江戸徳川
「良さん、ちっといいですかい?」
昼の騒動を何とか沈静化させ、無事に始まった夜の営業が一段落したくらいの時間に、俺は嘉兵衛さんに声を掛けられた。
「なんですか?」
嘉兵衛さんに声を掛けられたのは丁度、鰻を捌き終わったタイミングだった。
「実はですね、客の一人が良さんを御指名でやして」
「俺を指名、ですか?」
「ええ。鰻を焼いた料理人を、是非にと……」
「何かお気に召しませんでしたかね?」
料理屋で客が店主や料理人を呼ぶ場合は、料理を褒めるか、文句がある場合が多い。
「いいえ。串焼きから白焼き、うまきも口直しのほうじ茶ぷりんも、満足そうに食べてやしたが」
「となると、お褒め頂けるのかな? そういう席は苦手ですが……お客さんから言われたのなら、行きますよ」
料理人として自分が客前に出るというのは、どうにも場違い感があるのだが、雇われている身で拒否するというのも、おかしな話になってしまう。
「すいやせんねぇ」
「いえ。では行ってきます」
俺は持っていた鰻裂きを置いて、厨房を後にした。
「失礼致します」
おりょうさんの立ち居振る舞いを思い出しながら、二階の座敷の客の元へ赴いた。
「どうぞ。入りなされ」
座敷で食事をするくらいなので、ある程度年配の客かと思っていたが、中から聞こえてきた声は若い感じだ。
「どうも。当店の料理人でございます……」
障子を開け、深く一礼して顔を上げた先には、若菜さんが尾行に失敗した、耳の大きな客が笑顔で座っていた。
「どうされた? 中に入って、少し話をしようではないか」
「……失礼致します」
何らかの意図があるのは明白なのだが、特に殺気を感じなかったので、俺は頭を下げてから立ち上がり、座敷の中へ入った。
「どうぞ、掛けて楽にされよ」
「……それでは遠慮無く」
楽にとは言われたが、座卓を挟んで対面に正座した。ただ、爪先を伸ばさずに、すぐに立ち上がれるようにしておく。
(……黒ちゃん、白ちゃん。念の為に、俺の背後にいてくれる?)
(おう!)
(心得た)
念話で呼び掛けると、即座に二人の気配が俺の背後の左右に感じられた。これで、多少は荒事に発展しても対処出来る……かな? 最悪でも、俺達のところで食い止められるようにしよう。
「ふふ。そう緊張されるな。うまい鰻を食わせてもらった、その礼をしたかったまでの事」
「それは、ありがとうございます。昼にも良くお見えになられておりますよね?」
「知っておったか? いやぁ、たまたま通り掛かって食った鰻丼がうまかったのでな。だが、供回りの者たちからは、少しは控えろと言われてしまってなぁ」
愉快そうに笑う目の前の客からは、拍子抜けするほど殺意も悪意も感じられない。
(なんか話し方からすると、そこそこの地位にいる人みたいだな)
大前にほぼ日参出来る程度には財力があって、この場にはいないが供回りに世話されている身分、という事になる。
「料理がお気に召したのなら、何よりでございます。では、私はこれにて……」
「これ、そう慌てるで無い。そなたを呼んだ理由に、他に心当たりは無いか?」
「……」
(黒ちゃん、白ちゃん……)
(おう!)
