最強と不敗
「御主人すんげー!」
「恐ろしいものだな……」
それまで黙って見ていた黒ちゃんが歓声を上げ、白ちゃんは重い溜め息のように言葉を吐き出した。
「確かに凄いのですが、頼華殿の申されるように、参考にはなりそうにありませんね……」
「朔夜の申す通りです!」
尻餅をついた朔夜様を助け起しながら、頼華ちゃんが俺に抗議する。
「いや、型を反復練習するだけなら……」
単調な基礎の反復練習は、全ての武術の基本だろう。
「もっとこう、基礎の基礎くらいからにして頂かないと、私には無理そうなんですが……」
朔夜様が、すっかり怖気づいてしまっている。
(特別にいいところを見せようと思って、力を入れたりした訳じゃ無いんだけどなぁ……)
とは言え、自分で思っていた以上に震脚の威力があったのは間違い無いので、今後は使い方を考えないと、取り返しの付かない事になってしまいそうだ。
「基礎の基礎か……なら、馬歩かなぁ」
「馬歩ですか?」
聞いた事が無いのだろう、頼華ちゃんが首を傾げる。
腕を正面に伸ばして脚を開き、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま中腰の姿勢を維持する馬歩は、幾つかの中国武術に共通する基礎の鍛錬法だ。
「こんな感じで……最初は膝が震え出すくらいまでやって、毎日少しずつ時間を伸ばしていくんだ」
馬歩は最初の基本的な型を始める前もその後も続ける、正に基礎の基礎だ。
「もしかしてですが、馬に乗っているような格好だから馬歩なんですか?」
「うん。そういう由来だって聞いてる」
俺が最初に馬歩を知った時には、馬って四足歩行だろ? とか思ったんだが、乗馬も出来る頼華ちゃんにはすぐに由来がわかったようだ。
「では余もやってみましょう。朔夜、始めるぞ!」
「は、はいっ!」
頼華ちゃんは自然に背筋の延びた構えを取ったが、朔夜様は上半身が前に傾き、腰の引けたような構えになってしまっている。
「朔夜様、もう少し顎を引いて、背筋を伸ばして下さい」
「こ、こうですか?」
「今度は背を反らしちゃってますね……失礼します」
「あ……」
脚の位置を変えないように手で押さえ、肩を少し押して姿勢を整えたら、何か意識してしまったらしく朔夜様が、頬を赤らめて小さく声を漏らした。
「朔夜ぁっ! 集中しろぉ!」
「っ!? は、はいぃ!」
頼華ちゃんから鋭い声が飛ぶと朔夜様は視線を泳がせ、逆に集中を乱してしまっている。
「んー……ちょっと失礼しますね」
「な、何をなさるので?」
背後に回った俺が両肩に手を置くと、朔夜様は不安そうに尋ねてきた。
「静かに……ゆっくりと、下腹部に意識を集中して、鼻から息を吸って口から吐いて下さい」
「は、はい……すぅー……はぁー……」
最初のうちは意識も呼吸も乱れていたが、武人である朔夜様は集中力を発揮して、すぐに落ち着きを取り戻した。姿勢の方も、不思議と良くなっている。
頼華ちゃんの急激な成長の要因を考えて、猪口齢糖を食べた時の状態異常の回復と、鎌倉で白ちゃんを捕らえるのに弓を使った時に、俺と気を同調させた事なのではないかと思い至ったので、少し試してみる事にした。
(やっぱり、少し滞りがあるな。これの通りが良くなれば……)
武人である朔夜様は当然、闘気を戦闘に使えるのだが、頼華ちゃんより年齢が上なので、鍛錬による成長がもっとあるはずなのだが、これ程極端な量と質の差があるのは明らかに不自然だ。
流派によっての違いはあるが、中国武術では基礎を終えて、内功という身体の中の「気」を鍛える段階に入るのだが、もしかしたら朔夜様の習った武術には、こういった段階が無いか重要視されていないのではないかと考えられる。
(腰の辺りから首までの間がボトルネックになっている……朔夜様に呼吸を合わせて、俺の気の流れも利用すれば)
背後にいるので呼吸時の胸の動きは見えないが、微かな身体の動きからタイミングを図って朔夜様に合わせ、呼吸と共に互いの気も同じ物だと想念していく。
(少し荒療治だけど……今だ!)
