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椿屋

「ただいまー」

「御主人、おかえりなさーい!」

「おかえり、主殿」


 伊勢神宮の内宮から戻った俺を、寝っ転がりながら団子や饅頭を口に運んでいた黒ちゃんと、正座してお茶を飲んでいる白ちゃんが迎えてくれた。


「桶とか手拭いとか、ちゃんと洗っておいたよ!」

「水の補充も終わっている」

「ありがとう。じゃあ仕舞いに行こうか」


 身内しかいないので注意する程では無いが、黒ちゃんの行儀の悪さに苦笑してしまう。


「おう!」

「承知した」



「おりょうさんと頼華ちゃんは、まだ戻って来てない?」


 井戸の脇に、洗い終わって乾かしてあった手拭いやたらいと、水をいっぱいに溜めてある桶を腕輪に収納しながら、黒ちゃんと白ちゃんに尋ねた。


「部屋に手拭いが干してあるので、湯屋から一度戻ったのだとは思うが、俺達がここでの作業を終えて休んでいる間には、会っていないぞ」


 白ちゃんにそう言われたが、部屋に入ってすぐにこの井戸端に来たので、手拭いが干してあったのには気が付かな立った。


「そっか。なら、その辺で過ごしてるんだろうね」


 おりょうさんと頼華ちゃんは、タイミング的に白ちゃん達とはすれ違ったようだ。


(大きな騒ぎなんかは聞こえてこないから、まあ大丈夫かな)


 仮に何かの騒動に巻き込まれたとしたら、おりょうさんと頼華ちゃんが絡めば大騒ぎになるはずなので、そうなってないという事は、本人達も街も大丈夫だろう。


「ただいまー、って、良太達も今戻ったのかい?」

「兄上、ただいまです!」


 宿の二階の部屋の前で、俺達が中にいると思っていたのだろう、声を掛けているおりょうさんと頼華ちゃんと、バッタリ遭遇した。


「さっき戻って、黒ちゃんと白ちゃんが洗ってくれた桶とか水とかを、井戸から回収してきたところです」

「そうかい。で、すぐに出掛けるのかい?」


 襖を開けて部屋の中に入ったおりょうさんは、軒の下に干してあった手拭いを取り込んで畳み、福袋へ仕舞った。


「何か他の用事が無ければ、そろそろ行こうかと思いますけど」

「そうだねぇ。明るいうちに行こうか」


 これから向かう古市は、昼でも夜でもお構いなく賑わっているのだが、おりょうさんの言う通り、明るいうちに行って帰ってくる方が良さそうな気がする。


「えっと……皆、場所が場所なんで、外套をしっかり着てね」

「そんな変な場所なのですか?」


 俺の言葉に首を傾げながらも、頼華ちゃんは迷彩効果のある外套を羽織る。


「ど、どう説明すればいいのかな……」

「こ。困ったねぇ……」


 店の関係者以外の女性が殆どいない場所で、その店というのがどういう類の物なのかという説明を、頼華ちゃんにして良いものか……俺とおりょうさんは顔を見合わせる。


「あのな頼華、なんかド派手な着物と化粧した女が、いっぱいいるんだ!」


 俺とおりょうさんが考えあぐねていると、黒ちゃんが頼華ちゃんへ、昨夜見た光景を説明し始めた。


「派手な着物に化粧……なんで兄上はそんなところに?」

「うっ!」


 ここまではなんとか誤魔化せていたが、頼華ちゃんが核心を突いてきたので言葉に詰まった。


「なんでかはわかんないけど、人助けしたんだぞ!」

「む。さすがは兄上です!」

「そうだろそうだろ!」

「うむ! では兄上、参りましょうか!」

「う、うん……」

「行こうかね……」

「参るか」


 後半、微妙に頭の悪い感じのやり取りをした黒ちゃんと頼華ちゃんが、いざ参らん! みたいな感じになったから、わざわざ藪を突っつく事も無いので、俺とおりょうさんは流れに身を任せ、白ちゃんも後に続いた。



