陽鏡
「おはようございます。あれ? 朝から鰻ですか?」
朝食を終えて厨房に来たら、まだ早い時間にも関わらず、鰻を焼く独特の香りの煙で満ちていた。
「おはようございます、親方。泊まりの客が、朝食と持ち帰りで食いたいって事でして」
「そうですか……」
その客とは松永様の事なのだろうが、気に入ったのかもしれないけど、朝から鰻とは……。
「親方は、今日も何かの試作ですか?」
「内宮へ奉納するお菓子を作りに来ました。どうせなら出来たてがいいだろうと思って」
どら焼き (仮) を持っていって、天照坐皇大御神様にネーミングに関するお伺いを立てるのに、なるべく良い物を作って奉納したい。気合が入るのを自覚しながら、調理器具と材料を用意していく。
(……天照坐皇大御神様、御降臨下さるだろうか?)
慎重に計量した材料から作った生地をかき混ぜながら、頭を撫でられた時の、優しい感触を思い出す。
「……はっ!? いかんいかん」
夢見心地だった、撫でられた時の事を思い出し、ついトリップしてしまった……今は真面目に、そして真剣料理に取り組まなくては。
(……なんか親方、すげぇ気合が入ってるな)
(ええ。なんか空気がピリピリしてますよ)
貞吉さんと他の料理人達が何かを囁いているような気がするが、俺は鍋の火加減(権能を使っているので、正確には熱加減)と焼き色に神経を集中する。
(……さすがにやり過ぎたかこれは?)
結果として、見る者が見れば気が迸っているのがわかる、食べたら様々な効果が発動しそうな物騒な代物に仕上がったのだった。
「んもうっ! そんなにも私にお会いになりたかったのですわね!? だったら、もっと早く来て下されば良かったのにぃ!」
内宮で祈りを捧げると、あっさりと天照坐皇大御神様が後光を纏って降臨され、隔絶された空間で二人きりになった。
「で、でもぉ。私もぉ……あなた、良太さんと再会出来て、心より嬉しく思います」
太陽神である天照坐皇大御神様の、まさに輝くような笑顔は、俺の心の奥底までを暖かくしてくれた。
「あ、その……お、お忙しいのにお目通りが叶って、嬉しく思います……」
期待感に大きく胸を膨らませていたが、いざ対面したら全てを見透かされていた事を知り、俺はすっかり萎縮してしまって、言葉がうまく出なかった。
「うふふ。あなたのそういう控えめなところも、私は好きですよ」
「っ! あ、ありがとうございます……」
(やばい……すげぇ嬉しい……)
そんな俺を見ている、天照坐皇大御神様には「ちょろい」と思われているに違いない。
「今日お見えになった、お菓子の名前の件に関しては存じておりますが、全て御自由にどうぞ」
「えっ!? ほ、本当にどれでもいいんですか?」
まさかの天照坐皇大御神様の、オールオッケーという返答には驚いた。
「天照焼きとかだですと、さすがに気分は良くないですが……私は基本的に寛容な神なのです。でなければ、本来ならば許し難い出来事が、過去にいくつもありますので……」
「そ、そうですか」
俺の知っている神話中の出来事が、どの程度まで実際に行われた事なのかはわからないが、確かに天照坐皇大御神様は、色々と酷い目に合われている。
「あ、でも、良太さんのお連れ様の言っていた「鈴白焼き」という名前には、少し惹かれましたね」
「そんな名前じゃ、この神宮のある伊勢の名物にならないじゃないですか……」
神社に鈴というのはわからなくもないが、そんなネーミングじゃ織田の朔夜様や松永様に、お菓子の命名に誰が関与しているのかがバレバレになってしまう。
(お菓子みたいな日持ちしない物はお土産には出来ないだろうから、そんなネーミングになっても関東の知り合いにはバレないだろうけど……しまった。福袋とかがあれば、消費期限は関係無いんだった!)
