高地トレーニング
(こっちの世界の遊郭なら、いいのかな……)
元の世界の遊郭のように借金の形に身売り、なんて事はこっちの世界では少ないみたいだし、椿屋のお藍さんなんかは接客のエキスパートって感じなので、所謂アングラな雰囲気は殆ど無い。
(でも夕霧さんなら、遊郭じゃ無くても大丈夫なんじゃ無いかなぁ……)
江戸の鰻屋の大前では夕霧さんは、若菜さん、初音さんと揃って看板娘をしていたくらいなので、接客ならば遊郭じゃ無くても、と思ってしまうのは現代人の俺の感覚だ。
「でもぉ、今は良太さんに身請けされたのでぇ、とっても幸せですぅ」
「あ、はい」
蕩けるような笑顔で夕霧さんに言われたが、おりょうさんと頼華ちゃんの手前、俺は曖昧な返事をするに留めた。
「貴方様。その古市のお店に伺えば、おいしい物が食べられるのでございますか?」
「それは確実です。その店、椿屋の料理人の方は腕が良いですから」
鰻だけに限れば江戸の大前の嘉兵衛さんに軍配が上がるが、料理のバリエーションという事になると、椿屋の貞吉さんの方が遥かに多いだろう。
「そういう事でございましたら、おうどんよりは椿屋様にお世話になった方が良さそうですわね。いきなり行っても大丈夫なのですか?」
「それは問題無いと思います」
客として行くならば相手をする妓女や料理の都合などの関係で、予約をしていなければ門前払いの可能性もあるが、勝手口からお邪魔して有り物での料理をお願いするだけならば、椿屋さんに迷惑は掛からないだろう。
俺達の相手を出来ない程忙しそうならば、伊勢うどんに切り替えるという手もある。
「それじゃ移動しましょうか。夕霧さん、天さん。これから俺が良いと言うまで、身体に纏った気を維持して下さい」
「「はい」」
『界渡り』そのものには危険は無いのだが、気の保護膜を維持しないと通過する空間では生命維持が出来ない。
俺が少し表情を引き締めると、夕霧さんも天も気持ちを汲み取って真顔で応じてくれた。
「っと、その前に。人目につかないように、二人共外套を着て下さい」
「わかりましたぁ」
「畏まりました」
今居るのは山の中なので問題無いが、伊勢で『界渡り』空間から出るのは五十鈴川の橋の下だ。
橋の下という目立たない場所ではあるのだが、万が一の事を考えて俺は迷彩効果の、夕霧さんと天には認識阻害効果のある外套を身に着ける。
「……きゃ。りょ、良太さん?」
「あ、貴方様?」
いつもの調子で『界渡り』に入ろうと、天を間に挟んで夕霧さんを抱え込むようにしてしまったので、二人が慌ててしまっている。
「ああ、すいません。予告をするんでしたね。『界渡り』での移動中は、この態勢でお願いします」
「い、いいんですかぁ?」
「いいも何も、離れると危ないですから」
(なんの確認なんだ?)
