鵺の靴
「おはようさん。良く眠れたかい? 入るよ」
障子の向こうから聞こえて来たおりょうさんの声で、スイッチが切り替わったような感じで目が覚めた。
「あ、はい。おはようございます」
俺が寝床から這い出て、寝具を押入れに運ぶ間に、おりょうさんが部屋に入ってきた。
「『灯り』。はい、これで顔を洗って歯を磨いてきな。ちゃんと身嗜みをしておかないと、女にモテないよ」
部屋の謎照明を灯したおりょうさんから手拭いと、どうやら歯磨きの道具らしい、木の棒の片側がほぐされている物を手渡された。
「っと、そういえば井戸の場所を教えてなかったね。付いておいで」
おりょうさんの先導で階下に下りた俺は、厨房の奥から店の裏口を抜け、石井戸の前に案内された。
「はい、これもお使い」
木の容器に入っている、白っぽい粉をおりょうさんが差し出した。これは……歯磨き粉か?
木の枝のほぐしてある方で粉を少しすくい取るようにしても、おりょうさんが何も言わなかったところを見ると、どうやら正解だったらしい。俺は意を決して口の中に突っ込んでみた。
「ん……」
意外というか、妙な味や匂いはしなかった。かなり粒子の細かい粉には、何かの香料も入っているようで、現代のミントのような風味は無いものの、口の中のさっぱり感は負けていない。
「はい」
おりょうさんが手渡してきた素焼きの杯の水で口をすすぎ、次いで冷たい水で顔を洗うと完全に目が覚めた。
「さっぱりしたところで、ご飯にしようね」
俺の手から手拭いと杯を受け取ったおりょうさんに促されて、俺は裏口から店内に入った。
二階の部屋では無く一階の店舗方に通されると、席には店主らしい老夫婦と、おりょうさんと俺の分の朝食が並べられていた。
番所へ使いに出た小さい子の姿が見えないので訊いてみると、通いの料理人の子らしい。
「「「頂きます」」」
御飯に、出汁と味噌のいい香りがする、ぶつ切りの葱が入った根深汁、焼いた鰯に炒り卵、それと大根の漬物という献立だ。
焼かれた鰯と炒り卵に、少しではあるが油っ気が感じられるので、現代っ子の自分には有難かった。
(それにしても……)
昨夜のおりょうさんもそうだったが、おかずの量と比較して、もの凄い量の御飯を食べるんだなと思った。同席している老夫婦も、普通に御飯をお代りしている。
などと考えながら、俺も窯焚きで香ばしい風味がする御飯を、二度お代りした。
「さて、今日はまずは買い物だったかい?」
食後に淹れたお茶を飲みながら、おりょうさんが訊いてきた。
「そうですね。出来れば靴を手に入れたいです」
「一応、心当たりはあるけど、あんまり期待しちゃいけないよ?」
「はい。わかってます」
「そいじゃ、出掛けようかね」
おりょうさんと俺は店を出た。
「あの……」
「ん? どうかしたかい?」
店を出たところからずっと、昨日の番所からの帰り道のように、おりょうさんが俺の腕に自分の腕を絡めて歩いている。
「いや、その……俺はおりょうさんみたいな綺麗な人と、こんな風に歩けるのは嬉しいんですけど」
「おや、お世辞でも嬉しいねぇ。でも、それなら何か問題でもあるのかい?」
「おりょうさんは、俺みたいなのと噂になったら、迷惑じゃないんですか?」
「……」
ピタッと脚を止めたおりょうさんは、ポカンと、軽く見開かれた目で俺を見ている。
「あっははははは! いいじゃないか、噂。それに、別にあんたの事、あたしは嫌じゃないよ? さ、店まではまだあるよ♪」
何故かはわからないが上機嫌になったおりょうさんは、傾けた頭を俺に預け、腕を引いて歩くのを再開した。
「ここなんだけどね」
「そう、ですか……」
おりょうさんに連れてこられたのは、場所的には現在でもこの世界でも浅草の辺りに位置する場所で、皮革原料と加工品の店だそうだ。猟師なんかが持ち込んでくる、皮の買い取りなんかもしているらしい。
「それにしても、なんか凄いですね……」
店頭には獲物から剥いで最低限の処理だけ済ませ、重ねて束ねられた皮から、中身だけ抜き取ったように見える毛皮付きの生々しい物などが大量に並べられ、独特の臭気が漂っている。
