ひつまぶし
「……朝か」
夜明けの気配を感じて目が覚めた。なんとなく起きたいなと思った時間に起きられるので、俺の場合は睡眠というよりは、本当にパソコンの再起動のような行為になっている。
「お、おはよう。主殿……」
「あ、おはよう白ちゃん。起こしちゃった?」
小さな呟きではあったが、それがきっかけで白ちゃんを起こしてしまったのなら、悪い事をしてしまった。
「いや、俺も丁度起きたところだ」
「ならいいけど。良く眠れた?」
お互いに身動きするのが難しい体勢だったが、俺の方は身体に無理が掛かったりはしなかったようだ。
「うむ。凄く深い眠りで、目覚めも良い。主殿から発される、何かを吸収したおかげかもしれないな」
寝る直前にしくしく泣いていたのは別の世界の事だったかのように、ニヤニヤと人の悪い笑顔を白ちゃんが浮かべている。
「ええ? それは困るなぁ。吸い取った分、返してもらわなきゃ」
「ははは。では今日は精一杯働いて、身体で返すとしよう」
「それなら、まあいいか」
互いに微笑みながら、なんとなく恋人同士っぽい軽口を交わすと、俺達は布団から出た。
(なんかいいな、こういうの。これでコーヒーでもあれば、もっと良さそうだけど)
漠然と憧れていた恋人とのモーニングコーヒーだが、物自体が無いので実現不可能なのは残念だ。
「それじゃあ、顔を洗いに行こうか?」
「うむ」
「あっ!? お、おはようございます……」
「おせんさん? おはようございます」
起こしに来てくれたのか襖を開けたら、歩いてくるおせんさんと目が合った。
「……」
「おはよう。俺に何か?」
「っ! な、なんでもございません。洗顔なさいますよね? こちらへ……」
俺の背後から部屋を出て来た白ちゃんを、呆然と見つめていたおせんさんは、声を掛けられてハッとなり、慌てて俺達に背を向けて歩き始めた。
「あー……」
「主殿、どうかしたか? それと、おせんが妙な様子だったが、何かあったのだろうか?」
前を歩くおせんさんには聞こえないように、白ちゃんが俺に耳打ちしてくる。
(白ちゃんは気がついていないみたいだけど、おせんさんには誤解されたのかなぁ……)
さっき自分でも会話が恋人同士っぽいとか思ったけど、朝に俺の部屋から二人で出てくれば……まあそういう関係だと思うのは普通だろう。
(あ、でも、もしかしたら、誤解されたままの方がいいんじゃ……)
助けた事を恩義に感じているおせんさんは、風呂で背中を流すとかで俺に恩返ししたいみたいだが、そういった思いや行為がエスカレートする可能性は高い。
(美人の白ちゃんに、おせんさんはコンプレックスがあるみたいだから、このままの方がアプローチなんかはされなくなるか?)
白ちゃんを利用するようなところは気が引けるが、明確な拒絶をおせんさんにするよりはマシだろう。
「さあ。俺にはわからないな」
「そうか」
想像通りなのかそうでないのかもわからないので、白ちゃんにはそのまま答え、俺達はおせんさんの後に続いて洗顔をしに向かった。
「黒ちゃんに、ちょっとお願いがあるんだけど」
「おう! 御飯食べ終わってからでもいい?」
みんなが揃った朝食の席で黒ちゃんに話しかけると、予想通り、詳しい内容も聞かずに黒ちゃんが俺の申し出を承諾した。
チラッと手に持った、朝粥の盛られた茶碗に視線を送ったので、食事に未練はあるようだ。
「それは勿論だよ。食べながらでいいから聞いてね。ちょっと江戸の大前まで、お使いに行って来て欲しいんだ」
俺も朝食を食べながらだが、昨日まで宿泊していた宮一でも感じた、焼き魚の塩加減や煮物の出汁の味など、口に合わない訳では無いが、少し江戸との違いを感じる。
「おう! で、何してくればいいの?」
「後で手紙を書くから、それを嘉兵衛さんに渡してくれればいいよ。そうしたら嘉兵衛さんが渡してくれる物を、持って帰ってきて」
「おう! 急ぐ?」