(いつでもいいぞ)
顔は見えないが、黒ちゃんも白ちゃんも俺からの緊張が伝わっているようで、既に臨戦態勢に入っているのが声から感じられた。
「ふむ……意外に気が短いようだの。最初に断っておくが、お主と戦う意志は無いぞ?」
「俺だって、戦いたくは無いですよ。でも……」
「まあ待て。何か勘違いをしておるようだな? そなたも、姿は見えないが後ろにいる者共も、殺気を鎮めよ」
「っ!?」
驚いた事に、非実体化している黒ちゃんと白ちゃんがいる事を、目の前の人物は看破していたのだ。
「……失礼しました。黒ちゃん、白ちゃん、出ておいで」
「いいのか?」
「主殿が、そう言うのなら」
俺の呼び掛けに応えて、黒ちゃんと白ちゃんが姿を現した。
「おお、やはりおったのだな。そなたにはいつも、別嬪な娘達が供にいると聞いておってな」
「なっ!?」
どうやら黒ちゃんと白ちゃんの姿を、何らかの方法で看破していたという訳では無く、言葉巧みに誘い出されたようだ。
「ははは。怒るでないぞ? お主もその娘達を隠して配しておったのだから、おあいこであろう?」
「……はぁ。そうですね。では、用件に入って頂けますか?」
どうにも舌戦や心理戦では勝ち目が薄そうなので、俺は開き直った。
「うむ。先日、余を付け回した娘にも申したが、この店の安全は保証するから、お主は安心して旅に出るが良い」
「その言葉を、どのように受け止めれば良いのか、正直困惑しているのですが……」
この人物が、この店に対して何をする気なのかが、全く予想出来ない。
「言葉通りの意味なんだがのう……お主が、そこの娘達と旅に出れば、この店の防備が随分と手薄になるであろうから、余が代わりに護ろうと申しておる」
「っ!」
(頼華ちゃんや、店の人達が危ない!?)
頼華ちゃんの事が完全に知られている。その時点で、一瞬ではあるが思考が真っ白になり、即座に目の前の人物に対して明確な殺意が芽生えた。
疑惑が確信に変わった瞬間に、俺は左手首の腕輪に右手を伸ばし、浮かし気味に座っていた姿勢から立ち上がろうとした。
「よせっ! そなたが殺気を放てば、店の者や客が、ただでは済まんぞ!」
「っ!?」
「っ……くぅぅぅ……」
「あ……あああぁ……」
右手を前に出して、俺を静止しようとした人物から注意を逸らさないようにしていると、俺の背後の左右から、黒ちゃんと白ちゃんの呻くような声が聞こえてきた。
「黒ちゃん!? 白ちゃん!?」
「余は逃げんから、娘達の世話をしてやるが良い」
どこまで信用して良いのかはわからないが、二人が心配なので、俺は背後へ振り返った。
「ご……ごしゅじぃん……」
「あ、あるじどの……な、なさけないすがたをみせて、すまん……」
「……えっと」
黒ちゃんも白ちゃんも力無く崩れ落ち、着物の脚の間に濡れ染みが広がり、畳の上に小さな水溜まりが出来ていた。
「可哀相に……お主の殺気にあてられたのだぞ。この分では、階下へも影響が出ているのではないのか?」
「えっ!?」
口調はのんびりしているが、内容は捨て置けない。
「く、黒ちゃん、白ちゃん、とりあえず武器に戻って!」
「あ、あい……」
「し、しょうち……」
畳の汚れはそのままだが、二人が非実体化したのを確認した。
「失礼します!」
「うむ。待っておるぞ」
泰然と返事をする耳の大きな客を、一旦放置する事になるが、俺は様子を見るために階下へと向かった。
「これは……」
「ひいっ!? りょ、良太様!? ご、ごめんなさいぃっ!」
鰻の串焼きの皿ごと盆をひっくり返して、床にへたりこんでいた若菜さんが、俺に土下座してきた。
「えーっと……なんで謝られているんだかわかりませんけど、とりあえずは顔を上げて下さい」
「えっ!? あ、あの、あたしがさっき失礼な事言ったから、怒ったんじゃないんですか?」
「違いますよ……」
若菜さんが言うさっきの事とは、正妻がどうのという一件だろうけど、わざわざ蒸し返す気も怒る気も無い。
「で、でも、明らかに良太様とわかる、怒りの波動のような物が上から押し寄せてきたので……」
冷や汗を浮かべた若菜さんが、必死の形相で俺に弁解する。
「あの、自分では良くわからないんですが……そんなに?」
「え、ええ。店の外までは大丈夫だと思いますけど、中は……」
若菜さんが指差す先では、皿や徳利を薙ぎ倒した姿勢で突っ伏した客や、目を回したような顔で倒れている夕霧さんの姿が見える。
あの耳の大きな客の話と現状から総合すると、頼華ちゃんがピンチと思った俺は、明確な殺意を無自覚で無指向に発してしまい、至近距離にいた黒ちゃんと白ちゃんは大きな精神ダメージを受けて失禁。客と従業員の大半も失神。失神しないまでも、若菜さんのようにダメージを受けた人もいるようだ。
(黒ちゃん、白ちゃん、出てこられる?)