「中に入るのは遠慮したいところだけど……まあ仕方ないね」
「なんならおりょうさんは、近くの店にでも入って待っててもらって構いませんよ?」
「人の良さそうなあんただけじゃ、ボッタクられてもわからなそうだからねぇ。でもまあ、後で口直しというか気分変えに、おいしいものでも食べようじゃないか」
確かに、量産品じゃない物の相場なんかわかるわけがないから、おりょうさんが一緒なのは頼もしい。さすがに、ハンドメイドのブランド靴みたいに、一足百万とかはしないとは思うけど……。
「そうですね。それじゃ、お付き合い下さい」
「うん」
吊るされたり積まれたりしている皮や革の間を抜けて、俺とおりょうさんは店内に入った。
「邪魔するよ」
「お邪魔します」
「いらっしゃい。何をお求めで?」
店内で俺とおりょうさんを迎えたのは、伝票らしい紙束を見ていた髭面の店員らしい人物だった。いや、体型的に手足が太く短くて全体的にずんぐりしているので、もしかしたら人では無いのかもしれない。性別は多分男性だろう。
「この店は、革を使った靴なんかは扱っているかい?」
俺が目の前の男性の品定めをしていると、おりょうさんが本来の目的を切り出した。
「ああ、種類はそれ程無いけど扱ってますよ。どんな用途でお使いで?」
「普段使いですが、出来ればある程度の旅に耐えられるくらいの物があるといいんですけど」
実際に靴を使う俺は、はっきりと用途を伝えた。
「加工した革の耐久性はそれなりにあるんですけど……旅というのは歩き旅ですよね?」
「はい」
「そうなると、靴底が問題なんですよね」
「ああ、それはそうですね……」
革製の上部は油分を補いながら手入れをすればかなり長持ちするが、靴底は現代でも定期的に交換が必要だ。これは革底でもゴム底でも変わりない。
「この国の草鞋みたいに、安価でどこでも買えて使い捨てが出来るならともかく、革製品ってだけでも値が張りますし」
「そう、ですね……」
いかつい髭面だが、随分と親身になってくれる御仁のようだ。
「湿気や変形対策に、数足を履き回して靴を休ませるというのも、手荷物が増えるので旅には向きませんから」
「やっぱり、難しいですか?」
靴自体が無いのではなく、定住するんじゃなければ使うのに向かないというのは、正直予想外だった。
「一応、お客さんの要望に応えられる品が、あるにはあるんですが……」
「えっ!? それは本当ですか?」
「あるには、あるんですよ……少々お待ちを」
紙束を置いて立ち上がった店員は、店の奥に入っていき、少しすると木の箱を三つ持って戻ってきた。
「これなんですがね」
店員が箱を開けると独特の光沢を放つ、漆黒の革で作られたくるぶしまでのショートブーツに分類される靴が収められていた。
他の二つの箱も同様で、どうやら同じ素材で同じデザインのサイズ違いのようだ。
「なんか、いわくありげだねぇ……」
「……手に取っても?」
「遠慮なくどうぞ。なんなら、足を通してみて下さい」
おりょうさんの言う通り、ちょっと妙なものを感じたが、店員の許可を得たので自分のサイズに合いそうな、一番大きな靴を手に取ってみた。
何とも言えない、ひんやりとした手に吸い付くような質感の革で、しっかりした作りだが思いの外柔らかく、そして軽い。
「これは、凄く良い品みたいですけど……」
手の中の靴の感触を確かめて、俺はお世辞抜きで言った。
「ええ。間違い無く良い靴です。ですが、ちょっと特殊な素材を使ってましてね」
「特殊と言いますと?」
期待半分、不安半分で店員に先を促す。
「これ、鵺の革を使ってるんですよ」
「鵺って……あの?」
「京の都を騒がせて、源の偉いお武家様が退治したって、あれかい?」
「そうです。その鵺です」
猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇という、所謂キメラ的な生物が鵺と呼ばれている妖怪だ。
鵺の鳴き声はトラツグミらしいのだが、トラツグミ自体の鳴き声を俺は知らない。