「それ程でも無いかな……昼までに戻ってくれればいいから、ドランさんのところとかに、少し寄り道をしても構わないよ」
手本を見せながらになるので、頭で考えているよりは鰻を捌くのに時間が掛かるかもしれない。
「とーちゃんのとこか! 行ったら喜ぶかなぁ?」
「きっとね」
まだ江戸を出て数日ではあるが、黒ちゃんが顔を出せばドランさんが喜ぶのは明らかだ。
「黒が出掛けて、白は良太の手伝いかい? そいじゃ、あたしと頼華ちゃんは、何して過ごそうかねぇ」
自分の分と頼華ちゃんの分のお代わりの粥を盛りながら、おりょうさんが思案顔になる。
「あ、実はおりょうさんと頼華ちゃんには、料理以外でお願いがあるんです」
「構わないけど、あたしだけじゃなくて、頼華ちゃんもかい?」
俺の話を聞きながら、おりょうさんはお代わりの粥の上に削った鰹節と、醤油を慎重に垂らしている。
「兄上、余に、何か出来る事があるのですか? もしや剣術を?」
熱々の粥にふーふーと息を吹きかけながら、頼華ちゃんは小さく一口分を、葱入りの炒り卵と共に食べて笑顔になった。
「そうじゃなくてね……」
物騒な事件があったばかりなので、剣術の必要性が皆無だとは言えないが……。
「ここで働いている人に接客と作法を、それぞれおりょうさんと頼華ちゃんに教えてもらえないかと」
「接客と……」
「作法ですか?」
「ええ」
(姉妹とかじゃないのに、見事なコンビネーションだな……)
おりょうさんが言えば、頼華ちゃんが応じるという感じで、実に息が合っている。
「それは、どういう事なんだい?」
「大前は鰻の料理と、おりょうさんや頼華ちゃんみたいな、綺麗どころが接客をするというので評判になりましたよね?」
「りょ、良太にそう言われると、照れるねぇ……あっつ!?」
照れ隠しか、おりょうさんが茶碗に残っていた粥を一気に掻き込むと、まだ冷めてなかったのか、小さく悲鳴が上がった。
「事実ですからね……大丈夫ですか?」
身内という贔屓目を抜きにしても大前の商売繁盛に、おりょうさんを筆頭にした女性達の給仕が、一役も二役も買っていたのは紛れもない事実だ。
「でも、見た目が綺麗なだけではなくて、おりょうさんは元々接客を仕事でしてましたし、頼華ちゃんの場合は作法を一通り学んでいたでしょう?」
一緒に接客を手伝ってくれた頼華ちゃんの世話係の胡蝶さん、その胡蝶さんの紹介でやって来た若菜さん、夕霧さん、初音さんも作法は学んでいたようだし、各自が個性的ではあったが接客は見事だった。
「そうですね。あまり学んだという風には思っていないのですが……」
元の世界の江戸時代に、幕府に貢献したので武士に取り上げられた人は、武家としての常識や作法を学んでいなかったので苦労したという話を聞いた事があるが、頼華ちゃんにとっては物心ついた時からの当たり前の事過ぎて、学んだという気になっていないのだろう。
「料理は俺がなんとかしますが、いくら料理の味が良くても、接客や店の雰囲気で更に味が良く感じたり、逆に台無しになったりするというのはわかりますよね?」
「そりゃあ、ねぇ」
俺と出会う前から蕎麦屋で働いていたおりょうさんが、うんうんと頷く。どうやら口の中を火傷とかはしなかったようだ。
「そうですね。兄上や姉上と一緒に食べる食事は、とってもおいしいですから!」
「ありがとう」
頼華ちゃんのナチュラルな一言は、ナチュラルだとわかるだけに嬉しかった。
「という事で、お客さんが良い気分で店を利用出来るように、おりょうさんと頼華ちゃんに指導をしてもらいたいと思います」
少しでしゃばり過ぎかなと思うが、椿屋さんに強く拒絶されたらやめればいいだろう。
「良太が言うならあたしは構わないけど、そんなに接客態度が気になったのかい?」
「この店で働いている人、全員かどうかはわかりませんけどね……」
昨日、俺を迎えてくれた女性や、入り口で待っている俺を値踏みしていた女性達の態度は、接客業としては問題だろう。