呼気から吸気になり、再び吐き出される前に、朔夜様の腰から頭へ気を一気に上昇させる。
「あっ!?」
身体の内面の変化に戸惑って朔夜様が声を上げるが、急に流れを止めると悪くない影響があるかもしれないので、半ば無理矢理呼吸と気を同調させ、乱れないようにする。
「はい、やめ」
呼吸と気が落ち着き、太くなった通り道を安定して気が行き来しているのを確認して、朔夜様の肩をポンと軽く叩いて馬歩の姿勢を解かせた。頼華ちゃんも脚を伸ばす。
「む? 朔夜が、急に強くなっている!?」
頼華ちゃんが、朔夜様を見つめながら首を傾げた。
「わかるの?」
「むむ……ついさっきまでと比べて、闘気の量と質が明らかに変わっています!」
鎌倉で一緒に白ちゃんを捕らえた時には、頼華ちゃんには気を視る事は出来なかったはずだから、この場合は気配の変化のような物を感じ取っているんだろう。
「な、なんか自分でも、身体が軽くなっているのを感じます!」
全身の気の巡りが良くなったので、身体能力が向上したのだろう。数分間の馬歩による脚への負担も、朔夜様は感じていないようだ。
「わ、私の身体の、何をどうされたんですか?」
自分の身体の変化に戸惑っているのか、おろおろしながら朔夜様が俺に問い掛けてくる。
「別に身体をどうかした訳じゃ……闘気の通り道に滞りがあったので、そこを開いたんです」
「闘気の通り道?」
「ええ。血液の通り道の血管を同じ様に、闘気にもそういう物があるんです」
まだ経絡とかの概念が伝わっていないのか、朔夜様は説明してもピンと来ないようだ。
「細かった通り道が太くなったので、大きな力を発揮出来るようになりますけど、今度は気をつけないとすぐに消耗してしまいます」
攻防に使用出来る気の量が増えたので、それだけ効果はアップするが、総量の増加と無駄に使わないためのコントロールを憶えないと、あっという間にガス欠になるだろう。
「成る程……」
この説明は納得出来たようで、朔夜様が頷いた。
「やっぱ御主人すんげー! 朔夜を弄って強くしちゃった!」
「弄って、って……」
なんとも人聞きの悪い事を、黒ちゃんが言い出した。
「そ、そうなのですね。鈴白様に、身体の中から弄られて……」
「いや、あの……手は肩に置いてましたよね?」
自分を抱くようにしながら朔夜様が頬を赤らめたりするので、何もやましい事はしていないのに弁解してしまった。
「むぅーっ! 兄上! 余の事も弄って下さい!」
「そういう事を大きな声で言うんじゃありません!」
幸いな事に鍛錬場には俺達しかいないが、頼華ちゃんの声は建物の中の人にも聞こえそうな程に大きい。
「なんで朔夜は弄って、余は弄って下さらないのですか!」
「弄ってないですからね!?」
そもそもが頼華ちゃんと気同調させたのをヒントにしているので、同じ事をしても効果があるとは思えない。
(あ、でも、猪口齢糖の状態異常を治した時と、白ちゃんを捕まえる時に気を同調させたのは、弄ったのと同じなのか?)