「あの、すいません」


 古市の街に入ったところで、手近な店の呼び込みをしていた男性に椿屋の場所を聞いた。昨夜は屋根の上を飛び移っての移動だったし、代官所へは先導して貰って付いていっただけなので、どうにも記憶が曖昧だった。


 その上、古市という場所は整然と建物や道が整備されている訳でも無く、迷路のような街並みは、慣れていなければ迷ってしまいそうだ。


「おう! 兄さん、遊びに来たのかい? うちにはいい娘がいっぱいいるよ! どんな娘がいいか、好みを聞かせてくんな!」


 当たり前だが客と間違われた。畳み込むような物言いに圧倒されそうになる。


「あ、そうじゃなくてですね……あの、椿屋さんの場所を訊きたいんですが」

「なんでぇ。他の店の客かよ……椿屋は、このまま真っすぐ行った、突き当りの階段沿いにあるぜ。でっけぇ店だから、すぐわかるよ」


 期待外れの俺の言葉に落胆した様子の男性だったが、親切に椿屋の場所を説明してくれた。この辺はさすがプロというところか。


「ありがとうございます」

「おう。今度はうちの店でも、遊んでってくれよな!」

「……」


 曖昧な笑顔で無言のまま会釈すると、俺は呼び込みの男性に背を向けて足早に歩き始めた。



「なんか、随分と立派な店だねぇ……」

「本当ですね……」


 呼び込みの男性が言っていた通り、椿屋という妓楼は斜面に張り付くような建てられ方をしていて、横にも縦にも大きく、壮麗ではあるが落ち着いた雰囲気の店構えだった。


「あの、すいません……」

「あら、いらっしゃい。可愛らしいお兄さんだこと。うちの店は初めて?」


 先ずは俺一人で暖簾をくぐると、入ってすぐのところに座って退屈そうにしていた女性が、表情を明るく変


えて立ち上がると、甘ったるい喋り方をしながら身を寄せてきた。


「あ、いや……鈴白と申しますが、店主さんを呼んで頂けますか?」


 身体を擦り寄せるようにしてくる女性の、化粧品の匂いにドギマギしながら、俺は用件を言った。


「す、鈴白様でございますか!? しょ、少々お待ち下さいっ!」

 