「俺の方から椿屋さんに言いますから、呼ぶまでは自由にしていてもらっていいですよ」
「わかったよ」
「わかりました!」
俺達は会話を中断して朝食を再開した。
「それじゃ御主人、行ってくるね!」
朝食を終えて部屋に戻った俺は、嘉兵衛さん宛に書いた手紙と、お駄賃というと子どもっぽいが、自由に使っても良いと銅貨五十枚を黒ちゃんに託した。
「うん。気をつけて。嘉兵衛さんに宜しくね」
「おう!」
黒ちゃんの姿が気配と共に、目の前で薄れていく。この間は自分でも体験したが、傍から見ていても界渡りは不思議な移動法だ。
「それじゃ白ちゃん、行こうか」
「うむ」
黒ちゃんを見送った俺達は、椿屋さんと会うために部屋を出た。
「おはようございます」
「おはよう。椿屋殿」
「おはようございます、鈴白様。お連れ様も、良くお休みになれましたか?」
「ええ。とっても」
「う、うむ……」
単なる挨拶として椿屋さんは言っただけなのだろうだが、昨夜の事を思い出したのか、白ちゃんの白い肌が鮮やかな朱に染まった。
「おや、お連れ様は、お体の具合でも?」
「っ! き、気にしないでくれっ!」
白ちゃんが珍しく動揺しながら、椿屋さんの追求を躱そうと必死になっている。
「そ、そうでございますか?」
「あー……タレとかの件は、多分昼頃には結果が出ますので、それまでに出来る事をしたいんですが」
まともな受け答えが出来なくなっている白ちゃんに苦笑しながら、俺は助け舟を出した。
「とりあえず仕入れた鰻五十匹は、厨房へ運び込んであります」
(五十匹とは……椿屋さんは随分と気合が入ってるなぁ)
鰻のサイズにもよるが、鰻丼なら椿屋さんで働いている全員分は軽く超えてそうだ。
「では鰻の方は、俺が責任を持って調理します」
「宜しくお願い致します」
感謝の意からなのだろうけど、相変わらず俺に対して、椿屋さんの頭を下げる角度が深過ぎる。
「それと、ちょっと御相談なのですが」
「相談でございますか?」
「ええ。あの、ちょっと伺いたいんですが、お店の従業員の方は、お客様への接客の仕方や作法なんかは、どのように教わってますか?」
「接客と作法ですか? 基本的には古参の者が、新しく入ってきた者に教えるという形ですが……それが何か?」
(やっぱりか……)
予想通り、マニュアルとまではいかないまでも、何か基本になっている事があるのではなく、先輩の教えをなぞるという方式だった。
「作法に関しては、お藍のような売れっ子は、踊りや楽器などを専門の先生に教わりますので、そちらの作法に従っております」
「成る程……椿屋さん、ここで働いている人達の接客態度は、問題があるとは思っていませんか?」
「えっ!? な、何かうちの者が、鈴白様に失礼を?」
(これで確定だな……)
昨日、俺の事を値踏みしていた女性達をその場では叱っていたが、椿屋さんはその事自体を問題だとは思っていないのだ。
「あの、俺は椿屋さんに用があったので受け流しましたけど、昨日の入り口での女性達のような態度をされたら、客として来店してたら帰ってますよ」
客としてこの手の店に来る機会は、多分一生無いと思うので、これはあくまでも例え話だ。
「そ、それは、私も注意はしているのですが……」
「でも、徹底はしていないんですよね?」
「む……」
心当たりがあるのだろう。一声発した後で、椿屋さんは黙り込んでしまった。
「俺としても、他所様の店の経営方針にまで口を出したいとは思わないんですが、料理が良くなっても、接客によっては台無しになってしまいますよ?」
料理の味が同じなら、接客態度の良い方の店に行きたいと思うのは、お金を出す客側の心理としては当然だ。逆に、飲食物は大した事がなくても、良い接客だけを求めて店を利用する客だっているだろう。
