旅立ち
「良太さぁーん。お客さんですよぉ」
賄いに使った食器を洗っていた俺に、大前の店員の一人、夕霧さんから声が掛かった。
「俺に、客ですか?」
「ええ。長崎屋さんの使いだそうですよぉ」
嘉兵衛さんのこの一言で、来るべき時が来たのを俺は悟った。
「それでは、私はこれにて」
「ありがとうございます。これ、少ないですが……」
このところ何度も顔を合わせているので、すっかり顔馴染みになった長崎屋さんの若い店員さんに、お使いの礼にと、心付けを入れたポチ袋を渡した。
「では遠慮無く……鈴白様と、お使いのお嬢様方が江戸からいなくなられると、淋しくなりますね」
「そう言って頂けて、光栄です。長崎屋さんにもお伝えしてあるのですが、あの子達はこれからも、時々は顔を出すと思いますから、宜しくお願いします」
今の所、カレーに使える香辛料の、唐辛子以外の入手先が長崎屋さんの他には知らないので、旅先で見つけるか、見つけたとしても高額の場合には、黒ちゃんと白ちゃんにお使いを頼む可能性が高い。
「それは本当ですか!? 店も喜ぶ事でしょう。勿論、私も嬉しいですが」
「……長崎屋さんにもお願いしているんですが、あまりあの二人を甘やかさないで下さいね?」
特に報告義務も無いし、俺から訊きもしないけど、長崎屋さんへお使いを頼むと、特に黒ちゃんが嬉々として出掛けて行くので、間違い無く歓待されているのだろう。
「さて、それは鈴白様のお言い付けでも、お聞きするのは難しいですね」
店員さんは、ニヤニヤと楽しそうな笑顔を浮かべている。
「そう言わずに、頼みますから」
「ははは。しかし、いきなり何も無くすのも可哀相ですからねぇ。ですから、これからは程々にしておきます」
程々と言うくらいなので、もしかしたらだが、黒ちゃんなんかは時間の許す限り居座って、お茶とお菓子を……さすがに考え過ぎだと信じたい。
「それでは今度こそ、失礼致します。鈴白様の、旅先での御健勝をお祈りしております」
「こちらこそ。どうぞお元気で」
歩み去って行く店員さんを見送って、俺は江戸での最後の用事を済ませる準備の為に、大前の店内へと向かった。
大前の昼と夜の営業時間の合間に、鎌倉の源家の屋敷がある鶴岡若宮まで出向く。徒歩では無く、旅に出る前に一度試しておこうと思っていた、界渡りを使ってだ。
「それじゃ御主人、始めるよ?」
「うん。お願い」
人目につかない方が良いだろうと思い、場所は大前の倉庫でもある地下室の一角を選んだ。隣に立った黒ちゃんが俺に腕を絡めてくる。白ちゃんには徳川屋敷からの牛乳の運搬をお願いしたので不在だ。
「……ん?」
目の前の風景が、唐突にモノトーンに変じた。周囲に置いてある物や壁などの構造物は、俺の目にはワイヤーフレームで構成されているように映る。
「御主人、しっかり気の膜を維持してね」
「了解。もう少し厚い方が良いのかな?」
風景だけでは無く、俺に腕を絡めている黒ちゃんも、辛うじて輪郭で判別できる程度の、ぼんやりとした姿に見える。どうやら既に、界渡りで通り抜ける、黒ちゃんと白ちゃんが元々棲んでいた空間に入り込んでいるようだ。
「そのままでも大丈夫だと思うけど、厚めの方が御主人に認識し易いなら、そっちの方がいいかもね」
俺の目からは、自分の体表を薄皮一枚程度の厚さの気で覆われているのが見える。これが普段はパッシブな防御壁を形成して、攻撃によっては強度と厚みを増し、場合によっては攻撃を反射したりもする。
「特に維持を意識しないでも大丈夫みたいだから、このままでも良さそうかな? 黒ちゃん、鎌倉への誘導お願い」
「おう! いっくよー!」
「ええっ!?」
俺の腕を引っ張りながら、黒ちゃんが飛び上がった。地下から地上への建物の構造を貫通して、更に数メートル上空へと飛び上がる。
「壁や天井はどうなってるの!?」
「こっちの世界では全部が気で構成されてるんだ! 今はあたいも御主人も気と同じ状態だから、壁だ! とか天井だ! とか意識しない限りは、全部すり抜けるよ!」
(黒ちゃんの説明からすると、見た目だけのフレーム構造が宙に浮いているだけのような状態なんだろうか? で、俺達も同じ状態って事か?)