(お、おう……)
(命じられるなら、なんでも聞くぞ……)
(なら、出てきて、お客さんや従業員の皆を介抱して)
今までとは違って、なんかやたらと俺に対して下手に出ている感じが気になるが、今は手数が必要なので、黒ちゃんと白ちゃんを呼び出し、若菜さんを助け起こした。
「なんか、神罰でも下ったのかと思いやしたぜ……」
「あたしゃ、ちょっと危なかったけど……一度、本気の良太は見てたからね」
「兄上……凄かった、です……」
俺からの距離があったからか、それとも耐性があったのか、嘉兵衛さんは大丈夫だったようだ。
おりょうさんへは、一度本気で戦った姿を見せたり、俺の気での治療を施したりした事があるので、こういう言い方が適切なのかはわからないが、気が馴染んでいるのではないかと思う。
頼華ちゃんは元々強い上に、おりょうさんと同様で猪口齢糖での状態異常を気を同調させて治療したり、鵺(白ちゃん)を捕獲するのに気を合わせたりしたのも大丈夫だった一因だろう。
「嘉兵衛さん、今日のお客さんの勘定は、全部俺が持ちますから」
そんな事で全てが丸く収まるとは思ってはいないが、何もしなければ悪評が立って、今後の大前の営業に支障が出るのは間違い無い。
「あー……まあ、そこら辺は、店主のあっしが責任は持ちやすがね」
「でも……」
「ま、驚いちゃいるが、文句を言ったり帰ったりする客はいないんで、大丈夫だと思いやすよ」
気を失っていたのから醒めた客は、台無しになってしまった料理や酒の状況に驚きながらも、新たに注文をしている。要するに、何があったのかわかっていないのだ。
「この分だと、普通に勘定を払いそうですぜ」
「いや、それは……じゃ、じゃあ、せめて注文以外で、お酒か料理を出して、それを俺持ちで」
俺は懐から出した小銭入れから、適当な枚数の銀貨を掴むと、嘉兵衛さんの手に握らせた。
「ふむ。そんくらいが落とし所でしょうかね。よござんす。えー、お客様に申し上げます。本日は御注文以外に、お好きな料理か酒を、一品無料でお出ししますので、遠慮無く申し付けて下さい!」
嘉兵衛さんが一品サービス告げる大きな声が、店中に響き渡った。
「店主、そいつは、蒲焼でも酒でもいいのかい?」
早速、客の一人から嘉兵衛さんへ声が掛かった。
「へい。ご存知の通り、蒲焼は時間が掛かりやすが、それでも良けりゃあ」
「そうかい。じゃあ蒲焼と、酒も追加しようかな」
「ありがとうござんす。それじゃ良さん、あっしは厨房に戻りますんで」
「はい」
「一品無料という事なら、二階の座敷にも酒を一本頼もうか」
二階へ繋がる階段への入口の辺りで、耳の大きな客が徳利をブラブラさせながら顔を出した。
「それと、何か拭く物を持ってきてくれるかの?」
「っ! た、只今!」
何を拭くのかの心当たりがある俺は、慌てて階段へ向けて駆け出した。
「お主の殺気には、肝を冷やしたぞ」
「……」
