淫らな女神
「あのぉ。天照坐皇大御神様」
「夕霧殿、何か?」
仮初めの肉体になったので、最初の恐慌の様な状態から抜け出せた夕霧さんが、おずおずという感じで天照坐皇大御神様に呼び掛けた。
「あたしや天さんが良太さんを支えているのでぇ、御降臨下さったという事なんですけどぉ」
「そうですが?」
「良太さんてぇ、神様の為に何かをする方って事なんでしょうかぁ?」
「成る程。そういう風にお思いでしたか」
ここまでの成り行きからなのか、夕霧さんは俺が天照坐皇大御神様から、何か使命とかを与えられているとでも思ったらしい。
「良太さんには好きにお過ごし下さるようにしか言っておりませんので、夕霧殿にも何かをして頂こうなどとは思っておりませんよ」
「そ、そうなんですかぁ。あたしはてっきり良太さんと一緒にぃ、神様に逆らう悪鬼羅刹とでも戦わされるものだとばかりぃ」
「なんで俺がそんなのと戦うんですか……」
夕霧さんの想像力は相当に豊かなようで、良くも悪くも俺に物語の主人公的な活躍を期待していたらしい。
「えぇー。でもぉ、晴明の式神と戦ったじゃないですかぁ?」
「それは天さんの要望で……」
「うっ。そ、その節は御迷惑を……」
一条戻り橋での安倍晴明の式神との戦いの事に会話が続いてしまい、天が立場が無さそうに身を縮めている。
「ち、違うんですよぉ? 天さんは別に悪く無くってぇ」
「いえ。これも不肖の息子が後始末をちゃんとしていなかったのが原因ですので……」
「そ、そんなぁ……」
神妙な態度を取る天に、今度は夕霧さんの方が恐縮してしまっている。
「御二人とも良い女性ですわねぇ。良太さん、りょう殿と頼華殿を娶った後は、夕霧殿と天殿も?」
「俺にはそういうつもりは……」
実に楽しそうに天照坐皇大御神様が話を振ってくるが、俺にそういう甲斐性を求められても困ってしまう。
「あら。では御二人はいずれ、放り出されてしまうのですね?」
「放り出すなんて、聞こえの悪い事を仰らないで下さい」
(これは暗に、囲えって言われてるのかなぁ……まあ確かに、里に住むように勧めておいて、俺が居なくなっちゃったら放り出すのと一緒かもしれないけど)
夕霧さんは半ば無理矢理、忍びの集落から足抜けさせて蜘蛛の里に住むように誘ったので、後々の事を考えずに旅に戻ってしまったら、俺が無責任だと言われても仕方が無い。
天の場合は、志乃ちゃんや糸目の女の子達の安全を考えて里への移住を勧めたのだが、その誘った俺が里から居なくなると、住み続けるには肩身が狭く感じるかもしれない。
(式神達の事も考えないとなぁ……)
新たな依代を作って契約を交わした式神達を、旅に戻る時に一緒に連れて行くのかどうかは、ちょっと真剣に考えなくてはならない。
里とその住人の守護という役割を与えて置いて行くのが良いと今のところは思うが、契約内容を一度ちゃんと見直しておいた方が良いだろう。
そうしておかないと、俺が安倍晴明の二の舞になりかねない。
(……とりあえず今は考えないでおこう)
天照坐皇大御神様を前にして、いつまでも考え込んでいる訳には行かない、という言い訳を心の中でして、俺は未来の俺に宿題を丸投げした。
「えっと、それで天照坐皇大御神様。今日は夕霧さんと天さんとの顔合わの為に御降臨された、という事で宜しいんですか?」
「そうですね。特に理由は……しかし、せっかくお会い出来たのですから、御二人には私の祝福をお与えしましょう」
「「「えっ!?」」
自分達の前に神様が降臨したというだけで驚愕しているのに、天照坐皇大御神様が加護を与えると言い出したので、二人は驚きが限界突破したのか呆然としている。
「御二人の持っている五行の土の力は私の豊穣の加護と、とても相性が良いと思うのです」
「そうですね」
天照坐皇大御神様は作物の生育に欠かせない太陽の光と豊穣を司っている。