まだ検討段階の話ではあるのだが、「鈴白焼き」とかいう間抜けなネーミングのお菓子を見て、嘉兵衛さんや徳川の家宗様、源の御夫妻が爆笑している光景が目に浮かんだ。
「「鈴白焼き」ではなく「良太焼き」でしたら、選択の余地は無いのですが、私が直接介入する訳には……」
「出来れば介入する気なんですか!?」
物憂げな雰囲気を醸し出しているのだが、天照坐皇大御神様の言っている
内容はかなり酷かった。
「だ、だってぇ……伊勢で「良太焼き」というお菓子が売られたらぁ、それはもう、いつでもあなたと一緒にいられるようなぁ、そんな気持ちになるじゃないですかぁ!」
「そ、そうですか?」
男女差なのか、神と人の差なのか、熱弁する天照坐皇大御神様の感覚には、俺は同意出来なかった。
「そうですよぉ! もうね、いっその事良太さんも、ここに祀られちゃいましょう!」
「そんなに簡単に、祀られるとかされるものではありませんよね!?」
天照坐皇大御神様と一緒というのは恐ろしく魅力的な提案だが、ここでおりょうさん達を放り出すような無責任な事は出来ない。
(大体、俺を祀ったって、拝んでくれる人なんかいる訳無いしなぁ……仮に祀られるとして、何を司る神になるんだ?)
天照坐皇大御神様が本気で言っている訳が無いのだが、ちょっと考えてしまった。
「うふふ。冗談です。でも、いずれあなたはこちら側に来るんじゃないかと思っていますから、その時には、私の傍にいて下さいね?」
「はぁ……」
神様に対してはっきりしない態度はどうかと自分でも思うが、天照坐皇大御神様の言う事は、あまりにも現実離れし過ぎている。神様と話をしているという時点で既に現実離れ、というのは置いておこう。
「その、良太さん持ってきて下さった物は、私に頂けるのですよね?」
「あ、はい。勿論です。お口に合うかどうか……」
皿に載せて袱紗に包んで持ってきたどら焼き (仮) を、俺は捧げ持った。
「ありがとうございます! でも、神の身である私は、実体を持った物は食べられないのです……」
袱紗包みを受け取った天照坐皇大御神様は、感情と同調しているのか、身
に纏う後光が一際強くなった。しかし、強く輝いたのは一瞬の事で、テンションがダウンしたような言葉と共に、光量が弱まった。
「そ、そうだったのですか。申し訳……」
「あ、勘違いなさらないで下さい。今、申し上げましたように、お菓子の実体の方は頂けませんけど、宿った気持ちや想念などを受け取れるのです」
「気持ちや想念、ですか?」
天照坐皇大御神様の言葉通りなら、奉納される物に真摯に向き合っていたのなら、その気持が届くという事だ。
「ええ。ですから、このお菓子からは良太さんのやる気、そして……私に対する愛を感じます……はぁぁ、なんて素敵!」
受け取った包みを持った天照坐皇大御神様は、長い吐息を漏らしながら、なんとも妖艶な声を出した。
相変わらず後光ではっきりと表情は見えないのだが、その後光と共に発される波動のような物にも、何やら妖艶さが含まれているようで、受けている俺は妙な気分になってくる。
「お、お喜び頂いて、俺も嬉しいです……」
昨日、椿屋で試作をした時に気持ちが緩んでいたたとまでは言わないが、今奉納している物とは作っている時の真剣さの度合いが、比べ物にならないというのは自覚している。
「っ……はぁぁー……良太さんの、文字通りの本気を堪能させて頂きました。食べられないので、こちらはお返し致しますね」
そう言って、天照坐皇大御神様は袱紗包みを俺の手に戻した。
「お菓子に内包されていた、良太さんが込められ物が抜けているので、わかる人には何かが足りないような感じになってしまっておりますが、食品としての問題はありませんので」
「わかりました」
多分だが、味気無い量産品と、心のこもった手作りの料理、みたいな差が出ている状態になっているのだろう。
「では、奉納品のお礼を致さねばなりませんね。良太さん、私の近くへ」
気軽な感じで、天照坐皇大御神様が俺を手招きしている。
「い、いいのですか?」
「うふふ。少しは期待されていましたよね?」
「うっ! は、はい……」
相手は神様だから、おそらくはここに来る前から心の中は看破されていたと思われるので、変に隠さないで素直に白状した。
「先日、頭を撫でて差し上げたのが、それ程にお気に召されましたか?」
「は、はい。凄く……」
目の前に本人というか本神がいるので、面と向かって言うのは物凄く恥ずかしいのだが、もう今更だ。
「ささ。お近くに」
「はい……」
ふわりと、柔らかな感触が頭に感じられた。現実感の消失する、正に至福の境地だ。
「まあ。そのように可愛らしいお顔をなさって……そんなお顔をされたら、私は……」
天照坐皇大御神様が言う俺の顔が、どんな風なのかはわからないが、きっとだらしない顔をしているのだろう。
「……こんな事、滅多にしないのですけど、良太さんだけ特別ですよ?」
「え……」
何か柔らかくて温かい物に全身が包まれた。その瞬間、頭を撫でられるのが至福だと思っていたが、上には上があった事を思い知らされる、それ程の幸福感だった。
(な、なんだこれ……俺、今、自分の脚で立ってるのか?)