畳の水溜まりを綺麗に拭き取られた座敷で、新たに運ばれた徳利から酒を注ぎながら、愉快そうに笑う耳の大きな客の様子は、言葉通りには見えないかった。
「それでは今度こそ、落ち着いて話をしようではないか。中々珍しい物を見られて余は眼福だが、娘達の方は人前で、日に何度も粗相はしたくないだろうからのう」
ぎぎぎ……
全面的に俺に責任があるのだが、失禁した事を笑われた黒ちゃんと白ちゃんが、物凄い歯軋りをして客を睨んでいる。
「まあそう睨むな。余は娘達の主人と、仲良くするために来たのだから」
「……は?」
「信じられぬか?」
「それは……」
若菜さんに危害を加えなかった時点で交渉の余地があるとは思っていたが、仲良くと言われるとは思ってもみなかった。
「ふむ。順序が大きく狂ったが、最初に名乗るべきであったな。余は江戸徳川の頭領で、家宗という」
「っ! し、失礼を……」
「ああ、よいよい。余の屋敷にいる訳でも無いし、供の者もおらんしな」
慌てて頭を下げようとした俺を、笑いながら家宗様が止めた。
「しかし、徳川の頭領様が、どうして……」
「なあに。たまたま街を歩いておって、煙の匂いに惹かれて入った店の料理がうまかった、というのは本当だ。だが、まさかそこが、鎌倉の出城のようになっているとは思わなんだが、な」
くっくっくと、含み笑いをしながら家宗様は酒盃を口に運んだ。
「あの、鎌倉の源家は、別に江戸で何かをしようとは……」
「わかっておる。大体、頼華姫が少数の供回りだけを連れて、徳川のお膝元で生活しているなんぞ、普通は信じられぬわ。しかも下魚扱いの、鰻料理の店でなどとはな」
行儀見習とかに出るにしても、普通は同じ武家に行くので、この考えは至極もっともだ。
「しかし、店主は気のいい男であるし、料理もうまく、給仕の娘達は別嬪揃い。ただし、ちと怪しい料理人、お主がおる」
「怪しい、ですよね……」
根本的な部分から申し開きが不可能なので、家宗様の言葉は全面的に受け入れるしか無い。
「む。ちと言い過ぎたかの。これ娘達、そんなに睨むでない」
指摘されるまで気が付かなかったが、俺をバカにされたと思ったのか、黒ちゃんと白ちゃんが歯を剥き出して家宗様を睨みつけている。
「黒ちゃん、白ちゃん、ダメだよ」
「むー! でもぉ!」
「主殿をバカにする発言を、看過するのは……」
「いいから。言う事を聞いて」
「むー……わかった」
「そう言うのなら……承知した」
俺の事を気遣ってくれている二人には悪いのだが、どう考えてもこちらに非があるのでやめさせた。
「まあ二人共、これでも食べて機嫌を直せ。ほれ、そちから渡してやれ」
家宗様は、懐から小さな布製の巾着を取り出すと、座卓の上を滑らせて俺の方へ寄越した。
「これは?」
「酪と言うてな、余の好物だ」
少し巾着の口を開いて中を見ると、くすんだ黄色味掛かった、白く小さな塊が入っていた。バターとチーズを混ぜたような匂いがする。
(確か酪って、牛乳を煮詰めた物だっけ? あれ、それは蘇だったか?)