検証例が少ないので断定は出来ないが、頼華ちゃんのパワーアップはこの辺が切っ掛けになっている線が濃厚だ。
「あたいも弄ってもらったら強くなるかな?」
「是非とも俺もお願いしたいが……」
「黒ちゃんと白ちゃんは、少し黙ってようね?」
気で構成されている黒ちゃんと白ちゃんに、経絡のような物があるのかどうかもわからないが、エネルギー総量が増えるだけでパワーアップするんだから、どちらかと言えば人間体に於いての技術面を向上させる方が、戦闘力アップには効果的だろう。
「……なんか朝っぱらから、色っぽい話になってるみたいだねぇ」
「おりょうさん!? す、すいません。騒がし過ぎましたか?」
いつの間にか、代官所の一室で接客の指導をしているはずのおりょうさんが、鍛錬場を見渡せる縁側に佇んでいた。
「騒がしかったのは、主に頼華ちゃんと黒だけどねぇ……」
「あ、姉上っ!? 申し訳ありませんっ!」
「ひいっ!? ね、姐さん、ごめんなさいっ!」
ギロっと、おりょうさんがひと睨みすると、竦み上がった頼華ちゃんと黒ちゃんがペコペコと頭を下げた。
「ふん……良太、ちょっと」
頼華ちゃんと黒ちゃんに向かって小さく溜め息ををつくと、おりょうさんが俺を手招きする。
「……すいません。指導の邪魔をしちゃって」
「そ、それはいいんだよ……その、弄って強くなるってのは、本当なのかい?」
「……は?」
おりょうさんのまさかの言葉に、俺は開いた口が塞がらなかった。
「あの、おりょうさんは今でも、相当に強いですよ?」
戦い方の系統が違うので単純比較は難しいが、鎖付き苦無の羂鎖のような道具を使わなければ、相手を傷つけずに拘束出来ない俺とは違って、流れるように投げから固め技への移行をするおりょうさんは、抜群の制圧力の持ち主だ。
「そ、そりゃ少しは自信があるけど、良太や頼華ちゃんと一緒にいると、まだまだだって思っちまってねぇ……」
「あー……」
おりょうさんが何も武術をやっていなければ感じないのだろうけど、熟練者なので尺度がわかってしまうので、コンプレックスになってしまっているようだ。
「弄るというのとはちょっと違うんですが……使えなかった物を、本来の状態に戻すんです」
「そ、それで、あたしも強くなれるのかい!?」
「えっ!? う、うーん……」
他ならぬおりょうさん自身が、習得している武術の特性をわかっていると思うのだが、攻防に気を用いるタイプでは無いので、どれくらいの効果があるのかは不明だ。
「だ、ダメなのかい!?」
「身体能力が向上するとは思いますが、それ程劇的な効果は見込めないと思います」
「そうかい……邪魔したね」
「あ……」
大きな期待をしていたのか、あからさまに落胆してがっくりと項垂れたおりょうさんは、踵を返すと「トボトボ……」という擬音が聞こえそうな重い足取りで、縁側から屋内へと歩み去った。
「あ、兄上。姉上はどうされたのですか? もしや、余が騒がしかったのが……」
「そうじゃないよ。けど、騒がしくしちゃったのは良くないね」
「も、申し訳ありません!」
「ごめんなさい!」
自覚があったのだろう、チラッと見たら頼華ちゃんに続いて黒ちゃんも謝ってきた。
午前中は剣術の鍛錬はしない事にして、馬歩と呼吸法の併用で、身体の中の気のコントロールの訓練を行った。
見ているだけは飽きたのか、黒ちゃんと白ちゃんも途中から参加した。効果が出るのかは疑問だが……。
「兄上! お腹が減りました!」
「そろそろ昼か……よし。すぐ作るから、手を洗って応接室で待っててね」
「はい!」
「鈴白様。お手数お掛けします」
結構長い時間馬歩を続けたのだが、朔夜様に疲労の色は見られない。明らかに気による身体能力強化の効果が、以前よりも増しているのだ。
「なんか朔夜は、朝ごはんの時とは別の人間みたいになっちゃってるね!」
「黒ちゃんから見てもそう思う?」
「おう!」
「だが、まだ主殿どころか、頼華の足元にも及ばんがな」
黒ちゃんが持ち上げた物を、白ちゃんが無残にも叩き落としてしまった。
