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白ちゃんと

「早速ですが、この辺では鰻は獲れるんですよね?」


 やっと顔を上げてくれた椿屋さんに尋ねた。


「伊勢湾で穫れる鰻が、鳥羽の港に水揚げされます。近くの五十鈴川でも獲れます」

「価格的にはどんな感じですか?」

「あまり人気のある食材ではありませんので、かなり安いです」


 漁獲量と価格に関しては、江戸とそれ程変わりはないようだ。


「じゃあ仕入れに関しては問題無さそうですね。ただ……」

「な、何か問題がございますか?」


 言葉を濁す俺に、椿屋さんが不安そうな顔をする。


「あ、いや。椿屋さんに何かという訳では無いんですが……」


 鰻自体には問題が無さそうだが、幾つかの重要なパーツが足りないのだ。


「もしかして、タレかい?」

「やっぱり、おりょうさんにはわかりましたか」

「そりゃあ、ねぇ」


 おりょうさんの指摘の通り。江戸の大前でも準備に長く掛かった、タレの問題があるのだ。


「あの……失礼ですが、タレの何が問題なのですか?」


 知っていなければ、椿屋さんのこの疑問は当然だ。


「鰻の蒲焼に使うタレは、醤油と砂糖と味醂を混ぜて煮詰め、捌いて残った頭や骨を焼いて浸して作るんですが、それを繰り返すほど味に深みとコクが出るので、かなり長い期間を必要とするんです」

「長い期間と言いますと、具体的にはどれくらいなのですか?」

「江戸の俺が世話になっていた店では、開店までに一週間掛けました」

「い、一週間!?」

「そ、そんなに長く掛かるのですか!?」

「す、凄く時間が掛かるのですね……」

「そこから営業を開始してひと月ちょっと。焼いた鰻を浸けて、減った分を注ぎ足して、今の味になってるんです」 


 椿屋さん、お藍さん、おせんさんが驚くのは良く分かるが、その期間があって、今のタレの味になっているのは間違いないのだ。


「そ、それは……どうにもならないものなのでしょうか?」

「即席で、とりあえずの物は作れますが、時間だけはどうにも……」


 福袋や腕輪のような、内部時間が停まっているアイテムは存在するが、時間加速みたいなアイテムは、もしかしたらあるのかもしれないが、俺は知らない。


「その、即席でと言いますのは、どのように?」

「これは江戸でもやったのですけど、蕎麦屋のつゆの土台になる、醤油と砂糖が馴染んでいるかえしを譲ってもらって、そこへさっき話した頭や骨を焼いた物を入れて作りました」


 本当に偶然に鰻のタレと蕎麦つゆは、材料の基本構成が同じなので出来た事だ。この(こころよ)くかえしを提供してくれたのが、大前の繁盛に繋がっていると言っても過言ではない。


「でもねぇ。作り始めと、店が開店する頃、そして今じゃ、やっぱり味が違ってるんですよねぇ」


 江戸での事を思い出しているのか、蒲焼を口に運びながら、おりょうさんがしみじみと言った感じで呟いた。


「おりょうさんにはずっと手伝って貰ってるので、本当の最初から味の変化を知っています。それに、舌も確かなんですよ」


 おりょうさんは鋭敏な味覚の持ち主であり、大前の前から竹林庵で料理に携わっていたので、味見に関しては非常に頼りになる。


「よ、よしとくれよぉ……」


 頬を染めたおりょうさんは照れ隠しのように、うまきを口に放り込んだ。


「確か一番最初は、醤油と酒と味醂を混ぜただけのタレでした」


 砂糖は高価なので、甘さを酒で補うというか誤魔化して作ったタレだった。


「そうそう。あれもまあ、さっぱりしてて悪くなかったけどねぇ」

「実際は、色々と足りてなかっただけなんですけどね」

「そうだねぇ」


 既に懐かしく感じる過去の出来事を語りながら、おりょうさんと笑いあった。


「う、むむ。では、調理の仕方を教わりましても、暫くの間は、この味は……」

「白焼き以外は、無理ですね」


 目に見えて椿屋さんが落胆するが、こればかりはどうしようもない。


「それと多分ですが、江戸の海や川と伊勢では鰻の質が違うでしょうから、時間を掛けても同じ味にはならないと思います。これは土地や店の個性なので、どうにもならないでしょうけど」