 椿屋さんから訪問する事を言い含められていたのか、女性は俺の名前を聞いた途端に、表情を一変させて直立すると、足早に店内へ去っていった。


「ちょっと、あのお人みたいだよ」

「まだお若いのに、凄いもんだねぇ」

「……ん?」


 複数の小さな囁きが聞こえたので視線を向けると、しっかり着飾っていたり、明らかに着付けの途中だったりと、様々の格好の女性達が、俺を値踏みするように見つめていた。


「これっ! お前達、お客様に失礼だろう!」

「きゃっ!」

「お、お父さん!? ごめんなさい!」

「いいから、早く行って支度をなさい……鈴白様、申し訳ありません」


 お父さんと呼ばれているのだろうか? 店主の椿屋さんに注意され、女性達は蜘蛛の子を散らすような勢いで奥へと去っていった。


「昨夜、私とおせんが戻ってから、鈴白様と騒動の話をしたので興味を持ったようなのですが、くれぐれも失礼の無いようにと申し付けていたのに……誠に申し訳なく」


 本当に申し訳なさそうに、椿屋さんが両手をついて頭を下げてきた。


「いえいえ。そんなに失礼な事をされたなんて、思っていませんから」

「それでしたら宜しいのですが……」


 女性達の値踏みするような視線は確かに気になったが、それよりも椿屋さんとおせんさんが、俺をどんな風に説明したかの方が気になっていた。


「こんなところで話し込んでいては、もっと失礼ですね。さ、どうぞお上がり下さい」

「はい。みんな、どうぞ」

「「「「はーい」」」」


 暖簾の向こうで待っていたおりょうさん達を呼ぶと、揃って返事をしながら入ってきた。


「おお。これはなんともお美しい方ばかりで……これでは確かに、うちの娘達では鈴白様には物足りないでしょうな」

「あ、いや、そういう事じゃ……」


 多分だが椿屋さんは、おりょうさん達と俺が深い仲だと勘違いしているのだろう。幼い頼華ちゃんの事もそう思っているのかは謎だが、敢えて訊かなくてもいいだろう。


「お邪魔しますね」

「お邪魔します!」

「邪魔するぞー!」

「世話になる」

「……」


 複雑な心境の俺にはお構い無しに、椿屋さんに促されるまま、各自履物を脱いで上がり込んだ。



 椿屋は斜面に建てられているのだが、入り口が建物の二階に当たる構造になっている。二階部分は入り口と、働いている人達の控室や厨房になっていて、接客には一階と三階が使用されるという事だ。階段を上がったので、俺達が案内されるのは三階らしい。


 曲がりくねった長い廊下を歩いて広い座敷に通された俺達を、手をついて頭を下げたおせんさんが待っていた。


「鈴白様、お待ちしておりました」

「おせんさん、手の方は大丈夫ですか?


 大丈夫だとは思うが、時間の経過で違和感なんかが無いか心配していた。


「おかげさまで、かなり細かな作業をしても違和感がございません。本当に、なんとお礼を言えば……」

「大丈夫なら良かったです。顔をお上げ下さい」


 おせんさんは下働きという事なので、昨日助けた時は化粧っ気をあまり感じなかったが、今日は俺達をもてなしてくれるためだろうか、薄化粧が施されている。


「さあさあ、鈴白様は奥へ。他の皆様は、お好きな席へお座り下さい」


 誰がどこに座るかで揉めるかと思ったが、半ば無理矢理上座に座らされた俺の右前におりょうさん、その隣に黒ちゃんが座り、左前に頼華ちゃん、その隣に白ちゃんと、最初から決められていたみたいな動きで着席した。


 俺の座った前は広く開けらていて、今は椿屋さんが一人で座っている。


 俺達が着席すると食膳を持った人達が入ってきて、各自の前に並べられた。見た目にも鮮やかな料理の数々は、量的にも食べごたえがありそうだ。


「おーい! 入ってきなさい!」

「「「はぁーい♪」」」


 椿屋さんが手を叩きながら呼び掛けると、料理を運んできた人達と入れ替わりに、綺麗な着物を着た女性達が入ってきた。三味線や太鼓なんかを持っている女性もいる。


「どうぞ……」


 俺の右側に膝をついたおせんさんが、徳利を捧げ持つようにして俺に声を掛けてきた。


「あ、俺は酒は……」


 口をつけるだけでもするべきかとは思うが、まだ飲酒には少し抵抗がある。


「おや、鈴白様は酒はダメな方で? では、お飲み物はどう致しましょうか?」


 この世界では基本的に飲み物といえば、水か酒かお茶に大別される物しか無い。手持ちに牛乳があるが、和食には合わないだろう。


(ジュースとか清涼飲料の類なんかは、無いよな……)


