正妻戦争?
「ふむ……この猪口齢糖という菓子は、苦くて甘い、不思議な味だな」
「口ん中で、ドローって溶けるんだね! 面白ーい!」
俺が薬研で香辛料を粉末にしているのを見物しながら、白ちゃんと黒ちゃんはチョコレートを味わいながらのティータイムだ。
「なあなあ御主人! これって、他の食べ方とかもあるのか?」
「俺が元いたところでは、色々あったよ」
ナッツやドライフルーツを混ぜ込んだり、クリームにして塗ったり挟んだりと、チョコレートは色々と応用がきく。
「それ作って!」
「えっ? う、うーん。これの原料は、ちょっと入手が難しそうだなぁ……」
チョコレートの現物があるから、入手は出来るんだろうけど、こっちの世界ではどういう呼称なのかは不明だが、元の世界のアメリカ大陸原産の作物だから、輸入も容易では無いだろう。
「そっかー……ま、いいか。他にもいっぱい、おいしい物はあるし!」
「そうだぞ、黒。あまり主殿に甘えるんじゃない」
「むー! じゃあ白は、食べたくないのか?」
「む! そ、それは……食べたい」
黒ちゃんの様に感情を表に出さない白ちゃんだが、内心ではチョコレートの事を結構気に入っていたようだ。
「あはは。もしも旅先で手に入るようなら、なんか作ってあげるよ」
「やったー!」
「宜しく頼む」
(……今の所、二人の気の色とかに異常は無さそうだな)
おりょうさん、頼華ちゃん、胡蝶さんに味見してもらった時には、三人に媚薬効果が現れて大変な事態に陥ったので、目の前の二人に状態異常が起きないかを観察しながらの作業だ。
「あ、主殿。そんなに見つめられると……恥ずかしいぞ?」
「あ……ご、ごめんね」
「あたいの事なら、いくらでも見ていいぞ!」
気の色を観察するために、時折凝視していたのが白ちゃんには気になったようだ。対象的に黒ちゃんの方は、全く意に介していないようだが。
「お、俺だって、主殿になら見られたって……」
「ふふん。風呂で恥ずかしがってた白に、そんな事が言えるのか?」
「うっ!」
黒ちゃんの言う通り、鎌倉の源家の浴場での白ちゃんからは、羞恥心が見て取れた。
(明けっ広げな黒ちゃんも、どうかとは思うけど……俺が言いつけなければ、普段でも毛皮で胸と腰を隠すだけだろうしな)
羞恥心という物が欠落していると思われる黒ちゃんには、そもそも裸身を隠すという事の意味もわかっていない節がある。
「あたいは、頭の天辺から爪先までどころか、魂の一欠片までが御主人の物だから、見るだけじゃなくて、色んな事してもいいんだよ?」
「い、色んな事!? って……何?」
訊くと墓穴を掘りそうな予感がするが、この場では好奇心の方が勝った。
「そんなの……子作り?」
「とんでもない事言い出した!?」
ある程度は予想していたが、実際に言葉にされると破壊力抜群だ。
「……黒ちゃん、子作りの意味はわかってるの?」
「おう! 山や森ん中で、色んなの見てたからな!」
「あー……」
自然の中で生活していれば、野生動物のそういう場面に遭遇する事は十分に考えられる。
「あれって、最初は意味がわかんなかったけど、人間もするんだろ?」
「まさかの疑問形!?」
(鵺として実体は持っていたけど、エーテルそのものの生命体みたいだから、雌雄による交配なんかは無かったっぽいな)
どうもここまでの話からすると、黒ちゃんは子供を作る行為というがあるのは知っているが、その行為自体がどういう物なのかは理解していないようだ。
(まあ俺だって、知識として知っているだけなんだけど……)
ネット時代の申し子と言われている世代だし、元の世界では知ろうと思えば、いくらでも情報は収集出来たのだ。
「お、俺は、どういう事をするのか、知っている、ぞ?」
「……そうなの?」
そういう事に興味が無さそうに見える白ちゃんから、思わぬ言葉が飛び出した。
「う、うむ……界渡りで街中を移動する時などに、人間の男と女が、その……行為に及んでいる場面に、何度か遭遇して、な……」
「そ、そうなんだ……」
こっちの世界と接している、法則の違う世界を通り抜ける界渡りを使った際に、見えてしまったという訳か。
「今までは気にも留めていなかったが、主殿と俺で、ああいう事をするのかと思うと、身体の奥の方が……」
「なんで決定事項になってるの!?」
頬を上気させ、熱っぽい視線を送ってくる白ちゃんは、自分で自分を抱くようにしながら身を捩らせている。
「御主人は、あたいと子作りするの嫌なのか?」
「そうじゃなくて……あのね二人共。そういうのは、お互いに好きな者同士が……」
「あたいは御主人の事好きだから、大丈夫だな!」
「お、俺も好きだ……」
どう説得しようかと思う間も無く、黒ちゃんと白ちゃんに先手を打たれた。
(さて、どうやって切り抜けるか……でも、そもそもの問題として、この二人って子供を作れるのか?)