「椿屋さんの言っていた、お藍さんのような女性以外に料理を売りにという話は、接客まで見直しての物だと俺は思うんですけど、違いますか?」
「……その通り、ですね。客商売をやっていながら、その点を鈴白様に指摘されるまで忘れていたとはお恥ずかしいです。この通りでございます……」
疎かになっていたところを指摘されて、怒るどころか頭を下げてきたので、椿屋さんの商売に掛ける意気込みの本気度が伝わってくる。
「そこで椿屋さんに、さっき言った相談です」
「伺いましょう」
今まで以上に真剣な表情で、椿屋さんが背筋を伸ばして俺に向き直った。
「俺の連れの一人、おりょうさんは、まだ若いですが接客に関しては非常に優秀な人です。直接男性を相手にしない、お客さんの案内や料理を運ぶ人は、おりょうさんに付いて接客を学ぶと良いと思います」
「成る程。わかりました」
「それと、お話する前に、椿屋さんに約束して欲しい事がありまして」
これからする話の内容に関しての椿屋さんの反応次第では、全部放り出して逃げ出す必要もある。
「鈴白様の申し出でしたら、大概の事はお聞きしますが……どのような事でしょうか?」
「俺のもう一人の連れ、頼華ちゃんに、直接男性を接客する女性に作法を学んで貰おうと考えているんですが、その頼華ちゃんに関して一切の質問や詮索、ここに滞在している事を口外しないで欲しいんです」
客の秘密を明かさないというのは商売上大事なのだが、ついポロッとでも、頼華ちゃんが源のお姫様である事が外部に知れ渡るのは避けたい。
「この場で俺が話している事についても、無論ですが口外されないようにお願いします」
「高貴な物腰をされているとは感じておりましたが……わかりました。働いている者達にも徹底させます」
「出来れば俺の事も、同じ様にお願いします」
「わかりました」
神仏にかけて誓ってもらった訳では無いが、この世界での約束事というのは重いし、信用第一の商売をやっている椿屋さんに、簡単に反故にされるような事は無いだろう。
「ではお話しますが連れの頼華ちゃんは、とある大きな武家の御息女で、作法や教養を身に着けています。彼女に教われば、地位や財力のある方を相手に、堂々と渡り合える所作を身に付けられると思います」
この辺は料理の合間に時間が取れたら、俺も教わろうかと思っている。いざという時は来ないと信じたいのだが、何が起きるかわからないというのは、俺自身が一番実感している。
「うぅむ……作法に関しては、私も教わる事にします。娘達に、負けてはいられませんからな」
元々店を良くしようとして、俺なんかに頭を下げた椿屋さんの闘志に、更に火が点いたみたいだ。
「では、承諾を得られたと伝えておきます。どこの部屋を使うとかはお任せしますので。伝え終わったら俺は厨房の方へ行きますので、何かありましたら」
「わかりました。料理の方もお願い致します」
お互いに頭を下げ合ってから、俺と白ちゃんは帳場を後にした。
「じゃあ、捌いてみますから見てて下さい。白ちゃんもね」
「うむ」
厨房で実際に料理をする、雑用や下働き以外の人と白ちゃんに注目されながら、俺は目打ちでまな板に固定された大きな鰻を、一気に腹開きにして内臓と骨を抜いた。
「な!? こんな、あっという間に!?」
「手順を覚えれば、それ程難しくは無いですよ」
なんとなく、大前で一緒に働いていた忠治さんに雰囲気の似ている、この店の料理長の貞吉さんが目を見張った。
「いやぁ。そうは言われますが、見事なもんですよ。正直、お若いので少し腕前を疑っていたのですが、こいつはどうも、あっしの及ぶところじゃござんせん」
「あはは。褒めて頂いて嬉しいですが、このくらいは出来るようになって貰いますからね?」
「これは厳しい。ですが、なんとしてもこの技術、習得してみせます」
貞吉さんは生粋の料理人のようなので、最初にある程度出来るところを見せたのは正解だったようだ。