 元の世界では酒が飲めなくても、ジュースや炭酸飲料なんかがセレクト出来るが、無論、こっちの世界にそんな物は無い。


「俺にはお茶を下さい。頼華ちゃんもかな?」

「はい!」


 俺が問い掛けると、頼華ちゃんから元気な返事が返ってきた。


「畏まりました。すぐにお持ち致します」


 一番出入り口寄りに座っていた女性が、椿屋さんの目配せに小さく頷くと部屋から出て、予め用意してあったのか、すぐに茶器を持って戻ってきた。


「どうぞ」

「どうも」


 お茶の注がれた湯呑が、俺と頼華ちゃんの食膳に置かれた。おりょうさん、黒ちゃんと白ちゃんは酒盃を持っている。


「それでは、ささやかではありますが、私とおせんの恩人であります、鈴白様とお連れの方々へのお礼でございます。どうぞ存分にお召し上がり下さい」

「ありがとうございます。頂きます」

「「「「頂きます」」」」


 こういう時には酒盃の方が格好がつくなと思いながら、俺は湯呑を軽く掲げた。


「っ……かぁー……こいつは、良い酒だねぇ」


 漫画なんかで見る「このために生きてるー!」、みたいな感じに、おりょうさんが酒の味を噛み締めている。


「お口に合いましたか? ささ、もっとお召し上がり下さい。鈴白様は、お飲み頂けない分、料理の方をどうぞ」

「どうも」


 改めて見た食膳には、伊勢湾が近いだけあって、魚介類が中心の料理が並んでいる。中でも焼き牡蠣と、色んな種類の鮑の料理が目を引いた。


「鮑なんて、水貝と寿司以外には食べた事が無かったな……うん。うまい」


 その食べた事のある水貝を口に運ぶと、浮かべてあった葉の物か、口に入れると変わった香りと微かな山葵の風味が広がり、噛むと物凄い鮑の歯応えだった。


「お口に合いましたか?」

「ええ。この変わった風味はなんですか?」

「お気付きですか? 蓼の葉をあしらってあります」


 鮎の塩焼きには、独特の風味の蓼の葉を使った蓼酢を用いるが、他の用途は知らなかった。


「刺し身とはまた違った味わいで、楽しめました」

「そうでございますか。他の料理も口に合えば幸いです」


 鮑は他に、刺し身、肝も一緒の酒蒸し、驚いた事に丸のまま擦り下ろした物などもあった。普通なら金額が気になって、鮑なんかこんなに注文出来ない。


「焼き牡蠣の味噌ダレも、江戸の物とは違うけどうまいなぁ」


 江戸で食べた焼き牡蠣に掛かっていた物よりも、かなり黒っぽい味噌が掛けられている。だが、色から連想されるような辛さは無く、代わりに深いコクと風味があった。


「こいつは、八丁味噌だねぇ」


 おりょうさんに言われて、そういえばこの辺は八丁味噌文化圏だったという事を思い出した。


「おお、鈴白様だけでは無く、お嬢様の方も食通だとは」

「ちょ、ちょいと、お嬢様はやめて下さいよ……」


 椿屋さんの言葉に頬を染めたおりょうさんは、照れ隠しだろうか、酒盃を一気に煽った。


「ではそろそろ……始めなさい」

「「「はぁーい♪」」」


 椿屋さんの号令で控えていた女性達が、それぞれ楽器を構えて音楽を奏でると、扇を持った女性が俺に一礼して立ち上がり、音楽に合わせて悠然と微笑みながら舞い始めた。


 堂々と舞う女性は、こういう職業の人特有の化粧をしているが、顔立ちに愛嬌やあどけなさを感じるので、もしかしたら凄く若いのかもしれない。


(う、むむ……もてなしてくれているのはわかるんだけど……)


 音楽も女性の踊りも見事だとは思うのだが、人生経験が少ないので、こういうお座敷遊び? の、楽しさが俺にはわからない。


「「……」」


 そんな俺を余所に、おりょうさんは酒盃を持ったまま、頼華ちゃんは箸を動かすのを止めて、女性の舞に見入っていた。


「うーん……乳酪(バター)が欲しいな」

「む」


 一方、黒ちゃんは次々と料理を口に運んでは、表情を輝かせたり首を捻ったりと忙しくしていて、白ちゃんは注がれるままに黙念と酒盃を傾けながら、無表情で時折料理に箸を伸ばす。


 少し大きめな旋律が響き渡ると音が止み、舞っていた女性が動きを止めて跪いた。どうやら終わったようで、瞳を輝かせたおりょうさんと頼華ちゃんが拍手を贈っている。


(俺には、こういう遊びを楽しめる時は来そうにないな……)


 心の中で呟きながら、おりょうさんと頼華ちゃんに付き合って、俺も拍手した。



 食事が終わって、お茶と茶請けの高級そうな羊羹が出されると、おせんさん以外の女性達は退出した。


「御満足頂けましたか?」

「ええ。とっても」


 黒ちゃんが言うように、少し脂っ気が欲しかったところだが、料理は本当においしかった。だが歌舞音曲の方は、俺にとっては目の保養以外の何物でも無かった。


「この程度ではお礼にもなりませんので、もしまた伊勢にお出での際には、是非とも当店にお立ち寄り下さい」

「十分におもてなし頂けましたので、もうそんなにお気になさらないで下さい」


 伊勢神宮に再訪して、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)様にもう一度お会いしたいという気持ちはあるが、実現出来るかどうかは微妙な感じだろう。


「しかし……」

「それより、ちょっと伺いたかったのですが。代官所で名前は聞かなかったのですが、あの……犯人の男は、どうしてあんな事をしたのか、椿屋さんはご存知なのですか?」

「それは……」

「……」


(あ、ちょっと無神経だったか?)