「実際問題、朔夜自身が言っている程、厳しい鍛錬とやらは行っていないのでは無いか?」
「それは、俺も思ってたんだけどね……」
例えばランニングにしても、同じ人間がただ走るだけと、目的を持って走り方を工夫するのとでは、一年後には大きな差が出来るだろう。
朔夜様の刀を扱う技術は高いのかもしれないが、様々な術や権能や加護、そして気を利用した戦
闘法がある世界なので、武器の扱いに長けているだけでは、多様な攻撃法や出鱈目なパワーに圧倒されてしまう。
(おそらくだけど、ある程度剣術の訓練をすると闘気を攻防に使えるようになって、そこから磨き上げるという事をしていないんだろうな)
剣術の技術の向上に伴って、攻防に使用出来る気の量と質も上がるとは思うが、付随的な効果と集中的に磨き上げた物では差が出るのは当然だ。
「でも始めた初日で強くなったんだから、御主人の御飯食べたらもっと強くなるよ!」
「ああ。黒の言う通り、まだ初日だったのだな」
どうも武人の基準が頼華ちゃんになってしまうから、朔夜様に同じだけの物を期待してしまうのが良くないのかもしれない。
伸び悩んでいた朔夜様なので、むしろここからの伸び代は大きいと思った方がいいだろう。内包している素質がどれくらいなのかは、やってみなければわからないが。
「それじゃあ、強くなるかはわからないけど、食事を作ろうかな」
「主殿、手伝うか?」
「そうだな、お願い。黒ちゃんもいい?」
「おう!」
午後から執務を行う朔夜様の英気を養うために、黒ちゃん達と食事を作りに厨房へ向かった。
「主殿、昼食には何を?」
「まだ麺と汁があるから、野菜をたっぷり入れた麺類にしようかと思ってる」
「なら、丼だね!」
「うん。白ちゃんは野菜を切ってくれる?」
「承知した」
黒ちゃんが食器類の準備、白ちゃんが材料のカット、俺が麺茹でその他の準備と、作業を分担したのであっという間にセッティングが完了した。
「それじゃ俺は具材を炒めるから、今度は白ちゃんは麺茹でを。黒ちゃんは出来た物を運んでね。熱いから気をつけて」
「任せろ」
「おう!」
一口サイズに切られた猪のロース肉を炒め、すぐに人参、厨房にあった季節が終わりかけの筍を加え、最後に葉物野菜を入れてさっと炒める。
「主殿、麺が茹で上がるぞ」
「ありがとう。一人分ずつ丼へお願い」
「今回は、汁が先では無いのだな?」
拉麺を作った時には、丼に生醤油と鶏油とスープを注いでから、湯切りした麺を入れた。
「今回の料理は、スープに炒めた具材の味も出させるから、違う手順になるんだ」
昨日、拉麺を作るのを見ていたので、白ちゃんには手順が違うのがおかしく見えたのだろう。
「成る程。人の味への探究心というのは凄い物だな」
(言われてみれば、同じ中華の麺料理でも、随分と作り方が違うよな……)
特に意識はしていなかったが、白ちゃんに言われて、改めて納得してしまう。
「出来たよ。黒ちゃんお願いね」
炒めた具材とスープを、丼の麺の上に盛り付けて、野菜たっぷりの湯麺の出来上がりだ。
「おう!」
大きな盆に丼を四つ載せた黒ちゃんは、軽やかな足取りで応接室へ向かった。
「残りは三つだから、俺が運ぼう」
「ありがとう。じゃあ俺はお茶を運ぼうかな」
たまたま同じ場所にいたから手伝って貰っただけなんだが、何往復もして頼華ちゃん達を待たせないで済むから、黒ちゃんと白ちゃんに感謝だ。
「それじゃ皆さん。また手抜きっぽい料理ですけど、どうぞ」
厨房の人達の分の料理を示し、茶器を載せた盆を持った。
「「「ありがとうございます」」」
料理人達の声に送られて、白ちゃんと並んで応接間へと向かった。
「それでは、頂きます」
「「「頂きます」」」
朔夜様の号令で昼食を開始した。
「ん……はぁ。昨日の夜と同じ様な料理ですけど、汁に野菜の味が良く出ていて、煮てあるのに歯ごたえが合っておいしいです」
「もう少し野菜以外の具材を入れてもおいしいんですが……俺も食材の仕入れをした方がいいですね」
