具足海老
「ねえ良太ぁ。こっちの着物とこっちと、どっちが似合う?」
青地に花をあしらった柄の着物と、赤地に数色の格子柄の着物を持って、おりょうさんが俺に尋ねてきた。
「うーん……おりょうさんなら、どっちも似合いますよ」
どちらも甲乙つけがたいので、おりょうさんへ曖昧な返事をした。
午後の空き時間を利用して、おりょうさんと俺は内宮の門前町の店を見て回っている。頼華ちゃんは昨日と同じ様に、黒ちゃんと白ちゃんが連れ出してくれた。
「あ、ありがと……って、適当に言って誤魔化してるんじゃないのかい?」
「いや、決してそんな事は……おりょうさんって素材がいいから、なんでも似合って見えるんですよ」
「っ! そ、そうかい?」
(ファッションに疎い俺に、着物の良し悪しを訊かれてもなぁ……)
高いか安いかというのは、生地の素材の違いで見た目からわかるのだが、着る人に合っているかとか、好みに合致しているのかなどのセンス的な部分には、俺は全く自身が無い。
「悩んでいるなら、両方買いましょう」
「そ、そんなに気軽に言うけど、安くないんだよ?」
襦袢なんかもダメになってしまったので、一揃え買う必要があるのだが、無いと困る物なので、俺自身はあまり金額を気にしてはいない。
「椿屋さんでも代官所でも、俺に付き合って働いてくれてますから、給金代わりだと思って下さい」
宿泊費や食費は無料なのだが、接客を教えるおりょうさんや、作法を教えたり、朔夜様に稽古をつける頼華ちゃんは無給で働いている。
手伝いをしてくれる黒ちゃんと白ちゃんも含めて、その点はどこかで報いなければと考えていたから、丁度いい機会だ。
「着物の色に合わせて、帯も二本買いますか? 選ぶのは任せますけど」
「そ、そうだねぇ……」
もしかしたら観光地である伊勢では、普通よりも着物などの相場が高いのかもしれないのだが、だからとい
ってあり物で我慢して下さいと、おりょうさんに強いるのは論外だ。
「さあ、着物を選んだら、帯留めや櫛なんかも新調しましょうか」
「ええっ!? ちょ、ちょっとぉ、急にどうしたっていうんだい!?」
俺が無理して買い物に付き合っていると、おりょうさんは思っていたみたいだが、それは違う。
センスが無いので選ばされるのは困るが、おりょうさんのような美人が着飾った姿を見るのは大好きだ。それも、俺が買ってあげた物を……自分の物だと出し惜しみしてしまうが、こういう時に使う金は勿体無いと感じないのは不思議である。
「さてと、始めるかな……貞吉さん、手伝いをお願いします」
「へい!」
威勢良く返事をする貞吉さんと共に、厨房に立った。
結局、買い物の方は、途中までは嬉しそうにしていたがおりょうさんが「もういいからぁ!」と、悲鳴をあげるまで続いた。
(おりょうさんは、慎み深いよなぁ……)
などと考えるが、俺の方に変な勢いがついていて、旅先で買うには相応しく無い物まで買ってしまいそうだったので、おりょうさんがブレーキを掛けてくれて良かった。
最終的には普段飲みよりは少し良い酒を夕食時に出すという事で、おりょうさんと俺の双方が満足したのだった。
「先ずは、貝を使った汁物の下拵えからです」
砂抜きしてある浅蜊と蛤を鍋に入れ、水を張って火に掛け、蓋が開いたら火から下ろして貝を取り出す。
別の鍋で、残り少なくなったジャガイモと人参を角切りにした物を乳酪で炒め、小麦粉を振り込んで更に炒めてから牛乳を加えて煮込む。
塩と胡椒で味付けして、ジャガイモが煮溶けたらさやから出したえんどう豆を入れ、殻から外しておいた浅蜊と蛤を戻したら、クラムチャウダーの完成だ。
「へぇ……磯の香りがして、優しい味わいですね」
小皿で味見をしてもらった貞吉さんの表情を伺うと、どうやら悪くない出来のようだ。
