発散
「さ、さて。俺はそろそろ風呂に入りますから、後は皆さんで楽しんで下さい」
(いつまでもこの場に居ても、墓穴を掘るだけだな……)
俺も酒を飲んで酔っぱらいに対抗するという手段は使えないので、ここは大人しく退散するのが正しい判断だろう。
「おう。後は俺達で勝手に飲るからよ。良さんには支度とかで手間掛けちまったな」
「いえ。それじゃ俺はこれで」
正恒さんの労いの言葉を聞きながら、俺は立ち上がった。
「あ、良太待って。あたしも行くよ」
「おりょうさん、もうお酒はいいんですか?」
俺が立ち去ろうとすると、おりょうさんが酒盃を置いて立ち上がった。
「うん。今日はもう十分に飲んだよ」
「なら、いいんですけど」
俺は気不味くなったから風呂に逃げようとしただけなので、おりょうさんがそれに付き合う為だけに飲むのを止めるのは申し訳ない。
「あー……主殿、姐さん」
「白ちゃん、どうかした?」
「なんだい白?」
いつもの白ちゃんらしく無く、何やら言い難そうに俺とおりょうさんを呼び止めた。
「そ、そのだな……お、俺も一緒に風呂に入っても良いだろうか?」
「え? そんなの構わないけど」
「何変な遠慮してんだい?」
「えっ!? い、いいのか!?」
なんでか、言い出しっぺの白ちゃんの方が驚いている。
「この時間なら子供達は入浴を終えてるだろうから、別に」
「もう何度も一緒に入ってるじゃないかい?」
俺もおりょうさんも、白ちゃんがなんで今さらこんな事を言いだしたのかが掴めない。
「ははは。鈴白さん、りょう殿。白はさっきの話を意識してしまっているのですよ」
「お、親父殿……」
「「あー……」」
反論をしないところを見ると、ドランさんの白ちゃんへの指摘は図星だったらしい。
「あ、貴方様、りょう様っ! わ、わたくしも御一緒しても宜しいですか?」
「「え……」」
「な!? そ、それは白様と同じ扱いをされるとは思っていませんでしたが、それにしたって酷い仕打ちではございませんか!?」
「えーっと……」
「あ、あははは……」
「?」
京の問題を一緒に解決したり、その後は里に住むようになった天だが、まだ白ちゃんと同じ様な身内という扱いにまではなっていない天に対して、俺とおりょうさんが微妙な反応を示したのは仕方が無いところだろう。
当の天は疎外感を感じてしまったようで憤っているし、白ちゃんの方はいつもの調子を取り戻せていないのか、周囲の反応にまで気が回らないようだ。
「おりょうさん」
「ん。そいじゃ天さんも一緒に入りましょうかねぇ」
俺が任せると表情で訴えると、おりょうさんはあっさりと天が一緒に入浴するのを承諾して手を取った。
「まっ! よ、宜しいのですわね? もう後には引きませんですわよ?」
「あはは。そいじゃみんなで楽しく、風呂に入りましょうねぇ」
酌み交わせる仲だからか、俺よりはおりょうさんと天の距離は縮まっているように感じる。
「いい湯だねぇ」
「うむ」
「本当に。ここのお風呂はいつも素晴らしいですわ」
「……」
(……なんでこうなった)
確かに白ちゃんと天と一緒に入浴するのを承諾したのだが、他の三人が上機嫌なのとは裏腹に、俺は非常に居心地の悪い思いをしている。
何故かと言えば俺のポジションの問題なのだが、隣でおりょうさんが湯に浸かっているのは当然として、逆サイドには白ちゃんが居て、まあ多少近過ぎる気はするが、そこまでは許容範囲と言っても良いだろう。
問題は天であって、手を少し伸ばせば巨大な胸に届きそうなくらい、正に至近距離と言っても差し支えの無い場所に座って湯に浸かっているのだった。
(こんなに広いんだから、もう少し余裕を持って浸かればいいのに……)
会話をするのにはある程度の距離の近さというのは必要だと思うが、それにしたっておりょうさんと白ちゃんは俺に肌を触れ合わせているし、天のポジションが近過ぎで、数十人がゆったりと入浴出来る湯船なのに、随分な圧迫感を味わわされているのだった。
「ところでりょう様」
「なんですかねぇ?」
天に呼ばれ、おりょうさんが湯に浸かって少し上気した顔を向けた。
「本当にまだ、良太様との間で子作りはなさらないのですか?」
「なあっ!?」
「ちょ、おりょうさん!?」
天の質問に驚いたおりょうさんは、俺の腕にギュッと抱きついて来た。
当然ながらおりょうさんの剥き出しの胸が、俺の腕にグイグイ押し付けられている。
「そ、そりゃあねぇ。あたしは良太が求めてくるんなら、その……いつでもいいんだよ?」
