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乳酪

「失礼致します」

「うむ。入られよ」


 落ち着き払った家宗様の返事を確認し、俺は障子を開けて座敷へ入った。



「やっと腰を据えて話せそうだな」

「は……」


 ここまでは完全に俺の空回りなので、返す言葉が見つからない。


「お主が旅に出る事を、どうやって知ったのかを話しておこう。気になるであろう?」

「それは……密偵とかを使われた訳では?」


 江戸を納める徳川くらいの規模となれば、子飼いか長期契約している忍者集団くらいは、いると考えるのが普通だろう。


「そうでは無いわ。ほれ、お主も利用している長崎屋。あれは徳川の御用商人だ」

「えっ!?」

「長崎屋に外国からの賓客を(もてな)させているのは、そのそもが徳川家で命じてやらせているのだ」


 驚きはしたが、外交は事と次第によっては国際問題にも発展するので、考えてみれば長崎屋さん単独で、外国の使節や商人を相手にする事が許される訳が無いのだ。


「ドランの経営している萬屋も、珍しい物が多いので、たまに利用しておるぞ」

「あー……」


 特に俺を俺を詮索しないでも、茶飲み話で珍しい客の事が話題に上がる事はあるだろう。


「お主や頼華姫の存在は知っていたし、行動は気にはなっていたが、特に悪さをする訳でも無かったしな。ただ、塩の件は、少しな……」

「何か不味かったでしょうか?」


 単純に親しい人達の塩の入手が容易になれば、そんな思いつきで、ポンプの普及のついでにと、源家の頼永様に進言したに過ぎないのだ。


「関東は大きく三つに分けて、我が徳川、源、北条が統治しているのはわかるな?」

「ええ」

「北は我が徳川が抑え、西は北条が抑えている。そして鎌倉は、江戸湾から外洋への出入り口である浦賀を抑えている。これがどういう意味かはわからんか?」

「どういうと、申されましても……」


 関東を納める三カ国に限らず、現状では互いに隣接している領地に睨みを効かせ、ある程度は争いながらも交易をしている状況だ。


「塩を独自に生産出来る源は、その気になれば関東を日干しに出来るようになった、という事だ」

「え……あっ!?」

「わかったか?」


 現状では瀬戸内周辺の十州塩田で生産された塩が、大坂と江戸を賄っているが、殆どが海路で運び込まれる。


(源が自前での塩の調達が可能になって、瀬戸内から江戸湾への塩の流入を浦賀で阻めば、陸路での輸送しか使えなくなる。結果、輸送費が跳ね上がって……)


「し、しかしですね、でしたら江戸でも塩の生産を……」

「無論、始める予定ではある。しかし、それで塩はなんとかなるが、浦賀の問題は別になるであろうな」

「必需品が自前で手に入るのであれば、江戸湾に交易船を入れさせる必要が、源家には無くなると?」

「考え過ぎなら良いのだがな」


 今までであれば、瀬戸内の塩を購入出来ないと死活問題になっていた江戸と鎌倉だが、鎌倉が自給体制に入って、瀬戸内と塩の交易をせすに済むようになれば、塩以外の商品を輸送する船も含めて、江戸湾内に入れる必要は無くなる。


「源は、江戸経由で入ってくる農産物なんかには、頼っていないのですか?」

「一部の嗜好品や贅沢品を別にすれば、人口辺りの必要量ならば、源は自給自足が十分に可能だ。塩を手に入れたから、味噌や醤油の独自生産も考えておるだろうしな」


 元の世界の江戸時代よりは人口が少ないこの世界では、権能や加護で安定生産出来る農夫とかがいるので、契約さえしっかりしていれば必要量の確保は難しく無い。


「契約する農家とて、安く塩を売ってもらえるのならば、快く働くであろう。おまけに源の支配地域の半島部は、農作に非常に適した土地でもある」

「そうですね……」


 自分がやった事によるバタフライエフェクトが、割ととんでもない事になっているのを、今更自覚した。


「あの、ですが、源は江戸に対して悪意的な事はしないと……」

「それよ。物は相談だが、お主からちと、口添えをしてもらえんかな?」

「……は?」


 家宗様が何を言っているのか、本気で理解出来なかった。


「それは俺に、鎌倉との交易が有利になるように、働き掛けろという事ですか?」


 もしもそうだとしたら、源の不利益になるような事は出来ないので、きっぱりと断るつもりだ。


「そうではない。だが、他に売る相手と価格の差をつけないで欲しいのだ。生産量の増量、安定までは時間が掛かると思うが、遅かれ早かれ、鎌倉の塩と瀬戸内からの塩との比率は逆転するだろうからな」