宙に浮いているような感覚と、初夏の木漏れ日に包まれたような心地良さを全身で感じる。
(もしかして、本当に死ぬってこういう感覚なんだろうか? だとしたら、悪くないな……)
我ながらバカな事を考えているなと思うが、忘我の境地である今、頭が回る訳が無いのだ。
「あ……」
不意に、包まれていた幸福感が消え去った。十分に近いと言える距離に天照坐皇大御神様の姿はあるのだが、抱かれていた身体は離れてしまったのだ。
「そ、そんな悲しそうなお顔をなさらないで。あなたを喜ばせて差し上げたかっただけですのに、凄い罪悪感が……」
俺への謝罪の言葉と共に、天照坐皇大御神様の後光が弱々しく感じられるようになった。
「す、すいませんっ! あの、自分がどんな顔をしているのかわかりませんが、それくらい心地良かったんです!」
胸が苦しくなる程の名残惜しさだが、ここで悲しい顔などしたら、天照坐皇大御神様の御好意を無にする事になるので、萎えそうになる脚に力を入れ、気力を振り絞る。
「それでこそ良太さんですわ! 私も本当に名残惜しいのですが、またの再開を約束致しますから、今日はこれでお帰りなさい」
「はい。またお会いしに来ます。必ず」
「ええ。それでは御機嫌よう」
柔らかな声で別れを告げられた次の瞬間には、隔絶されていた空間が元に戻った
伊勢神宮内宮の本殿前で、戻ってきた周囲の木々の梢の触れ合うと音やそよ風と共に、柔らかな木漏れ日が、まるで天照坐皇大御神様の残り香のように、俺を優しく包み込んだ。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、親方」
「「「お帰りなさい」」」
一時間程で内宮から椿屋の厨房へ戻った俺を、貞吉さんを始めとする料理人の人達が迎えてくれた。
「それで、どうでした?」
当たり前だが結果が気になるのだろう。貞吉さんは待ちきれないという様子で、奉納した菓子のネーミングの許可の結果を訊いてきた。
「どういう名前でも問題は無いとの許可を頂けました。但し、天照焼きとかはやめてくれと」
「そ、そりゃあそうでしょうね。いくらなんでも罰当たり過ぎまさぁ」
貞吉さんは、尾張織田の人達のような感覚の持ち主では無かったようで安心した。
「あの、昨日話していた時には思いつかななかったんですけど、太陽の陽に、八咫鏡の鏡、陽鏡というのはどうでしょう?」
暖かいお陽様のような、丸い鏡という、天照坐皇大御神様のお姿からイメージしたネーミングだ。
「成る程……無理に焼きを付けなくても構わないわけですし、あっしはいいと思いますよ」
「そうですか。じゃあ椿屋さんにも、この名前で相談してみましょう……って、随分作ったんですね?」
ふと視線を動かすと、貞吉さん達が作ったらしい陽鏡(仮)が、調理台の上に大量に並んでいた。
「椿屋の旦那は勿論なんですが、昨日、出来上がっていた分を食った女供にも好評でして、少なくとも全員分の茶請けは作れってお達しでしてね……」
「それは……俺も手伝いますよ」
「助かります」
菓子が好評なのはいいのだが、砂糖ほど高価では無いにしても安価でもない卵など、それなりにコストが掛かるので、他所様の台所事情とは言え、大丈夫なのかと考えてしまう。
(確か、遊女だけで二十人以上在籍してるって話だから、下働きの人が同数はいないとしても、十人くらいはいるのか? それに厨房で働いている人数に、お世話になってる俺達の事も考えると……五十個くらい?)