 もし長期的に続けるのなら、土地柄に合わせて砂糖や味醂などの配合も変えた方がいいので、味の違いはより明確になると思う。


「……ひとつ、タレをなんとか出来る方法が無くも無いんですが」

「っ!? そ、それはどのような!?」


 無意識の行動なんだろうけど、椿屋さんが必死の形相で掴みかかってきた。危害を加えようというのでは無いからか、(エーテル)の防御は働かなかった。


「つ、椿屋さん、落ち着いて……江戸の俺が世話になっていた店の、タレを少し譲ってもらうんです」

「なっ!? そ、それは!? し、しかし、ここと江戸では……」


 順調な船旅だった俺達でも、江戸から鳥羽まで片道三日、陸路では大井川の渡しなどの関係もあって十日程度は掛かるので、椿屋さんが驚くのも無理はない。


「詳しくは話せないんですが、直ぐに連絡を取る方法があるので、その点は大丈夫なんです」


 奥の手なので、あまり使いたくないのだが、こうなったら乗り掛かった船だ。


「な、なんと!? 失礼ながら、鈴白様は本当に人なのですか?」

「あー……一応は、人間ですよ」


 最近、少し自身が無くなってきているが、多分、きっと……。


「仮に、タレを融通頂いても、その江戸の店の方の営業には問題は出ないのですか?」


 おせんさんが大前の事を気に掛けたようで、心配そうな表情で尋ねてきた。


「大丈夫です。さっきも言った通りタレは時々、頭や骨と一緒に煮詰めた新たな分を継ぎ足すのという事をするので、常に濃くなったり薄くなったりはするんです」


 大前では既にタレの消費量を把握して、継ぎ足すサイクルも出来上がっているので、多少は譲ってもらっても問題は無いだろう。


「で、では、是非にその、江戸の店へお願いを……」

「実はもう一つ、問題があるんです」

「……まだ何か?」


 俺が料理を教えるのを承諾した後に、こんなにハードルがあるとは思っていなかったのだろう。椿屋さんが疲れた顔をしている。


「実は、江戸の大前という鰻の店が開店する時に、看板に「元祖鰻蒲焼」と書き込んだんです。おそらくです


が、この伊勢で「蒲焼」という名称で鰻で商売をすると、色々と不味い事になるんじゃないかと」

「そ、それは……」


 現代の特許とかとは違って仁義のような物なのだが、江戸からの巡礼も多い伊勢の事なので、大前の嘉兵衛さんに話だけでも通して置かなければ、後々揉める可能性が高い。


「その大前の店主さんに、蒲焼という名称の使用で幾らか支払えば良いのでしたら、喜んでお支払い致します」

「そうですか」


 この点で椿屋さんがごねるとは思っていなかったが、場合によっては一度承諾したけど、断ろうかとも考えていたのでホッとした。


「じゃあ、タレの件は俺に任せて下さい。椿屋さんは、鰻の仕入れをお願いします」

「畏まりました。何匹くらい仕入れておけば宜しいですか?」

「タレの事を考えると、多ければ多いほどいいんですが……でも、食べきれなくても困りますよね?」


 黒ちゃんと頼華ちゃんがいるので、うまきとかにしたら、あればあるだけ食べちゃうのでは、とは思うが。


「その点は大丈夫でしょう。うちの店には下働きまで入れると、大勢おりますので」

「そういえばそうでしたね」


 大前では開店準備の段階では五人。最大になった時でも十二人だが、椿屋さんでは男性客の相手をする女性だけでも、二十人以上はいるらしい。


「となると、試作品を試食してくれる人には事欠きませんね」


 料理を実際に提供する前に、意見を訊ける人が多くいるのは非常に良い事だ。


「そうなりますか。ですが、多めに作っていただかないと、あぶれた者が悲しむかもしれませんなぁ」


 椿屋さんの何気無い一言だったが、まさかと思いながらも、多めに作った方が良さそうな気がしてきた。