 家宗様の言う通り、現在使っている瀬戸内の塩の購入を、急にやめる訳にはいかないだろうが、鎌倉の塩の生産量が増えれば、いずれは輸送費の面で太刀打ち出来なくなるだろう。


(もしかしたらだけど、関東以北の塩を、鎌倉が賄うようになったりするのか?)


「お主に口添えをして貰う代わりに、余に江戸で出来る事ならば、色々と便宜をはかるぞ?」

「そう言われましても……あ」

「何かあるか?」


 俺と鎌倉の縁は、最初の戦いは置いておいて、頼華ちゃんの胃袋を掴んだところから始まったのだが、その点において使えそうな要素が、他ならぬ家宗様から先程出されたのを思い出した。


「あの、先程、家宗様が、黒ちゃ……えっと、俺の供の物に出して下さった酪ですが」

「ん? あれがどうかしたのか?」

「ええ。少し長くなるかもしれませんが、宜しいですか?」

「ふむ……申してみよ」


 俺は家宗様の好物だという、酪の素になっている素材について話し始めた。


「ははぁ……牛の乳に、そんな使い途があったか」

「ええ。今までは他の物で代用していましたが、ちゃんとした物が作れます。勿論、それが口に合うかは話が別ですが」

「まあ試しに使ってみるが良い。屋敷には……ほれ、これを門番に見せれば、入れるようにしておく」


 家宗様は豪奢な装飾のされた、多分だが懐剣と呼ばれる物を俺の方へ差し出した。


「くれぐれも言っておくが、ちゃんと正面から入ってくるのだぞ? お主も供の娘達も、油断出来んからな」

「気をつけます……」


 堀くらいなら俺は飛び越えられるし、白ちゃんは翼で飛行出来る上に、黒ちゃん同様に界渡りが使える。


「それと、塩の件以外に、頼華姫が江戸で暮らすのは、見て見ぬ振りをするとも伝えてくれ。怪しげな連中がいれば排除するが、過干渉はせん、とな」

「わかりました」


 ちゃんと話をしてみると、家宗様は驚く程話のわかる人だと実感した。俺の先走った行動が悔やまれる。


「あの、俺の代わりに、供の子達を使いに行かせる場合もあると思うのですが、その場合も、この剣を持っていれば大丈夫ですか?」

「ふむ……白い髪の娘は、髪を結っているから、これで良いか。黒い髪の娘の方は……これで良いか」


 家宗様は懐から、漆を塗って金箔で装飾された櫛と、酪の入っていた巾着をを取り出した。


「黒髪の娘の方も髪を結っているのなら、(かんざし)でもと思ったのだがな」


 黒ちゃんは身嗜みには無頓着だ。客商売を手伝ってもらっているので、見苦しくないように髪の毛をまとめているが、お洒落には程遠い。


「お気遣い頂いて、ありがとうございます」

「なんの。余は今後もこの店を利用するが、急に態度を変えるでないぞ? あくまでも余は客で、そなたは料理人だ」

「心得ておきます」


 こうして、良いのか悪いのかは少し時間が経過するまではわからないが、江戸徳川と縁が出来て、欲しかったある食材の入手の目処が立ったのだった。



「主殿。追加を貰ってきたぞ」

「ありがとう。湯煎の仕方はわかる?」

「もう覚えた。それでは、これは俺が処理しておこう」

「御主人ー! 撹拌終わったよ!」


 黒ちゃんが白いドロドロのペースト状の物を、竹で作った泡立て器で撹拌した物を見せてくれた。かなり粘度が高くなっているのがわかる。


「ありがとう。今行くよ」

「おう!」

「いったい、何が始まったんですかい?」

「ちょっと、新しい食材を作ってまして」