大雑把に計算したが、これは一人一個だとしてという事なので、念の為にと思うのなら、百個くらいは作る必要がありそうだ。
「気がつけば遊郭じゃなくて、菓子屋のようになっちまいましたねぇ」
「……なんかすいません」
遊女の人達への助けになればと色々と作ったが、俺のやっている事はと言えば、当初から店の厨房を預かる人たちに対しての越権行為だ。
「あ、いや。親方へ嫌味を言った訳じゃ……むしろ、料理や菓子っていう、姐さん方以外の物でも客を呼べそうなんで、親方へは感謝しているんですよ」
「感謝?」
「ええ。椿屋の旦那も言ってましたが、あっし達の料理なんざ、この店では姐さん方の添え物以上の存在では無かったですからね」
「ああ……」
この店に来る客の目的はわかりきっているが、それでも作った料理に見向きもされなければ、料理人としてのプライドは傷つくだろう。というか、傷つかないで給金だけ受け取れればいいと言うのなら、料理人を名乗る資格は無いんじゃないかと、俺は思う。
「……悪いんだけど、なんか食べさせて貰えます?」
「うわっ! って、お藍さん?」
気配を感じさせず、というよりは売れっ子の華やかな雰囲気がすっかり薄まってしまったお藍さんが、厨房の入り口に立っていた。顔にも疲労の色が濃い。
「あー……鈴白様。こんなみっともない姿をお見せして……でも、丁度良かったかも……あの、何か精の付く食べ物をお願い出来ますか?」
お藍さんは表情からも生気が感じられないが、声も小さくかすれ気味で、立っているのも辛そうだ。
「精の付く、鰻では?」
「あー……鰻はちょっと。その鰻の御蔭で、疲労困憊でして」
「鰻で? あ、あー……」
「お察し頂けましたか?」
鰻で疲労困憊というのは、お藍さんが相手をした客、要するに松永様が鰻を食べたら、凄い事になったのだろう。
「もう、ね。寝る前に念入りに。それなのに起きてからも……更に、鰻を頼んで食べ終わったら、お帰りになる前に……」
「あ、もう結構です」
知っている人同士の、そういう物の内容なんか聞きたくないので、お藍さんには悪いが言葉を遮った。
「でも悪い事ばかりじゃなくて、私も商売だって事を忘れそうに……」
「あの、本当にもういいですから……ところでお藍さん、鰻以外で、何か苦手な食材はありますか?」
尚も続けそうになるお藍さんの言葉をスルーして、詳しいリクエストを尋ねた。
「んー……極端に味や癖が強くなければ、なんでも大丈夫ですよ」
「肉類は食べられますか?」
現代人の俺の感覚だと、スタミナ回復には肉というイメージだが、こっちの世界の日本では牧畜がまだ発達していないので、まだ肉料理は一般的とは言えない。
「お肉ですか……鶏肉くらいは食べますけど、好き嫌い以前に、あまりお目に掛かる機会が」
「ああ、やっぱりそうでしたか。じゃあ……出来合いですけど、これは食べられますか?」
腕輪から取り出した鍋から、燻製肉と腸詰を野菜と共に煮込んだポトフ風のスープを、味見なのでそれ程大きくない皿に盛り付けて、厨房の調理台に置いた。
「これは、お肉と野菜?」
「ええ。鹿の燻製と、猪のひき肉を加工した物が入ってます。燻製にしてあるので、元の肉程は癖が無いと思いますけど」
「いい香り……頂きますね」
調理台の周囲に置いてあった椅子に腰掛け、俺が手渡した木の匙を使って、お藍さんは先ずスープだけを掬って一口飲んだ。
「あ……こういうお味は初めてですけど、なんだろう。身体に染み渡ります……じゃ、じゃあ、お肉を」
嗅ぎ慣れない匂いに初めての味で、恐る恐るという感じだったお藍さんだが、スープを飲んだら決心がついたようで、匙で燻製肉を口に運ぶ。
「ああ……口の中でお肉がほぐれて、独特の風味が……なんか、元気になってきた感じがします!」
そこまでの即効性がある訳が無いのだが、こういうのは気分的な問題でもあるので、敢えて否定する必要も無いだろう。