「もう一つ。椿屋さんのお知り合いに、刀剣鍛冶師か、そういった刃物を扱っている方はいますか?」

「尾張織田の本拠地も近いので、顔見知りは何人かおります。関も遠くはないですし」


 尾張織田は多くの剣術使いを抱えているので、必然的に刀剣類の需要があるのだろう。そして現代でも刃物の町として有名な関は、こっちの世界でも刀剣のメッカのようだ。


「では、寸法を教えますので、この鰻裂きという刃物と目打ちを、そうですね……三本ずつ、注文して下さい」


 必需品という訳では無いが、長い目で見れば鰻裂きと目打ちはあった方がいいだろう。


 正恒さんに発注してもいいのだが、使い手に合った物を作る主義の人なので、料理人に藤沢まで行ってもらう事を考えるよりは、近場で探した方が良さそうだ。


「これはまた、変わった形ですな……畏まりました。他には何か?」

「今日のところはこんなものかと」

「そうですか。それでは、食膳などの後片付けはこちらで致しますので、お休みになって頂くお部屋へ御案内を。お藍、おせん、頼んだよ」

「「はい」」

「それでは鈴白様、皆様、御馳走になりました。本当に得難い経験をさせて頂きまして、ありがとうございます」

「「ありがとうございます」」


 椿屋さんに習い、おせんさんとお藍さんも揃って頭を下げた。

 


「鈴白様、こちらでございます」


 おせんさんに案内された部屋は、一人で使うには少々広く感じる床の間のある八畳間だった。品が良くて高そうな調度で、落ち着いた雰囲気に整えられている。


「お休みは、こちらでどうぞ」


 先に入ったおせんさんが部屋の奥の襖を開けると、既に布団が敷かれていた。


「ど、どうも……」


 敷かれている、これも高そうな布団には、何故か枕が二つ並べられている。


(もしかして、この店の利用客のための部屋を、そのまま提供されたのかなぁ……)


 考えてみれば客間みたいな物は無いかもしれないが、それにしたって、なんとなく生々しい物を感じる。


「どうぞ」

「ど、どうも……」


 なるべく表面には感情を出さないようにしているが、心の中で大いに焦っている俺に、おせんさんがお茶を淹れて出してくれた。とりあえず、これも立派で厚みのある座布団に腰を下ろす。


「……」

「……あ、あの」

「は、はいっ!」


 おせんさんが一向に部屋から出ていく気配が無く、妙な沈黙が続いたので声を掛けたら、少し丸め気味だった背中が、急にピンっと伸びた。


「まだ俺だけ風呂に入っていないので、良ければ入りたいんですけど、大丈夫ですか?」


 もし、既に湯を抜いたとか、もう風呂は炊かないとか言われたら諦めるが。


(あ、でも、水と浴室だけ使わせて貰えれば、権能を使えば大丈夫だな。入浴後に風呂場を洗うって言えば、使わせてくれるかな?)


 手持ちの金貨を権能で熱して風呂を沸かす程度なら、(エーテル)は殆ど消費しない。


「それでは、御案内致します」

「お願いします」


 おせんさんの案内で今いる三階の部屋から、建物の一階部分にある浴場へ向かった。



「こちらです」

「どうも」


 おせんさんに案内された浴場は、思っていたよりは小さな物だった。幸いな事に、浴槽には沸かされた湯が張られている。


「この風呂は、沸かしたお湯を運んでくるんですか?」


 脱衣所と浴室の間の戸は開いていて、視線の先に見える湯気の上がる浴槽を指差しながら、おせんさんに尋ねた。


「いいえ。外にある鉄の炉で沸かした湯を、風呂桶と繋いだ二本の鉄管で循環させるという構造になっています」

「へぇー……」


(五右衛門風呂とかを想像してたけど、思ったよりも技術が進んでいるんだろうか?)