どうも記憶が曖昧だが、更に煮詰めて濃縮すると醍醐になるんだったと思う。
「黒ちゃん、白ちゃん、頂いたら? ちゃんとお礼言ってからね」
「頂きます……なんか変な匂いで、甘くないね」
「頂きます。む……これは、脂なのか?」
水分が飛んで、油脂分とタンパク質を主体にした成分が濃縮している物なので、二人の感想通りの味なんだろう。
「ありがとう。でも、もういらない」
「俺もだ。心遣いには感謝する」
俺の知る限りでは、白ちゃんのトラウマになっている咖喱以外は、大概の物は二人のお気に召していたと思うんだが、原料ダイレクトみたいな酪は口に合わなかったみたいだ。
「むぅ。気に入らなかったのなら残念だ。次に来る時には、何か別の物を見繕おう」
俺経由で、二人から返された巾着を受け取った家宗様は、本当に残念そうに呟いた。
「さて、では本題に入ろうかの。江戸徳川としては、源と事を構える気は一切無い。よって、頼華姫を始めとして、この店へは一切の手出しをしないと誓おう」
「それは、神仏へ対して誓うという事ですか?」
「無論だ」
「!?」
かなり重要な事を、あっさりと認めた家宗様へ俺は驚きを隠せなかった。
「あの、俺は源の代表でも何でもないんですよ? 頼華ちゃ……頼華姫を交えてもいないのに、こんな大事な用件を」
「お主は確かに源の代表でも跡取りでも無い。だが、自分がどれだけの影響力を持っているのか自覚しているのなら、そんな言葉は出んと思うのだが……自覚無し、という事だな」
呆れたように言いながら、家宗様が俺を見る。
「いや、俺の源家への影響なんか……」
「そうか? 鎌倉で塩の生産を開始した事は、余の耳にも入っておる。あれはお主の発案と聞くが?」
「そ、それは……」
「他にも、表向きは奥方の食の好みが変わったからという理由だが、野生の猪を捕まえて畜産を始めたそうではないか」
「……」
上に立つ者として、家宗様は情報収集を怠っていないようだ。
「そして、先程から名前が出ている頼華姫が、お主と行動を共にしておる。いったいどの口が、影響が無いなどと言うのか?」
「むー! 御主人を虐めるな!」
「主殿が下手に出ていれば……」
いつの間にか黒ちゃんが巴を、白ちゃんが羂鎖を手にして、立ち上がろうとしている。
「二人共やめて。俺は家宗様と話を続けるから」
「えー……」
「しかし……」
「……聞こえなかった?」
「ひぅっ! ご、ごめんなさい……」
「あ、主殿、申し訳なく……」
「こらこら。お主を慕ってる者を、そう無碍に扱うでない」
「あ……」
振り返って黒ちゃんと白ちゃんを見ると、すっかり怯えきった顔で俺を見つめながら、身体を震わせている。
(俺っていつの間にか、大妖怪の鵺を怖がらせるくらいの存在になっちゃったんだなぁ……)
俺は心の中で、溜め息を付いていた。
「ごめんね、二人共。でも、家宗様は俺を虐めたりはしてないから、少しの間静かにしていて欲しいんだ」
「ご、ごめんなさいぃ……」
「も、申し訳なく……」
俯いた二人の顔から、涙の雫が落ちた。
「ふむ……少し話を中断するか」
「すいません。ちょっと席を外します」
「構わぬよ。まだ酒も大分残っておるしな」
家宗様が笑顔で徳利を手に取り、中身を酒盃に注ぐのを見届けると、俺は黒ちゃんと白ちゃんの肩を抱いて座敷を出た。
「さ、二人共座って」
家宗様の使っている座敷から、間に一部屋挟んだ、満席の時以外は従業員用の休憩や、店に住み込んでいる者の寝室に使われている座敷に入り、敷かれたままになっていた座布団へ三人で腰を下ろした。
「ご、ごめんなさいぃ……」
「主殿、俺達は迷惑を掛ける気は……」
落涙しながら謝り続ける黒ちゃんと白ちゃんに、俺は困り果てていた。
「二人は悪くないし、俺も怒ってる訳じゃないから……」
「で、でもぉ……ご、ごめんなさいぃ……ふぇぇぇぇ……」
「く、黒、主殿を困らせ……くぅぅぅぅ……」
「あー……」
泣き止まないまでも、それでも我慢していたらしい黒ちゃんと白ちゃんは、声こそ控えめだが本格的に泣き出した。
「二人共、俺が悪かったから、頼むから泣き止んで。ね?」
「う、うぅ……そ、それが命令なら、言う事聞きますぅ……」
「しゅ、主命ならば、したが……」
「違うよ、これは命令じゃなくて、お願い」
二人がどう思っているのかはわからないが、俺自身は誰かの命に関わる事でもなければ、命令なんて偉そうな事はしたくないのだ。
「お、おねがいぃ……?」
「そう。だから、聞いてくれなくてもいいけど、聞いてくれたら嬉しいな」
「……ほ、ほんとにぃ?」
「……命じてくれれば従うものを。我が主殿は、変わった御方だ」
「そうだね。それで、俺のお願いは聞いてくれない?」
命令を与えられる事に慣れられるのも俺の方が嫌なので、多少話が拗れても、ここは今後も考えて妥協しないでおこう。
「そんなの、御主人からのお願いだったら、聞かない訳にはいかないじゃん!」
「うむ。それが主殿の喜びとなるなら、わかった。聞き入れよう」
やっと二人が泣き止んで、笑顔を見せてくれた。
「二人共、不甲斐ない主人でごめんね」
今回の自分の行動自体が大きく間違っていたとは思っていないが、周囲への影響を全く考えなかったのは失敗だった。
(でも、身体能力も気の方も、全力を試すのって難しそうなんだよな……気に指向性を持たせたり、味方にだけ影響が出ないようになんて出来るんだろうか?)