「退治された後で亡骸は川に流され、その後供養されたんですが、実は鵺に関する逸話は幾つかありましてね、どうも唯一の存在では無いみたいなんですよ。そんな伝承の中の、どの個体の物かはわかりませんし、真偽の程は定かじゃないんですが、巡り巡って私の手元に皮が来た。それで作ったのがこいつって訳です」
信じ難い話ではあるが、そもそも異世界だからなんでもありだろう。
「それで、これが要望に沿える品ってのは、どういう事だい?」
「それはですね……」
説明によると、まずは解体して害が無いレベルになるように徹底的に供養し、様々な手法で鞣してなんとか革の状態に加工された。
柔らかいが強靭な革を元の曲面を活かしながらパーツ分割し、その後にパズルのように組み上げて、この三足の靴に仕上げたらしい。
出来上がってみれば、元来の鵺の持つ魔力由来なのか、制作の技量によるのかは不明だが、魔法の衣類同様にサイズ調整、防刃、防汚、防寒、防水機能に、ある程度の自己修復機能が備わっていた。
この自己修復機能のお陰で、履いて歩く際の靴底の摩耗がほぼ皆無になる。そしてどうやら、鵺の意思をある程度残しているらしいのだ。
「鵺の意思というのは……祟られたりとか?」
「その辺は、どうもハッキリしないんですが……お客さん、試しに足を通してみては?」
「そうですね……うわっ、本当に急に足に馴染んだ」
大雑把に大、中、小という分類で作られているっぽく、その中の大の靴に足を入れて紐を結ぶと踵や爪先、甲の部分などが少し波打ったかと思ったら、ピッタリと足にフィットした。
「どうやらお客さんは、鵺のお気に召したみたいですね」
「今のはそういう事なんですか?」
別にビリっとしたりとかは無かったし、呪いの靴みたいに、靴紐を解いて脱げなくなったりしてないのも確認できた。
「あたしも履いてみていいかい?」
「どうぞ、ご遠慮無く」
興味が出たのか、おりょうさんが中サイズの靴を履いてみた。これもほんの一瞬だが、表面が蠢いて暴れているような動きをすると、各部が足に合わせて変形してから落ち着いた。
「意外と履き心地がいいもんだねぇ。座敷に上がる時に脱ぐのが面倒そうだけど」
俺の場合は元々脱ぎ履きする時に結ぶ必要のある草鞋だが、おりょうさんが履いているのは草履だなので、余計にそう思うのだろう。
「でも、長歩きする時には良さそうだというのはわかるさね」
「そうですね。特に坂を登ったり下ったりする時には」
「ああ、成る程ねぇ」
結んで留める草鞋はともかく、草履や下駄では力が掛かる方向によっては踏ん張りが効かない。俺の言いたい事をおりょうさんは察してくれたようだ。
「差し支えなければ、この靴を買いたいんですけど、幾らですか?」
「非常にありがたいお言葉に心苦しいんですが……金貨一枚です」
「ばっ、バカお言いじゃないよっ!!」
金を出すのは俺なんだが、おりょうさんが激昂するのもわからなくはない。幾らなんでも金貨一枚という値段は法外だ。
一般的な食事で銅貨五枚、宿泊三十枚から考えると、銅貨一枚百円くらいか? だとすると銀貨で一万円、金貨で百万円か……危惧していたブランドのオーダー品くらいの価格だけど、完成まで何ヶ月も待つ訳じゃなくて完成品がここにあって、しかも高機能というのが悩ましいところではある。
「でも、魔法の靴だとしたら、それくらいの金額なんじゃないんですか?」
「そりゃあ、そうなんだけど……そもそも魔法の品物なんか、庶民が持てるもんじゃないんだよ?」
おりょうさんがため息混じりに俺に言う。
「うーん……これ、買いますよ。こっちとそっちのを一足ずつ」
俺は自分用と、おりょうさんが試し履きした靴を示しながら、購入の意思表示をした。
「えっ!?」
「ほ、本当にいいんですか、お客さん!?」
おりょうさんと店員が、驚きに目を見張って俺を見た。まあ、こういう反応されるよな。
「自分の理想通りの品物なので、高いのは仕方ないですよ。それに多分ですけど、この金額でも赤字なんじゃないですか?」
「それはその……」
言い難そうにしていた店員がしてくれた説明によれば、一足金貨一枚は、ほぼ材料費だけだそうだ。