多分想像通りで、通常とは法則が違う世界なので、かなりの滞空時間からゆるやかな放物線を描いて落下した俺達は、黒ちゃんが着地した地面を強くキックすると、途中に存在していた人や建造物をすり抜けて、再び上空へと飛び上がった。
数度のジャンプを繰り返す中で、早送りの動画のように風景が目まぐるしく流れていく。
「凄いな。もう藤沢が見えてきた……」
ワイヤーフレームで構成されている風景なので、頭の中で合致させるのが難しいが、遠くに見えた山の連なりや街道の先の方の景色の形状から、自分の現在位置が把握出来た。
「もう着くよー!」
見慣れた藤沢宿の先の辺りでジャンプした俺達は、鶴岡若宮の参道のど真ん中に着地した。恐ろしい事に、所要時間は体感で数分だ。
「とうちゃーく!」
黒ちゃんの元気のいい掛け声と共に、目の前の風景に色が戻った。普段生活している空間へと復帰したのだ。木漏れ日の中の参道の景色が、いつもよりも鮮明に感じる。
「はぁー……界渡りって便利な物だねぇ」
現実に鶴岡若宮にいるのが信じられず、溜め息が出た。
(でも確かに、知っている場所を目指すか、明確なポイントが設定してあるので差無ければ、微調整が難しいな……)
実際に界渡りを体験してみて、月面などの重力が低くて空気抵抗の無い場所での移動と、似た感じなのかなと思った。
「役に立った!?」
「勿論。ありがとう、黒ちゃん」
「やったー! えへへー!」
褒めてあげたら、嬉しそうに笑いながら、絡めた腕に力を込めてくる。
「じゃあ頼永様と雫様と、話をしてくるね。黒ちゃんはどうする?」
いつも商談なんかだと、黒ちゃんは話の邪魔こそしてきたりはしないが、退屈そうにしている事が多い。
「んー……難しい話?」
「そうだなぁ。少しね」
メインの話題は塩と乳製品の交易の事になるはずだから、多分だが難しい。
「じゃあここでお留守番してる! そんなに時間は掛からないんだよね?」
「そうだね。じゃあ、連れてきてくれたお礼に……これでも食べながら待っててね」
こっそり試作した、チョコレートを混ぜ込んだアイスクリームを、蕎麦粉に砂糖と卵と牛乳を混ぜて、焼いてから円錐状に巻いたコーンもどきに載せた物を黒ちゃんに渡した。
「お菓子!? うん! 待ってるから、早く戻ってきてね!」
「わかった。じゃあ行ってくるね」
「うん! いってらっしゃーい!」
元気なお見送りを受けた俺は、若宮内の源屋敷の玄関へ向かった。
「ほほぅ。これが牛の乳から作った乳酪という物ですか。味見してみても?」
何度か利用している源屋敷の応接用の部屋で、俺は源家の頭領の頼永様と、奥方の雫様と対面した。持参した、小さな壺に入れてある乳酪を、頼永様が不思議そうな表情で見ている。
「器ごと差し上げますので、御自由に。これは乳酪を作った残りから醸造した酒です」
「牛の乳から酒を、ですか?」
徳川の家宗様もそうだったが、動物性の素材から酒を醸造するという話になって、頼長様も奥方の雫様も驚いている。
「どう説明すればいいのか……基本的に砂糖などと同じ成分、糖質があれば酒は作れます。例えばですけど、清酒は米の中の糖質を麹と酵母で酒にしている訳です」
麹の話は通じるかもしれないが、もしかしたらまだこっちの世界の日本には酵母の概念は無いかもしれないと思って、こういう言い方になった。
「ほう? では、酒に適した材料は米以外にもあるのですか?」
「この国の、この地域で入手出来る物ですと……麦、葡萄や蜜柑などの果実、芋、それと蜂蜜辺りでしょうか」
今日の訪問の本題から脱線しつつあるし、それほど酒については詳しくないから少し戸惑うが、頼長様が興味を惹かれているようなので無視出来ない。
「南の方の地域では、芋を使って焼酎を作っていると聞きます。腐造したりする事もあるそうですが」
「ああ、発酵がうまくいかないんですね」
頼永様の反応で、やはり酵母を培養して使うという方式は、まだ行われていないというのがわかった。
「酵母が無いと、どうすればいいかな……とりあえず蜂蜜に関しては、水でニから三倍に薄めて容器に入れておけば酒になりますよ。葡萄や蜜柑などの果実の場合は皮ごと潰して砂糖を入れれば、これも酒になります」
蜂蜜は水で希釈すれば酵母が活性化するし、葡萄や柑橘類は皮に付着してる酵母で発酵を始めるだろう。
「そんなに簡単にですか!?」
「ええ。ですが、先程の芋から作る焼酎のように、失敗も考えられるので、欠損したり、食べ頃を過ぎたりした果実を使って試すのをオススメします」
蜂蜜も果物も発酵に時間が掛かる事があるが、大体は温度管理の問題だ。
果実の方は、砂糖を添加しなくても天然酵母で発酵が始まるとは思うが、より確実に、そして度数を高めるためだ。
「果実は秋まで収穫出来ませんが、早速、蜂蜜を試してみましょう」
どうやら頼永様は、新たな酒の醸造に取り掛かるようだ。
元の世界では、海外では比較的ポピュラーな蜂蜜酒は、何故か日本ではあまり普及しなかったが、もしかしたら、こっちの世界の日本では流行るかもしれない。
「あ、注意点として、その乳酒の様に、発酵する際に空気が発生しますので、あまりしっかりと蓋をしないよ
うにして下さい」
まだスクリューキャップとかは存在しないので大丈夫だと思うが、密封すると蓋が飛んだり、容器が割れたりするおそれがある。
