古市騒動
「もう一日、ここに滞在するのかい?」
「ええ。この宿になのかというのは、ちょっとわからなんですが……」
遊郭の街である古市での騒動の翌日の朝。食事の席で今後の予定を話すと、参拝も済ませたので、伊勢を発つと考えていたらしいおりょうさんが首を傾げた。
「そりゃ構わないけど。内宮と外宮以外のところに、参拝でもするってのかい?」
宿の朝食、蛤飯のお代わりを茶碗に盛りながら、おりょうさんが確認してきた。
蛤を茹でて蓋が開いたところで取り出し、その出汁と醤油と酒で炊いた御飯に、殻から外した身を混ぜ込んだ蛤飯は、磯の香りがする上品な味わいだった。
「そういう訳でも無いんですが……えっと、とりあえず午前中は俺は用事があって、それを済ませてきますから、各自自由行動にします」
「なら余は、兄上と……」
「却下します」
「な!? ひ、酷い……」
俺の切り返しにショックを受けたらしい頼華ちゃんが、吸い物の椀を手から落としそうになっている。ちなみに吸い物の具も蛤だ。
「ああ、ごめんね。どれくらいで用事が済むのかわからないから、俺と一緒だと退屈しちゃうよ」
実際は隔絶をされると時間の流れが止まるので、内宮の中の正宮との往復以外には、時間を気にする必要は無いのだが、こう説明しておいた方がいいだろう。
「むー……」
そんなに俺と一緒にいたいと思ってくれているのか、箸を咥えた頼華ちゃんは、眉根を寄せてあからさまに不満そうな顔をしてる。
「まあまあ。そいじゃ頼華ちゃんとあたしは、朝風呂に行ってから、適当にその辺の店でも冷やかしてるよ」
「すいません。黒ちゃんと白ちゃんも、好きに過ごしててね」
「おう! じゃあ、あたいは御主人と」
「では、俺は主殿と」
「却下します」
「「えー!」」
「あの二人共、俺の話、聞いてたよね?」
暫くの間、黒ちゃんと白ちゃんにゴネられたが、なんとか宥める事が出来た。
食事の後片付けが済み、俺は出掛ける支度を、おりょうさんと頼華ちゃんは湯屋へ行く支度を始める。
「あ。それとですね、ちょっと知り合った方が、おもてなししてくれるという事なので、午後からはその人のお店に行く予定です」
騒動を解決した安心感から少し気が抜けていたようで、危うく言い忘れるところだったが、皆が動く前に思い出す事が出来た。
「知り合ったって、どこでだい?」
「えーっと……」
皆の分のお茶を淹れてくれながら、おりょうさんが首を傾げている。
(まあこの質問は当然だよな。さて、どう説明をしたものか……)
古市の遊郭の店主と下働きの女性を助けたという時点で、かなりおかしな状況なのだが、後で店に行くのだから、この辺をぼかすのは不可能だ。
「実は、昨日の夜に、ちょっと出掛けたんですが」
「兄上一人で!? ずるいです!」
間髪入れずに、頼華ちゃんが不平をぶつけてきた。
「ああ。ごめんね。でも、今はそこは重要じゃないから……話を続けていいかな?」
「今度、余も一緒に連れて行ってくれるならいいです!」
「……わかったよ」
ここは承諾しなければ、頼華ちゃんが一歩も引かないだろう。
「なら結構です! 続きをどうぞ!」
お日様のような笑顔を浮かべた頼華ちゃんは、おいしそうにお茶を飲んだ。
「……えっと、その出掛けた際に、暴漢に襲われていた人達を、俺と黒ちゃんが助けまして、是非ともお礼をしたいので、店に来てくれという事なんです」
どこでとか、場所に関しては言及しなかったが、ここまでは嘘は入っていない。
「ふぅん。良い事をしたじゃないか。黒も役に立ったのかい?」
「ええ。とても」
「あったりまえだい!」
ふふん、と、鼻息も荒く黒ちゃんが自慢する。
「ぬぅ……」
逆に出番らしい出番の無かった白ちゃんの方は、面白く無さそうな顔で唸った。後でフォローする必要がありそうだ。
「それで、その助けた人の店というのが、ちょっと問題がありまして……」
いよいよ、本題を切り出す時が来てしまった。
