おりょうさんと頼華ちゃんからも口頭で注意して貰って、それでもダメな場合には……」
頼華ちゃんの朔夜様に対する、鍛錬と作法の指導が厳しい物になると予想されるが、自業自得とも言えるし、もしかしたらそこまで想定した上での行動かもしれない。
「朔夜には多少なりとも世話にはなっているからな。行動自体は許し難いが、主殿が温情を掛けるのもわからなくはない」
「許しはしないんだね……」
未遂だったので俺自身はそれ程気にしていないんだが、白ちゃんと黒ちゃんにとっては相当に根の深い問題になっているようだ。
「それはそれとして……ごめんね二人共。声を荒げちゃったりして」
謝罪の意味を込めて、俺は二人の頭を抱き寄せた。
「はにゃぁぁぁ……なんでも許しちゃうぅ……」
黒ちゃんは嬉しそうに、俺に顔を擦り付けてくる。
「こ、これが身体で黙らせるというやつか……黙るしかないではないか……」
白ちゃんも反応としては似ているのだが、言っている内容には釈然としないものがある。
「……なんかバタバタしちゃったけど、寝ようか」
これ以上起きていても良い事は無さそうなので、こういう時は寝てしまうに限る。
「おう!」
「準備は出来ているぞ」
「……なんで布団が一組なの?」
俺に布団で寝るなという意味では無さそうだが……。
「一緒に寝るんだよね?」
「なんなら俺が敷布団で、黒が掛け布団に……」
「いや、そういうのはいいから……」
どうやら受け入れた時点で、別々の布団で寝るという選択肢は無くなったようだ。
(それにしたって白ちゃんが敷布団で、黒ちゃんが掛け布団っていうのは、どういう状況なんだ?)
ちょっと場面を想像してしまうが……うん、あり得ない。
「えーっと……俺が真ん中に寝ればいいのかな?」
「おう! あたいが右側でー」
「お、俺が左側だ……」
一つだけの枕を俺がありがたく使わせて貰うと、黒ちゃんと白ちゃんは当然のように、俺の腕を引っ張って自分の頭を置いた。
「……」
「んじゃ御主人、おやすみなさーい!」
「主殿、良い夢を」
両腕を封じられて身動きもままならない俺を尻目に、黒ちゃんと白ちゃんは安らかな笑顔で、規則正しい寝息を立て始めた。
(ま、いいか……)
笑顔のままで眠っている二人を見ていると、細かい事はどうでも良くなってくる。
「消えろ」
コマンドワードで照明を消すと、二人の体温を感じながら俺も眠りに落ちた。
「おはよう、良太」
「おはようございます、兄上!」
翌朝、俺が朝食の支度をしている厨房へ、おりょうさんと頼華ちゃんが顔を見せた。黒ちゃんと白ちゃんに頼んで、朝食を始める前に呼んでもらったのだ。
「朝からすいません。実は二人に話がありまして」
「ここに呼ぶって事は……朔夜様には聞かせられない話かい?」
「何か起きましたか?」
状況を察したおりょうさんと頼華ちゃんが、流し込んだ卵でだし巻きを作っていた俺に近づいて囁いた。
「実は昨日の夜にですね……」
俺が話を始めると、おりょうさんと頼華ちゃんの表情が様々に変化していき、最終的には二人揃って眉間に皺を寄せて半眼になっている。
「えっと……黒ちゃんと白ちゃんを止めたんですから、二人も腕力に訴えるのは最後の手段にして下さいね?」
すぐにでも朔夜様の元に向かうという行動はとっていないが、おりょうさんも頼華ちゃんも爆発寸前なのは、身体の内側で膨らんでいる殺気を感じるのでわかる。
「大丈夫ですよ兄上。少し鍛錬を厳しくする程度ですから」
「ああ。良太が出掛けるんならあたしも暇だから、頼華ちゃんを手伝おうかねぇ」
「「ふふふふふ……」」
(こ、こわー……)
どうやら考えが一致したようで、おりょうさんと頼華ちゃんが互いを見つめ合いながら、なんとも妖しくも恐ろしい笑顔で笑っている。
(朔夜様にはちょっと気の毒だけど……いや、いい薬かな?)