「わかりました。果実が食べる以外にも利用出来る事を知れば、農夫も喜ぶでしょう」
「それでは話を戻しまして、と、その前に、酒の方は頼永様に気に入って頂けたようですが、雫様、料理と菓子の方は如何ですか?」
酒の醸造の話をしている間、頼永様の隣に座っている雫様は、黙々と料理と菓子の味見をしていた。
(大前での試食の時に皆がしたように、御飯を掻き込んだりしないのは、さすがは源の奥方というところか)
料理を口に運ぶ度に顔が綻んでいるが、それでも上品さを失わない雫様の食べ方に、俺は感心していた。
「お料理もお菓子も、大変結構です。良太殿、作り方の方は?」
「これを……」
俺は懐から、料理と菓子のレシピを書き込んだ紙の束を取り出して、雫様へ手渡した。
「ありがとうございます。しかし今のところは、この量の料理を作るくらいしか出来ないのですね……」
今日持参した乳酪の量だと、レシピの料理を二人分で数回作れば無くなってしまう程度だ。
「もう少しお持ちしたかったのですが……家宗様のお気にも召したので、これから生産量は増えると思います」
ドランさんから乳製品の他の利用法が齎されれば、更に生産量が増える可能性はある。
「それで本題ですが、鎌倉で生産する塩に関して、徳川家の家宗様が危惧しております」
かなり遠回りしたが、今日の訪問のメインの話題へ入れた。
「まあ当然でしょうね。仮に双方の居場所が違えば、思いつく事です」
全てを話す前に、家宗様の危惧する内容に関しては、頼永様へはお見通しのようだ。
「家宗殿にお伝えを。塩の生産は民のためを思っての事業。相応の価格にはするが、特定の相手にだけ売るような事はせず、政や戦の材料にはしない事をお約束すると」
この頼永様の言葉を聞いて、俺は肩にのし掛かっていた重さが消え失せるのを感じた。
(よ、良かった……家宗様も俺なんかに、江戸の人達の命運を託さないで欲しいよな)
命運と言うと大げさに聞こえるかもしれないが、塩の問題は決して軽視出来ない。
「鎌倉に対抗して、江戸でも生産をと考えているでしょうけど、実際は難しいと思いますからね」
「それは、どういう事です?」
「江戸周辺の湾岸は結構開発もされていますので、徳川のお膝元での塩の生産は難しいでしょうね。外海に面している、房総の辺りで塩を生産するというのも良いかもしれませんが、そうなると今度は輸送の問題が発生します」
頼永様が言うには、江戸の中心部周辺の湾岸は既に開発されていて、塩の生産のようなある程度の規模の広さの土地が必要な事業が入り込むのは、難しいだろうという事だ。
「実は多摩川河口付近の大師河原や、江戸から少し離れた行徳などに塩田があるのですが、質的にも量的にも十州塩田には敵わない程度でして、とてもでは無いですが江戸での必要量を賄う事は出来ません。かと言って、新たに塩田を開発するのも……」
大師河原や行徳の塩田は揚げ浜式で、瀬戸内の十州塩田のように自然の潮位差の利用も出来ないので、労力の割には生産量が少なく、季節や天候にも左右される。
江戸近郊の塩田は、実質的には備蓄などの量的補助と、豆腐を造るのに必用なニガリを取るのがメインのようだ。
「鎌倉の海は、良くも悪くもそれ程は開発されていませんからね」
頼永様の言う通り、元の世界の観光地と比べるのは論外だが、こっちの世界の鎌倉の海は、小さな漁港や材木座のような商業港が点在している程度しか開発されていないので、新しい施設の建設が周囲を圧迫しない。
しかも流下式の塩の製造施設は、揚げ浜、入浜式と比べてコンパクトだ。
「塩の生産の方は順調なのですか?」
大前提として、鎌倉での塩の生産が順調というのがあるのだが、その後の進捗に関しては俺は把握していない。
「良太殿の助言通りに行いまして、かなり効率的に生産が出来る事が実証されました」
「それは良かったですね」
概略程度の図面による助言だったので不安もあったが、どうやら大きな問題は発生せずに生産が出来ているようだ。
「現在はポンプの増産と共に、想定よりもかなり多くの濃縮した鹹水を楽に取れましたので、炊き上げが間に合わせの鉄釜では追いつかなくなりましたから、専用の大釜の生産に入りました」
「それでは、かなりの生産量を見込めそうですね?」
「ええ。材木座脇の生産所を本格的に稼働させるのと同時に、二箇所目以降の生産所の用地の選定に入っております。ですから、生産量も安定して増えていくでしょう」
頼永様の言う通りならば、どうやら鎌倉の塩の生産は事業として定着しそうだ。江戸との取引の件も含めて、俺は肩の荷が下りるのを感じる。
「そうですか……ところで、頼永様と雫様に、お伝えしておく事があります」
「どのような事でしょうか?」
俺は先ず、頼華ちゃんと大前が、江戸徳川の庇護下に入った事を告げた。
「静かな行動というのを、あまり意識していなかったのですが……頼華ちゃんが江戸に滞在している事は、徳川家には筒抜けだったようです」
幼いながらも頼華ちゃんは、雫様似の美貌の持ち主だし、働いている大前が、良くも悪くも評判になっているのだから、考えてみれば目を付けられるのは当たり前だ。
「こちらとしても隠しておく気はあまり無かったのですが、それでも『娘が行きますので、宜しく』という訳にはいきませんから、徳川の出方を伺っていたのですが、丸く収まったようで何よりです」
(投げっぱなしだったの!?)