触られるのを嫌がるとかならわかるのだが、夕霧さんの確認はそういう意味では無さそうだ。
「りょ、良太さんの方からだなんてぇ……」
「えーっと……『界渡り』の為ですからね?」
「わ、わかってますぅ」
俺の方から抱き寄せるという行為を夕霧さんは嬉しがってくれたらしいのだが、後々になって問題になると困るので、ちゃんと理由がある事を説明をするとそれが面白くなかったのか、ほっぺたが膨らんだ。
「……普段は抱く方ですので些か気恥ずかしい感じはしますが、貴方様と夕霧様に抱かれるというのは、心地良いものですね」
「天さんは小さい子を良く抱いてくれていますよね」
眷属である糸目の女の子達だけでは無く、天は里の子供達も分け隔てをしないで、時に手を繋いだり抱き上げたりしながら面倒を見てくれている。
そういう母性に溢れる天なので抱くという行為には慣れていても、抱かれるのには慣れていないのだろう。
「伊勢に着くまでの間だけですから、暫く我慢して下さい」
「そんな我慢だなんて。ずっとこのままでも宜しいのですよ?」
「ずっとはちょっと……」
なんとなく嬉しそうな気配が伝わってくるので、希望に沿ってあげたくもあるのだが、やはり後でおりょうさんや頼華ちゃんにバレると怖いので、必要最小限で許して貰おう。
「それじゃ今度こそ始めますよ。気をしっかりと保って下さい」
「「はい」」
二人の返事を聞いて、気の状態を確認したところで、俺は『界渡り』を開始した。
「わぁ。これが『界渡り』の空間なんですねぇ」
周囲の景色がワイヤーフレームで構成されたようになったのを見て、夕霧さんが珍しそうにキョロキョロしている。
「これは……確かに気の防壁が無ければ危ない空間ですわね」
「わかるんですか?」
僅かにではあるが、天の表情に緊張が見える。
「ええ。生身でこの空間に居るだけでも激しく消耗してしまうでしょうし、時折ですが強大な存在を感じます」
天が言う強大な存在というのは、この空間に棲んでいる実体の無い気生命体の事だろう。
「本格的に移動を始めますから、しっかりと抱きついていて下さいね。では、行きますよ!」
「「はい!」」
夕霧さんと天を抱えたまま、俺は地面をひと蹴りした。
「わわぁ! なんでこんなに飛び上がれるんですかぁ!?」
「夕霧さん、落ち着いて。この空間では色々と法則が違ってるんですよ。その証拠に、落ち方も緩やかでしょう?」
「ほ、本当だぁ……」
二人を抱えているのに、地面を蹴っただけで常識外れの空中への上昇をしたのと同じように、落下に関してもスローモーションのように緩やかなのに気がついて、夕霧さんは目を丸くしているが落ち着きを取り戻した。
「夕霧さん。次に地面を蹴ったら空中で翼を出して、気を噴出して移動しますから」
「わかりましたぁ」
「わたくしだけ楽をしてしまって、申し訳ない気が致しますが……」
やる気を出している夕霧さんとは対象的に、天は『界渡り』での移動に関して何も出来ない自分に、少し落ち込んでいる。
「仕方が無い事ですから、今は天さんは俺と夕霧さんに身を任せて下さい」
「貴方様には、いつでもこの身をお任せ致しますわ」
「そういう意味じゃ無くてですね……夕霧さん、行きますよ」
「はぁい」
色っぽい方向に持っていこうとする天を意図的に無視して、夕霧さんに合図を出した。
通常の空間とは違って急激な加速Gなどは感じないのだが、周囲の景色は瞬く間に広報に流れ去り、あっという間に琵琶湖の上空を通過した。
「うんわぁ。すっごく速いですぅ!」
「凄く速いのに、風切り音などはしないのですわね」
夕霧さんは、初めて自動車や電車に乗った子供のように無邪気にはしゃいでいるが、天は冷静に状況と『界渡り』という移動法を分析している。
「夕霧さん。気の消耗の方は大丈夫ですか?」
「全然平気ですぅ。もっと出しても大丈夫ですよぉ」
「じゃあ、もう少しだけ速くしましょうか」
相手が夕霧さんなので、元からそんなに気の消耗を気にしてはいなかったのだが、本人の口から確認が出来たので、移動時間の短縮の為に噴出量を増やす事にした。
夕霧さんの協力もあって、京、伊勢間の約百四十キロの距離を、十分足らずで移動する事が出来た。
「……良さそうですね」
「ふわぁ……ここが伊勢ですかぁ」
「確かに知らない景色でございますわね」
五十鈴川に掛かる橋の下に『界渡り』で移動した俺達は、通行人に見られたりしていない事を確認しながら歩き始めた。