少し悪い気もするが、度々同じ事をされても困るので、おりょうさんと頼華ちゃんの「指導」を受けて、朔夜様が懲りるのを祈ろう。
朝食の席が修羅場にならないといいなと考えながら、俺は出来上がっただし巻きを切り分けた。
「頂きます」
「「「頂きます」」」
今朝も朔夜様の号令で朝食を開始したが、いつものような和気藹々(わきあいあい)という感じには程遠く、殆ど会話も無いままに食器の触れ合う小さな音だけが響く。
「朔夜」
静寂を破るように、大根の味噌汁の椀を持った頼華ちゃんが、見もせずに朔夜様の名を呼んだ。
「は、はいっ!」
重苦しい現在の状況と、呼ばれた事についての心当たりがあり過ぎる朔夜様は、茶碗を置いて直立不動の姿勢をとった。
「……知っているからな」
朔夜様にチラッとだけ視線を送った頼華ちゃんは、すぐに興味を無くしたかのように、持ったままの椀に口を付けた。
「えっ!? そ、それは!?」
心当たりはあるのだが、短い言葉に込められた意味を測りかねて朔夜様が戸惑いを見せるが、頼華ちゃんは何も言わないまま、だし巻きに大根おろしを載せて口に運んだ。
「あたしも、知ってますよ」
「えっ!?」
鯵の開きを骨だけにしたおりょうさんは箸を置き、すまし顔でお茶を飲んだ。
「あたいも知ってるよ! 御主人、お代わり!」
「えっ!? な、何を!?」
茶碗を受け取る俺を、朔夜様が救いを求めるような表情で見るが、視線を逸してしゃもじを手に取った。
「俺も知っているぞ」
「ええっ!? し、白殿まで!?」
梅干しの種を箸で小皿に置いた白ちゃんを見る朔夜様の顔は、困惑を通り越して恐怖に青褪めている。
「ま、松永……」
「いや、俺にはどうにも……」
藁にも、と言うと松永様に悪いが、最後にすがろうと思っていた人物に逃げられてしまったので、朔夜様は絶望的を通り越して無表情になってしまった。
「ごちそうさまでした……」
「「「ごちそうさまでした」」」
棒読みだったが、朔夜様の号令で朝食が終了になった。
「す、鈴白様っ!」
「な、なんでしょうか?」
まとめた食器を持って厨房へ行こうとした俺を、朔夜様が呼び止めた。
「も、もう耐えきれません! どうかお執り成しを!」
「そう言われましても……これでも抑えて貰ったんですよ?」
「うっ……し、しかしですね」
自分が原因でこうなったというのはわかっているのだろう。朔夜様の顔が羞恥の色に染まる。
「あ、あんな重苦しい雰囲気は……いっそ、怒鳴って頂いた方がマシです!」
怒鳴られるよりは滔々と説かれる方が実は堪えるので、頼華ちゃん達はわかった上で、申し合わせてやっているのだろう。
「こう言ってはなんですが、朔夜様もある程度は覚悟されていたでしょう?」
「最悪、命の危機にはなるかと思っていましたが……そ、それにしたって、この状況は耐えられません! どうかお慈悲を!」
「俺に言われてもなぁ……」
おりょうさん達からすれば、現状でも十分以上に慈悲深い沙汰だと言うだろう。
「既に事態は俺の手を離れましたから、慈悲を乞うならおりょうさん達にお願いします」
少し冷たいようだが、俺が許すと言ってもおりょうさん達が許すとは限らないので、ある程度は放置するしか無い。
「そ、そんなぁ……」
「では、片付けがありますので……」
涙目で立ち尽くす朔夜様に背を向け、食器を載せた盆を持って厨房へ向かった。暫くの間は針のむしろだろうけど、耐えてもらうしか無い。
「それじゃ行こうか」
「おう!」
「うむ」
片付けを終えた俺は、部屋に来た黒ちゃんと白ちゃんと共に外出の用意を整えた。
「えっと……こうなるのか」
「ん? なんか変?」
「何か問題があるか?」
黒ちゃんと白ちゃんに両サイドからガシッと腕を絡められて、両手に花の状態になってしまった。
(そういえば、前にもこうやって二人と腕を組んだんだったっけ?)