思わず、口から出そうになった言葉を噛み殺したが、頼華ちゃんの江戸暮らしについて頼永様が、まさかのノープランだったとは思わなかった。
「ははは。良太殿と一緒ならば、安心だと思っていましたのでね」
「本当に。いっその事、徳川の前に良太殿が、頼華を傷物にして下さればと思っていたのですが……そこは残念でございます」
「そうだねぇ」
「普通は傷物にされる方が残念ですよね!?」
雫様の言葉と、それに同意した頼永様に我が耳を疑ったが、聞き間違いでは無かったようだ。
「源も徳川も、婚姻や後継ぎの問題がありましてね。例えばですが、家宗殿に頼華が嫁いだりは出来ないのです」
「それは、どういう問題があるのですか?」
家宗様に頼華ちゃんが嫁いで欲しいとか考えている訳では無く、純粋に興味として知りたい。
「婚姻によって、源と徳川の合一が成された場合、どちらが主導を取るかで内紛が発生します。その点が上手く行ったとしても、今度は周辺の領主が黙っていない場合が考えられるのです」
源・徳川連合に対して、例えば西の北条や北の藤原が危機感を抱いて、攻め込んでくる事があり得ると頼永様は言う。
「そんな事が……」
「バカな事をと、一笑に付すのは簡単ですが、領主としてはそこまで考えなければ領民を護れないのです」
些細な小競り合いから戦争に発展した例もあるので、頼永様の言う事は決して荒唐無稽な例えでは無い。
「それにその、家宗殿に頼華を嫁がせるのは、ちょっと……」
「ねぇ……」
「家宗様に、何かあるのですか?」
実際に会った事がある俺の目からは、家宗様は気さくではあるが領主としての風格や考えを持ち合わせている人物に見えるし、領地である江戸でも悪評などは聞いた事が無い。
(でも、頼永様と雫様のこの表情の陰りは、只事には思えないな……)
「家宗殿は、その……凄いのですよ」
「凄い? まあ凄い方だとは、俺も思いますが」
自分で言うのも何だが、黒ちゃんと白ちゃんが失禁してしまった俺の殺気を、真っ向から受け止めて平然としていたのだから、間違い無く只者では無い。
「あ、いえ、多分ですが、良太殿の思っている凄いとは違いまして……」
「詳しく訊かない方が宜しいですか?」
「まあ世間には識られている事ですので……家宗様は、その、絶倫なのですよ」
「……は?」
(よりによって、そっちの凄いか!)
相手が源家の頭領と奥方で無ければ、思わず大声を出しそうになってしまった。頼永様と雫様が悪い訳では無いんだが……。
「夫婦の行為が少ないよりは、多い方が良いかとは思うのですが……」
「でも、家宗様がお相手では、頼華が壊されてしまうのでは無いかと……」
「そんなにですか!?」
幼いながらも、源家の中でも最上位の武人である頼華ちゃんが、壊れる程というのは……。
「家宗殿には、正妻、側女を含めて十数人の奥方がおります。御子息、御息女は数十人おりまして……」
人数がはっきりしないのは、家宗様のお手付きになった女性は江戸以外にもいるらしく、実は源家でも全ては把握しきれていないそうだ。
(確かにお元気そうな人だったが……鰻でエネルギーチャージ!?)
家宗様が大前にほぼ日参している理由が、なんとなく理解出来たような気がした。
「という訳で、良太殿が頼華を娶って、徳川と北条を一気に併合すれば、全ては丸く納まります」
話の流れ的には元に戻っただけなのだが、急に家宗様から俺へと矛先の向きが変わった。
「まあ! それは良い考え!」
「良くないですよ!?」
今のところ……と言うか、ずっとだが、関東に覇を唱える気は無い。頼華ちゃんは可愛いし、好ましくは思っているけど。
「徳川と塩の話が終わりましたので、頼華ちゃんにも関連する事なんですが、実は……」
俺は江戸を出て旅に出る事を頼永様と雫様に打ち明けた。
「それは……もうお決めになった事なのですね?」
「ええ……ですから今後は、俺が頼華ちゃんを見守る事は出来なくなるんです」
一度引き受けた事なので、途中で放棄するのは心苦しいが、ここは譲れない。
「良太殿の御好意で引き受けて下さった事ですので、気に病む事はありません」
「そうです。むしろ、頼華を含めて私達の方が、良太殿にはお世話になりっぱなしですし」
「そんな事は決して……」
間接的にとは言え、黒ちゃんと白ちゃんの事では鎌倉へは多大な迷惑を掛けているので、少しでも恩返しが出来たのは、俺にとっては幸いだった。
「良太殿が旅立ってしまうと、もうお料理は……」
(そこか……)
残念そうに目を伏せてる雫様の言葉は、ある程度は予想してたので、心の中で苦笑する。
「俺の知っている殆どの料理の作り方は、書き留めたり料理人の方に伝えたりしてありますし、乳酪を使った料理は、今後はドランさんが色々と作ってくれると思います」
既にドランさんとの個人的なお別れは済ませてあるので、乳製品のアドバイザーとしての勧誘の件は、徳川の方に任せてある。
「もう、関東にはお戻りにはならないのでしょうか?」
「その辺も含めて、全く無計画です」