「これは食べる前に温めればいいですね。じゃあ次の料理に行きましょう。貞吉さん、これに少しずつ酢を入れながらかき混ぜて下さい」
「わかりました!」
綿実油と卵を混ぜた物の入っている木鉢と、酢と泡立て器を貞吉さんに託し、俺はおりょうさんと歩いてい
る時に目についた食材、伊勢海老の調理に取り掛かった。
「昔はあまり好まれてなかったって、本当だったんだなぁ……」
三十センチくらいの大きな伊勢海老が、二十匹というまとめ買いだったから店主がおまけしてくれたというのもあるのだが、銅貨で十五枚というのは俺からすれば投げ売り価格だ。
姿形が防具の具足ににているところから、武士には好まれたらしいが、車海老や芝海老などと比べると処理が面倒なので、海老の王様みたいな扱いになったのは、元の世界の戦後からと聞いている。
「親方、何か言いましたか?」
「いえ、なんでも……」
貞吉さんに問い掛けられて我に返り、料理に集中する。まだ生きていて大暴れする伊勢海老を、縦に二つ割りにして、軽く塩を振って、バターの小さな塊を載せる。
「親方、こんなもんでいいですか?」
分離せずにいい具合に混ぜ合わされて、貞吉さんが自家製マヨネーズを完成させてくれた。
「いい出来ですね。ではそれを載せて……」
出来上がったマヨネーズを匙で伊勢海老に少量掛け、砕いた麸を散らしてから、取っ手付きの網に載せる。
「そいつは焼くんですか?」
「ええ。でも、竈の上じゃなくて……」
火の入っている竈の薪を並べ直し、出来た空間に熱さを我慢して網を入れて保持する。
「か、竈の中で焼くんですか!?」
残り火で芋を焼くくらいはするのだろうが、貞吉さんの反応を見ると、こういう竈の使い方は邪道なようだ。
(オーブンの代わりになるかと思ったけど、大丈夫そうだな……)
熱効率が良くなるように作られている竈の中は、薪オーブンと同じ様に輻射熱の利用が出来るので、火の通りが早いだけでは無く、上下左右のあらゆる方向から食材を加熱する。
「出来たな。次を……」
焼き上がった伊勢海老の第一陣を皿に盛り付け、次を網に載せて竈へ入れる。
「親方、同じ焼き加減でいいんでしたら、残りはあっしがやりますよ」
「ああ。助かります。じゃあ俺は他の料理を」
買ってきた酒を徳利に注いで燗をつける用意だけしておいてから、次の料理に取り掛かった。
「それじゃあ、運びましょうか」
「へい!」
既に阿吽の呼吸が出来つつある貞吉さんとの共同作業だったので、以前に作った事のある料理は、あっという間に完成した。
「お待たせー」
「待っておりました!」
「キター!」
本当に待ち遠しかったようで、頼華ちゃんと黒ちゃんは目を輝かせてそわそわしている。
「松永様、酒を用意しましたけど、御飯は食べますか?」
「そうだなぁ。じゃあ一膳だけ貰うか」
確認をした松永様の分を含め、全員分の御飯とクラムチャウダーが行き渡った。
「それでは、頂きます」
「「「頂きます」」」
メニューの予告をしていたので、少しだけ落ち着きの無い朔夜様の号令で夕食を開始した。
「これが、乳酪を使った料理なのですね……っ!? の、濃厚な牡蠣が、更に濃厚に!? この醤油と一緒に香るのが乳酪の風味ですか。むぅっ! こ、こっちの浅蜊も美味しいっ!」
乳酪醤油焼きの牡蠣と、角切りの白身魚と浅蜊の酒蒸しを、乳酪と醤油で仕上げた料理を口にして朔夜様の目が丸くなり、次いで表情が蕩けた。
「ううう、乳酪と醤油は魔物……ご、御飯が欲しい!」
「浅蜊も牡蠣も、こんなにうまいのに、御飯が……御飯が足らないよぅ」
料理自体には満足してくれているようなのだが、ペース配分を間違ったのか頼華ちゃんと黒ちゃんは、まだおかずがたっぷりあるのに、茶碗の御飯を食べ尽くしてしまったみたいで、悲しそうな顔をしながら箸を齧っている。
「おりょうさん……」