「問題? あ、もしかして……」
どうやらおりょうさんは、俺達がいま滞在している場所と、問題という単語から、正解を導き出したようだ。
「多分ですが、おりょうさんの想像通りのお店です」
「りょ、良太はいいだろうけど、あたし達にどうしろってんだい!?」
「俺はいいんですか……」
性別が男なので仕方がないのだが、地味にショックを受けた。
「ち、違うんだよ!? そんな店に行かなくたって、なんならあたしが……」
「おりょうさん、おりょうさん。頼華ちゃんもいるんですから」
「はわっ!? はわわわわ……」
慌てて詰め寄って来たおりょうさんは、俺の囁きで顔を真赤にし、急速後退して自分の座っていた場所へ戻った。
「店になんか行かないでもっていう、おりょう姐さんの言葉には、あたいも賛成だな!」
「うむ。あ、主殿……なんなら今からでも」
「? 良くわかりませんが、余も!」
「うん。みんな少し落ち着こうね?」
特に頼華ちゃんは、意味がわかって無いのに、この流れに乗り遅れたくないっていうだけだろう。
「連れが女性だと言ったんですが、店主の方が料理や酒、歌や踊りでもてなすので、と」
「酒と料理には、ちょいと惹かれるけどねぇ……」
場所が場所なので、おりょうさんも即答出来ないようだ。
「なんか店主さんが言うには、客商売だから世話になった相手を疎かには出来ないと。ですから、おりょうさん達は、無理して来ないでもいいですよ」
「あたいは行くよ! どんな料理を食べられるんだろう……」
未知の料理に思いを馳せているのか、黒ちゃんは虚空を見つめながら、半開きになった口から涎を垂らしている。
「黒、みっともないぞ。さっきは同行を拒まれてしまったが、そうでないのなら、常に主殿と一緒にいないとな。という訳で、俺も行くぞ」
黒ちゃんの涎を拭き取ってあげながら、白ちゃんが宣言する。
「いや、白ちゃん、そんなに闘志を燃やすみたいにならないでも……」
「余も行きます! いいんですよね?」
「いい……のかな?」
遊郭という場所的に教育上、良くは無さそうだが、こうなったら頼華ちゃんを止めるのも難しいだろう。
「黒ちゃん、白ちゃん。頼華ちゃんの面倒を見てあげてね」
美人ではあるがさすがに幼いので、遊女と間違えられる事は無いと思うが、もしも頼華ちゃんに対して不埒な行いをしそうな人間が近づいてきたら、その時には護ってもらいたいのだ。相手を。
(多少痛い目を見るのは自業自得だけど、さすがに重症を負うようだと、代官の朔夜様や松永様のお世話になる可能性があるしな)
頼華ちゃんのガードの仕方とお約束に関しては、後で黒ちゃん達と話し合う事にする。
「ああもう、わかったよ! あたしも行くよっ!」
「いや、本当に無理には……女性には居辛い場所でしょうし」
頼華ちゃんへの危惧と同じ物が、器量良しのおりょうさんにも降りかかる可能性は高い。
「大丈夫だよ。いざとなったら、失礼な輩は投げ飛ばしてやるさ!」
「程々にお願いします……」
時々失念するが、俺の同行者は全員腕に覚えがあるのだ。昨晩の件にしたって、おりょうさんならもっとスムーズに、相手を無力化出来ていたかもしれない。
(でも、危ないとわかってて、騒動の起きそうな場所に行かせられないよな……黒ちゃんなら、危険な目に合わせてもいいって訳じゃないけど)
時間や場所の問題で、同行者を黒ちゃんにしたが、そうでなくても不確定要素が多過ぎたから、どっちにしても、おりょうさんや頼華ちゃんを選ぶ事はしなかっただろう。
「じゃあ、昼の少し前にこの宿に集まってから移動しましょう。それまでは各自で行動……っと、黒ちゃんと白ちゃんには、やって欲しい事があるんだった」
「おう! で、何?」
「なんでも申し付けてくれ」
俺からの申し出なのでこういう反応なのだろうけど、内容を聞く前に即答する二人に、感心したり呆れたりする。