 昨夜の事を思い出しているのか、椿屋さんは黙り込み、おせんさんは俯かせた顔を蒼白にしている。


「すいません。訊かない方が良かったですね」

「いえ……わかりました。お話しましょう」

「……」


 椿屋さんが重々しく呟くと、俯かせていた顔を上げたおせんさんが、俺の方を向いて小さく頷いた。


 男は近くに住む医者で、以前にも椿屋を利用した事があった。酒を注文されたので、さっき踊っていたお藍さんという女性が相手をしたのだが、別の座敷に呼ばれて席を外した。


 これに怒って男が文句を言ったのを、おせんさんが宥めたのだが、帰ろうとしたその時、店で預かった脇差を返した途端に斬り付けてきた、というのが昨夜の事件の経緯だった。


「悲鳴を聞いて駆け付けた時には、既に鈴白様の手で騒動は収まり、おせんの怪我も治して頂いておりましたが、男が店の中に入って来ようとしていたというのを後で聞きまして、背筋が凍る思いでした」


 多分だが、男は店に入って無差別に脇差を振り回すつもりだったのだろう。


 天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)様から聞いた説明では、前世の事件では死者三人、負傷者六人だというから、怪我をしたおせんさんは本当に気の毒だと思うが、被害者一名で済んだのは不幸中の幸いだろう。


「犯人の男は余程、お藍さんに入れ込んでたとかなんんでしょうか?」


 こういう店のシステムなんかは良くわからないが、最初に酒の相手をした女性が、他の客の座敷に行くというのが普通なのか、もしかしたらその辺が原因なのかもとか考えてしまう。


「そうかもしれません。お藍はここで働き始めて一年足らずですが、店での人気は一番ですし、古市全体でも三本の指に入ると言われております」

「はー……」


 才能なのか努力なのか、三大遊郭と言われる古市で三本の指に入るとは、まだ若そうなお藍さんは凄い人だったのだ。


(スーパー農夫やスーパー猟師のいる世界だが……)


 当然のように、男性を悦ばせる術に長けた人もいた訳だ。


「あの男は、どんな罪に問われるんでしょうね?」


 元の世界の刑法にもそれ程詳しくは無いが、こっちの世界では領地ごとにも異なるようなので尋ねてみた。


「さて。強盗や殺人は言うまでも無く死罪ですが、此度はおせんが怪我を負いましたが死者は出ておりませんので、財産の没収と遠島で済むかもしれません。その場合でも、尾張からの所払いとなると思います」


 所払いとなると縁者を頼ったりするのは難しくなるので、一見しただけでは大した事が無さそうに思うが、実はかなり重い量刑だ。


「どちらにしても鈴白様がお収め下さいましたので、私やおせんが、あの男の影に怯える事は無くなりました」


 こっちの世界では、神仏に対して宣誓をすれば絶対の強制力を発揮するので、実質的に再犯は不可能になる。それでも、心に負った傷を癒やす事は難しいだろうとは思うが。



「それじゃあ、いっぱい御馳走になりましたし、俺達はそろそろ……」


 お茶も茶請けも頂いたし、会話も一段落したところで、俺は帰ろうかと考えた。


「この程度では、お礼にもなりませんが」

「いや、そんな……」


 椿屋さんはこう言っているが、失礼に当たるので訊きはしないけど、料理も、俺は飲んでいないが酒もかなり良い物だったようだ。今回の宴席に幾らぐらい掛けているのか、考えただけでも恐ろしくなる。