夕霧さんはと天には『界渡り』を終えても、目立ってしまうので外套はそのまま着て貰っている。
「順番通りに外宮からお参りしましょうか」
「「はい」」
以前に参拝した時におりょうさんに教わった通りに、先ずは豊受大神が祀られている外宮、豊受大神宮の方に向かった。
「京の寺社も良いですが、伊勢も良い処でございますわねぇ」
「そうですね。荘厳で、如何にも神様が住んでいそうですよね」
「まさに、その通りでございますわ」
豊受大神宮の参詣を済ませてからというか、伊勢に来てから天は終始御機嫌だ。
「二人共、お腹の具合はどうですか? 先に食事にしますか?」
里の朝は早いので、水耕栽培の肥料作りや陶土と陶石の採取、ガラス器の製作までやって伊勢で参詣を済ませても、今の時間はまだ昼前だったりする。
時間的には昼まではまだあるのだが、ガラス器の製作や『界渡り』で消耗はしているので、夕霧さんと天にお腹の具合の確認をしたのだった。
「ここに来る前にお茶を頂いたからかぁ、あたしはまだぁ、お腹は大丈夫ですよぉ」
「わたくしも。内宮の参詣を済ませてから出大丈夫でございます」
「わかりました。内宮に入る前に気が変わったら、言って下さいね」
「はぁい」
「はい」
豊受大神宮を出た俺達は、再び五十鈴川を超えて内宮に向かった。
(何度見ても、神様の住まう場所にしては質素だよな)
天照坐皇大御神様、怪力の神の天手力男様、織物の神の栲幡千千姫様が祀られている茅葺屋根の木造建築を見て、改めてそう感じた。
「……ん?」
「あれぇ?」
「こ、これは!?」
何度も経験をしている俺には、これが神様が降臨する際の隔絶という現象だというのがわかっているのだが、夕霧さんはあまり驚いているようには見えない。
そんな夕霧さんとは対象的に、明らかに狼狽えている天は時間が止まった周囲の景色を、慌ただしく見回している。
「夕霧さん、それに天さんも大丈夫ですから」
主に天を落ち着かせる為に声を掛けた。
「良くぞお出でになりました。良太さん、夕霧殿、天殿」
いつものように淡い後光を纏った姿で、天照坐皇大御神様が降臨した。
「御降臨下さって有難うございます。またお会い出来て嬉しいです」
「ま。御上手です事」
後光ではっきりとした表情などは見えないが、それでも口元に手を当てて優雅に微笑んでいるのはわかる。
「あ、あ……」
「な、なんて……」
「?」
夕霧さんと天を見ると、祈りを捧げるポーズのままで跪き、身体を小刻みに震わせている。
「どうやら御二人は、私の神気に敏感に反応してしまっているようですね」
「神気ですか?」
天照坐皇大御神様から荘厳な気配みたいな物はいつも感じているが、夕霧さんや天のように動けなくなるという経験はこれまでにしていない。
「良太さん。どちらかと言えば夕霧殿や天殿のような反応が普通なのですよ?」
「そう仰られましても……」
(おりょうさんや頼華ちゃんも、特に動けなくなったりはしていなかったよな?)
目の前の二人とは違って、おりょうさんも頼華ちゃんも天照坐皇大御神様やフレイヤ様と初めて出逢った時でも、畏れ敬ってはいたが身動きが出来なくなる程では無かった。
(俺はちょっと不敬なのかもしれないけど……)
現代日本に暮らしていていた俺は、こっちの世界の人とは神様に対するスタンスが微妙に違う。
実在しているのを目の当たりにしているし、神聖な波動を感じてはいるのだが、それでも夕霧さんと天のように動けなくなる程の畏れは俺には無い。
「良太さんは保有している気の量が多く、質が高いですから、仕方が無いのですけど」
「ん? でも夕霧さんお天さんも量は俺にも負けないか、それ以上だと思うのですけど?」
正確に測った事は無いし数値化も出来ないのだが、夕霧さんの気の量は底が見えない。
天は神狐とも呼ばれるような存在なので、当然ながら保有している気の量が少ない訳が無い。
「夕霧殿は単純に慣れていないのが原因ですね。天殿は元々が妖ですから、私のような存在が根源的な部分で苦手なのでしょう」
「成る程」
「良太さんは、りょう殿と頼華殿がどうして大丈夫なのかとお考えでしょうけど」
「わかりますか?」
顔に出たのか心を読まれたのかは不明だが、天照坐皇大御神様にはお見通しだったらしい。
「御二人は良太さんと一緒に過ごす時間が多かったので、慣れたのでしょうね」
「俺とですか?」
「ええ。ほら、良太さんの世界で高地トレーニングというのがございますでしょう?」