代官所での仕入れは、元々厨房で働いていた料理人に任せているので、俺の手持ち以外の食材は、その日の朝にならないとわからない。
「いえ、そこまで御負担をお掛けするのは……前の晩に必要な物を言っておいて頂ければ、仕入れさせられますよ?」
「ああ、その手もありましたね。じゃあそうしますが、午後からは動けるような予定になってますから、何か目についたら自分で仕入れます」
「お気遣いありがとうございます……」
食べる手を止めて箸を置き、朔夜様が頭を下げた。
「……」
「あの、おりょうさん。おいしくなかったですか?」
箸は動いているが、おりょうさんはどこか上の空な表情だ。
「えっ!? あ、ああ。おいしいよ。具沢山なのが嬉しいねぇ」
一応は反応して、丼を持ってスープを飲んだおりょうさんだが、やはり何か考え込んでいる様子だ。
(さっきの事が、まだ気になってるのかなぁ)
体内の気の流れを良くする事でのパワーアップだが、おりょうさんがそこまで強さを求めているというのは意外だった。
「兄上! お代わりはありますか!?」
「あたいもお代わりー!」
少し思案していたが、食いしん坊二人組によって中断を余儀なくされた。
「すぐ出来るから、ちょっと待っててね。他にお代わりが欲しい人はいますか?」
「お、お願いします……」
「俺も貰えるか?」
朔夜様が、恥ずかしそうに空になった丼を差し出し、松永様がスープを一気に飲み干した丼をドン、と置いた。
「俺はお代わりはいらんが、手伝おう」
「ありがとう白ちゃん、助かるよ」
手分けして丼を盆に載せ、白ちゃんと一緒に厨房へ向かった。
「主殿」
「ん? 白ちゃん、どうかした?」
お代わり分の湯麺の具材を炒めていると、麺茹でを任せた白ちゃんに話しかけられた。
「おりょう姐さんの様子がおかしい。午後からの頼華の相手は俺と黒でするから、面倒を見てやれ」
「面倒って……」
言い方にはちょっと引っかかる物があるが、白ちゃんの心遣いには感謝だ。
「ちょっと食材も見に行きたかったんだけど、おりょうさんより優先は出来ないね」
「わかっているではないか。それではしっかり頼むぞ」
「了解」
ニヤリと笑う白ちゃんに苦笑しながら、炒めた具材へスープを注ぎ込んだ。
白ちゃんも黒ちゃんも、時折、みんなを出し抜いて迫ってこようとかするのに、どういう訳かおりょうさんの序列が一位というのは不動のようだ。
「ごちそうさまでした。それでは、私は執務を行ってきますので」
「うむ。朔夜、また夕方にな!」
「はい……」
多少の気の扱いの向上程度では、まだまだ頼華ちゃんの指導の厳しさは変わらない朔夜様は思っているのだろう。返事をしたが少し笑顔が引き攣っている。
「眠いが俺も、仕事をするか……」
食事をして胃に血液が集中したのだろう、松永様が立ち上がりながら大きなあくびをするのを、無言ではあるが朔夜様が睨みつける。
「そいじゃ頼華ちゃん、お参りにでも……」
おりょうさんが頼華ちゃんを誘おうと声を掛けるが、白ちゃんが絶妙なタイミングでインターセプトした。
「頼華。うまそうな菓子屋を見つけたから、一緒に行かないか?」
「お菓子!」
「おお。是非行こうではないか!」
お菓子という単語に黒ちゃんの方が先に反応したが、呼び掛けられた頼華ちゃんは気にする様子も無く、そして乗り気のようだ。
「では行こうか」
「おう!」
「兄上、姉上、行って参ります!」
「気をつけてねー。これ、お小遣い」
少し多いかとも思うが、白ちゃんへ銀貨を一枚ポンと投げると、片目を瞑りながら空中でキャッチした。
「い、行ってらっしゃい……」
自分の呼び掛けも、一緒に行くタイミングも逸したおりょうさんと俺が、応接室に取り残された。
「おりょうさん、良かったら、午後は俺に付き合って貰えますか?」
「えっ!? そ、そりゃあ構わないけど……」
「そうですか。と、その前に、食器の片付けの手伝いをお願いします」
「……任しときな!」