 実際に見てみないとわからないが、炉の構造を考えれば燃焼の効率も上げられそうだし、江戸で作った変化球的な風呂よりは、誰にでも扱えるという点で実用的だ。


(これでシャワーがあれば言う事無しなんだけど……あ、もしかしたら、こういう構造なら持ち運びも可能か? 入浴後にちょっと外も見てみよう)


 ネットゲームなどで言う移動不能オブジェクト以外は、周天の腕輪には収納可能なので、揺れる船の上とかで使うとかの無茶をしなければ、水の調達が出来れば移動式バスが利用出来そうだ。


「……えっと、おせんさん?」

「はい?」

「そこにいられると、服が脱げないんですが……」

「っ!? も、申し訳ありませんっ! で、では、温まりましたら、お呼び下さい!」

「えっ!? そ、それって……」

「失礼致します!」


 何やら良くわからない事を言うおせんさんは、凄い勢いで浴室と廊下の間の木戸を出て閉めた。


「……ま、いいか」


 俺は服を腕輪に収納して、抜いだ下着と入れ替わりで取り出した手拭いと石鹸を持って浴室へ入った。


「……うん、いい温度だ」


 浴槽に手を突っ込んで軽くかき混ぜて熱さを確かめ、手桶で身体に湯を掛けてから縁を跨ぎ、ゆっくり肩まで浸かった。


「ふぅ……」


 無意識の溜め息が出ると、風呂に入ったのを実感する。湯の熱さが心地良い。


(白ちゃん、いま大丈夫?)

(主殿? 敵か?)

(いや、そうじゃないけど……)


 念和で呼び掛けると、緊急事態かと思ったのか、白ちゃんから緊張感が伝わってきた。


(黒ちゃんはどうしてる?)

(黒ならのん気な顔で寝ているが、起こすか?)

(いや。そのまま寝かせておいてあげて。じゃあちょっと相談があるから、いま俺は風呂なんだけど、来られる?)


 先に白ちゃんに呼び掛けたのは偶然なんだが、どうやら正解だったようだ。多分だが、黒ちゃんに呼び掛けていたら、眠っていたのを起こしてしまったろう。


(!? も、勿論だ! 遂にこの時が……)

(え? あの、白ちゃん!?)


 考えてみれば、女性を風呂に呼ぶというのは、それなりにとんでもない事だというのに、ナチュラルにその辺を失念していた。


「き、来たぞ……」


 俺がほんの少し考え込んでいる間に、全裸の白ちゃんが目の前に出現した。界渡りを使ったのだ。


「えーっと……」


 呼んだのは俺なので帰れと言うのも変な話だ。そしていつもは黒ちゃん共々、他人の目など気にせずに堂々


と裸身を晒している白ちゃんが、普通の女性のように胸元と脚の間を腕で隠しながらもじもじしている。


「えっと……白ちゃんも入る?」


 目の前に立たれたままだと目の毒だと思い、隣に誘導した。


「っ!? で、では、お邪魔する……」


 今日は色々失念しているが、最大の失敗が、湯屋や大前や鎌倉の風呂と構造的に違うのを考慮しなかった事だ。大きく脚を上げて縁を跨がなければならないので、当然のように……俺は慌てて視線を逸した。


「……」

「……そ、それで、何の用なのだ? 風呂の相手というだけなら、それはそれで構わんが」


(風呂の相手って!?)


 思わず声が出そうになったが、呼んでおいて要件を伝えていないのを思い出した。


「明日の朝イチで、白ちゃんか黒ちゃんに江戸の大前に行って貰おうと思ってるんだけど」


 心の中の恐慌が少し鎮まったのを自覚してから、俺は白ちゃんの方を見ないようにして話し出した。


「勿論、それは構わんが。こっちに残る方は主殿の護衛か?」

「いや、護衛はいらないでしょ……んー、残った方は、俺の助手かな?」


 おりょうさんも料理は出来るが、大前では頼華ちゃんと一緒で給仕と盛り付けが専門だったので、鰻の捌き方は習得していない。


「俺も黒も、料理は出来ないが?」

「ん? 二人共、教えれば出来るでしょ?」


 たまに不器用に見える事のある白ちゃんと黒ちゃんだが、機械へプログラミングするように、教えた事に関しては正確かつ精密に行う事が出来る。要は経験が乏しいのが問題なのだ。