江戸を発つ時に、藤沢宿近くの正恒さんの家に界渡りで移動した時にも、二人と腕を組んだのを思い出した。
「御主人変なのー!」
「そ、そうかな?」
「良くわからんが、始めるぞ」
白ちゃんが宣言すると、不意に目の前の風景が、ワイヤーフレームで構成されている物に切り替わった。
「黒、行くぞ」
「おう!」
二人に腕を取られたまま俺の身体は地面を離れ、低い放物線を描いて飛び上がりながら移動を開始した。
「おお……」
伊勢湾沿いを直線的に移動しているので、時折、地面をはみ出して海上をショートカットするというスリルを味わう事になるのだが、景色自体がワイヤーフレームで構成されているので恐怖感は少ない。
「とうちゃーく!」
「早かったなぁ……」
伊勢の代官所から体感では約十分程度で、熱田神宮参道の鳥居の前に到着した。
距離的には品川、鎌倉間の四倍弱なのだが、凄く早く移動出来た感じがする。計算上は時速換算で八百キロを軽く超えている。
「出るぞ」
白ちゃんが言うと、ワイヤーフレームの景色に色や立体感が戻った。急激な情報量の増加で少し目が眩む。
界渡りを終えた時点で人に見咎められるのを避けるの為に、予め迷彩効果のある外套を着て、人目が無いのを確認するまでは気配を消すという申し合わせをしておいた。
周囲に人の姿はあるが、幸いな事にこちらを見ていたり気にしていたりはしないので、外套のフードを取って顔を出した。
「これが熱田神宮か……」
来るのは初めてだが、元の世界の関東在住の俺でも知っているくらいには、知名度の高い神社だ。石畳の参道は綺麗に掃き清められ、立派な社殿が見える。
「御主人、お参りしていく?」
「んー……いや、確か祀ってあるのは伊勢の神様と同じだったはずだから、時間のある時に向こうでお参りするよ」
熱田神宮の主祭神は、伊勢の内宮と同じく天照坐皇大御神様だ。
(必ず、今度時間を掛けてお参りに伺いますので)
心の中で呟いて、社殿に向かって軽く一礼する。
(絶対ですよぉ)
小鳥の囀りのような心地良い声は、幻聴……では無いな。俺は社殿に向かってもう一度礼をした。
「やっぱりお参りをするか?」
「いや。行こうか」
少し考え込んで社殿に礼をする俺に、白ちゃんが気を利かせてくれたが、軽く頭を振って断った。
「おう! いこいこー!」
腕を絡めたままだった黒ちゃんが、ニコニコ顔で俺を引っ張って歩き始めた。反対側で腕を組んでいる白ちゃんが、よろけて俺にもたれ掛かる。
「黒ちゃん、そんなに慌てないでいいから」
通常なら丸一日掛かりで到着出来るかどうかという距離の那古屋に、あっという間に来たのだから時間敵余裕は十分にある。
「黒。はしゃぐのは程々にしろ。何事も主殿を中心に考えるんだ」
「あ! ご、ごめんなさい!」
「別に少しくらいはいいよ。でも人も多そうだから、慌てないようにしようね?」
熱田神宮の門前から目的地の那古屋の織田屋敷までの間は、綺麗に整備された広い道が通っている。この辺のメインストリートなのだろう。行き交う人も店も多い。
「あれこれ見ながら、のんびり行こうか」
「おう!」
「承知した」
口では謝った黒ちゃんだが、どうやらワクワクが止まらないようで、軽い足取りで俺を引っ張ってズンズン歩いていく。
何か言いたそうな白ちゃんと顔を見合わせた俺は、苦笑しながらも黒ちゃんの引っ張るのに任せ、那古屋の織田屋敷を目指して歩いた。
「なんか毒々しい色の食い物だな……香りは悪くないが」
「あれは……味噌田楽だね」
白ちゃんが微妙な表情で見ている先では、屋台で茹でたこんにゃくに、黒っぽい八丁味噌を掛けた物を売っている。
「あっちにも、田楽ってのぼりがあるよ?」
黒ちゃんが指差す先では、水切りをした豆腐を串に刺して焼き、八丁味噌や木の芽味噌を塗った物を売っている。
「あっちの焼いた方が、元々の田楽って料理らしいけどね」
竹馬みたいな物を足に付けて田んぼで行った奉納舞が、確か田楽の語源だ。そしてその竹馬みたいな物を串に見立て、料理名になった……だったと思う。
「食べたい?」
「おう!」
まだ朝食から一時間も経っていないんだが、黒ちゃんは食べる気満々だ。