「えっと、船で消費した分の水の補充と、たらいや桶の掃除をお願いしたいんだ」
航海中に、おりょうさんと頼華ちゃんの行水に使った、たらいと桶、手拭いなんかは、船上では水を節約するために使用後は海水で洗ってから、仕上げに真水で流す程度にしていた。
上陸後は使う必要が無かったので、たらいなんかは収納しっぱなしだったし、消費した分の生活用や飲料の水の補充もしていなかった。
「おう! すぐに終わっちゃうだろうから、減った分の物の買い物とかもしておく?」
「房楊枝などは、それなりに消耗したはずだが」
三日間の航海ではあるが、五人掛ける日数になるので消費量が跳ね上がる。
「うーん……いや、まだその辺はいいかな。もっと大きな、観光地じゃない街に行ってからにしよう」
宿や食事の代金が高いという印象は、今の所は受けていないのだが、観光地価格みたいなものがあるかもしれない。人口の多い大きな街に行ってからの方が、日常の消耗品は価格が安定しているだろう。
「だから、掃除と水の補充が終わったら、のんびりしてていいよ。これは……宿の人への水の代金と、余ったら、食事に差し支えの無い程度に、お菓子でも買っていいよ」
井戸と洗い場の使用料として宿の人に払うのに、念の為に銀貨を一枚渡しておく。
「お菓子!」
「ただし、ちゃんと白ちゃんと分けるんだよ?」
「うっ! わ、わかってる!」
予想の範囲だが、黒ちゃんは余ったお金でお菓子を貪るつもりだったようだ。勿論、一人で。
(渡したお金を使うのは構わないんだけど、黒ちゃんにはまだ、こういう気遣いみたいな物は出来ないみたいだな……)
相手がおりょうさんや頼華ちゃんだと、俺と同等みたいな認識なのか、黒ちゃんは遠慮をしたり下手に出たりするが、白ちゃんに関しては良くも悪くも、気を使う相手ではないと考えているようだ。
「安心しろ主殿。金は俺が管理する」
そしてこんな時、白ちゃんは実に頼りになる。
「あ、あたいにだって、お金の管理くらい出来るよ!」
「あはは。じゃあ白ちゃん、頼んだよ」
「ぶー!」
「承知した」
頬を膨らませる黒ちゃんと、誇らしげに腕を組む白ちゃんに後は任せ、俺は伊勢神宮内宮の正宮へと向かった。
手水舎で身を清めてから、おりょうさんに教わった作法を守って、俺は正宮の前までやって来た。
「お手をお上げ下さい。良くぞ私の無理な願いを、望外な形で叶えて下さいました」
祈り始めるとすぐに、隔絶された世界で天照坐皇大御神様から、感謝の言葉が掛けられた。
「一応は、死者を出さずには済ませられましたが、怪我人が出てしまいました」
潜伏して見張る場所によっては、おせんさんが痛い思いをしないで済んだかもと思うと、依頼を達成出来はしたが悔いが残る。
「その怪我も、あなたが癒やして下さいました。望外と申しましたのは、怪我程度で済ませて下さったという事です」
「しかし……」
怪我程度と天照坐皇大御神様は言うが、繋がったからいいような物の、身体部位の切断とは、普通は深刻な状況だ。
「実は、あの騒動を起こした者は、前の世でも同じ様な事をやっておりまして……その時には死者が三名、負傷者が六名出ました。加害者自身は、騒動の数日後に自害しているのを発見されています」
「それは……」
あまりの衝撃に声も出ない俺に、天照坐皇大御神様が説明してくれた。この「古市騒動」と呼ばれた事件は巡礼の人達によって瞬く間に全国に広まって、数日後には題材にされた芝居までが作られたという。
「芝居の演目は評判となり、この騒動の中、運良く難を逃れた遊女をひと目見ようと、客が押し寄せて店は大繁盛したというのは、なんとも因果なものです」
生き残った者が誰もいなかった、というよりはマシなのかもしれないが、なんとも人の業というのを考えさせられる、思わぬ事件後の展開だ。
「私の願いを叶えて下さったあなたが、今回の件でこれ以上気に病む事はありません。この世でもまた人を傷つけてしまった者も、あなたのおかげで殺める事まではせずに済んだのです。次の世ではきっと、少しは良い道を歩んでくれるでしょう」