「それに、それ程難しい事をお願いする気は無いよ。串打ちと、焼きの管理かな」


 全ての作業を一通り見せるつもりなので、多分大丈夫だろう。


「わかった。元より断るつもりも無い」


 本当ならこの辺は、本人の自由意志を尊重したいところなのだが、白ちゃんと黒ちゃんに関しては、俺からの申し出を断るという選択肢が存在しそうに無い。


「それで、白ちゃんは江戸行きと俺の助手と、どっちがいい?」

「どちらでも、命じてくれれば……」

「どっちがいい?」


 俺任せにしそうな白ちゃんの頭を両手で挟み、こちらを向かせてじっと目を見た。


「お、俺は、主殿に命じられれば……」

「どっちがいいのか、白ちゃんが決めて」


 視線を逸らさず、白ちゃんの瞳を見つめ続けながら質問を繰り返す。


「う……あ、主殿の助手が、いい……」

「うん。じゃあお願いね」

「う、うむ……」


 顔を真赤にした白ちゃんは俯いてしまったので、必然的に湯船に顔を浸ける事になる。ブクブクと泡が発生する。


「ちょ!? 白ちゃん、顔を上げて!?」

「ん? どうした主殿。そんなに慌てて」


 顔上げた時にはいつもの調子の白ちゃんに戻っていて、伏し目がちな瞳で俺を見てくる。


「……溺れてるのかと思ったよ」

「心配を掛けたのなら申し訳ない。だが、その気になれば俺は、かなり長い間潜れるからな」


 思わぬところでまた一つ、白ちゃんの秘密が明らかになった。


「ところで主殿。用件が済んだのなら、その……背中を流すが?」

「ん? ああ、そうだな。お願いしようか」


 以前にもやってもらった事があるし、白ちゃんなら変に暴走したりはしないだろう。


「えっ!? う、うむっ!」


 俺が申し出を受け入れると思っていなかったのか、信じられない物を見たという感じの表情を浮かべた白ちゃんだったが、すぐに瞳に決意の炎を宿すと、浴槽の中で立ち上がった。