この場の逃げ切りを計るのが先決なのだが、根本的な疑問が頭を過って思考が中断した。
「必ずや、主殿の血と魂を受け継ぐ、立派な赤子を身籠ってみせよう」
「当分の間は子供は要らないって言うんなら、行為だけしてくれてもいいよー!」
「俺も、作る時期は、主殿に任せるぞ」
「……二人共、本当に意味わかってるの?」
白ちゃんからは相当な本気を感じるが、黒ちゃんの方は見た目の幼い印象もあって、ノリだけで言っているようにも見える。
「御主人がその気になったら、絶対に出来るよ! その気にならなければ、絶対に出来ないけどね!」
「ん? そういう物なの?」
なんか黒ちゃんは自信満々というよりは、決定事項のように言っている。
「うむ。部分变化を見ればわかるだろうが、俺達は肉体の殆どの機能を、任意で操作出来るのだ」
「ああ、そういう事なのか……」
白ちゃんは部分变化に例えたが、実際には外見だけではなく、内臓の機能なども思い通りになるという事のようだ。そして多分だが肉体だけではなく、魂と関連する気のコントロールも出来るのだろう。
「多分だけど、男と女の産み分けとか、双子にも三つ子にも出来ると思うよ!」
「その、主殿を普通の人間の範疇に当て嵌めるのが、適当なのかはわからんのだが……暫くの間は子供は作らず、行為に耽ってくれても構わんぞ」
「行為に耽るって!?」
「ん? 男とは金を払ってでも、ああいう行為をするのが好きなのだろう?」
「……俺も一応人間の男だけど、何を基準に言ってるの?」
黒ちゃんと白ちゃんがいる場で、好意を寄せるとかの意味以外で男女関係の話題が上った事は、俺の記憶の限りでは無かったはずだ。
「見習いの忠次や新吉は、店が閉まってから近くの……」
「うん。白ちゃん、そこまでで」
鰻屋の大前がある浅草の近くには、元の世界でも有名な、幕末に大火災が起こった遊郭が存在しているのだ。この手の遊郭は比較的大きな街、宿場町には大抵存在する。
なんでそれを俺が知っているのかというと、何度か嘉兵衛さんや忠次さん達に、行かないかと誘われたからだ。勿論、行ってないけど。
諸外国を含めて、こっちの世界では十五歳で成人とみなされるらしいので、懐に余裕があるならそういった場所を利用するのは、特におかしな事では無いのだ。
ただし、元の世界とは違いがあって、神仏への信仰が生活に根付いている世界なので、売る方も買う方も、あまり阿漕な行いは御法度だ。
だから借金で身売りなどという陰惨な事例は殆ど存在せず、遊郭とは金銭で、プロの人とそういった行為を行える場所、という事になっている。
「忠次さん達を尾行した訳じゃ無いんだろうけど、前にも言ったけど、俺以外でも個人的な事を、あまり他人に話すのは……」
「む……今後は気をつけるので、許してくれ」
俺の注意を受けて、白ちゃんが頭を下げた。
(でもまあ、特に白ちゃんが尾行や観察をしていたって訳じゃ無いんだろうな……)
おそらくだが、閉店後の忠次さんや新吉さんが、いそいそとそちら方面へ歩いていく姿を、白ちゃんが偶然見咎めただけなのだろう。或いは、そういう店のある辺りで姿でも目撃したのか。