「白ちゃんは?」
「どうせ食べるなら、俺はあっちの方がいいな」
「あれは……きしめんか」
白ちゃんが指差す先の屋台の前では、丼を持った客が、平たくて幅広の麺を食べている。
「じゃあ一種類ずつ買って、みんなで分けようか?」
「おう!」
「黒、わかっているのか? 一人で食い切ってはダメなんだぞ?」
「うっ! わ、わかってるよ!?」
(これは、わかってなかったな……)
言葉尻に少し疑問が残っているので、白ちゃんが指摘するまでは、黒ちゃんは食べきるつもりだったみたいだ。
「黒ちゃん、お昼はちゃんと食べるから、ここでは控えめにしておこうね?」
「おう!」
本当にわかってるのかな? などと思いながら、屋台で商品を買い求めた。
「ふむ……この味噌は、色から来る印象ほど味が濃くも辛くも無いのだな」
「そうだね。もっと喉が渇くような味かと思った」
香りは良いが、八丁味噌の味付けは濃過ぎる事も塩辛過ぎる事も無く、田楽は茹でた物も焼いた物も、見た目より上品な味わいだった。木の芽味噌も、鼻に通る清々しい香りがたまらない。
「このきしめんって、面白い食べ心地だね! でも、つゆの味は竹林庵のには敵わないなぁ」
つゆの色が少し薄めのきしめんは、江戸風の蕎麦と比べると味も香りも少し弱く感じる。具は刻んだ油揚げと葱だけだ。
「竹林庵では出汁の鰹節も醤油も、贅沢に使ってるからなぁ。でもこのきしめんも、素朴な味でおいしいね」
「うむ。竹林庵のつゆは飲み干すには濃過ぎるが、この麺料理には、この程度の濃さのつゆだから合うのかもしれん」
なんとなく目についた屋台の食べ物だったが、料金以上には俺達を楽しませてくれた。
「む? 主殿、あの妙に鮮やかな赤い色の植物はなんだ?」
食べ終わってからのんびり歩きを再開して暫くすると、白ちゃんが何かを見つけたようだ。
「あ、あれは!?」
白ちゃんが指差す先の露天には、真っ赤な実を付けた鉢植えの植物があった。傍らには店主らしい小柄な髭面の男性が、地面に敷いた藁のむしろに座っている。
「あの、これってもしかして赤茄子ですか?」
「おや、知っているお客さんがいましたか。ええ。間違い無く赤茄子ですよ」
ぼんやりと退屈そうにしていた店主は、消えていたようだった瞳に輝きを灯し、生き生きと話し出した。
「む! お客さん、もしやその靴は、ドランという男が作った物では?」
「えっ!? ドランさんをご存知なんですか?」
一緒に旅をする身内以外に、江戸を遠く離れたこの地で聞く事は無いはずの名前が、初対面の人物の口から出てきた。
「知っているも何も、奴とは同郷の出なんですよ」
「という事は、あなたも大陸の西の方から来られたんですね」
言われてみれば店主もドランさんと同様に、小柄で上下を圧縮したような独特の体型をしている。もっとも、向こうに言わせれば、俺達は間延びした体型に見えるんだろうけど。
「申し遅れましたが、私は商人のブルムと申します」
「始めまして。江戸でドランさんにお世話になりました、鈴白と申します」
「江戸!? 奴めは今、江戸におるのですか!?」
「ええ。知らなかったんですか?」
ブルムさんの驚きからすると、俺の言葉はかなり意外だったようだ。
「奴めてっきり、大陸の沿海地方か、この国にいても長崎辺りだと思っていたのに……いや、これはありがたい。同胞の住む場所がわかりました」
「江戸の浅草という街の近くで、萬屋という革細工を主に扱う店を開いてますよ」
「そうですか。暫くはこの那古屋で商売をするつもりですが、機会があったら訪ねるとします」
俺の話を聞いて、ブルムさんは表情を綻ばせた。
「おっちゃん、ドランのとーちゃんの知り合いなの?」
「と、とーちゃん!? えっと……鈴白さん、このお連れさんは、まさか?」
「えーっと……説明が難しいんですが、こちらの黒ちゃんと白ちゃんは、ドランさんの……義理の娘? みたいなものです」
「……は?」
ブルムさんの顎が、かくんと落ちて絶句してしまった。
「えっと、本当に説明が難しいので……ブルムさん、良かったら後で食事でも一緒にどうです? その時に詳しく話しますから」