 家宗様と出会った翌日。大前の昼と夜の営業の間の時間に、徳川家の屋敷から譲ってもらった食材、牛乳の加工を行っていたのを、嘉兵衛さんが興味深そうに覗き込む。


「それにしても、こうして見ると、殆ど水なのだな」

「そうだね。頭で考えていたよりも、乳酪(バター)が贅沢な物だってわかったよ」


 湯煎で消毒した牛乳を放置して、分離した油脂分、クリームを加工してバターを作るのだが、残った液体、乳清(ホエー)として残る部分が想像以上に多く、クリームとして使える量が想像以下だった。


「牛乳はたっぷり頂けるんだけど、試作が終わったらお屋敷の方で乳酪(バター)に加工した方が、運ぶ手間は省けるかな」


 牛乳は気の大樽に入れてあったのを運んだのだが、量が増えれば重量も当然のように増加する。


(俺や黒ちゃんや白ちゃんは、それ程運ぶのには苦労しないけど……)


 堀に囲まれた徳川屋敷には農園や、牛が繋養されている場所などがあるので、絞ったその場で加工させて貰えないかを、家宗様に相談した方が良さそうだ。


「なあなあ御主人。この乳の残りの水みたいなのって、何かに使えないのか?」


 黒ちゃんが分離した油脂分を除去されて鍋に残った液体、乳清(ホエー)を指差した。


「えっ? う、うーん……そのまま飲んでも良いものではあるんだけど」


(確かに、廃棄するには勿体無い気もするけど、量が膨大なんだよな……)


 モンゴルでは馬乳からチーズを作った残りで、馬乳酒を作ってると聞いた事があるが、成分的には似たような物だろうから出来そうだ。 捨てるよりは使った方が良いだろうとは俺も思う。


「スターターの酵母が無いけど、野菜か果物から培養するかな……あ、もしかして」


 バターの残りの水分にも酵母がいるのだから、もう少し活性化させるのに、砂糖を入れれば……量の加減がわからないけど、とりあえずやってみる価値はありそうだ。


「黒ちゃん、白ちゃん、乳酪(バター)を作った残りの水分は、この鍋に取っておいて」


 店にある物の中では一番大きい、一抱えくらいのサイズの鉄鍋を指差す。


「おう!」

「承知した」


 乳酪(バター)と比べると膨大な量の残った水分、乳清に、勘で砂糖を投入して、権能を使って定温を保って発酵を促す。蓋をして地下室に一晩放置してから様子を見て、温度や砂糖の量を調整すればいい。


「さて、この鍋は放置で、乳酪(バター)を使った料理と、お菓子の試作だな……」

「お菓子っ!?」


 お菓子という単語を聞いた瞬間、黒ちゃんの目がキラリと光った。


「ちゃんと味見させてあげるから、つまみ食いはダメだよ?」

「うっ! わ、わかった!」


(これは、注意したから未遂で済んだな)


 先手を打たれてアタフタしている黒ちゃんに苦笑しながら、俺は料理とお菓子の試作に取り掛かった。



「それじゃ試食をお願いします」


 予め嘉兵衛さんに試食をして貰う旨を告げて、この日の夜の賄いは俺が引き受けた。


「まずはこれからね」


 俺は茶色い汁物を、各自の椀に取り分けて出した。

 

「おう! って御主人、これは咖喱(カレー)じゃないのか? あれ、でも匂いが違うな……」

「これは鹿肉を使った、シチューっていう外国の料理だよ」


 鎌倉の源家で出したポトフ風のスープと、ほぼ材料も作り方も同じなのだが、小麦粉をバターで色づくまで炒めた物を加えてとろみを付けてあるのが大きな違いだ。


「ふぅん……あっつ!? こ、これ、とろみの分、凄く熱いんだねぇ。でも、その熱々の汁の中の野菜も肉もおいしい。咖喱(カレー)よりは、材料の味がはっきりと感じるねぇ」