頼永様の問に明確な答えを返せないのが心苦しいが、ここで取り繕っても仕方がないので、ありのままを伝えた。
「良太殿の、旅の御無事をお祈りしております」
「良太殿の、御健勝をお祈りしております」
頼永様と雫様が祈るのは八幡神様だろうから、これは御利益がありそうだ。
「ありがとうございます。それで、出発なのですが……」
実は俺が長崎屋さんの船に乗るのは江戸の港からでは無く、微妙に源家にも関係するので、頼永様と雫様へ説明を始めた。
「嘉兵衛さん、ちょっといいですか?」
「なんですかい?」
黒ちゃんと一緒に鎌倉から江戸の大前に戻り、夜の営業前に嘉兵衛さんへ声を掛けた。
「実は、長崎屋さんからの連絡がありまして」
「という事は、明日出発ですか?」
「ええ」
予め言い含めてあったので、嘉兵衛さんはすぐに長崎屋さんからの連絡の意味を察してくれた。
「そうですか。前もって聞かされちゃおりましたが、実感が湧いてきますね……どうかお元気で」
「ありがとうございます。離れてもいても、嘉兵衛さんとこの店の事は忘れませんから」
「良さん……湿っぽいのはあっしの柄じゃありやせんね。まあ旅に疲れたら、いつでも戻ってきなせぇ」
涙ぐみそうになった嘉兵衛さんは、大きく頭を振って表情を笑顔に戻した。
「わかりました。それで今夜、最後の作業をしてから出掛けますので」
「お好きに使って下さい。じゃあ、良さんには言うまでもありやせんが、料理の方は最後までしっかりとお願いします」
「はい。気合い入れていきますよ」
「おっと、こいつはあっしも、負けちゃいられやせんね」
最後まで明るく送り出してくれようとしている嘉兵衛さんには、いくら感謝してもし足りない。俺はいつも以上に真剣に、料理に向かい合おうと決意した。
「それじゃ良太と黒と白は、今日も居残りなんだね?」
営業と賄いの食事を終えて、おりょうさんが俺達に確認してきた。
「そうです。もしかしたら、そのまま泊まり込みになるかもしれませんが……」
作業をするというのは嘘では無いのだが、俺達は夜明けと共に江戸からの移動を開始するつもりだ。
「わかったよ。お殿様の申し付けじゃ仕方無いけど、あんまり根を詰めるんじゃないよ?」
あまり公には出来ないのだが、このところ加工している牛乳の入手先は、徳川の江戸屋敷に限定されるので、大前で働いている人達には周知されている。
「わかりました。おりょうさん、おやすみなさい」
(もしかしたら、おりょうさんともこれっきりかな……)
「どうしたんだい? そんなにあたしを見て」
名残惜しくてつい見つめてしまったので、おりょうさんが小首を傾げながら俺に問い掛けてくる。
「つい、見惚れてました」
誤魔化すのも変だと思ったので、ありのままを、おりょうさんへ伝えた。
「っ! も、もう……帰るよ」
頬を染めながら目を伏せ、おりょうさんが俺に背を向けた。
「おりょうさん、気をつけて」
「……あんたもね」
照れ笑いを浮かべながら、おりょうさんは足取りも軽く歩み去った。
「……さて、黒ちゃん、白ちゃん、作業を始めるよ」
「おう!」
「承知した」
おりょうさんを見送った俺は、江戸での最後になるだろう作業のために、黒ちゃんと白ちゃんと共に店内へ入った。
「……もう朝か」
作業は比較的順調だったのだが、牛乳の湯煎での殺菌などは、権能で温度管理が出来るものの、時間自体の短縮は出来ないので、鍋のサイズ以上の量は処理出来ないのだ。結果として、予定していた時間を目一杯消費する事になった。
「黒ちゃん、白ちゃん、忘れ物は無い?」
「おう! 食べ物は全部仕舞ったよ!」
「主殿に指定された物の分類、収納は完了している」
黒ちゃんと白ちゃんと手分けして、飲食物や旅で必要そうな物をまとめて、人数分の福袋と俺の腕輪に分散して収納した。
二人は俺の居場所が本能的にわかるのだが、はぐれて合流が難しい場合が無いとは言い切れないので、収容能力の大きい俺の腕輪に大半の物品を入れてあるが、飲食物や金銭は、ある程度を分散して各自で持っておく事にした。
(最初にこの世界に来た時にも感じたけど、福袋と腕輪のおかげで、本当に身軽だよな)
旅に出るのに三人共普段着と大差無い服装に外套だけ纏って、後は各自が、一見するとただの布袋にしか見えない魔法の道具を肩から掛けているだけである。
(黒ちゃんと白ちゃんの場合は、衣服ですら無いんだけどね……)
二人の外見は気でそれらしくしてあるだけなので、実質的には裸と変わらない。
「それじゃ先ずは、竹林庵の俺の部屋へお願い」
「おう!」
「承知した」
黒ちゃんと白ちゃんが左右から、俺に腕を絡めてきた。
「このくらいの距離だと、あっという間なんだな……」
文字通りあっという間に、竹林庵の二階の間借りしていた座敷へと移動したのを確認して、俺は口の中で呟いた。
誰も起き出してくるような気配を感じないので、俺はおりょうさん宛の手紙と、袱紗で包んだ物を畳の上に置いた。
(……大丈夫だな。じゃあ次は、正恒さんの家までお願い)
(おう!)