天照坐皇大御神様の言葉で、やった事自体は許し難いが、加害者の男も魂の修行中だというのを思い出した。
「あなたの行動は最善でした。この通り、お礼を申し上げます」
天照坐皇大御神様が、俺に向かって深く頭を下げた。
「わ、わかりましたから、やめて下さい!」
神様に頭を下げられるなんて思っても見なかった。想定外の事態に、精神がゴリゴリ削られるていくのを感じる。
「ふふっ。あなたは本当に、お名前通りの良い方なのですね」
「そうですか? 結構な自己中心派だと思うんですが」
お褒めに預かったのだが、自己欲求を満たすために野生動物を殺したり、権力者の人を誘導したりしている自覚があるので、言葉通りに受け入れるのは抵抗がある。
(そこまで考えてくれていたのかはわからないけど……今はこの名前を付けてくれた、両親に感謝しておこう)
「全く手を汚さずに道を歩むなど、誰にも出来るものではありません、勿論、この私でもです」
「えっ!? しかし、自分のような人間ではない……」
「人でない、神の身であろうとも、出来ません。ご存知ではありませんか? この日本だけでは無く、世界各国で、欺きあったり殺し合ったり神々の話を」
「そ、それは……」
日本神話のエピソードは元より、有名な北欧、ギリシャなどでも、神様なのに人間味たっぷりに振る舞う話は、数限りなく存在する。
「神である我々がそうなのですから、人間であるあなたの振る舞い程度は当然であり、可愛らしいものです」
「か、可愛らしい、ですか?」
「ええ。とっても」
後光越しではあるが、天照坐皇大御神様が微笑んだのがわかった。文字通りの眩しい笑顔だ。
「では、私の願いを叶えて下さった、あなたの願いも叶えたいのですが、何か望みはありますか?」
「個人的な願いは、してはダメなのではないのですか?」
俺はおりょうさんから教わった、伊勢神宮の基礎知識を思いだして質問した。
「今回の件は、私の個人的な願いですので、あなたの個人的な願いを聞き届けないというのは筋違いです」
「そ、そういうものなのですか?」
「そういうものです。では、願いをどうぞ。と言いましても、私の力の及ぶ範囲でですが」
神様自身がこう言うのだから構わないのだろうけど、こっちの世界に来てから少し不満を感じていた食の事情などが、ここ最近でかなり劇的に改善されたので、即座に思いつかない程度にしか願望が無い。
(なんかあるかなぁ。火に関する権能は、既に授かってるし……)
天照坐皇大御神様といえば太陽神。それとおりょうさんから教わって、農耕神だというのを教えられたので、この範囲でという事なのだろう。
(目からビームとか? いや、無い無い……)
バカな方向に考えが行きそうになったが、天候が重要なファクターになる事業が、俺の発案で始まっていたのを思い出した。
「個人的な願いでは無いのですが、江戸と鎌倉に縁が出来てます。特に鎌倉では塩の生産を始めてますので、この辺りが天候に恵まれますように、というのは大丈夫でしょうか?」
農業や漁業は勿論、塩の生産や運送なども天候に大きく左右される。晴天だけを願う訳では無いが、天候に恵まれるというのは重要である。
「あなたという人は……大丈夫です。このところ関東の民達は罰当たりな事もしていませんので、今後暫くは
あなたが願うまでも無く、天候には恵まれます」
「そうですか」
神様からの確約なので、これで江戸や鎌倉に住む人達は、極端な天候不順に悩まされないだろう。
「という訳で、今のあなたのお願いは却下します」
「却下!?」
昨日、出会ったばかりの清楚で荘厳な雰囲気が鳴りを潜め、なんか天照坐皇大御神様のノリが、少し軽くなった気がする。
「で、では。海と風の事なので、もしかしたら範囲外かもしれませんが、お世話になった人の船が、思い通りに進めなくなった事があったので、今後は荒波に遭わず、良い風に恵まれますように、というのは?」