「えーっと……その件は、さっき落着しましたよね?」
腕に抱きついたままのおりょうさんが、上目遣いに俺の胸にのの字を書く。
「天さんも、あんまり蒸し返さないで下さいよ」
「も、申し訳ございません。ですが、貴方様くらいの年齢の男子というのは、抑えきれない欲求があると認識しておりまして。特に貴方様のような健康で溢れんばかりの気の持ち主でしたら……」
「そりゃまあ、俺も健康な男なので、全くそういう欲求が無いと言えば嘘になりますけど……」
ここでどう言い繕ったところで、性欲が無いなんて嘘にしかならないのは俺自身が一番良くわかっている。
「まあ。りょう様や白様を押し退けようなどとは考えておりませんが、私で宜しければいつでも発散を……」
「勘弁して下さいよ……」
(そう思うんなら、こういう状態にならないようにして欲しいんだけどな……)
発散とかを考える以前に、ムラムラと欲求が溜まらないようにするのが一番の筈なのだが、話をしている当の天が、その豊満な肢体で俺を煽っている事に気がついていない。
「でも良太。その……本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫です、って言うのもおかしな表現ですけど」
別に体調不良とかになる訳では無いので、おりょうさんに大丈夫だと告げるのもおかしな話ではある。
「しかし主殿。江戸の大前で一緒に働いていた嘉兵衛や新吉達は、店が休みの日には遊郭に……」
「その話は以前に決着した筈だし、伊勢でも椿屋にお世話になったけど、俺はそういう申し出は断ってたでしょ?」
「逆に何故、そこまで主殿が頑ななのかが俺にはわからんのだが……」
「それは俺の、個人的な嗜好って事にしておいてよ」
江戸で大前の嘉兵衛さんや新吉さんに、浅草の近くの大きな遊処に誘われたのだが断ったという話は白ちゃんとしたし、伊勢でも指折りの大店の遊郭である椿屋さんのナンバーワン、という事はこっちの世界の日本での十指に入る妓女のお藍さんの有り難いお誘いにも、俺は乗らなかったのだ。
この辺は俺なりの初体験への憧れみたいな物が心の奥底にあって、それが原因で気軽に女性と交渉を持てないのだというのはわかっている。
それに俺の初めては、おりょうさんか頼華ちゃんを相手にと決めているので、そういう言い方が適当かどうかはわからないが、それまでは出来れば清い身体で居たいのだ。
「あんまりその辺を追求するなら、今後は一緒の入浴とか、極端に接近したりするのは無しの方向で……」
要するに、欲求の原因を排除すれば遊郭に行こうとかいう気にもならないのだから、その為にはモデル顔負けのプロポーションの白ちゃんや、ダイナマイトボディの天の裸を見たり、近くに寄らせたりしなければ良いのだ。
「なん……だと!?」
「そ、そんな……」
「えっと、二人共?」
白ちゃんと天が、この世の終わりが来たみたいな表情をして、風呂に浸かっているのに顔面が蒼白になっている。
「りょ、良太。それって、あたしもなのかい?」
「いいえ。おりょうさんと頼華ちゃんは構いませんよ」
「そうかい? なら良かったよ」
おりょうさんと頼華ちゃんは婚約者なので、ある程度までのスキンシップは許容する。
その事を告げると、おりょうさんは目に見えてホッとした表情になって、腕に抱きついたまま俺に頭を預けてきた。
「あ、主殿。決して無理強いをするような事はしないから、どうか慈悲をくれ!」
「あ、貴方様。わたくしが間違っておりました。ですからお近くに寄れなくなるという措置は、どうか御勘弁を!」
「あの……そんなに?」
俺としては節度さえ守ってくれれば良くて、全く近づくなと言っている訳では無いのだが、どうやら白ちゃんと天は、殊の外厳しい条件だという受け取り方をしたらしい。
「これまで通りに接してくれて、さっきみたいな話題を出さないようにしてくれるなら、おりょうさんの許可があれば一緒の入浴くらいは構いませんけど……」
「そうだねぇ」
おりょうさんの機嫌は損ねていないので、俺の言う事もあっさりと了承してくれた。
「という事で」
「わ、わかった……ふぅ」
「わかりましてございます……はぁ」
ガチガチに緊張した表情だった白ちゃんだが、安堵による溜め息を吐くと一気に力が抜けた。
天の方も緊張で身を縮こまらせていて、心なしか巨大なバストまでが小さくなっていたように見えたが、安堵の溜め息を漏らすと同時に元のサイズと張りを取り戻した。