「っ! お、俺も出ようかな……」


 俺の座った目の高さが、白ちゃんの身体の位置的に目の毒だったので、慌てて視線を逸して立ち上がった。


「で、では……」

「うん……」


 石鹸を泡立てた手拭いで、白ちゃんが背中を洗ってくれる。丁度良い力加減で、実に気持ちがいい。


「こんな物で良いか?」

「うん。凄く気持ちいいよ。白ちゃんは上手だなぁ」

「そ、そうか……もっと頻繁に使ってくれても、良いのだぞ?」


 不満そうに白ちゃんが声を上げるが、湯屋でも無ければ今日のように一緒に入浴なんて、滅多に出来る物ではない。


「そうだなぁ。でも、今回みたいに二人になる機会が、中々無いからね」

「むぅ……」

「今回は、最近色々と気遣いしてくれたり、我慢させちゃったりしてた白ちゃんを労おうと思ってね。で、本題だけど、俺に何かして欲しい事とかってある?」


 主人のために働くのが御褒美、なんていうのはどこかの超越者様の下僕(しもべ)だけの話だから、出来るだけ希望を尊重してあげたい。


「お、俺を労う? 食事とそれ以外にも世話になっているというのに、これ以上主殿に甘えろと!?」

「うん。甘えて」

「!?」


 俺の返事が意外過ぎたのか、白ちゃんの手拭いを動かす手が停まった。


「で、では……頭を、撫でてくれるか?」

「……え?」

「だ、ダメか!? やはり大それた願いだったのか!?」

「ああ、白ちゃん、落ち着いて……」


 背後からワタワタする気配が伝わってきたので、白ちゃんに声を掛けた。


「ダメなんじゃ無くて、そんな事でいいの?」


 人間とは根本的にパーソナリティが違うのかもしれないが、それにしたって欲が無さ過ぎる。


「も、勿論だ!」

「いいけど……手が濡れてるから、後でね?」

「か、必ずだぞ!?」


 正直、そこまで必死になるのが謎なんだが、白ちゃんは本気のようだ。


「うん、約束するよ。他には無いの?」

「ま、まだいいのか!?」

「まだというか、言ってくれれば頭なんか、いつでも撫でるよ」

「な、なんだとっ!?」

『あのー……』

「「っ!?」」


 浴室の戸の向こうから、おせんさんの声が聞こえてきたので、驚いた俺と白ちゃんは息を呑んだ。


「は、はいっ! なんでしょうか!?」


 返事をしないと怪しまれると思ったが、どうにも声が上ずってしまう。


『あ、すいません。浴室内が騒がしいようでしたので、何かあったのかと思って声をお掛けしたのですが……』

「な、なんでもないですよ!?」


 どうやらおせんさんは、少しヒートアップした白ちゃんの声を聞き付けたようだ。


『それなら宜しいのですけど……あ、あの、そろそろお背中をお流ししましょうか?』

「背中なら、自分で洗いましたので、大丈夫です」

『!? そ、そうでございますか……』


 そういえば温まったら呼んでくれとか言われていたが……木戸越しにも、おせんさんの落胆が伝わってくる。


『そ、それでは、湯上がりに冷たい物でも御用意しておきますので……失礼致します』

「ありがとうございます……」


 重そうなな足音と共に、おせんさんの気配が遠ざかっていく。


「行った……かな」

「……そのようだな」


 周囲から人の気配が無くなったのを確認した俺の囁きに、白ちゃんが応じた。


「では流すぞ」

「うん」


 手が停まった時点で背中は洗い終わっていたので、白ちゃんが桶で汲んだ湯を掛けて、石鹸の泡を流してくれた。


「む……主殿。さっき、願いはなんでもいいと言っていたな?」

「そうだけど、何か思いついた?」

「う、む……主殿の頭を、洗わせてくれるか?」

「そんなのでいいの!?」

「そ、そんなのとか言うなっ!」


 髪の毛を洗って欲しいとかなら、まあわからなくもないが、なんで俺の頭を洗いたいのか……まだまだ理解するには程遠いようだ。


「じゃあ身体の前側を洗っちゃうから、その後でね」

「俺が前も洗うが?」

「いや、それは……」


 メリハリという点では黒ちゃんには及ばないが、それでも抜群と言えるプロポーションの白ちゃんの裸身を、視界に入れながら身体を洗われたら……全くの無反応でいられたら悟りが開けそうだ。


「ダメなのか……」

「だから、なんで死にそうな顔になってるの!?」


 ずっとしてきた事を急にやめさせたとかいう訳では無いのに、これ程激しく落胆されるのは理解出来ない。


「あー……そんなに洗いたいの?」

「む、無論だ!」

「そんなに力強く言わなくても……じゃあ、お願いしようかな」


 特に大きな問題は無いだろうと思うので、俺の方が折れた。何か大事な物を失ってしまいそうな気がするが……。


「い、いいのだな!? やっぱりダメだとか言っても、洗うからな!?」

「本当に洗うだけだよね!?」


 洗うという言葉に何か他の意味が含まれているのかと思ってしまうくらい、目に見えて白ちゃんのテンションが上がっている。


「よーし……」

「お、お手柔らかに……」


 結論から言うと、本当に洗われただけだった。ただ、白ちゃんは恐ろしく念入りだったので、本当に体の隅々まで……なんとか反応する事無く終了したのは、軽く言っても奇跡だろう。