夕霧さんと天が保有する五行の土の能力も、大地に根付いて育つ作物の生育に役立つので、確かに相性は良さそうだ。
(……里の作物が今以上に育つようになるのか? でも、加護を授かるのは俺じゃ無くて夕霧さんと天さんだしな)
現状でも通常の数倍の速度で里の畑の作物や果樹が育っているので、更に豊穣を司る天照坐皇大御神様の加護がプラスされると、どういう勢いになるのか想像もつかない。
そう考えたが加護を授かるのは夕霧さんと天であって俺では無いし、恐らくは悪い事にはならないと思うので黙っておいた。
「あ、有り難く頂戴しますぅ」
「わたくしのような者に……光栄でございます」
夕霧さんと天は感激の面持ちで、天照坐皇大御神様の前に平伏した。
「御二人とも、お顔をお上げ下さい」
「「は、はい」」
呼び掛けられて顔を上げた二人の額に、天照坐皇大御神様がそっと手で触れた。
触れられた夕霧さんと天の額の辺りがパァッと光ったが、どうやらそれが加護を与えられた証らしい。
「これからも良太さんを、支えて差し上げて下さいね?」
「「はいっ!」」
(そんなに力強く返事をしないでもいいんだけどな……神様に加護を授かって、嬉しいんだろうけど)
これまでは夕霧さんも天も、俺の婚約者であるおりょうさんと頼華ちゃんの事を弁えて行動してくれていたが、天照坐皇大御神様の言葉に煽られて、あまり積極的になられても困ってしまう。
「特に良太さんの事を、北欧の淫らな女神が狙っておりますので、常に気に留めておいて下さい」
「わかりましたぁ。あれぇ? でもその女神様ってぇ、ぶりゅんひるどさん達の上役なんですよねぇ?」
「そうです。戦乙女殿達も、淫らな女神の哀れな犠牲者です」
「えー……」
仲が良くないのは知っていたが、天照坐皇大御神様がフレイヤ様の事を、ここまで扱き下ろすとは思わなかった。
「あの、天照坐皇大御神様。ブリュンヒルドさん達が犠牲者というのは、ちょっと言い過ぎなのでは?」
「何を仰るのですか良太さん。戦場を駆け巡り、時には数年の歳月を掛けて戦士の魂を集めさせられ、平時でも朝から晩まで酔っ払いの相手と給仕をしているのに、与えられる食事は雑に焼いたり煮たりしただけの猪の肉という待遇なのですよ?」
「間違ってはいませんが……」
(俺も以前に思ったけど、他の人……じゃ無くて神様の口から聞くと、凄くブラックな職場だなって再認識させられるな)
北欧神話の神様はギリシャ神話の神様に劣らず奔放なのだが、もしかするとワルキューレ達が生真面目に働いているので、ヴァルハラの体裁が整っているのでは無いかと疑ってしまう。
特に記述が無いので、ワルキューレ達の寿命も北欧の神々と同じくらいはありそうだが、ブラックな職場環境で長生き出来ても、あまり羨ましく無いかもしれない。
「わかりました! わたくしと夕霧様で、りょう様達に協力致しまして、必ずやその北欧の淫らな女神から良太様をお護りして見せます!」
「えー……」
天は何かを決意を言葉に出して拳を握り締め、瞳に炎を灯している。
「あの、一応はこの腕輪を授けて下さった女神様なんですけど?」
俺は自分の左手首で輝く、ドラウプニールを示した。
「貴方様にとってはそうかもしれませんが、わたくし達からすれば、腕輪を授けて下さったのは貴方様ですから」
「そうですぅ。貰ったからには既に良太さんの物ですよぉ」
「そうかもしれませんけど……」
(駄目だこりゃ。完全に天照坐皇大御神様の思惑通りだ)
多少の誇張はあるが、天照坐皇大御神様の言っている事自体は間違っていないので、夕霧さんと天にもすんなり受け入れられてしまっている。
二人共、俺の作った子供達用の本でフレイヤ様の事を知っているので、天照坐皇大御神の説明を信じ易い状況が先に出来上がっていたというのも大きい。
(りょ、良太さん。少しは私の弁護を!)