「俺も男だから、そういう方面への興味はあるけど……当分の間はいいから」
なんとなくだが、仮に黒ちゃんと白ちゃんに手を出したら、どっちが先だったとかで、後々揉める展開が容易に想像出来る。
「えー……御主人との子供、欲しぃー!」
「黒ちゃん、お菓子とかじゃ無いんだから……」
黒ちゃんの子供が欲しいというのは、お菓子を欲しいと言っているのと変わらないように見えるのだけど、多分、俺の錯覚では無さそうだ。
「で、では、子は成さずに、行為だけ……」
「いや、行為も無しで」
期待に満ちた表情の白ちゃんには申し訳ないが、絶対に問題が発生するとわかっているのに脚を踏み出す程、俺もバカではない。
話の脱線が相次いだので、結局この日の香辛料の調合作業は、思っていたよりも捗らなかった。
「「「ありがとうございましたー!」」」
旅の準備を初めて数日後の、大前の昼の営業が終わった。
「ねえねえ、良太さん。あのお耳の大きなお客さん、今日も来てましたね」
「ああ。初音さんもそう思ってました?」
昼の営業の時にほぼ毎日来店する、耳の大きな武家風の客の事は、たまに客席の様子を伺っていたので俺も知っていた。
「こういう、お客様の覚え方は良くないとは思うんですが、あちらの方でも御注文とお勘定の時以外は、あまりお話しにならないので……」
「こちらの方から話し掛けたりするのも、失礼になる事があるので、仕方ないですよ」
「でもぉ、いつも御満足そうに召し上がってますしぃ、心付けも良く下さいますよぉ」
特に問題があったり目立ったりというお客様では無いのだが、夕霧さんも気になっていたようだ。
「でもでも、あのお客様が気になるのは、最近評判のお黒ちゃんでもお白ちゃんでも無くて、お華様のようですよ!」
好奇心旺盛なリスのように目を輝かせながら、若菜さんが新たな情報を齎した。
「そうなんですか?」
「ええ。お華様の手が空くのを待って御注文をしたり、食べながら働きぶりを見ていたりしてますよ」
「……大丈夫ですかね?」
俺のこの言葉には、客の素性がという意味と、仮に頼華ちゃんに何かをするようなら、客がタダでは済まないだろうという意味が含まれている。
「……あのお客様が、鎌倉と事を構えたいという事で無ければ、大丈夫じゃないですかね?」
(要するに、事を構えたい場合には、頼華ちゃんにちょっかいを出すのは有効か)
「店から出る時には、少し気をつけた方が良さそうですね」
俺達の会話をどこから聞いていたのかはわからないが、俺の背後から現れた胡蝶さんが小さく呟いた。
「あのお客様の素性を調べる事なんかは、出来ませんか?」
「そうですね……若菜、お願い出来ますか?」
「了解しました。店長! 休憩入りまーす!」
「おう! 賄いはいらねぇのか?」
「今日はお外で食べてきます!」
俺と胡蝶さんに向けてウィンクした若菜さんは、気配と足音を殺して店の外へ出て行った。
「……あの、今まで訊きませんでしたけど、若菜さん達って」
「良太さん、お知りになりたいですか?」
普段はあまり表情を変えない胡蝶さんが、満面の笑みで俺に問い掛けてきた。
(怖い! 胡蝶さんの笑顔怖い!)