ドランさんの知り合いなら、些かファンタジーな展開になる黒ちゃんと白ちゃんの説明も、受け入れてくれそうな気がする。
「は、はぁ……では、お昼頃にもう一度ここを訪ねてくれますか?」
「ええ。では、また後程」
「おっちゃん、じゃーな!」
「失礼する」
まだ呆然とするブルムさんは、一応は手を振って見送ってくれた。
「奴め、あんな綺麗なお嬢さん方が娘という事は、どんな手段で別嬪な嫁を……」
顎に手を当てて、何やらブツブツと呟いているブルムさんを見ると、説明を理解してくれるかどうかが心配になってきた。
ブルムさんとの待ち合わせの昼までにはかなり時間があるので、相変わらずののんびりしたペースで、目についた店を覗きながら俺達は大通りを歩く。
「ん? ちょっと待って」
女性向けの髪飾りなどを扱っている店に、気になる商品があった。
「へえ。これは綺麗だな」
俺が見ているのは、様々な色の糸とパターンで作られている組紐だ。
「丁寧に作られているな。手も込んでいる」
「綺麗で丈夫そうだねー!」
二人の言う通り、綺麗でいて日常的に使っても、強度は十分そうだ。
「黒ちゃん、白ちゃん、好きなの選んでいいよ」
「「えっ!?」」
俺の言葉がそんなに意外だったのか、驚きの言葉を発すると同時に、二人の動きが停止してしまった。
「なんで食べ物の時には驚かないのに、こういう物だと驚くの?」
「だ、だって、あたい達は別に買って貰わなくったって……」
「俺達の分まで、おりょう姐さんと頼華の分を買えばいいではないか」
なんか二人して、俺の行動の意味がわからない、みたいな反応をされてしまった。
「二人共可愛いんだから、もう少し着飾ったりしてもいいと思うんだけど……なんか変かな?」
「「!?」」
ビクッと、組紐を物色する手を止めた黒ちゃんと白ちゃんは、跳ね上がるような勢いで直立不動になった。
「ふ、二人共……どうかした?」
「「可愛い……可愛い……」」
黒ちゃんと白ちゃんは互いの頭をくっつけるような姿勢で、小声でぶつぶつと呟いている。
「白! こ、これどうかな!?」
「黒! そっちもいいけどこれも……お、俺の方はどうかな!?」
何かに目覚めたかのように、二人は店中をひっくり返すような勢いで、自分にあった組紐をコーディネートし始めた。
「……ま、いいか」
センスの無い俺は、おりょうさんと頼華ちゃんに無難な感じの組紐を選んで勘定を済ませ、二人の気の済むのを待つ事にした。
結局、黒ちゃんも白ちゃんも、最終的にどうしても一つに絞り込めなかったので、色の組み合わせや長さの違う物を三種類ずつ買ってあげた。
「ひ、一つでいいからぁ!」
「主殿に、無駄な散財をさせる訳には!」
二人共、俺に縋り付いて懇願する割には、一つには決められないので、その場で二本は髪に結んであげて、残りは手に握らせた。
「毎度どうもー!」
店員に見送られた俺の腕に、黒ちゃんがぶら下がるようにして腕を絡める。白ちゃんの方は、恥ずかしそうに反対側の服の袖を摘んでいる。
「えへへー!」
「こ、これで、文字通りの紐付きにされてしまったのだな……」
さんざん渋った割には、黒ちゃんは満面の笑みで、白ちゃんも微笑みを浮かべながら、時折、髪に結ばれた組紐に手で触れている。
「紐付きって……元々、魂が結ばれているみたいなもんでしょ?」
「それはそうなのだが……主殿に散財させたのは本当に申し訳ないと思っているが、これ程心が躍るとは……」
(こんなに喜んでくれるんだったら、もっと早く何か買ってあげれば良かったな)
思えば食べ物や実用品以外は、自分に必要が無いので気が回っていなかった。
「御主人、似合うー?」
「黒ちゃんも白ちゃんも、良く似合ってるよ」
「ほんと!? えへへー」
「……」
お陽様のような笑顔の黒ちゃんと、真っ赤になって顔を伏せる白ちゃん。反応の仕方は違うけど本当に嬉しそうにしてくれている。
「む! 主殿!」
急に真顔になった白ちゃんが、俺の耳に口を寄せて、真剣な口調で囁いた。
「どうかした?」
「あれだ……」
白ちゃんの視線の先には、露店にしゃがみ込んで商品を物色している男性がいて、それを背後から見下ろしている別の男性がいる。
(あれは……物盗りか?)