「貞吉さんの前に、白ちゃんやってみて。見てたから出来るよね?」
「多分だが……承知した」
着物から作務衣に着替え、というよりは気によるコスチュームチェンジした白ちゃんは、俺から鰻裂きを受け取って、目打ちで固定された鰻に向き合った。
「っ!」
無言の気合と共に、白ちゃんは一気に鰻を捌く。全く澱みの無い動きだ。
「主殿、これでいいか?」
白ちゃんの捌いた鰻は、切り口も真っ直ぐで滑らかだ。
「うん。上出来だよ」
「そ、そうか……」
何かスイッチが入ったのか、昨夜から白ちゃんは感情表現が豊かになっているようで、はにかんだ笑顔が可愛らしい。
「では次に、串を打ちます」
「む? 主殿、切り分けて竹串を打つのでは無いのか? 大前ではそうしていたはずだが」
俺が魚焼きに使う長い金串を手に取ったので、白ちゃんが首を傾げる。
「大前とは違うやり方にしようかと思ってね。まあ見てて」
角度をつけて数本の金串を鰻に打つと、見た目には大きな扇のようになった。
元の世界では関東風の鰻の蒲焼は、背開きにして短く切って平行に竹串を打ち、白焼きにしてからタレを付けての本焼きの前に蒸す。
中部以南は腹開きにして角度をつけて金串を打ち、頭を付けたまま焼いて蒸さない地焼きという調理が行われている。
いつ頃こういう分かれ方をしたのかは不明だが、土地毎に根付いているのは間違いないので、この伊勢では腹開きの地焼きがいいだろうと俺は判断した。
「白ちゃん、やってみて」
「うむ」
俺の指示で、白ちゃんが慎重に串を打っていく。
「そうそう。全部の串が手元にまとまるようにして……うん。いいね」
俺のお手本通りどころか、もしかしたら白ちゃんの方が綺麗に仕上がっているかもしれない。それくらい見事な出来栄えだ。
「じゃあ俺が捌き、この白ちゃんが串打ち教えますので、二組に分かれて下さい。あ、彼女は俺よりも厳しいかもしれませんから、綺麗な見た目に騙されないように」
俺が場を和ませようとして言ったと思ったのだろう、厨房が笑い声に包まれたが、これは半分しか正しくない。
白ちゃんの技術には全く不安は無いのだが、人に教えるという行為が出来るかどうか……厨房の半数の皆さんには、申し訳ないが実験台になってもらおう。勿論、最悪の場合のフォローはするつもりだが。
「うむ。もう少し角度をつけないと……ほら、手元で串をまとめて持てなくなっただろう?」
「す、すいません! よし、もう一度……まだ次は捌けないのか?」
予想に反して白ちゃんは、適度に厳しく、そして優しい、的確な指摘をする良い先生だった。
「ちょっと待ってろ! いきなり親方みたいに出来る訳ねえだろ!」
(親方って、もしかしなくても俺の事だよなぁ……)
正直、勘弁して欲しいんだが、厨房の人達がいつの間にか、俺の事を親方と呼ぶようになっていた。
「ああ、ほら。手元が疎かになってますよ」
「ああ!? くそっ! 見ろ、てめぇがやかましいから、骨と一緒に身がこんなに……」
鰻裂きの刃が立ち過ぎていたのか、貞吉さんは骨と一緒にかなりの身を削り取ってしまっていた。
「これは……お客さんに出す物にはなりませんね」
「も、申し訳ありません!」
「串打ちもそうですが、こればっかりは練習あるのみですからね」
「しかし、いくら安いとは言っても、あまり仕入れに負担を掛けるのは……」
練習や試作まで、あくまでも商売の一環ではあるのだが、貞吉さんの言う事も尤もだ。
「江戸の店では練習に、大きさは違うけど扱い方の似たどじょうを使っていましたが、ここでもそうしますか?」
「どじょうですか? 確かにどじょうなら、その辺の川や、田んぼの脇の水路にいくらでもいますなぁ」
「でも、まかないが、どじょうばかりになるのが難点ですけどね」
「ははぁ。という事は、どじょう以外のまかないを食いたかったら、腕前を上げるしか無いって事ですね」
この貞吉さんの言葉で、厨房内に笑いが起こった。