(申し訳ありません。無理です)
ドラウプニールや衣類や道具類などをフレイヤ様から授かったのだが、こっちの世界に俺が来る切っ掛けになった出来事を詳しく話したら夕霧さんと天も、おりょうさん達と同じように激昂する可能性が高い。
もしもそうなってしまったら今後どれだけの事をしてくれたとしても、夕霧さんと天にとってのフレイヤ様の印象を良くする事は不可能になってしまうだろう。
どう考えてもこの場での夕霧さんと天の感情は天照坐皇大御神様がコントロールしているので、ここで下手に突っつかない方がフレイヤ様には良いと俺には思える。
「お伊勢様に詣でて神様にお会い出来るなんてぇ、思っても見ませんでしたぁ」
「そうでございますわね。それにしても天照坐皇大御神様は、本当に素晴らしいお方でございましたわね!」
伊勢に来る前からテンションの高かった二人だが、天照坐皇大御神様の降臨という一大イベントがあったので、興奮が最高潮に達している。
「御二人には話していませんでしたけど、里に短時間で建物を設置したり、畑を開墾出来たりしたのも、天照坐皇大御神様から授けられた力のお陰なんですよ」
「そうなんですかぁ!?」
「正に、神の御業でございますわね!」
最初から夕霧さんと天の中で高かった天照坐皇大御神様の株の、爆上がりが止まらない。
(ほほほ)
(くっ!)
勝者と敗者の、天の声が聞こえたような気がした。
「ふぇぇ。ここなんですかぁ? 良太さんが料理の指導をしたお店ってぇ」
「指導って程、大袈裟な物じゃ無いんですけどね」
想像していたよりも大きかったのか、椿屋の店構えを前にして夕霧さんが目を丸くしている。
「あら。貴方様、正面からは入られないのですか?」
華やかな中に重厚さのある入口を逸れて、店の脇に足を向けた俺に天が訊いてきた。
「客として扱われても困りますから」
「それは……そうですわね」
苦笑する俺の顔を見て、天はここがどういう店なのかを思い出したようだ。
表通りからは見えない椿屋の勝手口に向かう俺に、夕霧さんと天が続いた。
「こんにちは」
「おお! 親方じゃないですか!」
椿屋の勝手口から厨房に入った俺を、料理長の貞吉さんが少し驚きを見せながらも、相変わらずの威勢の良い調子で迎えてくれた。
「「親方?」」
「何故かここではそう呼ばれているんですよ」
相変わらずの貞吉さんの俺の呼び方に、夕霧さんと天が驚いている。
「親方、今日はどうされたんですか?」
「ちょっと伊勢に来る用が有りましたので、寄らせて頂きました。椿屋さんはいらっしゃいますか?」
「いらっしゃいますよ。おう! 誰か旦那に、親方が来たって言って来い!」
「へーい!」
貞吉さんの助手の板前の一人が、廊下との間の暖簾を跳ね上げて店の中に駆けて行った。
「ところでそちらは、おりょう姐さんと頼華様とも、黒様と白様とも違う方のようですが?」
妓女では無い女性が色街を歩くという事で、夕霧さんと天には認識阻害の外套を脱がないようにお願いしてあったので、顔とかをはっきりと確認するのは難しい筈なのだが、貞吉さんは何かを感じ取ったのだろうか、今日の俺の連れがおりょうさん達では無いと気付いたようだ。
(って、おりょうさん達だったら、勝手口を入って直ぐに顔を見せるか)
俺の言った事を守って夕霧さんと天が顔を晒さないので、貞吉さんには俺の連れの誰とも違うとわかったのだろう。
「こちらの御二人はですね……」
「鈴白様がお見えだと……これはこれは。ようこそいらっしゃいました」
俺が貞吉さんに二人を紹介しようとしたタイミングで、椿屋さんが厨房に現れて丁寧に頭を下げた。
「御無沙汰しておりました。伊勢まで来る用事があったので寄らせて頂いきました。厚かましいお願いなのですが、宜しければ何か食べさせて貰えますでしょうか?」
特に取り繕う必要も無いので、単刀直入に椿屋さんに要件を告げた。
「はいはい。いつでも鈴白様とそのお連れ様は大歓迎でございますよ。貞吉、頼んだよ」
「畏まりました。親方。鰻でいいですか?」
「鰻ですか。いいですね」
前回、頼華ちゃんと一緒に訪問してからも少し経っているので、鰻のタレがどれくらい熟れたかなとも思っていたので、貞吉さんの提案は大歓迎だ。
「御二人も鰻でいいですか。あ、もうお顔を出してもいいですよ」
確認をしながら、外套を脱いでも良いと夕霧さんと天に告げた。
「はぁい。はじめましてぇ。良太さんにお世話になっているぅ、夕霧と申しますぅ」
夕霧さんの持ち合わせる雰囲気の成せる技か、外套のフードを脱いで顔を出した途端に、厨房全体がパァッと明るくなった気がする。
「はじめまして、椿屋の店主でございます。鈴白様には大変にお世話になっておりますので、お連れ様も歓迎させて頂きます」
「宜しくお願いしますぅ」
「これはこれは。お美しい上に、愛嬌のあるお嬢様ですね」
明るい笑顔で挨拶をする夕霧さんに影響を受けたのか、椿屋さんも表情を綻ばせている。
「お美しいなんてぇ、お上手ですねぇ」
「決してお世辞ではございませんよ。これでも女性の美しさを商売にしている身ですので」
「そ、そうですかぁ?」
「ええ。夕霧様でしたら、あっという間に売れっ子になるでしょう」
「そ、そんなぁ」
(……これは褒め言葉なんだよな?)