「良くご存知ですね?」
「それはもう、神ですから」
酸素量が少ない標高が高い場所でのトレーニングを行うと、血中の酸素を運ぶヘモグロビンなどが増加して、平地に戻った時にパフォーマンスが上昇するのを狙って行うのが高地トレーニングだが、まさか天照坐皇大御神様の口からこんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「良太さんはこちらの世界に来てから少しずつ成長なさってますから、一緒に行動されているりょう殿や頼華殿は、少しずつ気の負荷に強くなられているのです。勿論、良太さんが指導された鍛錬や、日々の食事の効果も大きいですけど」
「そんな事に……」
どうやら俺は高地に於ける低酸素状態を、おりょうさん達に対して作り出していたらしい。
おりょうさんと頼華ちゃんだけでは無く、黒ちゃんと白ちゃんも江戸に居た頃に比べると強くなっているというのはわかっていたが、俺と一緒に行動している事で負荷を与えていたとは思わなかった。
「夕霧殿と天殿も、りょう殿と同じくらい良太さんと過ごされていれば、こういう状態にはならなかったと思うのですが……何にせよこれでは、お話も出来ませんね」
「ん? 夕霧さんと天さんと、話をされる為に降臨されたのですか?」
里という特殊な場所は例外だが、当たり前だが本来は神様は、滅多に地上に降臨なんかしたりはしない。
「夕霧殿と天殿が特別という訳では無いのですが、良太さんと御一緒に参詣して下さったのも、何かの御縁だと思いまして」
「何かって、天照坐皇大御神の御縁ですよね?」
「それはそうですわね」
俺の言葉が琴線に触れたのか、天照坐皇大御神様は微笑みながら少し後光が瞬いた。
「とは言え、このままでは宜しく有りませんから……御二人とも、これでどうですか?」
一瞬、後光が強まったと思ったら、次の瞬間には後光を身に纏わない姿の天照坐皇大御神様がその場に佇んでいた。
「その御姿はこの間、風呂場に降臨された時の?」
「ええ。仮初めの肉体を利用しました」
天照坐皇大御神様の言う仮初めの肉体とは、ワルキューレ達とその愛馬が地上での活動の際に使う物の事だ。
里に降臨した際に、天照坐皇大御神様とフレイヤ様も、この仮初めの肉体を使った事がある。
「夕霧殿、天殿、落ち着かれましたか?」
「あぁ……あ、あたしぃ、神様に罰されたりしちゃうんですかぁ?」
「つ、遂に、調伏されてしまうのでございますわね……」
「御二人とも、落ち着いて下さい」
こっちの世界の住人であり、信心深い夕霧さんは目の前に神様が現れたから、何か罰が当たると勘違いしているらしい。
元々は妖である天の方は、おとぎ話のエンディングに良くあるような、神様に退治されてしまう状況を想像しているみたいだ。
「私は良太さんとは御縁がございましてね。そんな良太さんを支えて下さっている御二人に、一度お会いしたいと思って降臨しました」
「じ、地獄に落とされるとかじゃ無いんですねぇ?」
「地獄は夜摩天の管轄ですから、そういう権限は私にはございません」
「妖だった頃に、人を化かした事で罰せられるのでは?」
「死に至る程の事はされていませんから、罰しなどしませんよ」
「「はぁぁ……」」
ここまで説明して夕霧さんと天は重く長い溜め息を吐き、緊張でガチガチだった身体から力を抜いた。
「ふぇぇ……神様だから当たり前なのかもしれませんけどぉ、すっごくお綺麗ですぅ」
「な、なんとお美しい御尊顔なのでしょう……このようなお方を御存知なのでしたら、良太様がわたくしに関心を示さないのも当然ですわね」
緊張が解けて顔を上げた二人は、天照坐皇大御神様の姿を見て陶然としている。
「まっ。やはり良太さんのお傍にいらっしゃる皆様は、物の道理が良くおわかりですわね!」
「別に俺は関係無いと思いますけど」
後光も無いし仮初めの姿ではあるのだが、それでも天照坐皇大御神様の内包している神聖で雄大な気配は絶えず感じられる。
(同じように美しくて神気を発しているのに、何故かフレイヤ様は白ちゃんに淫らな気配を撒き散らしているとか言われたんだよな)
太陽や豊穣と、愛という司っている物の差なのだとは思うが、天照坐皇大御神様とフレイヤ様では纏っている後光の色などにも少し違いがあるので、その辺を白ちゃんは感じ取ったのかもしれない。
(しくしく……)
(あ、すいません……)
悲しむ感情が伝わってきたので、とりあえず謝っておいた。