突然の俺の誘いに戸惑った顔のおりょうさんだったが、手伝いというのは更に予想外だったようで、驚いた顔から笑顔に変わると、テキパキと食卓の片付けを開始した。
「そいで付き合うって、どっかへ行くのかい?」
食器と調理器具を洗って片付けてから、代官所の俺に割り当てられている部屋でおりょうさんと向かい合った。部屋は六畳間で、俺一人で使うには十分な広さだ。
「さっきおりょうさんが言っていた、闘気の通り道の調整というのをやってみましょう」
「えっ!? で、でも、それ程の効果は無いんだろう?」
「そうかもしれませんけど、滞りは無くしておいた方がいいですから、先ずはやってみましょう。ね?」
「そ、そうかい? じゃあ……どうすればいいし?」
「えっと……じゃあ仰向けに寝て下さい」
朔夜様の時は鍛錬も兼ねていたし、その場で寝かせる訳にもいかないので馬歩で行ったが、身体がリラックスするので仰向けになるのが最適だ。
「始めますね」
「う、うん……」
俺が何をするのかわからないので、少し緊張気味のおりょうさんは身体を硬くして、ギュッと目を瞑っている。
「おりょうさん力を抜いて下さい。決して痛かったり、嫌な事なんかはしませんから」
「う、うん。そうだね。良太がそんな事する訳が……よし! どんと来い!」
妙な気合だが、この一言で落ち着いたおりょうさんからは緊張が抜けたようだ。
「……」
目を凝らしておりょうさんの気の状態を観察するが、色が変わっている場所などは見当たらない。健康体だ。
身に付けている武術の特性からか、頼華ちゃんよりも全身の気の流れ自体はスムーズに見える。
(でも、経絡は少し細めだな……)
身体の中心の部分と、両腕と両足の流れはスムーズなんだが細い。これは今まで大パワーを必要としなかったのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
「おりょうさん、呼吸を少しゆっくりと深くして下さい」
「わかったよ」
(呼吸を合わせて、流れる気の量を少しずつ増加させていく……)
朔夜様の時には、太い通路同士の繋ぎ目のボトルネックを、無理矢理こじ開けるようなやり方だったが、おりょうさんの場合は全体的に狭い通路を、少しずつ拡張する必要がありそうだ。
おりょうさん自身の気量が急に増えたりはしないので、同調させた俺の気を加えて、循環量を少しずつ増やしていく。
「あ……身体中、熱い……」
「おりょうさん、落ち着いて。呼吸を乱さないで下さい」
「うん……」
入浴で血液の循環が良くなるのと同じ様に、経絡を流れる気の量が増えたので、おりょうさんの言葉通り熱いのだろう。苦しそうな様子では無いが、顔に汗が浮かんでいる。
(今のところは、これで目いっぱいかな? でも、随分と広がりはしたよな)
身体の中心と四肢の経絡が目に見えて広がったのを確認し、俺が送り込んだ分も馴染んだみたいで、今はおりょうさんの汗も引き、表情も穏やかだ。
「終わりました。起きてもいいですよ」
「……途中で少し苦しいようにも感じたけど、なんか今は凄くスッキリしてるよ」
「元々、おりょうさんの中の気は滞りも少なかったんですが、狭かった通り道を広げました」
「良太は、本当に色んな事が出来ちまうんだねぇ……」
呆れたように、おりょうさんが呟いた。
「でも、そんなに強くはなってないんだよね?」
「そうなんですが……あの、おりょうさん」
「なんだい?」
「少し、試してもらいたい戦い方があるんですが、どうですか?」
「そりゃ構わないけど……でも、それをやったら強くなれるのかい?」
当然の疑問をおりょうさんが口にしながら首を傾げた。
「えっと、「最強」にはなれなくても、うまくすれば「不敗」にはなれると思います」
「「最強」にはなれないけど「不敗」って、なんか違うのかい?」
「まあ、物は試しで。どうします?」
「ずるい言い方だねぇ……そんなの、やるに決まってるじゃないか!」
「そう来なくっちゃ」
やや挑発気味な俺の誘い文句に、おりょうさんが乗ってきてくれた。
「うまくいくかねぇ……」