今回お世話になった十蔵さんの船は、鳥羽の港には無事に寄港出来たのだが、何故か想定していた南進の航海が不能になった。ああいう事が度々起きれば、海運の仕事に支障が出るだろう。
「その件ですが、実はあなたと船に乗っていた方達に、謝らなければいけないのです……」
「謝る、ですか?」
「ええ……実は、あなたにここに来て頂くために、海神、大綿津見と、風と航海の神たる級長津彦の助力を得ていたのです」
「……は?」
神様相手に失礼だとは思うが、俺は開いた口が塞がらなかった。
「あの、もしかして、船が南進出来なくなったのって……」
「も、申し訳無く! で、ですけどぉ、あなたの力が必要だったのでぇ……」
なんか天照坐皇大御神様は急に人間っぽく、語尾を伸ばした喋り方をしながら、もじもじしている。
「あの、俺は構わないのですが、同行者や、乗せて貰っていた船の人達に迷惑が……」
おりょうさん達は俺の同行者なので大きな問題は無いと思うが、それでも順調なら一気に船で大坂まで行っていたはずなのだ。
お世話になった十蔵さんの船は積荷を運んでいたから、下船する時の話では大丈夫だと言っていたが、期日までに届けられなければ損失が発生してしまう。
「そ、その点は……船の方達は、今後は鏡のように凪いだ海と、良い風に恵まれるようになります!」
急に威厳が無くなった様に見える天照坐皇大御神様は説明の声は、少し上ずっている。
「ど、同行者の方々についてですが、どうも私以外の神仏の加護などが作用しているので、具体的に何かを授けたりというのが難しく……それはあなたにも言えるのですが」
「あー……」
おりょうさんは観世音菩薩様の加護を得ているし、頼華ちゃんは八幡神様から愛子とまで言われているくらいだから、他の神仏が介入するというのは難しいのだろう。
「俺の場合は、観世音菩薩様から不動明王の権能を授かっているからですね?」
「それもあるのですが……すいません。これ以上は直接介入になってしまいますので、あまり詳しくはお話出来ないのです」
「それって……」
天照坐皇大御神様の口振りから推測すると、俺には観世音菩薩様以外の神仏からの加護があるという事が考えられる。
思い当たるのは八幡神様だが、何か授かった覚えは無い。巴の鞘に使われている、神木の事を言っているのだろうか。
「で、でもですね、鈴白様が望まれるのであれば、私が守護神となりまして生涯、いえ、死後もお供致します!」
「なんでそんな話に!?」
俺の魂が余程味がいいとかなんだろうか? そうで無ければ神様や、黒ちゃん達みたいな妖怪にここまで好かれる理由がわからない。
「も、もし宜しければ、良太、さん、とか、お呼びしたいな……とか?」
「別に構いませんけど……」
後光ではっきりとはしないが、どうも天照坐皇大御神様が、ちらちらと流し目を送って来ているように感じる。気の所為だと思いたいけど。
「構わないんですが、天照坐皇大御神様にも大勢、信者の方がいらっしゃい
ますし、確かお子様が何人もいらっしゃったはずですよね? 旦那様も……ですから、あまり俺を特別扱いしない方が良いのでは?」
(子供も旦那様も居る人妻と、あまり親しくするのもな……それ以前に、神様だけど)
なんというか、観世音菩薩様も八幡神様も気さくに接してくれてはいたが、ちゃんと一定の線引はされていたように思える。天照坐皇大御神様は、その点が今まで出会った二柱の神仏とは違う気がするのだ。
「あ゛ー……子供はいますよー。でも旦那様なんていませんよー……」
「え。あの……」
もしかしたら触れてはいけない部分だったのだろうか。急に天照坐皇大御神様の口調が、やさぐれた物になったように感じる。
(あれ? 天照坐皇大御神様の旦那様って、須佐之男様だったよな? あ、でも、弟だったっけ?)