「ところで良太。明日は何をする予定なんだい?」
会話が少し途切れたところで、おりょうさんが訊いてきた。
「明日ですか? 水耕栽培の肥料を作って、その後はちょっと琵琶湖の方に行こうかと思ってますけど」
「琵琶湖って、なんか買い物かい? そういえばすっぽんは琵琶湖の方で買ってきたって言ってたっけねぇ」
「いや、すっぽんの仕入れじゃ無いんですけどね」
行き先が琵琶湖と聞いたおりょうさんは、俺がすっぽんの調達に行くのだと勘違いしたようだ。
「琵琶湖の近辺と、場合によっては信楽の方まで行ってこようかと思ってます」
「信楽ってーと、焼き物をいっぱい売ってたとこだったかねぇ?」
「そうです。狸の置物がいっぱい並んでた辺りですね」
信楽焼には狸の置物以外にも色々とあるのだが、どうしても印象が強いので最初に出てきてしまう。
「器の買い出しに行くのかい? でも食器類に不足は無いと思ったけどねぇ」
「器じゃなくて、その材料になる陶土と、出来れば磁土……じゃなくて陶石って言うんだたったかな? その辺を調達出来ればと思いまして」
陶芸に使う土は陶土と呼ばれるが、磁器に使われる素材は磁土や陶石などの複数の呼ばれ方をしている。
「ん? それはもしかして、前に言ってた取っ手付きのかっぷの材料かい?」
「そうです。少し大きめのカップと、薄手の少し洒落た茶器や酒器を造れないかと思いまして」
お茶やコーヒー以外にスープなんかも飲める大きさのマグカップは、子供達にも使い易いだろうと思って、陶土が手に入れば以前から造りたいと考えていたのだった。
「信楽に行ったら、陶芸の土を売ってくれたりするもんなのかねぇ?」
「多分ですけど、無理でしょうね。それならその店の商品を買えって言われるだけでしょう」
現代の日本ならば、作品を扱っている店か窯元を何箇所か回れば売ってくれると思うのだが、こっちの世界の日本では土の採取から作陶、そして窯焼きから販売までが生活に直結しているだろうから、自分達の血肉とも言える陶土を、赤の他人に売ってくれるとは思えない。
「売ってくれないのに信楽まで行って、どうしようって言うんだい?」
「そこで夕霧さんの出番です」
「夕霧さん? どうして夕霧さんが?」
「主殿。なんでそこで夕霧の名が出るのだ?」
「夕霧様には失礼ですが、わたくしにもわかりませんわ」
三人共、俺が夕霧さんの名前を挙げた理由に思い当たらないらしい。
「忘れましたか? 夕霧さんには五行の土の力が宿ってて、鉱石とかを見つけられるのを」
「あ! そ、そういえばそうだったねぇ。昼間に水耕栽培の小屋で、そんな話をしてたってのに、すっかり忘れちまってたよ」
おりょうさんはバツが悪そうに、ペロッと舌を出した。
「あ、貴方様。それでしたらわたくしにも同じ土の力が宿っているのですから、一緒にお連れ下さいませ!」
「ああ。言われてみれば天さんもそうでしたね」
言われてみるまで天も、五行の土に属する勾陳の力を取り込んでいた事を、すっかり忘れていた。
「んもうっ! 皆様と比べて接する時間が短いとは言え、わたくしの扱いが少し雑でございますわ!」
「そ、そんなつもりは無かったんですけど……」
だが確かに、里の畑や水耕栽培の栄養補給などに関しても夕霧さんに頼りになりっぱなしで、同じ五行の土の能力を持っている天の事は頭から抜け落ちていた。
「あはは……どうだい良太。明日はお詫びに、天さんも一緒に連れてってやっちゃ?」
「俺は構いませんけど、いいんですか?」
婚約者であるおりょうさんに、他の女性との同行を許可されるというのは、俺にとってはちょっと複雑な心境だ。
「天さんは入れ替わりで笹蟹屋にも行かないし、あたしらが大坂行ってた時も、留守番をさせちまったからねぇ」
「そうですけど」
「それに、信楽の方に行くったって、陽の高い内には帰ってくるんだろ?」
「ええ。そんなに時間は掛けない予定ですから」
「ん? でも信楽までは遠いだろ?」
「信楽まで行く場合には『界渡り』を使いますから」
琵琶湖の周辺を少し調べてみて、手応えが無さそうなら信楽までは界渡りで移動するつもりだ。
当然だが帰りも界渡りを使って里のすぐ近くまで移動するので、復路の移動時間はほぼ考慮に入れる必要は無いだろう。
「あの、貴方様。『界渡り』とは?」
「あれ? てっきり天さんも『界渡り』を使えると思ってたんですけど」
「ま、またわたくしだけ除け者でございますか!?」
「いや、そういう訳じゃ……」
(『界渡り』って、鵺の固有能力なのかな?)