「そうですか。じゃあ、お藍さんが元気になるように、もうひと工夫を……」
「親方?」
珍しい食材を浸かった料理を食べるお藍さんを、興味深そうに見ていた貞吉さんが、包丁を手にした俺を見て、何事かと視線を移してきた。
「にんにくに、卵ですか?」
「ええ」
スタミナ補給といえば、肉もそうだがにんにくだよな、と、一片を薄くスライスしてから、油と共に鍋に入
れて竈の火に掛けて軽く塩と胡椒を振り入れ、香りが立って柔らかくなったら少量スープを加える。仕上げに卵を直接割り入れた。
「そこに、卵ですか? 言ってはなんですが、随分と簡単な料理ですね」
「そうなんですけど、実はこれは、調味料です」
「調味料?」
俺の言っている意味をわかりかねて、貞吉さんが首を捻る。
「お藍さん、少しお代わりを入れますね」
「えっ!? あ、はい」
突然話を振られて驚くお藍さんの前の、スープの少し減った皿に、鍋の中身を注ぎ入れた。
「適当なところで、卵を潰して食べて下さい」
「はぁ……にんにくって、こんなにいい香りでしたっけ? 頂きます……ーっ! こ、これ、なんか目の覚めるような味ですね!」
目が覚めるという言葉通りに、少しショボショボしていたお藍さんの目が、いつものつぶらな感じに見開かれた。疲労が濃く出ていた顔にも、少し赤みが戻る。
「ーっ!? つ、潰した卵が、なんて濃厚な味わい!? 具材と汁も、卵が絡んだら味が変わって……」
「生卵もおいしいですけど、火が通ったのもおいしいですよね」
「そ、そうですね!」
俺の言った事が聞こえているのかいないのか、生返事をしたお藍さんは、接客の時に見せた上品さはどこへやら。凄い勢いでスープと具を完食した。
「ぷっはーっ! 凄くおいしくて、元気が出ました! 鈴白様、ありがとうございます!」
「な、なら良かったです」
顔に赤みがどころか、お藍さんの瞳は爛々と輝いて、頬は紅潮している。
(俺、また変な物を作ったんじゃないよね? 同じ物を食べた他の人は、こんな風にならなかったんだけど……)
そう思うくらい、お藍さんの食前と食後の変化は劇的だった。
「さーて。元気は出たけど、失礼して休ませて頂きますね」
「え、ええ。おやすみなさい」
鼻歌を歌いながらお藍さんは、足取りも軽く厨房を後にした。
「……親方」
「変な物は食べさせていませんからね!?」
隣で一緒にお藍さんを見送っていた貞吉さんが、俺に何を言いたいのかは訊くまで無い。
「そうですか……とりあえず、あっしにもさっきの汁を、少し味見させて頂けますか?」
「勿論です。けど、材料的に再現は難しいですよ?」
この辺にも鹿や猪は生息しているのだろうけど、肉の流通に関しては期待出来ないだろう。
「構いません。こいつは料理人としての興味ってやつですよ」
「わかりました」
貞吉さんのリクエストに答えるために、今度は最初からにんにくと卵を入れる前提で調理を始めた。
「陽鏡ですか。宜しいのではないでしょうか」
昼のまかないの食卓を囲みながら、天照坐皇大御神様へ奉納した菓子のネーミング案を伝えたが、椿屋さんに特に異論は無いようだ。
「じゃあ、お菓子の件に関してはお任せしますから、今後は椿屋さんの好きにして下さい」
「宜しいのですか? こんな、確実に儲けになる物を……」
「伊勢には留まりませんし、蓄財にも興味が無いので」
なんか似たようなやり取りをした憶えがあるが、我ながら相変わらずという事だろう。
「やはり、お留まりにはなりませんか……」
「急にいなくなるなんて失礼な事はしませんが、既に俺無しでも、鰻も他の料理で大丈夫そうなんですが」
厨房責任者の貞吉さんは、既に鰻の裂きも焼きも習得している。客に出す事を考えると他の料理人の腕前はまだまだだが、どじょうによる反復練習の成果は確実に現れているので、後は更に積み上げていけば大丈夫だろう。
「いやいや。親方が幾つ引き出しをもっているのか見当もつきませんが、今日もまた新しい料理を見せられましたんで、出来る限りは教えを請いたいですよ」