「鈴白様とお連れ様さえ宜しければ、今宵はここにお泊りになりませんか?」

「こ、ここに?」


 椿屋さんの客は、泊まりで利用する人もいるのだろうけど、ここは宿屋とは違う。


「ここには風呂もありますし、利用されている宿の方の料金は、私がお出し致します」

「風呂かい……」

「おりょうさん?」


 風呂好きのおりょうさんは、やはり聞き逃さなかったようだ。


「で、でもですね……」

「ああ。良太の言いたい事もわかるんだけど……ほら、湯屋だと石鹸が使えないだろう?」

「あー……」


 仕事先だった大前に据え付けた風呂や、正恒さんの家の裏の温泉、鎌倉の源家の浴場などでは使えたが、不特定多数が利用する湯屋では、泡の出る石鹸を使うのは憚られる。


「むー。そういえば石鹸を使わなくなって、既に一週間。余も、身体と髪を泡々させて洗いたいです!」


 おりょうさんと同じく、石鹸で身体や髪を洗う爽快感を味わってしまった頼華ちゃんの気持ちは、わからなくもない。


「あの、鈴白様。失礼ですが、石鹸といいますのは?」


 会話に出てきた石鹸という単語が気になったようで、椿屋さんが尋ねてきた。


「ああ。ご存じないですか? これなんですけど、良ければ差し上げます」


 俺は福袋の中から石鹸を二個取り出して、椿屋さんとおせんさんへ渡した。


「身体や髪の毛を洗ったりする時に使うんですが、水やお湯を付けて軽く擦ると、泡が出るんですよ」

「ほう? 糠袋のような物なのですね」

「糠袋よりも、かなり洗う力が強いんですけどねぇ」


 俺に変わって、石鹸の洗浄効果を良くわかっているおりょうさんが説明してくれた。


「洗う力が強いとは、そんなにでございますか?」

「ええ。特に髪の毛なんかは綺麗になり過ぎて、指や櫛の通りが悪くなります。ですので、もし髪の毛を洗う


場合は、その後に湯で薄めた酢を、髪に馴染ませてから流して下さい」

「ははぁ……うちのような店は清潔が第一ですので、非常に興味がありますが、これは流通はされているのでしょうか?」


 椿屋さんの営業内容的に、石鹸は非常に興味をそそられているようだ。


「俺は江戸の萬屋という店で購入したのですが、外国からの輸入品です」

「ふむ……私も多少は商人に繋がりがありますので、少し調べてみます。いや、これは良い事を教えて頂きました。鈴白様にはお世話になりっぱなしです」

「いや、そんな……」


 たまたま知っている事を教えただけだし、石鹸にしても俺が作ったり扱ったりしている訳では無いので、こういう反応をされると困る。


「それにしても、使うと泡がというのがどの程度なのかはわかりませんが、いつまでも残ってしまうという訳では無いのですよね?」

「ええ。水かお湯で流せます」


 俺達が湯屋で使うのを遠慮していると言ったので、椿屋さんは泡の事が気になったようだ。


「湯屋に気兼ねして石鹸をお使いにならない、そして石鹸の泡の始末は特に難しくないという事でしたら、うちにお泊りになって、風呂をお使いになりませんか」


 食い下がるという程では無いのだが、椿屋さんは俺が助けた事を、かなり恩義に思っているようだ。


(まあ確かに家風呂、とは違うけど、落ち着いて入浴出来て、石鹸で身体を洗えるというのは魅力なんだよな)


 多少長居をしたところで怒られたりはしないのだが、湯屋では入浴から身体を洗って出るまでが、流れ作業のように感じて少し落ち着かないのだ。


「……黒ちゃんと白ちゃんは?」

「んー……あたいは御主人と一緒に入っても怒られないから、湯屋も嫌いじゃないよ」

「いや、そういう事を訊きたいんじゃなくてね……」


 鎌倉の源家の浴場で洗ってもらったり、洗ってあげたりしたのが余程気に入ったのか、黒ちゃんは隙あらば、俺と一緒に入浴しようとしてくる。


 湯屋は基本的に男女混浴なので、洗ってあげたりはしないけど、追い出したりもしない。


「おお。そういう事でしたら、当店の風呂は二人で入っても、窮屈では無いような広さになってますので」

「そういう事ってなんですか!?」


 やっぱり椿屋さんは、俺と連れの女性達の仲を勘違いしているようだ。


(お店の女性と客が、一緒に入ったり出来るようになっているんだろうけど……って想像してる場合じゃない!)