古事記と日本書紀でも神様の記述が違うのだが、目の前にいる天照坐皇大御神様が、どの伝承による存在なのかは俺にはわからない。
「子供はいますけどぉー、旦那なんかいませんー」
「あの、なんかすいません……」
態度まで完全にやさぐれている天照坐皇大御神様の口調が、なんかギャルっぽくなりつつある。
「こんなぁー、旦那もいないのに子沢山な得体の知れない女なんてぇー、良太さんはお嫌いですよねぇー……チラッ」
「あの。今、口でチラって言いましたよね?」
「そ、そこは問題じゃ無いんですぅ!」
(あ、誤魔化した……)
「えーっと……とりあえず守護神の件は辞退させて頂きます」
「えー……」
昨日とは、と言うか数瞬前とは別の存在になってしまったかのような印象を、天照坐皇大御神様から受けるのは、気の所為では無いだろう。
「えー、って……ですが、要請があれば極力は御協力致します。それと、名前の方は好きにお呼び下さい」
「じゃあ、良ちゃんで」
「まさかのちゃん付け!?」
いい加減、失礼な態度を取ってしまっている自覚はあるのだが、思ったままの言葉が口から出てしまった。
「ふふっ。冗談ですよ。それでは今後は、良太様とお呼びします」
「俺なんかに、様を付けなくても良いんですが……」
相手が神様なので、むしろ命令口調で尊大な態度をされた方が気が楽だ。
「それだけの事をして下さいました。良太様の方でも私の力が必用な時は、出来る限りの事はさせて頂くつもりです」
「当面は……織田の朔夜様から、上手い具合に逃げ出したいですね」
現時点で、旅の最大の障害になりそうな案件なので、無事に朔夜様の手の届く範囲から逃れたい。
「それは……私の力の及ぶ事ではありませんね。申し訳ありません」
この天照坐皇大御神様の答えは予想の範囲だったので、特に落胆はしない。
「織田の者達の信心が深ければ、良太様に近づくなと申し付けるところなのですが……」
この国の、というかこの世界の一般的な住民なら、殆どの場合は神託などは疑う事無く信じる。だが神仏を奉じていない尾張織田の人達は、聞く耳を持たない可能性があるのだろう。
「あの、別にそこまでは……」
「いいえ。あの不届き者共が良太様にお近づきになると思っただけで……濃尾平野を干魃にしてやろうかしら」
「それ、絶対にやめて下さいね!?」
天照坐皇大御神様から、物凄く不穏当な発言がされたので、濃尾平野とその周辺に住む人達のために、俺は全力で回避するように申し出た。
(やろうと思えば、本当に出来ちゃうところが怖いよなぁ……)
こっちの世界の年表なんかは見た事が無いが、俺が原因で「〇〇の大飢饉」とか記録されてしまうのは勘弁願いたい。
「まあ! 良太様は、なんとお優しい心根をお持ちなのでしょう! 織田の者共に、爪の垢を煎じて飲ませたいです……では、あの織田の生意気な小娘を、行き遅れにするくらいで済ませておきましょう」
「ダメですからね!?」
自分より強い男が相手でなければとか言っているので、今現在未婚なのは朔夜様自身の責任だが、神様のお墨付きなんか頂いたら、縁が遠くなるどころか切れかねない。
「もう。そのお優しさを、少しは私に向けて下さればいいのに……」