「まったく……仕方ないねぇ。あと一杯だけだよ? それと、行儀良く食いな」
「「はいっ! お代わりぃっ!」」
物凄いシンクロ率で、頼華ちゃんと黒ちゃんが同時に茶碗を差し出してきた。
落ち込んでいた表情が一瞬で輝くのを見て、茶碗を受け取る俺は苦笑するしか無かった。おりょうさんには内緒で、少し盛りも多くしてあげよう。
「うん、うまい! 飯が進む味だが、こいつにはやっぱり……っかー! たまんねえな!」
一口ずつ料理を味見しながら御飯を片付けた松永様は、いそいそと徳利から酒を注いで、グイッと飲み干すと大きく息をついた。
「おい鈴白。この酒は代官所にいつも置いてある酒じゃねえな?」
「ええ。おりょうさんも飲みたいって事で、出掛けた時に買ってきた物です」
酒の相場がわからないので、漠然と高めの酒を買ったのだが、松永様が味の違いがわかるくらいには良い酒だったようだ。
「そうか。姐さん、御相伴に預からせて貰うぜ」
「そんな……お金を出したのはあたしじゃ無いですから、礼なら良太に」
酒盃を掲げて礼を言う松永様に、おりょうさんは恥ずかしそうに少し目を伏せた。
「さあ、おりょうさんも」
「あ、ありがと……」
俺が徳利を持つと、おりょうさんが両手で酒盃を捧げ持った。
「い、頂きます……はぁー。こいつは、本当にいい酒だねぇ。良太、ありがとうね」
「その言葉で、全て報われますよ」
調子に乗ってあれこれ買った俺に、少し引け目が合ったようだが、キュッと酒盃を干したおりょうさんは、実に晴れやかな顔をした。
「酒だけじゃなくて、料理も食べて下さいね?」
「わかってるよ! さあて、じゃあこの海老から行こうかねぇ♪」
箸を手に取ったおりょうさんは、意気揚々と食事に取り掛かった。
「へぇ。あんまり見ない海老だけど、うまいもんだねぇ。この上にかけてある白いのの酸味と、ミソの味がなんとも……」
「あんまり見ませんか?」
「江戸ではお目に掛からないねぇ」
元の世界では、房総辺りに専門漁をやっている地域もあるのだが、どうやらメジャー品種では無いようだ。
「具足海老ですね。りょう殿が言われるように、微かな酸味と乳酪の風味が……確かに乳酪とは、素晴らしい調味料のようです」
どうやら伊勢海老ではなく具足海老と呼ぶようだ。憶えておこう。
「牛乳が手に入ったら、乳酪の作り方もお教えしましょうか?」
「それは是非! あの、ぷりんというお菓子と、氷菓でしょうか? あれも教えて頂ければと……」
おりょうさんと松永様が飲んでいるのに酒を所望しないところを見ると、飲めないのかまでは不明だが、どうやら朔夜様は甘い物の方がお好きなようだ。
「お安い御用です。材料さえ揃って分量を間違えなければ、難しい物はありませんから」
店出しのレシピを作る時以外は、全部目分量で料理をしている俺が言うのもおかしな話ではあるが……。
「鈴白様。これ、織田屋敷へ提出する書状です」
夕食を終えて、食器を片付けてお茶を淹れていると、朔夜様が懐から折りたたんである書状を取り出した。
「これを門番に渡せば、話を通してくれるでしょう」
「ありがとうございます」
「あと、念のためにこれを……」
朔夜様は、食事中は脇に置いてあった実休光忠を手に取り、鞘から何かを外して俺に差し出した。
「これは?」
「この刀の小柄です。織田の紋が入っているので、疑われるような事があった場合には、これを見せて下さい」
(小柄というと、確かポケットナイフ的な物だったか? 確か時代劇では、手裏剣的な使い方もしていたような)
刀の鞘に付けられた小柄は、細かな作業や手入れなどに用いられる、幅が一センチ程度の刃物だ。
朔夜様の言う通り、有名な織田家の五つ木瓜の紋が彫り込まれている。
「ありがたくお借りします」
(小柄か……こういう万能タイプの刃物は、持っていてもいいな)