その背後に立つ男性の様子に少し不自然な物を感じて、俺は白ちゃんの言いたい事を察した。
(白ちゃん、黒ちゃん。あの男の他に、周囲に仲間がいると思うから、変な視線で見てたり、不自然な動きをするような人間がいたら、教えてくれるかな)
俺は念話で二人に伝えた。
(場合によっては捕まえる)
(承知した)
(おう!)
顔を動かさずに周囲を見回しながらも、俺達はペースを変えずに歩き続ける。
すると、俺達が通る事によって道からの影になったのを見計らって、露店を物色している男性から、背後に立っていた男の手で財布が抜き取られた。
「おっと。待って下さい」
「なっ!? 何しやがる!」
歩き過ぎると思っていた俺が、いきなり手首の辺りを掴んだので、驚いた男は盗んだ財布を地面に落とした。
「この財布、あなたのですよね?」
「え……あっ!?」
唐突に背後から掛けられた俺の声に、しゃがんでいた男性は何があったのかわからないという表情だったが、地面に落ちた財布を見てから自分の懐を探ると、ようやく事態を飲み込んだのだった。
「ど、泥棒ーっ!」
「ちぃっ! は、離しやがれ!」
「逃がす訳無いでしょう?」
盗人は必死に俺の手を振り払おうとするが、掴んだ位置からまったく動かす事が出来ないのに気がついて、顔中からブワッと脂汗を吹き出した。
「くそっ! 喰らえ!」
男はやけくそ気味に、懐から出した短刀で突き掛かってくるが、頼華ちゃんと比べればあまりにもお粗末なので、俺は余裕を持って短刀の刃を摘んで攻撃を封じた。
「こいつー! よくも御主人に!」
「黒ちゃん、周囲の警戒を忘れないで!」
「ご、ごめんな……いたーっ!」
「あいつもだな」
俺が攻撃を受けた事で我を忘れそうになった黒ちゃんだが、少し注意したら役目を思い出し、怪しい動きや目配りをしていた人間を、白ちゃんと共に追い始めた。
「店主さん。盗人を捕まえましたから、お役人を呼んでもらえますか?」
「あ……は、はいっ!」
自分の露店の前で唐突に始まった捕り物に見入っていた店主は、立ち上がると周囲を見回して、隣の露店の店主と言葉を交わしてから通りを走っていった。
「くっそ……離せって言って……」
「これ以上抵抗するなら……折りますよ?」
「ぐぁっ!」
手首を掴んでいる手に少し力を入れると、男はくぐもった声を上げ、苦痛に耐えかねたのか短刀を持つ手を離した。
「ほひゅひんー! ふははへはー!」
どうやら捕まえたと言っているらしい黒ちゃんが、両手で若くて大柄な男を一人ずつと、口で帯を咥えて初老の男をぶら下げて戻ってきた。
「こら。暴れるんじゃない」
「あ、あたしが何したってんだい?」
「おいらは、なんにもしてないよ!」
白ちゃんの方は、後ろ手に縛った目つきの良くない若い女と、まだ十才にもならなそうな男の子を担いで戻ってきた。
「くっ……」
黒ちゃんと白ちゃんが連れてきた顔ぶれを見て、観念したように捕まえた男が地面に膝をついた。
「盗人はどこだ!?」
丁度その時、人垣を分けて身なりの良い二本差しの武人が、数人の手下だと思われる人間を連れてやって来た。