「い、いいえ。結構です……」
「そうですか」
胡蝶さんのアルカイックスマイルに怯んだ俺は、それ以上の追求を避けた。
「兄上ー! 今日の賄いはなんですか?」
「どじょうかな?」
「またどじょうですか……」
元気に訊いてきた頼華ちゃんのテンションが一気に下がった。
「あはは。どじょうの他に、何か食べたいものがあるなら、作ってあげるよ?」
忠次さんと新吉さんの練習に使うので、賄いに良くどじょうが出るから、頼華ちゃんが食傷気味になるのも無理はない。
「ほんとですか!? なら、何か甘い物がいいです!」
「……食後に食べるならね」
てっきり、何かおかずに加えて欲しいと言い出すのかと思ったら、甘味を御所望された。
「何がいいかな……あ、あれがあったな」
ドランさんに持たされた餞別の中から、素材に使えそうな物が浮かんだ。
「御馳走様でした。今日は食後のお茶請けを作ったから、少し待ってて下さい」
どじょうの蒲焼と、どじょう汁の賄いの昼食を終えて、各々が休憩時間を過ごそうと立ち上がりかけたところで、俺は声を掛けて引き止めた。
「これは豆乳ぷりん! ですが兄上、いつもと色が違いますね?」
「気がついた? これはドランさんから貰ったお茶の葉を入れて作ってあるんだ」
紅茶プリンならぬ、豆乳紅茶ラテプリンというところか? って、長いな。
「……あのお茶ですか?」
少し渋いというイメージが出来上がってしまっているからか、頼華ちゃんが眉間に皺を寄せている。
「まあ食べてみて。お茶の葉は香り付けに、ほんの少し入ってるだけだから」
「そうですか? では……ふわぁぁ……こ、これ、凄く良い風味!」
「ふむ。嗅ぎ慣れない風味ですが、なんとも高貴な感じがしますな。良さん、こいつは作るのは難しいですか?」
意外な事にというか、甘味にあまり興味の無さそうな嘉兵衛さんが食いついてきた。
「後で材料の比率を教えます。難しいのは火加減くらいかな? あ、これは頂き物を使ったんですが、このお茶の葉を使うと、高価になっちゃうんですよね……」
今回は飲むのではなくて香り付けなので、人数分でも大した量にはなっていないのだが、紅茶の葉は量り売りされている訳では無いので、購入金額はどうしても高くなってしまう。
「今回は紅茶というのを使いましたけど、ほうじ茶や抹茶でも代用は出来ますよ」
「ほうほう。そいつはいい。いえね、夜の営業の時に、口直しに出せねぇかと思いやしてね」
「ああ、そういう事ですか」
「ええ。どうも小豆餡を使った菓子なんかだと、茶を付けても鰻の後では重いんで。酒を飲まない客にも、これなら行けそうですな」
「成る程。いいんじゃないですか」
アイスやシャーベットみたいな物がまだ無いし、果物も季節物しか出せないから、そういう点でもお茶風味のプリンはいいかもしれない。
「それじゃあ夜の営業まで、色々試作してみましょうか」
「良さん、すいやせんね」
「やったー! 夜の賄いにも、ぷりん付きだ!」
「お抹茶味のぷりん……どんな味なんでしょう?」
俺と嘉兵衛さんの会話を聞いていた頼華ちゃんと胡蝶さんが、小さい物ではあるが声を抑えきれずに、期待に目を輝かせながプリンを味わっている。
(時期的に材料の調達が出来ないだろうけど、カボチャやさつま芋のプリンなんかも、嘉兵衛さんに教えておこうかな)
知識とレシピは無駄にはならないだろうと思うので、この店で働いている間に、自分の知っている、伝えても問題無さそうな事は、出し惜しみしないようにしようと思った。
「良太さん……」
嘉兵衛さん達と豆乳デザートの試作をしていると、背後から声を掛けられた。
「あ、若菜さん。賄いの時に出したお茶請け、若菜さんの分、取ってありますよ!」
「ありがとうございます! じゃなくて! ちょ、ちょっとお話が……」