こっちの世界に来た時にナタと手斧は貰ったが、他には刀の巴と鎖付き苦無の羂鎖、料理用の柳刃と鰻裂きを所持しているのだが、元の世界のカッターナイフやポケットナイフのような、手軽に使える刃物を持っていないのに気がついた。
(小型のフォールディングナイフなんかは売っていないだろうけど、ちょっと探してみるかな)
必需品という訳では無いが、持っていれば確実に便利なアイテムなので、購入を前向きに検討しよう。
「いえ。しかし、本当にどうやって牛の乳をお運びに? 六日もあれば往復可能ではありますが……」
「多分、明日の夕食には戻ってこられると思います」
「……は?」
俺の言葉を聞いて朔夜様の顎が、かくんと落ちた。
「どどど、どうやってですか!?」
「朔夜様、落ち着いて下さい。えーっと……ちょっとした加護や権能の類だと思って頂ければ」
「い、韋駄天の早飛脚を使っても、ここから那古屋まで一日では難しいんですよ!?」
韋駄天の速度アップの加護は、脚は早くなっても飛脚の体力の現界がある。当たり前だが人間は、それ程長時間走り続けられる訳では無いからだ。何事にも例外は存在するが……。
通常、整備されている街道を一般人が移動出来るのは、一日に平地を四十キロ程度と言われているので、仮に韋駄天の加護で倍速で走れたとしても、リレー方式で無ければ那古屋までの約百四十キロを、丸一日で踏破するのは難しいだろう。
「大丈夫だとは思うんですが、最悪でも黒ちゃんか白ちゃんのどちらかを帰しますので。それは確約します」
トラブルに巻き込まれたり、足止めを食らったりという事は考えられなくもないので、一応は予防線を張っておこう。
「……わかりました。鈴白様を相手にして、常識的に考える方が間違っているのですね」
「何か凄く失礼な事を言われた気がするんですが!?」
こうなると、鰻料理を出す許可を得るために、黒ちゃんが短時間で江戸と往復した話なんかしたら、朔夜様が燃え尽きてしまいそうだ。
「朔夜様。そこはほら、良太のする事ですから」
「ああ。鈴白のする事じゃ、仕方ねえなぁ」
「おりょうさん!? 松永様!?」
食事が終わっても、まだ酒盃を傾け続けているおりょうさんと松永様が、御機嫌な様子で俺の事を評した。
「朔夜ぁ! 兄上のする事に、いちいち驚いているんじゃない!」
「は、はいぃっ!」
「頼華ちゃんまで!?」
全然弁護になってない事を頼華ちゃんが言うが、朔夜様は素直に受け入れてしまっている。
「そうだぞー! 御主人のする事は全部受け入れろー!」
「ぜ……全部、ですか?」
「何もしませんよ!?」
何故か朔夜様は頬を鮮やかな朱に染めて、俺を見つめている。
「安心しろ朔夜。お前の順番は五番目だ」
「ご、五番目ですか!?」
「何をどう安心するの!?」
このまま放置すると何を言い出すかわからないので、頼華ちゃん達には茶請けを出して、お酒組には新たな酒肴を用意した。
「那古屋には「界渡り」の目標に出来る場所はある?」
夕食後、明日の外出の打ち合わせをするために、黒ちゃんと白ちゃんに俺の部屋まで来てもらった。
「おう! でっかい神社があるよ!」
「熱田神宮だな。織田屋敷があるという那古屋とは、それ程離れていないぞ」
白ちゃんの説明によると、熱田神宮のある場所から織田屋敷のある那古屋までは、約二キロ程度らしい。
「それなら楽に移動出来そうだね」
伊勢湾沿いに進む約百四十キロの行程を界渡りで短縮出来るので、熱田神宮からの残り二キロ程度の移動は、那古屋を見て回るには丁度良さそうだ。
「では、午前の鍛錬が終わったら出発か?」
「うーん……それでも時間的には余裕がありそうだけど、どうせなら明日は休みにして、朝食後すぐに行こうかな」