「カレーは香辛料の香りが強烈ですからね。この差がわかるとは、さすがはおりょうさん」

「お、お世辞言ったって、何も出ないよ?」

「今の感想が、何よりの御褒美ですよ」

「もう。ばか……」


 おりょうさんの頬が赤くなっている、少しシチューが熱過ぎただろうか? しかし、次の料理もシチューなのだ。


「次はこれを」

「なんか真っ白だな。主殿、これは?」


 白ちゃんが鼻をひくひくさせながら、椀に盛られた料理の香りを確認している。


「うん。今のと、ほぼ同じ作り方なんだけど、これは肉を鶏にして、牛乳をたっぷり使って作ってあるんだ」

「牛乳、ですか?」

「腹を壊したりしやせんかい?」


 あまり馴染みのない食材なので、忠次さんと新吉さんが不安そうにしている。


「温めてあるので、多分ですけど大丈夫ですよ。もしも具合が悪くなったら言って下さい」


 元の世界では、乳糖が体内で吸収出来ずにお腹を壊す日本人が少なくないが、これがこっちの世界でも当てはまるのかは不明だ。温めてあるので、吸収し易くはなっていると思うが。


「手前ら、料理人が新たな食材を前にして、ガタガタ抜かすんじゃねえよ!」

「ひぃっ!? すいません、親方!」

「そうっすね。食って味を見る前に結論を出す用じゃ、料理人じゃねえや。良さん、すいません」

「いや、そこまでの事では……」


 嘉兵衛さんの一喝で、忠次さんと新吉さんは覚悟を決めたようだ。


「それじゃ、食べてみて下さい」

「頂きます……う、うめぇ! この鶏肉、良く煮込まれてるのに、噛み締めると肉の旨味が……」

「もっと生臭いのかと思ってましたけど、全然そんな事無いんですね。こいつは具材も色々と変えて作れそうですね?」

「さすがは新吉さん。ええ。肉を魚に、季節によっては根菜類を別の物に変えたり、小松菜なんかを入れてもおいしいですよ」

「確かにうまいが、良さん、こいつはこの店では出せませんね」


 シチューの味自体は褒めてくれたが、嘉兵衛さんが難しい表情をしている。


「鰻の料理とは合わないでしょうね。まあ、こういう料理もあるとだけ覚えておいてもらえれば」


 全く嘉兵衛さんの言う通りで、鰻丼にシチューを組み合わせて出す訳にもいかないだろう。


「主殿、なんで似たような料理を二種類作られたのだ?」

「ああ。白ちゃんが、咖喱(カレー)が苦手で食べられないのが可哀相だから、せめて似たような料理をって思ったんだよ」


 香辛料以外の素材は殆ど同じだが、味は別物なので苦手克服にはならないが、無理して咖喱(カレー)を好きになる必要もない。


 しかし、同じ材料の具材を煮込むところまでやっておけば、仕上げで味変出来るので、手間も掛からないし無駄が無い。


(実際は肉じゃが、豚汁、シチュー、カレーは仕込み段階ではほぼ同じ調理法だから、楽をしたい時用に作り置こうってだけなんだけどね)