「新しい料理って、こんなの、ただ材料を煮込んだけですよ?」
せっかくだからと、まかないにポトフ風スープを出したが、椿屋さんなどは肉に対するイメージ的な問題で、苦手そうにしている。
「そうは言いますがね。普通なら肉の燻製なんかは、削って食うくらいですし、獣の骨を煮込んで出汁を取るなんてのは……」
こっちの世界でも外国なら、既に獣骨からスープを作るなんて常識的なんだろうけど、日本では肉料理と同様に技法が確立されていないようだ。
「手に入る材料では鶏がありますから、身体にいい汁の作り方は教えましょうか?」
「鶏でしたら……」
鶏にはあまり抵抗感が無いのか、椿屋さんが食いついてきた。
「それじゃ夜の仕込みをしながら、鶏の料理を幾つか作ります」
「わかりました。貞吉、仕入れは頼んだよ」
「へい!」
伊勢での食材の仕入れに関しては何もわからないので、貞吉さんに任せられるのはありがたい。
「あ。その鶏の仕入れなんですけど、俺が個人的に欲しいので、そうですね……五羽程お願いできますか?」
お藍さんに振る舞っておきながらだが、鶏の方があっさりしているので、朝食なんかには鹿や猪のよりは良さそうだ。
「わかりました」
(材料調達を任せた代わりに、スープ以外の料理も作って教えようかな……)
「お、お客様、困ります!」
「ははは! 気にするな!」
スープに焼き鳥に唐揚げ……なんて考えていると、必死に静止しようとしているような女性の声と、それを意に介さないような、聞き覚えのある女性の声が耳に入った。
「……おりょうさん」
「どうしたんだい?」
「頼華ちゃんと一緒に、部屋へ戻っていて下さい」
「……わかったよ。頼華ちゃん、行こうかね」
俺の言葉から、何かあるとを察してくれたおりょうさんが、隣に座っていた頼華ちゃんの肩を抱いて立ち上がった。
「兄上?」
「ごめん、頼華ちゃん。後で説明するから」
「わかりました!」
聞き分け良く、頼華ちゃんはおりょうさんに伴われて厨房を後にした。
(白ちゃん。念のために、二人を見守っててくれるかな)
(承知した)
「ちょっと失礼する」
念話で話し掛けると、白ちゃんは食事を中断して立ち上がり、おりょうさん達の後を追うようにして厨房から出ていった。
「鈴白様?」
「ここが厨房か!? 済まんが鰻というのを食わせてくれ!」
何が起きていいるのかわからない椿屋さんが俺を見るが、勢い良く、廊下との間の暖簾を跳ね上げて入ってきた人物に視線が移った。
「こ、これはお代官様!? いったい何事でございますか!?」
椿屋さんの視線の先には、この伊勢の代官であり、尾張織田のお姫様でもある朔夜様が立っていた。
「椿屋! 昨晩ここに世話になった松永が、土産に持ってきた鰻がうまかったんでな! 食いに来たぞ!」
「そ、それでしたら、こんな厨房などでは無く、部屋を御用意しましたものを……お届けに上がっても宜しいのですよ?」
出前という物が存在するのかはわからないが、伊勢を預かる代官に言われれば、出張料理くらいはするのが普通だろう。
「いやいや。私のために、大事な領民に手間を掛けるのは、な。部屋だって商売に使うであろうから、食うだけなら厨房で十分だ」
「で、ですが……」
「ん? 金ならちゃんと払うぞ?」
商人である椿屋さんの方が、厨房で接客するのは失礼になるだろうと躊躇しているのに、当の朔夜様の方はその辺は意に介さず、自分のために座敷を使用したり、給仕を煩わせたくないと、あくまでも善意から申し出ているようだ。
「む? そこにいるのはもしや、鈴白良太ではないか?」
ビクッと、身体が反応しそうになるのをなんとか堪え、平静を装う。
「織田朔夜様、先日はお世話になりました」
(最悪は、界渡りで逃げなきゃならないかなー……)
内心の動揺を抑え、愛想笑いを浮かべながら、俺は今後の行動を考える。