身体の方は、まだコントロール出来ていると思うが、攻撃や防御、権能に全力で気を用いた場合に、どの程度の影響が出るのかが不明なので、怖くて試せないのだ。
(ヴァナさんの説明では、余剰分が放出されないで圧縮して蓄積されていくって事だから、こっちの世界へ来た時と比べれば、確実に……)
経験によるレベルアップ? による容量の上限までしか蓄積されないのなら、現時点での最大性能みたいな物を量れるが、その蓄積分の量が不明なので、拳銃くらいの威力だと思った攻撃が、コロニーレーザーだったなんて悲劇が起きかねない。というのはちょっと大袈裟か。
「そそそ、そんな事無いよ!? 御主人は最高の御主人だよ!」
「黒の言う通りだ。それよりも、不甲斐ないのは俺達の方だ。主殿の方が俺達より強いのは当然の事なのだが、それでも同じ戦場に立っていられないとは……」
「そこは白と同じで、あたいも情けない……」
二人としてはあの場面では、俺と並んで家宗様と対峙したかったようだ。
「あれは、俺が敵認定していない黒ちゃんと白ちゃんどころか、無差別に殺気を放っちゃったのが悪かったから」
「そうなんだけど、御主人があたい達を攻撃するとか思った時点で、何ていうのか……そ、そうだ、不敬って奴? でしょ!」
「うむ。それに、仮にだが主殿に殺されたとしても、それが必要なら受け入れるのが、下僕である俺達であって、死を恐れた時点で、戦う覚悟が出来ていなかったのだ」
「うぅ……そこら辺は、妖怪として跋扈してた頃の方が、覚悟というか何も考えてなかった分、強かったかも……」
上昇傾向にあった二人の機嫌だが、また急速に落ち込んでいってしまったようだ。
「あのね、俺は二人には、俺のために死んで欲しいなんて思ってないからね?」
「で、でも、あたい達が死ぬ事で、御主人や、おりょう姐さんや頼華が生きる道がある場合は……」
「出自がいい加減な俺達が犠牲になって、誰かが助かるのなら、それは世間を騒がせた分の弁済になるのではないのか?」
「それはダメ」
俺がきっぱり言い放つと、黒ちゃんと白ちゃんは目を丸くした。
「で、でもぉ……」
「悪くない散り方だとは思うのだが……」
「二人共、良く聞いて。俺を主人、主と呼ぶのなら、俺のために命を投げ出すというのは無し」
「えー……」
「し、しかしだな、主殿……」
どうにも死にたがりな二人は、大層御不満な様子だ。
「二人の主人は、実は凄く我侭なんだ。それに死んじゃったら、俺に仕えてもらえなくなっちゃうよ?」
「むー……わかった!」
「難しいが……承知した」
命を投げ出す以前に、気で身体を構成されているっぽい黒ちゃんと白ちゃんではあるが、肉を切らせて骨を断つみたいな相打ち覚悟の戦法も、出来る事なら使って欲しくは無い。
「ともかく、今回は俺の失策で家宗様にやり込められちゃったけど、とりあえず生きている限りはやり直せるから、ね」
大体が、本物の武人を相手に真っ向勝負を挑もうとした時点で間違っていたのだ。凄く今更だけど。
「おう! 今夜にでも、あの客の寝首を掻こうか?」
「いや、家宗様とは争わないから……」
早速、自分の能力を発揮しようとした黒ちゃんを止める。
「しかし、やられっぱなしというのも面白くないのだが……」