俺の言葉に一瞬、意識を持っていかれかけたように見えた若菜さんは、頭を振って表情を引き締めると、手招きしてきた。
「嘉兵衛さん、外してもいいですか?」
「ええ。後は蒸し上げて冷やすだけですんで。長く引き止めちまいやしたが、良さんも休んで下さい」
「わかりました、ありがとうございます。若菜さん、行きましょうか」
俺は若菜さんを促して厨房を出た。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺と若菜さんは店の一階の座敷で、湯気の立つ湯呑を挟んで向かい合っていた。厨房にいる嘉兵衛さん達以外の従業員は、二階の座敷で休んでいたり、外出したりしている。
「それで、あのお客様の事は、何かわかったんですか?」
「そ、それが……」
いつも快活な若菜さんが、話し難そうにしながら俯く。
「もしや、撒かれたのですか?」
「胡蝶さん?」
気がつくと、座敷の傍らに胡蝶さんが佇んでいた。
(敵意が無いとは言っても、これだけ接近するまで気が付かなかったとは……)
胡蝶さんの技術も見事だが、少し自分の意識が弛んでいた事を思い知らされた。
「胡蝶……いえ、そういう事では無くて、すぐに追跡に気が付かれてしまって、その……良太様に伝言を頼まれました」
若菜さんが、今までに見せた事の無い悔しそうな表情で、きつく唇を噛んでいる。
「若菜が、追跡を気づかれた? まさかと思うけど……」
「ちゃ、ちゃんと気持ちは切り替えて、真剣に取り組んでたわ! でも、曲がり角で待ち伏せされるなんて……」
若菜さんも先程の胡蝶さんのような技術を持っているので、相手に気取られたという事で、遊んでしまったのかを疑われたのだろう。
(要するに、あの耳の大きな客は、只者では無いという事だな)
「それで、俺に伝言というのは?」
「それが……この店の事は、心配するな、と」
「心配するな?」
「ええ。それ以外は言わずに、歩み去ってしまいました」
「若菜、その後の追跡は?」
「むむむ、無理っ! というか、これ以上は、あたしの範疇超えちゃうでしょ!?」
最初からバレていたので追跡を断念はわかるが、若菜さんの言う自分の範疇というのは良くわからない。
「それもそうか……良太様、何か心当たりはございますか?」
「いや……ん? もしかして……」
「何か?」
(……俺が江戸を離れるのを知っていて、言ってる?)
まだわからない事はあるが、どうやらあの客には、俺の事も頼華ちゃんの事もお見通しのようだ。
「とりあえず、危険は無いと判断していいと思います」
「良太様!? あの客の言う事をお信じになるのですか!?」
「そうです! 怪しさ大爆発じゃないですか!」
珍しく取り乱す胡蝶さんと、若菜さんに詰め寄られた。
(怪しさ大爆発って、こっちの世界でも言うんだな……それはいいとして)
「あの、もしもあの客が、何かこちらに害をという事でしたら、若菜さんは帰ってこれませんよね?」
「うっ!」
「そう言われれば、そうですね。帰すにしても、もう嫁入り出来なくなるような事を、念入りにしてから……」
「いやぁーっ!?」
胡蝶さんの言葉から何を連想したのか、若菜さんが頭を掻き毟りながら叫び声を上げた。
「落ち着きなさい、若菜」
「むぐぅーっっ!!」
長く尾を引きそうな若菜さんの叫び声を、胡蝶さんが口を塞いで押し留めた。
「良さん、何事で!?」
「兄上、どうかしましたか!?」
胡蝶さんが短く抑えたとはいえ、若菜さんの絶叫を聞いて、厨房から嘉兵衛さんが、二階へと繋がる階段からは頼華ちゃんが駆け付けた。
「なんでもありません。良太さんが作ったお菓子がおいしすぎて、思わず若菜が叫んだだけですので」
「なんだ、そうだったんですか」
「人騒がせな」
胡蝶さんの冗談のような言い訳を聞いて、嘉兵衛さんと頼華ちゃんが踵を返す。
(それでいいの!?)