三日ごとに休みを入れるつもりでいて、明日はまだ二日目なんだが、特にどこにも迷惑は掛からないだろう。
「本来は伊勢で働く予定なんか無くて、物見遊山の旅だったはずだしね」
「主殿がいいのなら、俺は構わんぞ」
「なんか面白い物あるかな!?」
とりあえずは白ちゃんも黒ちゃんも、朝から動く事に関しては異存は無さそうだ。
「伊勢も観光で栄えてるけど、尾張織田の本拠地の那古屋も、賑やかなんじゃないかなぁ」
「楽しみだね!」
「黒。主殿の手伝いが主目的だからな?」
「うっ! わ、忘れて無いよっ!」
白ちゃんに注意された黒ちゃんが狼狽えながら、慌てて弁解する。
「時間に余裕がある分、色々見て回るつもりだから、二人共気楽にしてていいよ」
「ほらー! 御主人もこう言ってるぞ!」
「お前……本当にわかっているのか?」
調子に乗る黒ちゃんを、白ちゃんが呆れたように見ている。
「あはは。黒ちゃんも白ちゃんも、仲良くしてね」
一応、二人を注意はしたが険悪な感じは無くて、俺の目にはじゃれ合っているようにしか見えない。
「はーい!」
「むぅ……騒がしくしてすまなかった」
(俺も那古屋はどんな感じなのかってワクワクしてるから、黒ちゃんと白ちゃんも遠足の前日みたいな心境なのかもしれないなぁ)
「それじゃ話は終わり。二人共おやすみ」
「ねえねえ御主人!」
「ん? まだ何かある?」
畳に両手を付いて、黒ちゃんが俺に向かって身を乗り出してきた。
「せっかく御主人の部屋に来たんだから、今日はこのまま一緒に寝ちゃダメ?」
「えっ!?」
積極的にスキンシップをしてくるが、黒ちゃんと白ちゃんは部屋に押しかけてきたりした事はこれまで無かったので、この申し出にはちょっと驚いた。
「おい黒。主殿の迷惑も……」
「むー! じゃあ白は、御主人と一緒に寝たく無いのか!」
「うっ!」
(白ちゃんも、願望はあるのか……)
黒ちゃんに指摘されて言葉に詰まる白ちゃんの顔は、珍しい事に明らかに動揺している。
「まあ、いいかな……」
おりょうさん達が何か言ってくる事も考えられるが、もしかしたら既に寝ているかもしれない。
「ほんと!? やったー!」
「黒ちゃん、夜だから静かにね?」
「むぐっ!」
俺が注意すると、黒ちゃんは慌てて手で口を塞いだ。
「あはは。あ、でも、これから風呂に入ろうかと思ってたんだ。もう少し寝るのが遅くなるけど、いいかな?」
「なら、あたい達一緒に!」
「せ、背中を流すか?」
「いや、ここの風呂は男女別だから」
言ってくるかと思っていたら、二人共案の定だった。
「えー……」
「誰か他の人が入ってくるかもしれないから、ね?」
黒ちゃんが不満そうにするのを宥める。
「主殿が添い寝を許可してくれたのだから、これ以上文句を言うのは不敬だぞ?」
「むー……わかったぁ。早く帰ってきてね!?」
「あはは。なるべく早く出てくるね」
白ちゃんに言われて、渋々ながらも納得した黒ちゃんの頭を撫でながら、俺は部屋を出て風呂へと向かった。
「那古屋か……どんな街かなぁ」
どんだけ楽しみにしてるんだと突っ込まれそうだが、自覚している以上にワクワクしているようで、湯に浸かった途端に独り言ちてしまった。
(大坂にいくつもりだったのに、成り行きで鳥羽から伊勢に来ちゃったんで、ワクワクする間が無かったのが悪いんだな。うん。そうに違いない)
伊勢にも来たいと思ってはいたが、天照坐皇大御神様による外的要因で、半ば無理矢理来た感じなので、なんとなく「これじゃない感」があるのだ。
(あんまりこういう考え方をしていると、天照坐皇大御神様が悲しむだろうから、これくらいにしておこう)
(しくしく……)
「えっ!?」
背後で女性の啜り泣くような声と気配がしたようだが、振り返っても誰もいない。
「あー……」