「そこは、未熟を悟らせてくれたんだと思おうよ」
俺としても面白くないと思う部分はあるのだが、家宗様と敵対すると、個人ではなくこの江戸を治めている氏族を相手にする事になるのだ。
(俺が下手に動くと、源家にも迷惑が掛かりそうだしなぁ……)
「む。さすがは主殿、良い事を言う。では先日言われた通りに、まずは得物の扱いからだな」
「うん。俺も一緒にやるから」
せっかく打った巴にしても、日々の生活でつい存在を忘れてしまい、鎌倉での試し斬り以降は、数える程しか手にしていないので、完全に猫に小判状態だ。
「戦いの修行もするけど、戦わずに勝ったり、戦う事になっても無傷で勝利する方法を考えたりしないとね」
さっきは我を忘れてしまったが、出来れば戦い、それも対人戦は避けたいところだ。
「むー。考えるのは、御主人に任せたいけど……」
「甘えるな黒。俺とて考えるのは苦手だが、主殿へ負担を押し付けて良いという理由にはならん」
「そうだな! あ、あたいが敵の御飯全部食べちゃえば、楽に勝てるかな?」
「あ、相手にもよるかな?」
古今兵糧攻めは、効果的であって残酷な戦法だ。おそらくだが黒ちゃんは、自分がやられて一番嫌な事を、相手にやってやろうと思っただけなのだろうけど。
(自分がやられて嫌な事は敵も、というのは、ある意味真理だよな)
思考のスパイラルに陥ってしまう時は、こういうシンプルな考え方に救われる事が多々ある。
「俺も、自分だけで突っ走らないように気をつけるから、二人も独断で動くのは避けて、出来るだけ相談するようにしてね?」
「おう!」
「心得た」
なんとか事態をある程度は収集できたが、まだ当面の最大の問題、家宗様との面談が待ち構えている。
(状況的には俺の負けなんだけど、少しでも良い方向に持っていかないとな……)
俺個人に関する点はどうでもいいが、大前や鎌倉の源家に関する部分だけは譲れないので、下手な物言いをする訳にはいかない。
(頼華ちゃんや白ちゃんと戦ってなんとか出来たから、どんな事でも自分で対処出来るつもりになってたな……)
難敵を退けた事で慢心していたが、所詮は力でねじ伏せただけだだった。しかし、経験が物を言う交渉では、家宗様にすっかり手玉に取られてしまった。
「それじゃ、黒ちゃんと白ちゃんは店の仕事に戻って」
「御主人、一人で行くのか?」
「主殿、やはり俺達では頼りないのか?」
「家宗様とは戦う訳じゃないからね。それに、店に迷惑掛けちゃった俺の代わりに、黒ちゃんと白ちゃんに働いてもらうんだよ」
大きな騒ぎにはならなかったようだが、片付けや新たな注文と、一階はフル回転している事だろう。本当なら、俺も手伝いに入るべきなのだ。
「御主人の代わり!? わかった。ならあたいが、御主人の分まで働くよ!」
「主殿の代わりとは、今度は無様な事は出来んな……」
片や熱く、片や静かにやる気になってくれているようだ。
「あの、二人共、やる気があるのはいいけど、丁寧にね?」
「おう!」
「承知している」
「すー……はー……よし、行くか!」
座敷を出たところで階下へ向かう二人と別れ、深呼吸をしてから気合を入れた俺は、この世界に来てから最大の難敵、家宗様が待ち構える部屋へ足を向けた。