俺の思いつきを試すには人目が無い方がいいので、鍛錬場には行かずに六畳間でおりょうさんと対峙した。
「手加減する俺の方が、難しいとは思うんですけどね」
思いついた方法で、おりょうさんに俺の攻撃を防いでもらうのだが、本気では無いが気を込めるので、加減を間違えると洒落にならない事になる。
「覚悟は出来てるよ。さあ来いっ!」
覚悟を決めたらしいおりょうさんの瞳に、闘志が宿った。
「行きます!」
畳敷きをぶち抜かないように、軽い踏み込みから掌底を、おりょうさんの胸元へ打ち込む。
布団を丸めた物を打ったかのような、全く手応えを感じない一撃には気を込めたのだが、本来なら体内に浸透して威力を高めるはずなのに、おりょうさんにはダメージを受けている気配は無い。
「っ! う、うまくいったみたいだねぇ」
「す、凄いですよ。まったく手応えが無かったです!」
伸ばした手を引き戻した俺は、思いついた方法が成功したので気分が高揚して、少し声が大きくなってしまった。
「そ、その、胸を打たれて、手応えが無かったって言われるのも、ちょいと複雑だねぇ……」
「す、すいません!?」
腹や顔だと、手加減が失敗した場合の被害が大きそうなので、おりょうさんと申し合わせて胸を打ったのだが、良く考えれば軽々しく手を触れていい場所では無かった。
「で、出来ればもう少し、優しい方がいいけど……」
「優しくしてたら、訓練になりませんよね!?」
俺だって、好きでおりょうさんを打ちたくなんて無いが、優しくなんてしたら……完全に訓練とは別の行為になってしまう。
「もう少し強く打っても大丈夫そうですか?」
気を取り直して、おりょうさんに訊いてみた。
「えっ!? あ、ああ。そうだねぇ。多分だけど、大丈夫そうだよ」
「それじゃもう一回試して、うまく行ったら次をやってみましょう」
「わかったよ!」
「うまく行きましたね!」
「そうだねぇ。まったく、良太はとんでもない事を考えるよ」
「実際に出来るおりょうさんが凄いんですけどね」
結果としては、二度目の実験もうまく行った。何をやったのかと言うと、気の「透過」だ。
刀などの武器によるダメージは軽減出来ないが、俺の掌底による攻撃などの場合、物理ダメージを防御するなり見切るなり出来れば、気によるダメージを受けないで済む。
「透過」自体は気を使わないが、通り道が広がっていてスムーズでは無いと、通過する時に体内にダメージ受ける可能性があるので、予めおりょうさんの経絡を広げたのは正解だった。
「それじゃ次ですけど。俺の方でも用心しますが、お手柔らかに」
「気をつけるけど、大丈夫かねぇ……」
「まあ俺は頑丈ですから、遠慮なくどうぞ。では、行きますよ!」
「どんと来い!」
再度、俺はおりょうさんの胸に向けて掌底を打ち込む。
「ちょっと! 良太ぁっ! 大丈夫かい!?」
実験がうまく行ってしまったので、無様にひっくり返った俺を、心配そうな顔でおりょうさんが揺する。
「っ……い、息が……っはぁー……こ、これはきつい」
直接心臓にダメージを受けたかのように、目の前が真っ暗になった俺は、気は失わなかったが立っていられなくなった。呼吸も困難なので、気功で自分で治す事も出来ない。
「ご、ごめんねぇ……」
涙ぐんだおりょうさんが、膝枕した俺の頭を撫でてくれる。思わぬ御褒美だ。
「俺が言い出した事ですから……でも、これでおりょうさんは「不敗」ですよ」
「……実感が湧かないけど、そうなのかねぇ」
おりょうさんは複雑そうな表情をするが、撫でる手は止めないでくれている。
今回試したのは気の「反射」だ。おりょうさんに打ち込んだ掌底からの一撃は、一瞬のうちに身体の中を巡って、そのままの威力を俺へと還されたのだ。
「おりょうさんが元々取得している武術で、得物を持っている相手を制圧出来るから、「透過」と「反射」を組み合わせれば、どんな敵が来ても負けませんよ」
敵が俺の周天の腕輪のような、気を補充してくれるアイテムでも持っていなければ、遅かれ早かれ気と体力が尽きるだろう。