職人魂に火がついて、つい仕入れてしまった鵺の皮だが、買い手の付かない靴なんか作っても仕方がないと気がついても、後の祭りである。
「でもまあ、良い素材と向き合えて納得のいく物が出来たので、赤字でも買って下さる方がいるのは有り難いです」
「いや、あんたらはそれで納得出来るんだろうけど、あたしの分まで買う事はないだろう!?」
「さっき履いてた時に、気に入ってたように見えましたけど?」
「そりゃあ、そうなんだけどぉ……」
なんでか、おりょうさんは少し頬を赤らめてモジモジしてる。
「幸いな事に、今は少しお金があるんですけど、この先無駄遣いしちゃうかもしれないですから、今の内に有意義な使い方をしておいても良いんじゃないかな、って」
「あ、あたしに靴を買ってくれるのが、有意義な金の使い方なのかい?」
「はい。お世話になったし、何よりその靴、欲しいんですよね?」
「……うん」
凄く言い難そうではあったが、おりょうさんは欲しい事を口にしながら小さく頷いた。
「じゃあ、二足お買上げって事で、お願いします」
「わかりました。こちらとしても助かります」
「……」
揉み手しながら礼を言う店員に金貨二枚を渡した。そんなやり取りを見ているおりょうさんの頬は、更に赤味を増している。
「ありがとうございます。この手入れ用のブラシと靴ベラ、それと鹿革の中敷きは付けさせて頂きますので。他に何か御用はありますか?」
鵺の革の靴には防汚の機能があるらしいから、手入れ用のブラシは泥に突っ込んだ時くらいしか使い道は無さそうだが、短めで携帯するのに良さそうな靴ベラと、中敷きは非常に有り難い。
「……あ、そうだ。小ぶりな財布を探してたんですけど、何か良さそうな物はありますか?」
ヴァナさんから貰った現金を、少額だけ入れておける財布が欲しかったのを思い出した。
そうしておけば仮に財布の方を盗まれたとしても、残りは謎袋か腕輪に収納しておけば被害が減らせると思ったからだ。
「小ぶりと言いますと、硬貨が数枚入る程度で?」
「ええ。そんな感じで」
「でしたら……」
店員が手近な棚から取り上げたのは、現代の日本でもあるような黒い革の小銭入れで、二つ折りの上蓋になっている部分に、中身を転がり出させて保持する事ができるデザインだ。
「ああ、これは理想的です」
「でしたら、これもおまけしますので、どうぞお持ち下さい」
「ありがたいですけど、いいんですか?」
「そりゃあもう。下手したら年間分くらいの赤字を解消させて頂けたんですから。良ければ今後もご贔屓に」
いかつい顔に似合わず、心根のいい御仁のようだ。
「これは色違いですが、良ければそちらのお嬢さんの分も」
店員はそう言って、俺のと同じデザインで、赤く染められている革の財布を手渡してきた。
「あ、これは気を遣って貰っちゃって。はい、おりょうさん」
「えっ!? あ、あたしに? ど、どうも……」
なんかさっきからおりょうさんの様子が変だ、革の匂いに気分でも悪くなっちゃったかな?
「じゃあ、靴は履いて帰らせてもらいますね。箱はいらないので、処分をお願いします」
「はい、わかりました」
足に合わせて裁断してもらった中敷きを入れて靴を履いた。さっき一度足を通したからか、妙な変形は起こさなかったが、相変わらず足にはぴったりとフィットしている。
靴が手に入ったので靴下も欲しいところだが、今のところは足袋で用は足りているので、あまり贅沢を言っても仕方がない。
「おりょうさんは履いて帰りますか?」
「……いや、あたしは持って帰るよ」
「そうですか。それでは……」
おりょうさんの要望に従って、店員が靴の入った箱を風呂敷に包んだ。
少し気を利かせて俺が持とうかと思ったが、さっと手を伸ばしたおりょうさんが包みを受取り、大事そうに両腕で抱え持った。
「あ、ありがとう……」
「じゃあ、行きましょうか。どうも、いい買い物が出来ました」
「こちらこそ、ありがとうございます。またのご利用をお待ちしてます」
笑顔の店員に見送られて、俺とおりょうさんは店を後にした。