幻聴かもしれないが、なんとなく心当たりがあるので、時間が取れたら内宮に詣でようと心に誓った。賽銭は多めに入れよう。
「……出るか」
「失礼致します……」
身体を洗うために湯船から出ようとすると、風呂場の扉が開いた。
「さ、朔夜様!?」
「お、お背中を流しに参りました……」
手拭いを持った朔夜様が、腕で胸元と脚の合わせ目の辺りを隠しながら、顔を真赤にしながら立っている。
引き締まっているが筋張った感じは無く、胸は腕では隠しきれない程に豊かで、綺麗にくびれた腰から脚に
掛けては優美なラインを描いている。
「な、なんでですか!?」
立ち上がっていた俺は慌てて湯船に座り直し、朔夜様に背を向けた。
「黒殿と白殿が鈴白様の部屋にお入りになるのを見たら、胸が痛みまして……その後、風呂に向かうお姿が見えたものですから、つい」
「ついで、しないで下さい!」
「そんな事を仰らないで……」
いつの間にか、入り口に立っていたはずの朔夜様の声が、すぐ後ろから聞こえてくる。
「恥をかかさないで下さい……」
「いや、しかし……」
「……大声を」
「わかりました……」
神仏の前で嘘をついていないという宣言は出来るので、朔夜様に濡れ衣を着せられる事は無いのだが、騒ぎを聞きつけて頼華ちゃんや、一緒に入浴をするのを断った黒ちゃんが来たりしたら、我も我もと言い出すのが目に見えている。
ここは騒ぎを大きくしないために、朔夜様の申し出をある程度までは受け入れるのが得策だ。
「まあ……思っていた通り、引き締まったお身体で素敵……」
手拭いで前を隠しながら湯船から出る俺を見て、朔夜様がうっとりと溜め息をつく。
(なんだかなぁ……)
無駄に毎日拳法の套路をやっていたお蔭で、殆ど余計な肉はついていないのだが、それでも見惚れられるような立派な身体をしている自覚は無い。
「じゃあ、お願いします……」
どうにもままならない状況に少し憮然としながら、俺は朔夜様に背を向けて腰を下ろした。
「失礼致します……あれ程の事がお出来になるのに、鈴白様のお身体は、格別に鍛えられているという感じではありませんね」
「それはまあ、俺は武人ではありませんから」
少し失望させてしまったのか、朔夜様は意外そうに呟きながら背中を洗ってくれている。
「何か特別な鍛錬をなさっているのですか?」
「うーん……この間、少し教えた拳法の型を、毎日やっていただけなんですけどね」
「それは、どれくらいの期間ですか?」
「型は……十年くらいかな? 呼吸法も同じくらいです」
記憶では小学校に入ってすぐくらいからだから、多分間違ってはいない。
「じゅ、十年ですか!?」
「ええ。でも、まだまだ思うようには出来ません」
アルバイトでもして、ちゃんとした指導者がいる道場にでも通おうかと思っていたのだが、その矢先にこっちの世界に来てしまったので、夢は破れた。
(あ、でも、こっちの世界でも大陸に渡ったりすれば習えるかな? 言葉の壁が無いから、老師を探すのもいいかも)
「で、では鈴白様、前の方を……」
「い、いや、前までは!」
少し考え込んでいる間に背中は洗い終わったらしいが、朔夜様がとんでもない事を言いだした。
「そ、そんな事を仰らずに……私、こうして好きな殿方のお身体を洗える日を、心待ちにしていたのです」
「す、好きって、俺をですか?」
頼華ちゃんやおりょうさんよりも強いという事で、ある程度の畏怖を感じているだろうとは思っていたが、朔夜様に好かれていると言われるのは意外な気がした。
「椿屋の一件の取り調べで、初めてここでお会いした時に、お話しましたが?」
「あの、自分よりも強い相手で無ければ嫁にって、あれですか?」
「絶対に逃さないとも、申し上げました……」
耳元で呟いた朔夜様は、俺の背中に自分の身体を押し付けながら、両腕を前に回して抱きついてきた。
(む、胸が!?)