(承知した)
こういう時に念話が使えるのは便利だなと思いつつ、再び二人に腕を取られて、界渡りでの移動を開始した。
「おはようございます」
「その声は良さんかい? 入りなよ」
「失礼します」
外出したり、用事が立て込んだりしていなければ、いつも通りに行動すると思っていた正恒さんは、やはり夜が明けているので起きていた。
「こんな朝早くにどうしたよ? それに、いつも一緒の姐さんの姿が見えねえな?」
「実は、突然なんですけど、旅に出る事にしまして……」
「姐さんは連れて行かねえのか?」
「ええ……」
正恒さんに「いつも一緒」と言われるくらいには、おりょうさんと行動していたのだなと、改めて実感させられる。
「他人の俺が口出す事じゃねえけどよ、良さん、置いてったら恨まれるぜ?」
「でも……」
おりょうさんと離れるのは俺も辛いのだが、江戸での生活を捨ててまで、あてもない旅に付いて来てくれとは言えなかった。大前で一緒に働いてはいたが、おりょうさんには竹林庵もあるのだ。
「ま、良さんが決めたんなら、俺があれこれ言うのは野暮だな。だが、恨まれるのは覚悟しておくんだな」
「それは、仕方ないですね」
「それで、旅に出る前に俺のところに来たって事は、なんかあるのか?」
「ええ。実は嘉兵衛さんに餞別を頂いたんですが、ちょっと多過ぎるので……これで、大前で働いている人達に、鰻裂きと目打ちを作って下さい」
「おいおい。嘉兵衛の野郎、随分と気前がいいじゃねえか……」
俺が渡した金貨を見て、正恒さんが目を丸くする。
「しかしよ、良さん。こいつはちょっと多過ぎるぜ」
「正恒さんの仕事からすれば、順当な金額ですよ」
鰻裂きにしても、俺が使っている柳刃にしても、正恒さんに作ってもらった鍛造品を使っていて、切れ味もバランスも、今までに不満を感じた事は一切無い。
「嬉しい事言ってくれやがるな。あ、そうだ。例の巻狩りん時の肉の燻製が出来てるから、荷物になっちまうだろうけど、持っていけよ」
言われてみればだが、みんなでやった大規模な巻狩りからも、懐かしくなる程度の日数が経過していた。
「遠慮無く、頂いていきます」
「おう。持てるだけ持ってけ。それにしても、良さんとはたまにしか会えなかったんだが、それでもこれっきりと思うと、淋しくなるな」
「色んな人にそう言われて、ありがたいですよ。もしかしたらひょっこり、顔を出しに来るかもしれませんけどね」
「そっか。そんときゃ、のんびりしていけな」
静かだし、風流な河原の風呂もあるこの場所は俺も気に入っているので、また来たいとは思っている。
「はい。それじゃ正恒さん、お元気で」
「良さんも、お嬢ちゃん達もな」
「おう! 正恒、いっぱい肉をありがとう!」
「主殿に良くしてくれて、礼を言う。達者でな」
まだ時間には余裕があるのだが、名残惜しくなってきそうなので、俺達は早々に正恒さんの家を後にした。
山道を下って、俺達は藤沢宿経由で三浦半島の浦賀の港を目指して歩いた。特に急いではいないが、三人共ペースを乱さずに歩いたので、界渡りのような特殊な移動法を使わなくても、浦賀までの移動は早かった。
「御主人、おにぎりおいしい!」
「それは白ちゃんが握ったやつだね。良かったね白ちゃん」
「む……黒、俺の分の唐揚げ食うか?」
「おう!」
既に朝の漁の水揚げの終わった港の近くで、俺達は邪魔にならなそうな場所に座って朝昼兼用の食事をしていた。特に意識した訳では無いが、遠足とかハイキングっぽい、おにぎりと唐揚げとだし巻きというメニューだ。
「黒ちゃんと白ちゃんは、海は初めて?」
鎌倉までは何度か二人と訪れたが、鯨と遭遇した時に一緒だったのはおりょうさんで、以降は俺自身も、海の近くまで出掛けた覚えが無い。
「生きたままでは初めて!」
「……生きたまま?」
なんか黒ちゃんが物騒な事を言い出した。
「どうも記憶が定かでは無いのだが……俺も黒も身体をバラバラにされて、川から海に流されたり、数箇所に分散して葬られたりしたようなのだ」
「そういえば、そんな伝承だったっけ……」
実は各地に、川に流された鵺の亡骸が漂着した場所とか、葬られた塚などが存在する。
「活動できない時期の話だから、どうでもいいけどな!」
「そういう物なの?」
「おう! 結果的にドランのとーちゃん経由で御主人の元に辿り着いたんだから、大事なのはそこだけだな!」
「うむ。我ながら波乱万丈だが、結果としては悪くない」
「ははは……」
(形だけなのかもしれないけど、一度死んじゃってるのはいいのかな?)