「♪」

「……御機嫌だね」


 風呂から上がって服を着け、部屋に戻るまでの間、白ちゃんはずっとニコニコしっぱなしだった。普段はあまり表情に変化そ見せないので、非常に珍しい状況だ。


「あ、鈴白様、と、白様。冷たい物をお持ちしました」


 割り当てられた部屋に戻るとのと、おせんさんが冷たい物を持ってきてくれたタイミングが重なった。


「どうぞ。冷やした麦湯です」


 座布団に座った俺の前に、表面が結露している湯呑が置かれた。


「ありがとうございます。ん……ああ、うまいな」


 麦湯とは大麦を焙煎してから煮出した、現代でいう麦茶だ。しかし最近主流の水出しの物などとは違って、香ばしさが段違いだ。


 良く冷えている上に、水と茶葉を使ったお茶以外の飲み物は久しぶりなので、殊更にうまく感じる。


「白様もお飲みになりますか?」

「貰おうか」


 大きな急須から湯呑に注がれた麦湯が、おせんさんの手で白ちゃんの前に差し出された。


「ありがとうございます」

「かたじけない」

「……」


 急須を置いたおせんさんは正座をしたまま、さっきと同じ様に部屋から出て行こうとしない。


「あの、おせんさん?」

「はい。何か?」

「ちょっと内密の話がありますので……」

「あ、そうですか……それでは失礼致します」


 あからさまに落胆を表情に浮かべたおせんさんは、それでも礼儀正しい仕草を崩さずに退出していった。


「主殿、良いのか?」

「ん? 何かあった?」


 おせんさんが出ていった方をじっと見ながら、白ちゃんが尋ねてきた。


「あの女、すっかりその気だったようだぞ」

「その気って……なんの?」


 白ちゃんの言わんとする事はなんとなく察したが、敢えて核心は避けた。


「主殿にはわからなかったか? あの女、はつじょ……」

「うん。白ちゃん、そこまでで」


 決意の籠もったような、それでいて達観したかのような、おせんさんの表情は俺もわかっていたが、白ちゃんは他にも通常との変化を感じ取っていたようだ。


「主殿がいいならいいのだが……」

「まだ何かあるの?」


 会話の内容が現在進行系なのか、それとも話題が変わるのか、白ちゃんが俺の方をチラチラと見てくる。


「そ、その……主殿に、寄り添っても……いいか?」

「よ、寄り添う?」

「き、昨日の夜の事を黒から聞いたのだが、建物の屋根の上で、主殿の……あ、脚の間に座ったと」

「ああ。そうだね」


 特に隠す事でも無いので、白ちゃんへ正直に答えた。


「そうなのか!? で、では、俺も黒と同じ様に……」

「白ちゃんを? 構わないけど……」


 白ちゃんが何を言いたいのかはわかったが、頭の中で場面を想像してみて、俺は少し首を捻った。


「な、何か問題があるのか!?」

「問題、では無いんだけど……問題か?」


 単純に黒ちゃんと身長差があるので、白ちゃんが俺の脚の間に座ると、後頭部しか視界に入らないのではと思ったのだ。


「まあ、それはいいか……じゃあ、おいで」


 俺は立ち上がって、座布団を持って窓際に行くと、壁に背を預けて座って白ちゃんを呼んだ。


「っ! し、失礼する」


 近くまで歩いてきた白ちゃんは、振り返って俺に背を向け、ゆっくりと腰を下ろした。


「あ、こうすれば良かったのか……」

「あ、主殿!?」


 少し身体を斜めに傾けて、俺は白ちゃんの左肩の上に顎を乗せるような姿勢になった。これなら視界を塞がれない。


「……背中に、主殿の温もりを感じる」

「風呂上がりだから、体温が上がってるからかな?」

「そういう事では無くてだな……非常に心地良い、ぞ」


 行き場が無くて俺が前に回していた手に、白ちゃんが自分の手を添えた。


「あ、そういえば……これでいいかな?」


 白ちゃんの触れている手から右だけを外し、そっと頭に触れ、優しく撫でた。


「ふ、ふぁぁぁ……お、俺は今夜死ぬのか?」

「なんで!?」


 長い吐息を漏らしながら小刻みに身体を震わせた白ちゃんから、唐突に物騒な言葉が出て来た。


「凄く、幸せなのだ……死ぬなら、いま死にたいくらいに……」

「じゃあ死んじゃダメだよ……」

「……うん」


 白ちゃんは背後にいる俺に、傾けた頭を預けて来ながら、いつになく素直に返事した。位置関係で全ては見えないが、今までに見た事が無いほど穏やかで安らいだ表情をしている。


「えっと、話をしたいんだけど、いい?」

「いいぞ。今ならなんでも言う事を聞いてしまいそうだ」


 今じゃなくても、白ちゃんも黒ちゃんも、基本的に俺の言う事は断らない。


(逆に、下手な事は言わない方が良さそうだな……)


 冗談を言っても全力で実行しそうなので、内容には気をつけよう。


(……ん? 考えたら、明日は助手をお願いする白ちゃんに話す事は、そんなに無いか?)