 もっと面倒な時には塩、胡椒で味を整えればスープになるのだが、そこまでしたくなる程、動きたくないなんて事態は想像したくない。


「これからは、皆が咖喱(カレー)を食べてる時には、白ちゃんにはシチューを作ってあげるからね」

「主殿……」

「いや、白ちゃん、涙ぐむほどの事じゃ……」


 泣くって方向には行かないで欲しかったんだけど、白ちゃんが喜んで食べてくれているので、良しとしておこう。


「それじゃ次に行きますね」


 シチューを食べ進んだところで、俺は大皿に載せた料理を出した。バター、醤油、にんにくの風味が広がる。


「兄上、これは魚と貝ですね?」

「うん。浅蜊と牡蠣、それと白身魚と葱を、にんにくとバターで炒めてから酒で蒸して、醤油で味付けしたものだよ」


 牡蠣は剥き身だが、浅蜊は殻付きのままを調理した。食べるのは面倒だが、この方が磯の香りが強い。


 バターと言えばフランス料理を連想するが、本格的なレシピは知らないので、日本人の味覚にダイレクトに訴えるような料理をセレクトしてみた。


「頂きます……こ、これ! うっま! 浅蜊も牡蠣も魚も、うっま!!」


 バターライスなんかも考えたが、ここは敢えて普通のご飯を出す。


「こ、これ、すっごい御飯に合います! 兄上、おかわり下さい!」

「はいはい。ちょっと待ってね」


 特に指定は無かったが、茶碗に御飯を大盛りにして頼華ちゃんに渡した。


「むぅ……貝も魚もうめぇが、良さん、こいつは味の染みた葱がたまらねえですね」

「口に合いました?」

「ええ。あっしにも飯を下さい」

「あたしも頼むよ」

「あたいもー!」

「主殿、済まぬが……」


 やはりバターと醤油の味には抗えないようで、御飯のおかわりの要求が殺到する。そして浅蜊の貝殻が積み上がっていく。


「最後はこれを」

「「「こ、これは……」」」


 魚介と葱とバターと醤油の組み合わせも相当だったが、猪肉をスライスしてバターで焼いた物を醤油で味付けし、仕上げにバターを少し落とした物の香りは、既に暴力だ。


「「「頂きます」」」


 新たに盛られた御飯の茶碗を片手に、待ちきれないといった風情の面々は、一斉に皿に手を伸ばした。そして全員が無言のままに、料理と御飯が消費されていく……。



「ある程度は予想してたけど、これ程とは……」


 いつもの賄いの時よりも多めに炊いた御飯が、お(ひつ)から跡形も無く消えていた。


(鎌倉でカレーを作った時も相当だったけど、醤油とバター、恐るべし……)


 頼華ちゃんを始め、数人が座る姿勢にお腹が耐えられなくなって寝っ転がっている姿を見て、料理の味付けが間違いが無さ過ぎた事に少しだけ後悔していた。


「良さん、試作と試食は大成功ですね」

「どの料理も美味しく食べて貰えたみたいですけど、実は今日作った料理には、致命的な欠点があるんですよ」

「今の料理に、欠点?」

「そ、そいつはどういう事ですかい?」


 嘉兵衛さんだけでは無く、料理に関心の高い忠次さんと新吉さんも、俺の言葉が聞き捨てならなかったようだ。


「確かにうまいんですよ。でも、出来たてなら、なんです」

「あ、もしや……む。た、確かにこいつぁ……」


 料理が無くなった皿に残った、僅かな調味料を指で掬って舐めて、嘉兵衛さんが顔をしかめた。


「わかりました? 乳酪(バター)って脂だから、冷めると味もかなり変わるし、しつこくなるんですよ」

「そういう事ですか……」


 パンに塗るなど以外には、温かくない状態でのバターの用途は限られるだろう。


「成る程。味は抜群にうまいが、出来たてに限るんですね。覚えておきやしょう」

「普段使い出来るようになるかは、まだわかりませんけどね」


 今日、この場で出しているのと同じ料理を、黒ちゃんに徳川屋敷に届けてもらっているので、家宗様が試食して気に入れば、もしかしたら酪農の規模が増えるかもしれないが、過度な期待はしない方がいいだろう。


 今までは家宗様の好物の酪を作る分と、仔牛の育成の分以外の牛乳は廃棄していたらしいから、その分だけでも利用出来ればとは思うが。



「これが、本当のぷりんなのですか……」


 今まで豆乳で代用してきたプリンを、こっちの世界で初めて牛乳を使って作ってみた。


「あまり無理はしないでね?」


 お腹を押さえて苦しそうに寝転がっていた頼華ちゃんだが、お菓子の試食と聞いて起き上がった。


(食べ過ぎで苦しそうにしてたのに……大丈夫かな?)