(笑い事で済めば、いいんだけどね……)
江戸の大前でも忠治さんと新吉さんの練習のために、連日まかないがどじょうになって頼華ちゃんがうんざりしていたので、俺は内心では笑えないでいた。
「よおし野郎ども。明日からは何人かは、仕込みの前にどじょうを捕まえに行くぞっ!」
「「「おおっ!」」」
貞吉さんの掛け声に、料理人の人達が応じた。
「それじゃ、練習を再開しましょうか」
「はい!」
再び貞吉さんが鰻裂きを握りしめた。
「御主人、戻ったよ!」
「おかえり黒ちゃん。早かったんだね?」
貞吉さんが十匹鰻を捌いたところで黒ちゃんが戻ってきた。まだ昼前だ。
「おう! あっちでお昼まで食べちゃうと遅くなると思って、とーちゃんに引き止められたけど振り切ってきた!」
「そ、そう……」
少しドランさんに気の毒だと思いながらも、黒ちゃんに託した成果が気になっている。
「はいこれ、嘉兵衛のおっちゃんからの預かり物!」
「ありがとう」
黒ちゃんから風呂敷包みを受け取って開いてみると、手紙と小さな瓶、さらしに包まれた物が出て来た。
「……嘉兵衛さん、ありがたいです」
手紙には、蒲焼という名称の使用に関する許可証を書いたので、好きに使って構わないし、金はいらないという内容と、さらしの中身だろう、予備の鰻裂きと目打ちを同封したという旨が記されていた。
「貞吉さん。江戸の店から予備の鰻裂きが送られて来ましたから、使って下さい」
「そ、そいつは……いつか、その江戸の店には、お礼に行かなけりゃなりませんね」
俺の手から鰻裂きと目打ちを、感激の面持ちの貞吉さんが受け取る。
「是非、そうしてあげて下さい。もしかしたら、向こうからお参りに来るかもしれませんけどね」
俺達が伊勢にいると知って、嘉兵衛さんの巡礼への欲求が高まる事も考えられなくはない。
「じゃあ黒ちゃんも戻ったから、裂きと串打ちの練習は一旦区切って、焼きの練習兼まかないを作ろうか」
俺は作る料理の内容を貞吉さんに伝えて、御飯他の準備をしてもらう。
「俺はタレの準備をするから、白ちゃんは鰻を焼いてくれる?」
「い、いきなりか?」
黒ちゃんが思ったよりも戻るのが早かったので、白ちゃんに焼きの手本を見せる時間が取れなかった。
「俺が隣で支持するから、その通りに焼けば大丈夫だよ」
「わ、わかった」
「御主人、あたいもなんか手伝う?」
白ちゃんが俺を手伝っているのを見たからか、黒ちゃんが尋ねてきた。
「そうだね。御飯を炊くのを手伝って貰おうかな。人数が多いから大変だよ?」
「おう! 任しといて!」
まさに格闘という感じに、大きな釜で米を研いでいる人達のところへ駆け寄った黒ちゃんは、水切りや水足し、釜をかまどに乗せるという力のいる作業を軽々と行い、厨房の人達の度肝を抜いている。
「……ま、いいか。白ちゃん、一度返して」
「承知!」
黒ちゃんの作業に気を取られそうになったが、自分と白ちゃんの焼きの作業が疎かにならないように気をつける。
大前から運ばれたタレに、焼いた頭と骨を入れて醤油と砂糖と味醂を煮詰めた物を注ぎ足して、白ちゃんが焼いた鰻を浸して本焼きに入る。タレの作業が終わった俺も、鰻を焼く作業に加わる。
「鈴白の親方。これはなんて料理なんです?」
「ひつまぶしです」
焼き上がった鰻を細く切り、大前には無かった塗り物の飯櫃の御飯の上に敷き詰め、別添えの薬味と出汁を用意した。
「ひつまぶし、初めてだけど、うまそー!」
「あれ、黒ちゃん達は食べた事無かったっけ?」
「大前では食べた覚えがないぞ」
言われてみればだが、ひつまぶしの試食の時には、まだ黒ちゃん達とは出会っていなくて、その後も作る機会が無かった。
「こうしゃもじで四等分して……最初は鰻と御飯だけ。次に葱と海苔なんかの薬味を載せて。その次に薬味と山葵を載せて出汁を掛けて、最後は好きな食べ方で楽しむんだ」