 お使いしてもらう黒ちゃんには幾つか指示をしなければならないが、白ちゃんにはその都度で大丈夫だ。


「ごめん。特に無かった」

「なんだそれは……でもまあ、そういう、ちょっと抜けた主殿も好きだぞ」

「抜けたとは、酷いなぁ……」


 一応反論したが、確かに抜けていたのは間違いない。


「怒ったのか? 全知全能のように思っていた主殿の、知らなかった面を見られて嬉しかったのだが……」


 白ちゃんが不安そうに、頭を逸して俺を見てくる。


「俺が全知全能? なんでそんな事に……」

「俺を捕まえた時の手口や、料理屋を切り盛りしたり、塩の生産を思いついたり、おせんを助けて傷を治したり……」

「わかった。白ちゃん、もういいから」


 放っておくと、出会ってから今日までの事を列挙されそうなので、白ちゃんが語るのを遮った。


「お、怒らせてしまった……のか?」

「だから、なんで涙ぐんでるの!?」


 急に白ちゃんの瞳が潤み始め、零れ落ちた涙の雫を指で掬い取ってやる。


「ああ、よしよし……」

「あぅぅ……も、もっと撫でてくれ」


 いつの間にか、白ちゃんが座った俺に縋り付くようなポジションに変わっていて、声を押し殺してシクシク泣いている。


(なんでこうなった……)


 数刻前まで蕩けるような表情で微笑んでいたのに、今は白ちゃんが泣いている。


「……す、すまなかった」

「大丈夫?」


 俺の服の胸元を握ったまま、まだ顔は起こさないが、どうやら泣き止みはしたようだ。


「すまない。自分がこれ程、感情を抑えれないとは思わなかった……」

「いいよ。俺の方も、知らない白ちゃんを見られたし」

「!?」


 一瞬、驚愕を浮かべた顔をガバっと上げたが、カーっと真赤になったと思ったら、再び顔を伏せてしまった。


「あはは。白ちゃんは可愛いね」


 なんか今の姿に妙に保護欲をそそられて、いい子いい子とする感じに、白ちゃんの頭を撫でた。


「ーっっっ!!」


 俺の言葉へのリアクションに困っているらしく、激しいものでは無いが、身体を揺すりながら脚をジタバタ


させている。


(もしかして、普段の表情や行動は、素じゃなくてコントロールしてるのかなぁ)


 そう思わせるくらい今の白ちゃんは、黒ちゃんや頼華ちゃんと同じ程度に感情を表に現している。


「白ちゃん」

「……なんだ?」


 ノーリアクションかとも思ったが、辛うじて白ちゃんから返事があった。


「今日はもう、このままこの部屋で寝ちゃわない?」

「っ! い、いいのか!?」


 白ちゃんは涙に濡れたままの顔を上げて俺を見た。


「いいよ。それじゃあ……」

「ひゃぁっ!?」


 それ程苦も無く白ちゃんを抱き上げると、今までに聞いた事の無いような変な声を白ちゃんが上げた。


「……ひゃぁ?」

「き、気の所為だ!」


 珍しい事だったのでオウム返しにしたら、また白ちゃんが顔を伏せてしまった。


「下ろすよー」

「う、うむ……」


 少々行儀が悪いが脚で掛け布団を捲って、敷布団に白ちゃんを下ろし、そのまま俺も布団に横になった。


「あれ、もしかして灯りは……消えろ」


 部屋に入った時点で室内照明が灯っていたので気にしていなかったが、もしかしたらと思って唱えると暗くなったので、どうやら魔法の灯りだったようだ。


「寝難くない?」


 二つ並んでいた枕の一つに頭を載せ、もう一つは布団の外に押し出して、白ちゃんへは腕枕をした。自由な左手で布団を掛ける。


「う、うむ。大丈夫……いや、これがいい……」


 頭は俺の腕に預けてくれたが、白ちゃんは俺の服の胸元を掴んだままだ。


(お互いに寝返りとか打てそうにないけど……ま、いいか)


 体勢的になのか、白ちゃんが足を絡めたりしてきたのが気になったが、耳元で規則正しい寝息が聞こえてきたので、俺も眠りの世界へと入っていった。

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