そんな風に思うのだが、本人達が満足そうなので、俺が口を挟むのは筋違いだろう。
食後のお茶を飲んだり、暇つぶしに砂を掘って貝を探したりしているうちに、それなりに時間が経過した。
「そろそろかな……」
長崎屋さんの船は江戸を早朝に出港して、一度浦賀の港の近くに停泊して、源家の発注した香辛料の荷を下ろしてから、入れ替わりに水や食料などを積み込んで外洋に出る予定だ。航海が順調なら、そろそろ到着するはずである。
「む……主殿、あれは源の頭領ではないか?」
白ちゃんの視線の先に、頼永様と雫様が騎乗した馬を先頭にした、大きな荷車を引き連れた一団が見えた。
「あ、そうだね。行こうか」
「おう!」
「参るか」
立ち上がりながら軽く服に付いた砂をはたき落として、俺達は頼永様達の進行方向の港へ向けて歩き始めた。
「頼永様、雫様、こんにちは」
「こんにちは、良太殿。いよいよですね」
「良太殿、良いお日和で、天が旅立ちを祝福して下さっていますね」
俺からの挨拶に、頼永様も雫様も、笑顔で応えてくれた。周囲では小舟へ荷物を積むのに、人足の人達が忙しく動き回っている。
「荷物を載せない小舟も用意しましたので、良太殿達は、私共と一緒にそちらへ」
「最後まで、何から何までありがとうございます」
「なんの。それに、最後というのはどうも縁起が悪い。鎌倉はいつまでも、良太殿と、黒殿、白殿のお帰りを待っておりますよ」
ある程度予想はしていたが、どうも頼永様は俺の事を諦めていないようだ。
「ありがとうございます。黒ちゃん、白ちゃん、頼永様と雫様に御挨拶を」
「おう! 頭領、奥方、御主人に良くしてくれてありがとう!」
「鎌倉、そして源には迷惑を掛けたが、今後は主殿の下で、世のため人のためとまでは言わぬが、真っ当に暮らしていくつもりだ」
(白ちゃんはともかく、黒ちゃんには一度、礼儀を教えた方がいいのかな……俺も自己流なんだけど。でもまあ、今後は偉い人との目通りなんかする機会は無いか)
良くも悪くも自由過ぎる黒ちゃんに、思わず苦笑しそうになる。
「御二方とも、もう源の敵ではありません。いつでも良太殿を連れて戻ってきて構いませんよ」
「ええ。良太殿に教わったお菓子を作って待っておりますから」
「お菓子っ!?」
俺が頭を縦に振らないので、頼永様と雫様は黒ちゃんを攻略しに来たようだ。
「ええ。今後は牛の乳も乳酪も手に入るでしょうから、たっぷり使ったお菓子を用意して……」
「あ! あれが長崎屋さんの船でしょうか?」
雫様が黒ちゃんにたたみ込もうとしているのを感じたので、沖に姿を現した船を指差して言葉を遮った。
「ぎゅーにゅー……ばたぁ……」
ごくり……
途中で言葉を遮ったが、喉を鳴らす黒ちゃんの意識は、牛乳と乳酪という単語に支配されてしまったようだ。
「お、俺達も荷物の積み込み手伝いましょうか! 黒ちゃん、白ちゃん、行くよ……」
「ばたぁ……」
「承知した」
白ちゃんと一緒に俺の後に続いたが、まだ黒ちゃんの頭の中は、牛乳とバターを使ったお菓子でいっぱいのようだ。
無駄に腕力のある俺達が手伝ったので、荷積みを手早く終えて、小舟で沖へと漕ぎ出した。
「黒ちゃん、白ちゃん、荷揚げを手伝うよ」
「おう!」
「承知した」
接舷した船への荷降ろしは他の人達に任せて、俺達は水の入った樽や、食料の入った箱などを運び込むのを手伝う。
「失礼。鈴白様ですね? この船を預かっております、十蔵と言います」
船長らしい人が話し掛けてきた。船の責任者の割には見た目は若い人で、肌が黒ではなく赤銅色に日焼けしている、精悍な感じの人物だ。
「どうも、お世話になります」
「こちらこそ、荷揚げを手伝って頂いて、ありがとうございます」
なんとなく船乗りには荒っぽい感じの人が多いというイメージを持っていたが、十蔵さんは物腰が柔らかく丁寧だ。
「お手伝い頂いたおかげで、作業は終わったようですね。それでは、そろそろ出発します」
俺が十蔵さんと話している間に、黒ちゃんと白ちゃんが手伝ったのもあって、速やかに作業は終わったようだ。
「頼永様、雫様、お元気……」
「だーれだ?」
頼永様達に、最後の別れの挨拶を、と思った瞬間、俺は背後から目を塞がれた。
(この声、この匂い、間違いない……)
その匂いは、甘く芳しいが、ホッとするような安心感を与えてくれる物だった。
「……おりょうさん、なんでここに?」
この世界に来てから、ずっと親切にしてくれた大好きな人の声と匂いを、俺が間違える訳が無かった。
「なんでって……あたしを置いて行こうとするなんて、どういう了見だい!?」
怒りの形相のおりょうさんの手が、目の上から外されて思いっきり振り被られ、派手な音と共に俺の頬を打たれる……はずだったのだが、思わぬ事態が発生した。
「えっ?」
「えっ!?」
覚悟をしていたが、何時まで経っても音も衝撃も発生しないと思っていたら、驚いた顔のおりょうさんは何かに弾かれたように宙を舞い、舷側を超えて船の外へと落下していった。
「おりょうさんっ!?」
俺の防衛本能が余計な仕事をして、甘んじて受けるはずだった、おりょうさんの頬への怒りの一撃を気で弾いてしまったのだ。
「りょ、良太ぁーっ!」
船の舷側が邪魔をして、互いに伸ばした手が空を切った。
「主殿、飛べっ!」
「白ちゃん!? わかった!」
言葉の意味はわからなかったが、白ちゃんの声を聞いた俺は舷側の縁を蹴って、おりょうさんへ向けて飛び出した。
「あれ……海に落ちてない?」
水の冷たさと海面への激突の衝撃を覚悟したが、何故か俺達は海に落ちずに、おりょうさんを抱きかかえて水面スレスレの空中に浮いていた。
そんな俺達の姿を、小舟から鎌倉の人達が、船の方からは船員の人達と黒ちゃんが呆然と見ている。
(どうやら間に合ったようだな。主殿の咄嗟の判断はさすがだ)
「白ちゃん?」
「良太……空、飛んでるよ?」
飛び出したままの頭が下向きのバランスの悪い姿勢で、おりょうさんを抱きかかえているのをなんとかした
いと考えたら、ゆっくりと浮き上がって、水面スレスレに立ち上がるようなポジションになった。
「良太、背中に翼が……」
おりょうさんに言われて振り返ると、俺の背中で白い翼がゆっくりと羽ばたいているのが見えた。
(この翼は……白ちゃんだね?)