今の言い訳で納得してしまう嘉兵衛さんと頼華ちゃんも凄いが、納得されてしまう若菜さんの普段の生活が偲ばれる。
「まったく……仕事をこなせない上に、この程度の事で悲鳴をあげるなんて、若菜、少し弛んでますよ」
「で、でもぉ……」
「そんなに不安なら、誰かもわからない相手の前に、仕込んでもらえば良いではないですか。良太様に」
「……へ?」
急に矛先を向けられたので、一瞬、何を言われているのかがわからなかった。
「ええー……りょ、良太様が相手なら」
挙動不審だった若菜さんが、頬を赤らめて俺をチラチラと見てくる。
「若菜、油断しない方がいいですよ。良太様は優しくしてくださるでしょうけど、その……凄いですよ?」
「何が凄いんですか!?」
胡蝶さんに対して凄いと言われるような事を、しても見せてもいないはずなので、何を言っているのかがわからない。
「お蝶様を真っ向から退けるくらいですから、闘気の凄まじさは言うまでもありません。そして闘気の量と強さは、精力と直結……」
「そ、それは……」
直結しているのかを否定できる程の知識が、俺には無い。
「あの、良太様。あたし、我慢しますから……」
「何を!?」
既に会話の内容が、俺が若菜さんへ何かをする事が前提になっている。
「おっと。あたい達を出し抜こうったって、そうはいかないぜ」
「うむ。おりょう姐さんと頼華には譲っても良いが、お主達には主殿は、過ぎた御方だ」
文字通り突然、黒ちゃんが胡蝶さんの背後へ、白ちゃんが若菜さんの背後へ「出現」した。界渡りだ。
特に聞かれて不味い話題では無いし、それどころか情報を共有していた方が良いかと思って、黒ちゃんと白ちゃんにも聞こえるようにリンクを切っていなかったから、妙な流れになって俺がピンチなのを察知したので、姿を現したんだろう。
「くっ……さすがは人ならぬ者というところですか」
「こーさんします」
胡蝶さんは、黒ちゃんに自分の能力を上回られて悔しそうだが、若菜さんは両手を上げて、白ちゃんに無条件降伏の姿勢だ。
「安心しろ。俺も鬼ではない。俺達の後でなら、主殿は大いなる情けを、お主達にも齎してくれるだろう」
「……へ?」
てっきり、暴走しかけている胡蝶さんと若菜さんを窘めてくれるんだと思っていたが、それは甘い見通しだったようだ。
「あたい達の子に兄弟が増えるのは、良い事だからな!」
「兄弟ってどういう事!?」
まず黒ちゃん達と俺の間の子供ありきで、話が進んでしまっている。
「良太様なら正妻とその子供と、別け隔てなく扱ってくれそうですよね……」
「いや、あの……」
「分け隔てるんですか?」
何故か胡蝶さんが、少し淋しげな表情で俺を見てくる。
「「「……」」」
「あの、胡蝶さんも黒ちゃんも白ちゃんも、なんでそんな目で俺を見るの?」
すっかり、正妻の長子だけを大事にする、みたいな方向で話が進んでしまい、俺へ冷たい視線が集中している。
「あ、あたいは御主人の子を産めるだけで、し、しあわ……うわぁーん!」
「生まれてくる子へは、俺が愛情を注ぐとするか……くっ!」
「黒ちゃん、白ちゃん!?」
感極まったように黒ちゃんが号泣し始め、白ちゃんは泣き笑いの表情で涙を堪えている。
「今度はなんですかい?」
「黒と白は、なんで泣いているんだ?」
騒ぎを聞きつけて、当然のように嘉兵衛さんと頼華ちゃんが様子を窺いに来た。
「お華様、それがですね……」
「待ったぁ!」
全くの濡れ衣ではあるのだが、ここへ頼華ちゃんまで加わると大前の店舗が崩壊しかねないので、俺は店を護るために全力で事態の収集へ取り組もうと、悲壮な決意をした。