 椿屋さんの言葉で、物凄く生々しい想像をしてしまった。


「……主殿」

「白ちゃん、どうかした?」


 何やら思いつめたような表情で、白ちゃんが俺に語り掛けてきた。


「昨日は黒と一緒に行動したのだから、今夜は俺と一緒に……」

「だから、そういう事じゃ無いんだってば……」


 風呂が広いという椿屋さんの(もたら)した情報から、各自が俺と一緒に入浴するという前提で話し掛けてくる。


「あの……」

「おせんさん?」

「私も、お礼に鈴白様のお背中をお流ししたいのですが。その、皆様程の器量で無いのは、重々承知しているのですが……」


 やや地味な方ではあるが、美人と呼べる容姿のおせんさんは、どうやらおりょうさん達に対して劣等感を抱


いているみたいで、ちらちらと視線を送っては、小さく溜め息を漏らしている。


「あの、多分勘違いされてると思うんですが、この人達は旅の連れ合いではあるんですが、俺と特別な関係では……」

「えっ!? で、では、鈴白様が、私の申し出を断られるのは、もしや……」

「特別な趣味では無いです。念の為」


 俺の説明で椿屋さんが驚愕に目を見開いたので、先手を打って誤解を解いた。


(女性に手を出さないなら男色と疑われるって、考え方が極端だよなぁ……)


 それくらい、伊勢神宮を参拝した後の男性の行動としては、古市の利用は当たり前なのかもしれないが、微妙に納得行かない。


「で、でしたら、私がお背中をお流しするのは、問題無いですよね?」

「……は?」


 何故か少し嬉しそうに、おせんさんが俺に詰め寄ってくる。


「そういう事で宜しいのでしょうか?」

「いやいやいや。そういう事では無いですよ」

「え……」


 椿屋さんの問い掛けを否定したら、明るくなっていたおせんさんの表情が、一気に暗くなってしまった。


「りょ、良太。背中ならあたしが……」

「いや、おりょうさん、今は誰がって話をしている訳では……じゃあ、俺の事は置いといて、椿屋さんに泊まりたい人は?」


 俺の意志だけで決めるには難しそうなので、皆の意見を尊重するためにも訊いてみた。


「あたしは……ちょっと風呂が魅力的なんで、世話になってもいいかねぇ」

「余も、石鹸が使いたいです!」


 おりょうさんと頼華ちゃんは賛成。やはり、風呂の魅力に抗えないようだ。


「あたいは御主人に従うけど、別に泊まるのが嫌って事は無いよ!」

「俺も主殿に従うが、椿屋殿が恩を返したいというのだから、泊まっても良いのではないのか?」


 黒ちゃんと白ちゃんは積極的に泊まりたいという訳では無さそうだが、固辞する事も無いだろうという意見だ。


(食事だけでも相当なんだけど、金品を受け取らせようとしている訳じゃ無いし、ここは白ちゃんの言う通りかもな)