 待ちきれないとばかりに、黒ちゃんと頼華ちゃんが身を乗り出している。


「口に合うかはわからないけど。少しずつ食べてね?」

「わかりました!」

「おう! では、頂きまーす!」

「「「頂きます」」」


 表面だけを削るようにしたり、器の底まで一気に匙を差し込んだりと、食べ方に個性が出ている。


「なんでしょうね、この一体感……豆乳のもおいしかったですけど、卵と牛乳を組み合わせるなんて、凄く生臭そうな感じですが、全然そんな事は無くて、この豊かな味わい……」


 すっかりプリン評論家のようになってしまった頼華ちゃんから、高い評価が得られたようなので成功と言って良さそうだ。


「ん……はぁー……」


 俺の中では頼華ちゃんと同じかそれ以上にプリン愛がある胡蝶さんも、言葉には出さないが満足してくれているようだ。



「最後はこれだけど……頼華ちゃん、本当に無理しないでね?」


 出来上がったばかりのデザートの二皿目を出す前に、苦しそうにしている頼華ちゃんに訊いてみた。


「だ、大丈夫です……」


 プリンは相当無理しても食べたかったみたいなので放って置いたが、既にお茶を飲むのも苦しくてダメみたいだ。


「食べられなくても、絶対に取っておいてあげるから、ね?」

「わ、わかりました……」


 あまり念押しをするのも悪いけど、無理してでも食べそうな気がしてならないのだ。


「それじゃ、皆さんどうぞ」


 なんとなく、卵に牛乳と言ったらこれかな、という認識があったので、フレンチトーストを作ってみた。


 パンが無いのは最初からわかっていたので、北陸の方で開発されて江戸に伝わってきた「車麩(くるまふ)」というお麩を使い、卵と牛乳と砂糖を混ぜた物を吸わせて、バターで焼き上げた。


「良太、この白くて丸いのはなんだい?」

「それは氷菓……とは違うか。牛乳から取れた物と卵と砂糖を掻き混ぜて冷やした、外国のお菓子です」


 牛乳から生クリームが取れたので、卵と砂糖と混ぜて権能を使って冷やして、アイスクリームを作って、フレンチトーストに添えて出してみた。


 バニラエッセンスなんて無いが、思いの外、牛乳が質が良くて濃厚で、精白していない砂糖と相まって、現代の物とは違うが、悪くない味の物が出来上がった。


「ふぅん……冷たくて、口の中で溶けるんだね。でも、熱いのの隣に置いたんじゃ……」

「溶けちゃうんですけど、その場合はフレン……えっと、卵麩焼きとでも言えば良いのかな? に、溶けたのを絡めたり、溶ける前に別々に食べたり、好きにして下さい」


 まだ伝わって無さそうな、アイスクリームとフレンチトーストの日本語解釈が、中々難しい。


「成る程ねぇ。口を冷ましながら食べたり、溶けたのを混ぜたりしてもいいんだね」


 フレンチトーストとアイスの組み合わせは、おりょうさんの口に合ったようだ。


「御主人、これ、一緒に食べても別々に食べてもうまい!」


 酪を食べた時の感想で、食べ物の好みがちゃんとあるのはわかったが、黒ちゃんの評価はシンプルと言うか、ザックリし過ぎだ。


「気に入った?」

「おう! でも、絶対的に量が少ない!」

「……夕食の後だよ?」


 頼華ちゃんと同じくらいの量を、黒ちゃんも食べているはずなんだが、食べすぎて苦しそうには見えない。


(出発までに、牛乳もストックしておこうかな)


 長崎屋さんから連絡がないので、まだ船の出港までには数日はあるはずだから、それまでの間に貰える分の牛乳は、消毒しただけの物と加工した物と、両方をストックしておこうと考える。


(鎌倉とドランさんへ持っていく分は、忘れないようしないとな)