「……出来る範囲でさせて頂きますから」
「言質は取りましたからね!」
天照坐皇大御神様が、力強く拳を握りしめて高らかに言い放った。なんか色々台無しだ。
「あの、良くわからないのですが、天照坐皇大御神様だけでは無く、どうして俺に執着……とは言い方が悪いですが、される方が多いんでしょう?」
隔絶されているので時間は気にしないでいいから、天照坐皇大御神様から明確な答えが得られるとは限らないが、常々思っていた疑問をぶつけてみた。
「あなたの周囲の女性に関しては、純粋に魅力に惹かれているのだと思いますよ。ですが我々神仏や、供の鵺達は……」
「なんか、そんなに変な理由なんですか?」
考え込んでいる天照坐皇大御神様に、不安が煽られる。
「変ではありません。あなたの持っている気と魂の輝きが、素晴らしいので惹きつけられるのです」
「輝き、ですか?」
「ええ。太陽を司る、この天照坐皇大御神から見ても、眩いばかり。そして、なんとも純粋な色をしていらっしゃいます……」
うっとりと、天照坐皇大御神様が呟く。
(猪口齢糖で状態異常を起こした、おりょうさんや頼華ちゃんの気が赤くなったりしたから、色があるのは知ってるけど……)
必用な時以外に気を見る事を意識していないので、人によって色の違いがあるとは思っていなかった。
(黒ちゃんと白ちゃんは、この世界での身体を維持するのに気が必要なのだろうけど、きっかけとしては、俺の固有の色に惹かれたのかな?)
今となってはどうでもいい事だが、少しだけ気になった。
「ちなみにですが、俺の色って何色なんですか?」
「それはもう、純粋な白色です! はぁぁぁ……素敵」
「そ、そうですか……」
素適とか言われたのが初めてなので、リアクションに困る。
「良太様の魂の輝きに惹かれたのは事実ですが、思い違いをしないで下さい」
「思い違い、ですか?」
「ええ。実際にお会いして人柄に触れて、本当に良い方だとの確信を得たのです。あなたの周囲にいる方達も、私と同じでしょう」
「……」
なんというか、これは褒め殺しだろう。言葉が出ない。
「まぁ。そういう純粋さが、良太様の素敵なところなのですよ」
威厳がありながらも若々しい感じだった天照坐皇大御神様の声に、この時は物凄い量の母性が込められ、そっと伸ばされた手で頭を撫でられた。
(はぁぁぁ……な、なんだこの安心感。まるで、魂そのものを撫でられているかのような……)
多分だが、本当に魂を撫でられているのだろう。
「あ、あの……もう、この、頭を撫でて頂いただけで、他に何もお礼はいりませんので」
このままここに留まって、ずっと撫でていて欲しい程の魔性のような心地良さで、これは人をダメにする類の物だ。
「あら。私はいつまでだって撫でていたいのですよ。でも、他の参拝者達の相手もしなければなりませんので、お名残惜しいですが、今日はこの辺にしておきましょうか。その方が、またの楽しみと思えますし」
「ええ。それでは、失礼致します」
「良太様の旅に、幸多からん事を」
小さく手を振る天照坐皇大御神様が呟いた次の瞬間には、世界に音が戻り、爽やかな風が吹き渡った。