遊処である椿屋で売れっ子になるとはそういう意味なので、素直に喜んで良いのかが悩ましいのだが、当の本人の夕霧さんは満更でも無さそうなので、そっとしておくのが良さそうだ。
「お初にお目に掛かります。良太様にお世話になっております、天と申します」
「「「……」」」
夕霧さんに続いて外套のフードを取った、天の美しい金髪と吸い込まれそうな碧の瞳を見て、椿屋さんを始めとした俺達以外の人間が全ての動きを停め、厨房内が静まり返った。
「な、なんと……夕霧様もお美しいが、天様はまるで、天女のような」
「……あっしも綺麗な姐さんは随分と見てますけど、天様は別格ですなぁ」
椿屋さんと貞吉さんは、天の人外の美貌に完全に魅了されてしまったようだ。
「りょう様と頼華様とはまた、違った美しい方ですなぁ」
「黒様と白様とも違いますね」
「そんな……わたくしなんて、りょう様達に比べれば路傍の石ころのような物でございますわ」
「いや、流石にそれは……」
椿屋さんと貞吉さんの褒め言葉に謙遜をするが、天が美人なのは間違い無いので、今の言葉を聞いたらおりょうさん達も苦笑いしか出来ないだろう。
「ううぅ……や、やっぱりあたしなんかよりもぉ天さんの方がぁ」
椿屋さんと貞吉さんの言葉を聞いて、夕霧さんが劣等感に苛まれてしまっている。
「天様は神々しいくらいに美しいので、ちょっと近づき難い感じすらしますが、夕霧様はお傍にいるだけで何やら心が安らぐような気になりますな」
「旦那の仰る通り。夕霧様はお綺麗な中に、春の日差しのような心地良さを持ち合わせていらっしゃりますね」
「そ、そんなぁ……」
劣等感で沈み込みそうになっていた夕霧さんだったが、椿屋さんと貞吉さんの褒め言葉を聞いて、一転して桜色に染まった頬に手を当てて、可愛らしく照れている。
「夕霧様と天様の御二人も、鈴白様の?」
「夕霧さんとは江戸で一緒の店で働いていて、こっちで偶然に再会したんですよ。天さんはひょんな事から京で知り合ったんです」
おりょうさん達みたいに婚約者という訳では無いと説明しようかとも思ったのだが、言えば絶対に二人がショックを受けて落ち込むし、一々口に出す事でも無いかと思ったので、敢えて椿屋さんに詳しく言及はしなかった。
「そうでございますか。おっと、私とした事が、お客様を立たせたままとは……どうぞ中へ」
「では遠慮無く。あ、貞吉さん」
「なんですか、親方」
椿屋さんに続いて店内に入ろうとしたその前に、振り返って貞吉さんに声を掛けた。
「夕霧さんは俺と一緒に江戸の鰻の店で働いていたので、ちょっと手強いですよ」
ほぼ毎日、賄いで食べていた夕霧さんの舌は、鰻に関しては相当に肥えていると言っても良いだろう。
「という事は、おりょう姐さんと頼華様とも同じ職場で? そいつは強敵ですなぁ」
「あははぁ。あたしの舌は普通ですよぉ」
貞吉さんは神妙な表情になったが、夕霧さんは全く屈託が無い。
「わたくしは鰻は筒切りにした物を焼くくらいしか知らないのですが、そんなにおいしいのですか?」
「多分ですけど天さんが想像している物とは、違う料理だと思いますよ」
「それは楽しみでございますわ」
「親方……」
夕霧さんが下げたハードルを、俺が天との会話でまた上げてしまったので、貞吉さんが渋い顔をしている。