柔らかな物が押し潰される感触と、早鐘を打つ心臓の音が背中から伝わってくる。
「さ、朔夜様。俺は定職も無い風来坊で……」
自分で言っていて悲しくなるが、事実なので仕方がない。
「私と一緒になって下されば、鈴白……良太様ならば、伊勢の代官どころか、尾張を束ねるお人にも」
「いや、そんな……」
同じような事を鎌倉でも言われたが固辞したので、万が一にもここで受けたりしたら、源の一族郎党に呪われてしまう。
「私の事……お嫌いですか?」
「そんな事は無いですけど……」
ファーストコンタクトでは「厄介そうな人だなぁ……」という印象だったが、頼華ちゃんとの対戦後は物腰も丁寧になって、むしろ常識的な人なのかと思っていたが、心の奥底の方は出会った時のままだったみたいだ。
「さ、さあ。良太様でしたら、私の闘気の防御など物ともせずに、見事に純血を散らして下さることでしょう!」
「そ、そういう物なんですか!?」
朔夜様の言葉を信用するなら、初めての行為は敵対的と受け取り、気の防御行動が発動されてしまうようだ。
(もしかして、おりょうさんや頼華ちゃんも、その辺では苦労するのかな?)
緊張感が漲る中、現実を逃避するようにそんな事を考えてしまう。
「左様です。私が自分よりも強い相手を求めていたのは、ただの我儘では無くて、ちゃんと理由があったのです!」
「そこを前面に押し出して、迫られても困るんですけど!?」
パワーの差は歴然なので、朔夜様を振りほどくのは簡単なんだが、俺の胸の辺りを這い回る手や、背中にグイグイ押し付けられる柔らかな物体のおかげで、どうにも力が入らない。
「うふふ……そうです。そのように、流れに身をお任せになって下さいませ」
ダメだとは思うのだが、うなじに掛かる熱い吐息に思考を邪魔される。
「さあ、力をお抜きになって……」
「風呂だ風呂だー! っと……」
朔夜様の手が、胸から下方に移動を開始したように思ったら、唐突に入り口の木戸が開かれた。松永様の手によって。
「あー……俺にはお構いなく」
「で、出来るかぁーっ!」
松永様なりに精一杯に気を遣ったのだろうが、朔夜様は手拭いを拾って身体の前を隠すと、一目散に浴場から出ていった。
脱衣所で少し物音が聞こえたと思ったら、すぐに廊下に面した木戸を開ける音がしたので、朔夜様は脱いだ
着物をちゃんと着ずに、拾い上げただけで出ていったみたいだ。
「その、なんだ……なんかすまん」
呆気にとられていた松永様だが、悪い事をしたと思ったのか、俺に謝ってきた。
「いえ。その……助かりました」
「そうか……」
俺の言葉の意味を、松永様は察してくれたようだ。
「鈴白よ」
「はい?」
「嫁に貰ってやれよ」
「すいません。無理です」
「そうか」
短い言葉のやり取りの後、小さく溜め息をついた松永様は無言で湯船に浸かり、その後は何も言わなかった。
「失礼します」
身体を流した俺は、無言のままの松永様に一礼して、浴場を後にした。