「成る程……みんな、これから自分達でも作る料理だ! 心して、そして鈴白の親方と姐さん達に感謝して食うんだぞ!」
「「「へい!」」」
貞吉さんの呼び掛けで、体育会系な感じで料理人の人達が力強く返事をする。
「では、頂きます」
「「「頂きます!」」」
なんとなくそういう空気だったので、俺の号令でまかないが始まった。
(それにしても、本当に親方は勘弁して欲しいな……白ちゃん達は姐さんだし)
この辺は厨房内の序列の問題もあるのだろうから、あまり口出しをしてもややこしくなる可能性があるので、諦める方が良いのだろう。
「ところで貞吉さん、厨房以外の人達の食事は、どういう方式になっているんですか?」
朝は俺達だけで食べたし、今は厨房関係の人達以外の姿は見えない。
「この店では働いている人間によって、自由になる時間がバラバラですんで、空いた時間にここに来て、各自が食べていくって感じです」
客によっては連泊もあるし、呼ばれれば時間の関係無く、料理や酒を用意するのは下働きも厨房もなので、こういう方式になってしまうのだろう。
「あー、お腹減った……この匂いは、鰻だね!?」
「あ、おりょうさん。こっちにどうぞ」
教えていた相手らしい女性達を引き連れて、おりょうさんが厨房へ姿を現した。さすがというか、漂う煙の匂いで鰻だとわかったようだ。
「これは、ひつまぶしとかいうやつだね? では、頂きます……おいしいけど、江戸で食べたのとは味が違うねぇ」
「時間が無かったから、タレが熟れてませんでしたか?」
「そういうのとは違うんだよねぇ……」
おれの質問の意味をわかっているのだが、おりょうさんにもうまく言葉に出来ないようだ。
「おりょう姐さん、江戸の方がうまいの?」
「これは十分以上においしいよ。でも、そういう事でも無くて……水とか米? それと醤油も違う?」
「ああ、成る程……」
おいしいんだけど違うというおりょうさんの言葉に、やっと合点がいった。
「主殿、どういう事だ?」
良くわからないのだろう、白ちゃんが尋ねてきた。
「こっちに来てからの宿の食事なんかが、少し違う感じしなかった? わかり易かったのは味噌汁かな」
「味噌が違ったのはわかるが、他は気にも留めなかったぞ」
「白ちゃんの言う通り、気にも留めない程度の事なんだよね」
「それは?」
「醤油を仕込む時の材料の比率とか、御飯を炊く時の水なんの違いだから」
関東と関西のうどんのつゆの違い程明確ではない、言われてみれば程度なのだが、おりょうさんの鋭敏な味覚は差を感じていたようだ。
「でも最終的には、この店の人、というかこの土地に住んでいる人に合わせた味にするのが良いでしょうから、俺達の感じる違和感は無視するしか無いでしょうね」
「そうだねぇ。江戸と同じ鰻でも、この土地の味にしようってんだから」
俺達の味覚を標準にするのが目的では無いので、この辺は気をつけないといけない。
「という訳で貞吉さん、頼りにしてます」
「あ、あっしですかい!?」
急に話を振られて、貞吉さんは持っていた茶碗を落としそうになった。
「元々、ここの味を守っていたのは貞吉さんでしょう?」
「そ、そりゃそうなんですが……」
「いい匂い! 鰻ですね!?」
貞吉さんが口籠っていると、おりょうさんと同じ様に鰻の匂いを嗅ぎつけた頼華ちゃんが、俺達のいる方へ小走りしながら近づいてきた。
「兄上! お腹が減っているので、先ずは出汁を掛けたのを下さい」
「……いきなり流し込んじゃうの?」
「一杯目なんか、飲み物のような物です!」
鰻は飲み物宣言!? 特に消化は悪くないだろうけど、この食べ方はどうなのか……。
「私にも試食させて頂けますかな?」
「椿屋さん。どうぞどうぞ」
「私の分もお願いします」
「わ。私も……」
おりょうさんと頼華ちゃんが来たから当たり前だが、接客と作法を教わっていた人達が一気に押し寄せたので、元から騒がしかった厨房が更に賑やかになった。