(そうだ。船に上がるぞ?)
(お願い)
原理は不明だが、俺の身体から白ちゃんの翼が生えて飛行した事で、海に落ちずに済んだようだ。
「下ろしますよ?」
「……うん」
船の甲板に着地した俺は、腕の中で俯くおりょうさんを下ろした。
「はぁ……あんたの気の防御の事を忘れてたよ……もうっ! 酷い事したんだから、おとなしくあたしに殴られときな!」
おりょうさんが、もう一度手を振り被った。
「は、はいっ!」
痛いのは嫌だが、おりょうさんに黙って旅に出ようとした俺に怒っているのはわかるので、予め「殴るよ!」と言われていれば、意図的に防御を発動させないくらいは仕方がない。
「……おりょうさん?」
またしても、俺の頬に衝撃も音も発生せず、代わりに柔らかくて温かい物が、胸の辺りに押し付けられた。
目を開けると、おりょうさんが俺の胸に身体を預けて、服の胸元をギュッと握っている。
「……逃さないんだから」
「いや、逃げた訳じゃ……すいません、逃げました」
顔を上げたおりょうさんが俺を睨みつけてきたので、素直に負けを認めた。
「ははは。良太殿の負けですな」
頼永様の笑い声が聞こえる。
「いや、笑ってる場合じゃ……おりょうさん、もう江戸には帰らないかもしれないんです。だから、連れては行けませんよ」
「……ずっと付き合うって、言ったでしょ?」
「あ、あれは、正恒さんの家の行き帰りの話じゃ……」
まだあの時の話が有効だとは、俺は思っていなかった。
「それにぃ……良太がいなくなっちゃったら……あ、あたしの事……す、好きにさせられないじゃないかっ!」
「あー……」
思いっきり胸に頭を押し付けてくるおりょうさんに、俺自身がまだ答えを返していなかった事を思い出した
。
(でも、まだハッキリとはしないんだよな……浮気症な訳じゃ無いと思いたいけど、みんな魅力あり過ぎだろ!)
おりょうさんを筆頭に、頼華ちゃん、胡蝶さん、初音さん、夕霧さん、若菜さん、黒ちゃん、白ちゃん、そしてヴァナさんと、恋愛経験の乏しい俺の前に、美花、名花が花盛り過ぎる。
(忘れられていませんでした!)
はいはい。忘れていませんよ。と、最近放置気味なので天の声にも気を遣っておこう。
「ははは。良太殿、まだお迷いのようですから、ついでにこれもお連れ下さい」
「しっかりね」
頼永様と雫様に声を掛けられて、誰かが小舟から飛び移ってきた。
「兄上! 余も一緒に行きますよ!」
「頼華ちゃん!?」
どうやら人足の人達に紛れて、頼華ちゃんも小舟に乗っていたようだ。
「よ、頼永様!? いくらなんでも不味いでしょう!?」
「頼華の事は死んだものと考える事にしますので、どこまでもお連れ下さい」
「何言ってるんですか!?」
源家の跡取りでもある頼華ちゃんに、何かあったら一大事だ。
「良太殿、実は八幡神様からお告げがございまして」
「その……私の中に、新たな命が宿りました」
頼永様に肩を抱かれている雫様が、ポッと頬を赤らめる。
「父上、母上、本当ですか!」
「弟か妹かはわからないが、確かだよ。だから頼華、鎌倉の事は気にせずに、精一杯、良太殿にぶつかってきなさい」
「はいっ!」
頼華ちゃんの、これ以上無いってくらいの良い返事を聞いて、俺は諦めた。
「いや、そんな事よりも、御懐妊でしたら、雫様はこんなところに居ては不味いのでは?」
「ははは。雫は頼華を生む前の日まで薙刀を振っていましたので、大丈夫ですよ」
「お恥ずかしい……」
なんか雫様が照れてるけど、何かポイントがズレている気がする。
「はぁ……黒ちゃん、白ちゃん、俺よりも、って命令は聞かないだろうから、今後は俺の次に、おりょうさんと頼華ちゃんを護ってあげてね」
「おう!」
「心得た」
「良太は、護ってくれないのかい?」
「勿論、俺も……いや、俺がみんなを護りますよ」
「良太……」
「余もっ!」
背中側からは頼華ちゃんが、もう逃さないとばかりに抱きついてきた。
「……あの、鈴白様、そろそろ出発しても宜しいですか?」
船長の十蔵さんが、物凄く言い難そうに俺に確認してきた。
「……こんな格好ですいませんが、お願いします」
「わかりました。帆を上げろっ!」
俺達以外の船員さん達が、忙しく船上を駆け回る。
「おりょうさん、頼華ちゃん、もう逃げないから、頼永様達にお別れをしよう」
「このままで」
「そうですね。このままで」
「……わかりました」
結局、前におりょうさん、後ろに頼華ちゃんが貼り付いたままという、なんとも締まりのない格好で、左右に黒ちゃんと白ちゃんを従えて、俺は舷側へ歩いた。
「良太殿、今度こそお別れですね。お元気で!」
「頼華、達者でね!」
「お二人とも、お世話になりました!」
「頭領、奥方様、お元気で!」
「父上ー! 母上ー! いつか妹弟の顔を見に来ます!」
「元気でなー!」
「縁があれば、また会おう」
それぞれに別れを告げ、やがて俺達を乗せた船は、浦賀水道を通過して外洋へ出た。