九尾の狐である天は相当に長生きをしているので、白ちゃんや黒ちゃんのように『界渡り』を使えるか、少なくとも知っていると思っていたが、そこは俺の思い込みだったらしい。
「天よ。『界渡り』というのは俺達の移動法でな」
「はぁ……」
白ちゃんによる天への、『界渡り』のレクチャーが始まった。
「良太。夕霧さんも『界渡り』は初めてだろ?」
「そうですけど、夕霧さんが気を使えるのは確認してありますし、多分ですけど少し教えれば、部分变化なんかも使いこなすと思いますよ」
夕霧さんには京の笹蟹屋の滞在中に、気の使い方を鍛え方は教えておいた。
遅咲きではあるが夕霧さんの気の保有量は莫大だし、覚えて間も無いのに扱いも巧みなので、『界渡り』の増速手段である部分变化も使いこなせるだろう。
「でも、天さんは……」
「ん? なんかあるのかい?」
「成る程。白様と黒様が、元居た領域なのですね」
「そういう考えで間違っていない」
白ちゃんに『界渡り』で通過する領域について説明され、頷いている天を俺がチラッと見たのでおりょうさんは気になったようだ。
「天さんと志乃ちゃんと女の子達は、正式な意味での里の住人では無いので、俺や白ちゃん達が保有している能力は使えないんですよね」
「あー……」
元々が九尾の狐という強大な存在である天は、これまでは特に蜘蛛の糸を操る能力や雷などが無くても問題は無かったのだ。
「教えたからと言って、天さんが『界渡り』を習得出来るかはわからないんですよね」
「そうだねぇ」
そもそも『界渡り』という能力は、鵺である白ちゃんと黒ちゃんの能力を、名目上の主である俺が使えるようになったので、これも名目上は俺の配下であるおりょうさんや頼華ちゃんにも使えるようになったのだ。
天は里の住人になったが俺の配下にはなっていないので、同行は出来ても独力での『界渡り』の使用は出来ないかもしれない。
「ん? そういえば……」
「どうしたんだい?」
呟いた俺が、じっと自分を見つめているので、おりょうさんが首を傾げた。
「もしかしておりょうさんって、『界渡り』を使った事が無いですか?」
「あ……あー。言われてみりゃあ、無かったかねぇ。どんなもんかってのは説明を聞いたんで知ってるけど」
「やっぱり……」
里の周囲の霧の結界が、藤沢の正恒さんの家に裏山の近くに繋がったので、江戸や鎌倉に移動をするのに『界渡り』を使う頻度が減った。
その上、里にワルキューレ達が住人として加わったので、彼女達の愛馬の機動力を頼りに出来るようになったので、『界渡り』の使用頻度が下がったのだった。
「頼華ちゃんとは『界渡り』での移動はした事があるので、出来ればおりょうさんにも一度は試しておいて欲しいんですけど……でも、無理にどこかに出掛ける必要も無いんですよね」
「まあ、そりゃそうだねぇ」
気の消費は激しいが、長距離移動を楽にする為の手段が『界渡り』なので、その為にどこかに行くのは本末転倒という物だ。