「そうなんだろうけどねぇ……」
おりょうさんの表情が複雑なのには、「不敗」であって「最強」になれない点にある。
「どんな相手でも暖簾に腕押しで、最終的には抑え込めちまうんだろうけど……」
「倒せるかと言うと、違うんですよね」
物理攻撃は受け流され、気の攻撃は「透過」か「反射」されるので、最終的に相手は攻めあぐねてしまう事になるのだが、余程の実力差が無ければ、おりょうさんの側からとどめを刺すという事が出来ないのだ。
「それにしても、どうして突然強さ志向になっちゃったんですか?」
コンプレックスの原因を取り除かないと根本的な解決が出来ないだろうと思ったので、先に経絡の拡張と新たな戦闘法を試して貰ったのだが、そもそもの原因をおりょうさんに訊いてない。
「そ、それはぁ……頼華ちゃんや朔夜様みたいに強ければ、いざとなったら良太と肩を並べて戦えるな、って……」
「えっ!? でも、藤沢の山の中で、並んで戦いましたよね?」
既に懐かしさを感じる、猪と鹿の巻狩りの事だ。
「そ、そういうんじゃ無くって! その、良太があたしに背中を預けて戦っても安心出来るくらい、強ければなって思ったんだよ。例えば、鎌倉の頼永様と雫様みたいな」
どうやらおりょうさんは、急に「強さこそ全て!」、みたいな考えに目覚めた訳では無くて、旅の一行の中で護られる存在ではなく、メインかサブのアタッカーになりたかったようだ。
「あの、おりょうさん。頼永様と雫様って、生きる伝説みたいな人達なんですが……」
「そ、それはわかってるけどぉ! でも、良太も頼華ちゃんも、同じかそれ以上に強いだろ?」
「う……」
頼永様や雫様と真っ向勝負なんかする気は無いが、戦って勝てないかと言われると……まあ、勝敗は時の運だけど。
「で、でもですね。いくら頼永様と雫様でも、今のおりょうさんを倒す事は難しいですよ! 勿論、頼華ちゃんも!」
おりょうさんは受けに徹した省エネ戦法がとれるので、長期戦に持ち込めばほぼ必勝だろう。
「じゃあ、良太は?」
「……難しいけど、なんとか?」
嘘を付くのは簡単だが、ここは正直に答えておいた。
「むー! まだ勝てないんだ!」
「幾つか奥の手がありますから……」
無限に気を供給してくれる「周天の腕輪」と、対象の気による防御を破壊しつつ、こちらからは気流し込んでダメージを与える「巴」があるので、仮に今のおりょうさんと同タイプの敵が現れてもなんとかなるだろう。
「けど、俺の持っている武器や力は、今日みたいな状況や鍛錬でも無ければ、決しておりょうさん達には向けませんよ」
白ちゃんが鎌倉の住民を悩ませた靄を払うような、緊急事態の時には話が違うが。
「むー……」
「それにほら、道場破りなんかが来た時でも、道場主の前に師範代が出て片付けちゃえばいいんですから」
「あたしが道場主で、良太が師範代かい?」
「そうですね」
適当に考えたのだが、この喩えは割と当て嵌まっているかもしれない。
「そいじゃ道場主のあたしが「不敗」を引き受けるから、師範代の良太には、「最強」を担当してもらおうかねぇ」
まだ少し不満そうだが、実験がうまく行ったからという事でも無いのだろうけど、今のおりょうさんは昼食の時と比べて、変な焦燥感が顔に出る事も無く清々しい表情をしている。
「ええ……努力します」
伊勢での道場破りの朔夜様は、師範代の前に頼華ちゃんが返り討ちにしてしまったが。
「うん。ところで、まだ胸は苦しいかい?」
「だ……まだ少し苦しいから、こうして貰っててもいいですか?」
大丈夫、と言おうとした、膝枕の心地良さをもう少し味わいたいので、おりょうさんにも申し訳ないが、まだ回復していないふりをした。
「あたしの所為だから、仕方がないねぇ。痛いの痛いの、飛んでけー」
穏やかに微笑みながら、俺の胸に手をおいて、おりょうさんがおまじないをしてくれた。
疲労や眠気とは無縁のはずなんだが、おりょうさんの可愛らしいおまじないの声を子守唄に、俺は眠りの世界に入っていった。