 牛乳とバター、それを使った料理を、鎌倉の源家へ持っていかなければならない。もし気に入られれば、乳製品を交易品として使えるかもしれないからだ。


 外国から渡ってきたドランさんは、俺の知らないような乳製品の活用法を知っているかもしれないし、個人的に乳製品を欲しいのではないかとも思う。



「昨日の料理は、中々うまかったぞ」


 牛乳の加工品での料理を試作、試食した日の翌日の休み時間に、俺は徳川の屋敷に出向いていた。


「それは良かったです。これが牛乳を加工した乳酪(バター)と、余った材料で作った乳酒です」


 小さな素焼きの壺に入れたバターと、両手で持つくらいの大きさの(かめ)に入れて冷やしておいた、乳酒を差し出した。


「なんと。乳から酒が出来るのか!?」

「酒なのですが、それ程強くはありません。しかし、凄く滋養があります」


 モンゴルなんかでは栄養補助食品的に、老若男女が飲んでいると聞いている。


「誰ぞ、酒盃を持って参れ」

「ただちに……」


 傍に控えていた家臣の人が家宗様に命じられ、待つ程の事も無く酒盃が用意された。


「甘酸っぱい香りがするな……」


 酒盃と一緒に用意された柄杓で、家臣の人の手で注がれた乳酒の香りを、家宗様が確かめている。


(そういえば、鎌倉の源家でもそうだったけど、偉い人の食事で毒味とか一切しないな)


 これは信用なのか、それとも頭領ともなると、この世に存在する毒程度ではビクともしないのか……おそらくは両方だろう。


「む、香り通りの甘酸っぱい味で、何やら舌に纏わりつく感じが……後口が爽やかで、これはいいな」


 家宗様が言う舌に纏わり付く感じと、後口を爽やかにしているのは、微発泡しているからだ。


「冷やして保存しておいて、数日で飲みきった方が良いと思います」

「日持ちはせんのだな?」

「後で材料の配合を説明しますが、砂糖を増量すれば、もう少しは……ですが、保存を考えるならば、蒸留した方が確実かと」


 多分だが、麹から作る甘酒と一緒で、火入れしないで放置しておくと、発酵が止まらずに酸っぱいだけの液体になってしまうだろう。


「ふむ。焼酎か……」

「焼酎と同じですが、原料が違うので味わいも違うかと」


 酒はまだ飲んだ事が無いので、興味の対象からは外れがちで、本格的に調べていなかったのが悔やまれる。


「この乳酒と、あの冷たい菓子は鎌倉への土産になりそうだな」

「多分ですが……」


 頼永様は酒が好きのようだし、プリンとアイスクリーム、バターを使った各種の料理は、昨日の頼華ちゃんを始めとする試食で様子を見ると、雫様に気に入ってもらえそうだ。


「家宗様、お願いがあるのですが」

「願い? 申してみよ」

「牛乳や乳製品の活用法は、外国から来た萬屋のドラン殿の方が詳しいです。ですので、ドラン殿を雇い入れては頂けませんか?」


 うまくいけばチーズや、ドランさんが熱望しているパンの生産なんかも始められるかもしれない。


「おお、それは良い考えだ。ドラン殿は店の経営もあるだろうから、その辺に支障が出ない程度で、牛の乳の利用法の助言を貰えればありがたいな」

「ありがとうございます」

「なんの。余の酪のためだけの牛の乳が、これで無駄にならんで済むというものよ」


 元の世界での話だが、織田信長のように近代以前の日本で牛乳を飲んでいた人物は、やはり少数派なのだろう。


「もう一つお願いが」

「なんだ?」

「鎌倉へのお届け用と、家宗様はご存知ですが、私はもうすぐ旅に出ますので、その備えに牛乳を分けて頂ければと」


 最低限の要件は伝えたので、俺は恭しく頭を下げながら、個人的な願いを口にした。


「構わんが……お主、思っていたよりも図々しいな」

「自分でもそう思います」


 江戸一帯を納める領主に対して不敬この上ないが、乳製品は現時点で入手方法が限られる食材なので、言うだけでもしておかないと、後で後悔するだろう。


「ははは! お主が旅に出るまでの間は、その日に採れた分は好きにするが良い。その後は、重要な産物になりそうだがな」

「ありがとうございます」


 実に愉快そうに呵々大笑した家宗様に、俺は感謝の言葉と共に深く頭を下げた。

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