 同じ様な事があった場合、自分も出来る限り相手に礼をしたいと思うだろう。


「はぁ……わかりました。では今夜一晩、お世話になります。あの、俺達が利用していた宿の宮一の方には……」


 急ぐ旅じゃ無し、少しくらいの寄り道は構わないだろうと思い、世話になる事を決めた。


「店の者に行かせますので、お気兼ね無く。宿へ置いたままの荷物などはございますか?」

「いえ。大丈夫です」


 福袋と腕輪という特別な運搬方法があるので、宿を出る時に荷持は全て持ち出してきた。


「では、このままこの部屋でお寛ぎ下さい。お休みになるのは皆様、御一緒の部屋で宜しいですか?」

「あたしと良太で……」

「女性だけと、俺だけでお願いします」


 おりょうさんが言い切る前に言葉を遮り、椿屋さんの目をじっと見る。


「か、畏まりました。入浴はいつでも出来ますので、お好きな時間に。ただ、一度に入浴出来るのは三人程度までですが」

「そいじゃ、あたしと頼華ちゃんと良太で……」

「あたいと白と御主人で、かな?」

「あ゛?」

「ひぃっ!? ね、姐さん、どうぞ……」


 おりょうさんのひと睨みで、大妖怪の鵺である黒ちゃんが怯んだ。


「俺は一人で入浴しますから、おりょうさん達は適当に組み合わせて下さい」

「えー……」

「あの、おりょうさん。お店とはいえ、一応は人様の家の風呂なんですから……」


 普段は比較的サバサバした態度で俺に接してくるが、おりょうさんは時々スイッチが入ったように、アプローチが強烈になる。本人に自覚があるのかどうかはわからないが。


「はわっ!? ら、頼華ちゃん、そいじゃ一緒に入ろうかね?」


 俺の言葉で、椿屋さんとおせんさんの視線に気がついたようで、おりょうさんは取り繕うように頼華ちゃんを風呂に誘った。


「それでは御案内致します。おせん、頼んだよ」

「はい」


 おせんさんの案内で、おりょうさんと頼華ちゃんは風呂へ向かった。


「鈴白様とお嬢様方には、茶と茶請けのお代わりを持ってこさせますので、ごゆっくりと」

「ありがとうございます」

「なあなあ御主人」

「何かな?」


 珍しく、黒ちゃんが茶請けのお菓子に感心を奪われずに、俺に話し掛けてきた。


「ここなら、厨房使わせてくれるんじゃないの?」

「あー……なんか食べたいの?」


 落ち着ける場所があったら料理を作るという話をしていたので、黒ちゃんは良い機会だと思ったようだ。


「黒。御主人は客として招かれているんだぞ。それなのに……」

「う、うぅー……わかってるんだけどぉ」


 自分達が椿屋さんにもてなされている側であり、厨房を借りるのも失礼に当たるかもしれない、というのは黒ちゃんもわかっているようなのだが、それでも俺の料理が食べたいみたいだ。


「……椿屋さん、邪魔ににならないようにしますから、厨房をお借り出来ませんか?」


 俺としても少し料理がしたくなっているし、そこまで熱烈に黒ちゃんに御所望されると嬉しかった。


「構いませんが、お客様にそんな……何か必要でしたら、出来る限りは御希望に沿いますよ?」

「あ、いや。椿屋さんの御好意は本当にありがたいんですけど、この子達は俺の料理を気に入ってくれていまして」


 時折、自分の手から妙な成分でも出ているんじゃないのかと疑いたくなるが、特に黒ちゃんは俺以外の人間が作った物に対しては、評価が辛口なのだ。


「そういう事でしたら、御自由にどうぞ。何か必要な材料などはございますか?」

「そうですね……黒ちゃん、白ちゃん、何か食べたい物はある?」

咖喱(カレー)!」

咖喱(カレー)は匂いが強いから、正恒さんの家でもなければね」


 香辛料は炒めてあるのだが、仕上げに入れて煮込むだけでも、予備知識の無い人にとってはカレーの香りは強烈過ぎるだろう。


「それに、咖喱(カレー)だと白ちゃんが……」

「あ、そうか! 白、ごめんね!」

「……まあ咖喱(カレー)の場合は、俺の分は主殿が別の物を考えてくれるので、構わんが」


 いつの間にか、黒ちゃんが白ちゃんへの気遣いを覚えたようなので、ちょっと嬉しくなった。


「そうだなぁ……あ、椿屋さん。先程御馳走になった鮑は、まだありますか?」

「ええ。いらっしゃる人数がわかりませんでしたから、多めに用意しておりましたので」

「では、その鮑を少し分けて下さい」


 食事中に黒ちゃんが漏らした言葉を思い出して、メニューが決まった。


「わかりました。では、厨房へ御案内致します」


 おせんさんは、おりょうさん達を風呂へ案内しに行ったまま戻って来ていないので、椿屋さん自ら、俺を厨房へと連れて行ってくれた。

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